風評被害とメディア報道

Social Amplification of Risk Framework の理論のおかげで、非常にクリアに見えるようになったことがいくつかある。

一つは、風評被害に関する報道についてだ。

論座の記事にも書いたのだが、福島の風評被害についての報道が急激に増えたのは、2016年のいじめ報道をきっかけとしたものだ。それまでも、関係者や地元の人間には、大きく問題視されていたが、全国的な報道ベースに乗ることはあまりなく、その重大性が認識されているとは言い難かった。

2016年に急に報道で大キャンペーンが始まったのは、かなり奇妙なことである。農産物の卸価格の推移を見ても、事故直後から2014年にかけてが最も価格低下が著しい時期であり、2016年は回復基調にはっきりと乗っている。(とは言っても、その後一定程度まで回復した後、全国平均と価格差が残る形で固定化してしまったわけだが。)

いじめといった人間に対するハラスメントについての統計データはないが、おそらくこれも事故発生から2014年頃にかけてが最もひどい時期であり、SNS上の反応や人から聞く話を勘案しても、2016年は減少傾向に入っていたと考えるのが妥当だろう。従って、報じられた「いじめ」も2016年当時から見て、過去の事案が多かったように見受けられる。

なぜ、現実的な風評が収まりつつあった段階で、急に報道キャンペーンが始まったのか、その理由は定かではない。ただ、一つ言えるのは、このことによって時系列が逆転し、風評が現在進行形で悪化しているとの印象が広く伝わってしまったのではないか、ということだ。

似たような事例が、先日書いた記事で紹介した論文の中にチェルノブイリ事故後の事例として、紹介されている。

チェルノブイリ事故後に、甲状腺癌が増加したことは知られている。これは、事故から5年ほど経過して発見された。この甲状腺癌は、事故が起きた際に放出された放射性ヨウ素131を大量に摂取したことが原因となっている。放射性ヨウ素半減期が8日と大変短いため、事故から数ヶ月経てば既に見つからなくなっており、摂取時期は事故直後の時期に限定される。つまり、甲状腺癌が増加したことがわかった時点では、原因物質は存在しなくなっていた。

ところが、甲状腺癌が増加したことが広く知られた時に、その因果関係について大きな混乱が起きてしまった。人々は、既に存在しなくなった事故直後の放射性ヨウ素131ではなく、今現在残っている放射性セシウム134、137によって甲状腺癌が発生していると誤って認識してしまったのだ。つまり、過去の(終わってしまった)被曝が原因ではなく、現在の被曝が甲状腺癌を現在進行形で引き起こしつつある、と認識したのだ。このことは、未来に対する強い懸念と不安感をも引き起こすことになった。(ちなみに、放射性セシウム甲状腺癌を引き起こすとの誤解は、福島事故後の日本でも見られるが、その理由は、このチェルノブイリでの誤解が日本にそのまま伝わったということに加えて、同様の因果関係の混乱があるということだろう。)

この因果関係の混乱は、風評報道についても当てはまるようにも思える。報道が過去の事例を大々的に伝えた結果、経済的被害としての風評も、スティグマとしての風評も、実際には改善傾向に向かっていたにもかかわらず、現在進行形で悪化しているとの印象を強く与えることになり、そのことが未来に対する強い懸念と不安感を引き起こすことになった側面は大きいのではないだろうか。

当初3年間の実際に風評が酷かった時期における、全国報道のその冷淡さについては、批判されるべき点は大きい。また、風評とは端的に、マスメディア時代の報道が引き起こす災害であるから、マスメディアが存在する社会においては避けられない社会現象であるとはいえ、倫理的な責任は存在すると言える。(と言って、ここでマスコミを「風評加害者」であるとレッテルばりするつもりはない。社会の分断は、また違う意味での害悪となる。)

一方で、2016年以降の時系列を無視した報道が与えた負の側面についても、見直される必要があるのではないだろうか。現在の調査では、風評は流通の各段階において、風上が風下が「福島産を忌避しているだろう」と忖度することによって、強化、固定されていることが示唆されている。このさらなる背景をいえば、「あれだけ風評被害があると報じられているのだから」、福島産を忌避している人は多いに違いないという発想があることが推察される。現実的に価格差は残っているし、嫌な思いをした人もいる。だが、時系列やその時期の実態以上に被害を大きく報じることによってさらなる被害を呼び起こした可能性も否定できないのではないだろうか。もちろん、マスメディアだけでなく、SNSもこの情報増幅機能で大きな役割を果たしたことは言うまでもない。

 

ワクチンについて誤った情報への対応について考える

コロナウィルスのワクチンの接種が進むにつれ、誤った情報も広く拡散するようになっているようだ。若年層になるほど副反応も強く出ると言われているので、この先、接種が若年層に広がるに連れ、不安感も広まるのではないかと予測している。

今回のコロナ対策については、リスク・コミュニケーションのチームが機能しているように見えるので、当局の担当者は、ぜひそちらの助言をしっかり聞いていただきたいと思っている。

(ただ、いかに優秀なリスク・コミュニケーション戦略があったとしても、ガバナンスと戦略がめちゃくちゃな日本の当局では、できることは自ずと限界があるし、また、ワクチン問題はコロナ以前から難しい状況にあり、元々のハードルが高い課題なので、100%の成功を望まない方がいい。多少の忌避や混乱は想定の範囲内にしておくべきだろう。)

その上で、長年のSNSにおける放射能論争の渦中に置かれていた経験から、気をつけたほうがいいと思うことをいくつか書いておく。誰かの参考になれば幸いである。

・初期においては、サイレント・マジョリティは「どちらを信じればいいのかわからない」状態にある。

 状況の変化が大きく、情報が氾濫している状況に置かれた時、大多数の人たちは、不安や混乱の中におかれ、「何を信じればいいのかわからない」という状況になる。その時に、自然に選ぶのは、自分の馴染みのある事柄、価値観、人に沿った選択だ。とりわけ重要な要素になるのは、情報発信者が信頼できそうかどうか、と言う点になる。情報発信者が信頼できないとみなされれば、その情報が選択されることはない。やたらに攻撃的であったり、嘘をついているように見えたり、不誠実であったり、思いやりがなさそうであったり、無能であったりするように見える人は信頼されない。自分の振る舞いが信頼に値するものかどうか、情報発信をする人は、厳に心がけて欲しい。

・「こと」は批判しても、「人」は批判しない。

 不正確な情報を発信する人を名指しして批判する動きも大きいが、名指し批判は、SNS時代はとりわけ避けるべきであると思う。誰でもそうであるが、名指しで大勢の前で批判されることは、単に内容の議論に止まらない、強い感情的反応(屈辱感)を引き起こす。そうなると、さらなる強い感情的な反発が起きるのは必定となる。その後、建設的な応答になることはなく、相互の感情的応酬が続き、私怨が積もるだけになる。放射能案件は、もはや私怨しか残っておらず、建設的な議論はあらゆる場面で困難になっている。このような状況になるのは、絶対に避けるべきであり、そのためには、個人を名指しで批判するのは避けるべきだろう。名前を出さずに、内容について事実を示しながら冷静に反応するのは、重要であるし、必要なことであると思う。
 個人名を出して批判することは、その個人に対してシンパシーを抱いている人に対しても、感情的な反応を引き起こすことも留意すべきだろう。

・悪魔化しない。

 わからない相手のことは、とりわけ何らかの悪意や敵意があって行動しているように見える。だが、実際のところ、大抵の場合は、非常に簡単な誤解や行き違いや価値観や生活条件の違いの結果、選択がそうなってしまっているだけで、そこに敵意や悪意が潜んでいることは稀だ。扇動しているように見える人であっても、そうかもしれない。だからと言って、相手の主張を肯定する必要もないが(相手が尊重されるのと同様に、自分も尊重されるべきだと思うからだ)、悪意や敵意のないところに、それを見出して悪魔化するのは問題を難しくしこそすれ、解決へ向かうことはない。
 特に、相手をレッテル貼りして糾弾するようなことは、厳に避けるべきだ。福島の場合は、研究者を含めたインフルエンサーが「福島の敵」と名指しを始めたところから、急速に事態が悪化した。レッテル貼りされた方は、その屈辱感と敵意を生涯忘れることはないし、これを行うと、生きている間に相互の信頼関係は、二度と回復できると思わない方がいい。全面戦争をして相手を物理的に殲滅したいとでも言うなら話は別だが、平和な社会を保ちたいと思うなら禁じ手だ。
 だから、「公衆衛生の敵」などと相手を糾弾するのは厳に避けるべきだ。大抵の人は、公衆衛生や社会を破壊しようと思っているわけではない。自分なりの価値観とやり方で、自分や家族の身を守ろうとしているだけだ。

・全体像を示しつつ、不利な情報も伝える。

 新しい、馴染みのない状況というのは、視界のない知らない場所に放り込まれたのと同じような状態だ。それだけで、不安感が募る。そこで最も重要なのは、全体像を示すことだ。もちろん、状況は流動的であるから、不確定の状況もある。だが、可能な限りの現状の全体像と方向性を提示し、わかっていないことは「わかっていない」と説明する必要がある。どこまでがわかっていて、どこまでがわかっていないかがはっきりするだけで、状況は一つクリアになるからだ。
 日本は、とりわけ、細かな情報にはこだわるのに、全体像を伝えるのが極めて下手くそだ。おそらく、担当者にも全体像が見えていないからなのだろうが、ここは改善が必須とされるところだろう。見知らぬ土地で、先行きのわからないバスに安心して乗り込む乗客はいない。
 もうひとつ重要なのは、この時に不利な情報がある場合は、きちんと伝えるだと言うことだ。小さな不利情報を殊更に大きく伝える必要はないし、悲観的に伝える必要もないが、こうした不利な情報もあるが、このように対応を考えている、などの対策も合わせて言うことが重要ではないかと思う。

・大切なことは繰り返し伝える。

 社会の構成員の隅々にまで情報を行き渡らせるのは、とても大変な作業だ。発信者は「まだこんなこともわかっていないのか」と言いたくなりがちだが、その情報に触れたことがない人が社会では大多数であり、その人にとっては「初見」の情報であると言うことは覚えておいた方がいいだろう。関心のあることしか、人間は認識しないような認識構造になっているので、聞いているようでも素通りしている例も非常に多い。重要なことは、何度でも繰り返し伝えるし、尋ねられれば「またか」と言うような素振りは見せないで、丁寧に伝えることも重要だ。なぜならば、尋ねると言うことは、「関心を持った」と言うことに他ならず、情報を伝える絶好の機会になるからだ。この時に、「またか」「まだそんなことを聞くのか」と言う対応をとってしまうと、せっかくのチャンスをフイにしてしまうどころか、その人は二度と話を聞いてくれなくなってしまうだろう。

取り急ぎ、思いつくことを書いた。情報発信は、タイミングも非常に重要だ。タイミングを逸すれば、ほとんど無意味か、害悪になることさえある。放射能問題は、ここを完璧に失敗している。今回は、タイミングを逃さず、適切な情報を発信してもらえることを願っている。

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リスク学と111勧告

 わが友ジャック・ロシャールが、友人がおもしろい論文を出したから送るよ、と添付したメールを送ってきた。福島の原発事故が、欧州でどのように公衆の信頼に影響を与えたかということがSocial Amplification of Risk Framework を用いて考察されている、という内容だ。

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/risa.13757

 興味深い内容であったのだけれど、Social Amplification of Risk Framework がなんなのかがわからないので、元ネタとなっている論文を読んでみたら、これがすばらしくおもしろかった。1988年の論文だが、引用数が数千あるところを見ると、とても有名な論文のようだ。(Google検索だと3,989)

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1539-6924.1988.tb01168.x

 これは、リスク分析において、些少とも思えるリスクが、過大に評価され、社会的経済的に巨大な影響を与えてしまう現象を電機アンプ(増幅器)になぞらえて記述したものだ。この現象は、原発事故の放射能リスクについては体感的に多くの人が承知しているだろうが、こういう概念整理が既になされていたのかと目からうろこが落ちた。

 ついで、上記の論文の共著者であるO.Renn が、リスク・コミュニケーションの情報伝播をSARFで分析したもの。リスク情報の伝播を機能分析した内容といえばいいのだろうか。そのままリスクを巡るメディア論にもなっていて、こちらもすばらしく面白い。1991年の内容であるから、SNS時代に突入して大幅に変化する箇所もあるけれど、それを除けば、メディアと情報の伝播についての主要なポイントはほぼ網羅できているのではないだろうか。

https://link.springer.com/chapter/10.1007%2F978-94-009-1952-5_14

  この論文は、冒頭に社会学者のルーマンの文章が引用されている。リスク学においては、「信頼」が大きなトピックなのだけれど、そこには、ルーマンの影響が大きいようだ。(こちらはこれから読む。)

 SARFは、事故後の状況のダイナミズムを見事に概念化に成功していて、感心すると同時に、日本はこれを使い損なったことは、まったく残念だ。こうした理論的基盤を前提として知っておけば、対策に使えたかどうかは別として、心構えとしてもう少し落ち着いて状況を見ていられたのに、と思うと同時に、このダイナミズムとは対極にある政府の各委員会の硬直化しきった議論の様子を思い起こし、この先のことを考えると頭が痛い。どう考えても、これから起きるだろう現実の状況に対応できるだけの態勢も知見もあるとは思えない。

 リスク学が、日本ではあまり受容されていないのは、その日本語文献の少なさからもわかる。英語が読めなければ、どういう分野なのか、その全体像をつかむことがまず難しいのではないだろうか。私も、ようやく英語で文献を読むくらいの英語力がついてきたので、拾い読みしているが、目を開かされることが大きい。

 このおかげで、自分が原発事故のあと参照してきたベラルーシエートス・プロジェクトの思想的背景が見えてきたのは、大きな収穫だ。2011年の秋頃に、ベラルーシエートス・プロジェクトを知り、その後、プロジェクトの中心であったジャック・ロシャール氏と知り合い、参考資料は豊富にもらっていたが、その資料を見たり、あるいは彼と個人的に話していても、ずっと気になっていたのは、エートス・プロジェクトの背景にある思想的基盤だった。たんに放射線のことを知っている専門家が被災地支援をしました、というだけでは、ああした人間洞察のある活動にはならないはずで、どうすればああいう流れになるのかをずっと知りたかった。

 ずいぶん前に、ロシャール氏が紹介してくれた、エートスプロジェクトの前のパイロット調査の論文を読んで、しっかりした思想的基盤があるだろうことは確信していた。著者は、心理学者でもあり、社会学者でもあったそうだが、専門は社会心理学ということになるのだろうか。石造りの文化の知性はこういうものか、と感心しながら読んだ。この著者もエートス・プロジェクトの立役者のひとりだ。(ただ、当時すでに高齢であり、プロジェクト開始後数年して、持病で亡くなったとのことだ。)

 これまでは、気になりつつも他にしなければならないことが多くあったので、手をつけられないでいたのだけれど、末続での現地活動が落ち着いたこともあり、総括的な話をする時間ができてきたおかげで、だいぶ様子が見えてきた。

 リスク学は、アメリカがその発祥であるといわれている。70年代から80年代にかけて、Slovicのリスク・パーセプション研究などがあって大きく飛躍し、80年代に欧州にも大きく広がることになった。アメリカから欧州への紹介の経緯には、ロシャール氏も関与していて、Slovicと一緒に研究していた T.Earl は40年来の知人で、上述のO. Renn も古い知り合いであるとのことだった。エートス・プロジェクトでの活動でも、Earl からの助言を受けているとのことで、ここはひどく合点のいったところだ。エートス・プロジェクトからICRP111への流れは、どう考えても、放射線医学や生物学といったものとは異質だったからだ。リスク学に基盤があると説明されると、なるほど、そりゃそうだよね、と手を打つしかない。

 ここまで考えてくると、ICRP111が、当初、日本の物理や医学を中心とした専門家に受け入れられたように見えたものの、2014年頃を境に、彼らが袂をわかった理由がよくわかる。リスク学が背景の場合、リスク・コミュニケーションは、一方通行のパターナリスティックな流れではなく、ステークホルダー関与の双方向意志決定システムの構築へと向かう流れにある。だが、リスク学の流れが非常に薄く、パターナリスティック傾向がきわめて強い日本社会では、このステークホルダー関与の重要性が理解されることがなかった。政府の委員会を見ればわかるように、組織的な対応も取りうる状況ではない。(欧米から遅れることうん十年の世界だ。現代版「脱亜入欧」というところか。)

 私は、当初から、エートス・プロジェクトの、非パターナリスティックなところに関心をもっていたので、他の人たちも当然そうだと思い、なぜ途中から多くの人たちが心変わりしてしまったのか、ずっと疑問であったのだけれど、そうではなく、もともと呉越同舟で、状況が落ち着いてきて、それぞれが元の舟に帰った、と考えるのが正解なのだろう。

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猫埋葬記

 老猫が死んだ。
 その前々日あたりから、外の風通しのよいまったいらな床面の上で寝転んでいることを好んでいたから、洗濯物を干している午前中は足元のコンクリ土間へ寝かせ、昼前、直射日光が強くなりはじめた頃に室内のいちばん窓際の風が通る場所に移し、バスタオルの上に寝かせた。

 午前中のうちは、周りに動きがあると、ノロノロと顔を上げ、体を起こそうとしたりもしていたけれど、昼頃には、それもなくなり、ほとんど身動きせず、体を横たえたまま呼吸だけをしていた。同じ姿勢のままもつらいだろうと、ときおり向きを変えてやっていた。昼過ぎ、抱き上げて向きを変えると、嫌がるようなそぶりをした。そのまま寝かせてすぐに、かすかに呼吸活動で上下していた腹の動きが止まっていることに気づいた。ああ、ついに、と思って撫でながら見ていると、足を突っ張らせて、何かをまさぐるように数回踏み足をした。最初、後ろ足、そのあと、前足、そして、前後両足。やがて、咳き込むような息を吐いて、身動きしなくなった。

 呼吸が止まってからの動きは、生理的な反応で、その時にはすでに事切れていたのかもしれない。死語硬直がはじまる前に、目を閉じて、いつも眠っている時のように体を整え、それから、お気に入りの猫用のベッドに寝かせた。誰に見せても、美人な猫ですね、と言われた猫だったから、最後も、身綺麗に整えてやれてよかった。

 夕刻、帰宅した夫と、庭のモミジの下に埋葬した。暗い穴にそのまま寝かせるのは忍びないだろうと買ってきておいた花を敷き、その上に体を横たえた。死後硬直で、体は眠ったままの形で固まっている。

 この猫は、いろいろと性格に難がある猫で、一緒に暮らしていくのに苦労も多かったのだけれど、和毛はそれらを補う大きな美質だった。もうひとつの美質が、一緒に眠ってくれる猫だったことだ。盛夏の時期は別として、必ず、夜は私のそばで寝ていた。決まった場所で決まったようにしないと気が済まない性格だった。最初は、私と顔を並べて寝ることを好んだ。人間のように、一緒に枕に頭を乗せて眠るのだ。途中で、枕よりは私の腕の高さの方がちょうどいいと気づいたようで、最近は、脇の下に入り込むと、私の腕の上に顎を乗せて眠っていた。そんなふうに眠ることに、自分の存在価値をかけていたのではないかと思う節もある。あとから来た新入り猫が、私の布団に入ってきて同じように脇で眠ることをひどく嫌がった。一度、新入り猫が、いつもの自分の場所を占有しているのに気づくと、信じられない事態が起きた、と言わんばかりの剣幕で怒り出し、憤然としてベッドから離れてしまった。それから1週間くらいは、一緒に寝ようとしなかった。和毛は、顔を寄せるとやわらかく心地よく、いつも、お日様と土埃が混じったよい匂いがした。

 彼女をもらってきたのは、私が福島に住むようになって1年後だった。思い返してみれば、私のここでの暮らしのほとんどすべては、彼女と一緒に過ごしてきたのだった。原発事故を境として、前半生と後半生とが、ほとんど半分に区切られる。原発事故の後に大きく変わった私の生活変化の影響をまともに被ったのも彼女で、それまで、私は夫の仕事に一緒に行く他は、基本的にずっと家にいて、何をするにもべったり一緒にくっついていたのに、原発事故後、家を空けることが増えてしまった。たぶんそのせいではないかと思うのだけれど、一時は、情緒不安定になってしまって、おしっこをあちこちに引っかけたり、いつも不機嫌で、何をしても怒ったり引っ掻いたりするものだから、困ってしまったこともあった。やがて、慣れたのか、ここ数年はそれも落ち着いて、私が1週間以上不在のあと戻っても不機嫌な様子を見せることもなくなっていた。

 昨年のパンデミック以降は、私はほぼ在宅で、出かけることもなくなった。毎晩一緒に眠るのもそうだったけれど、事故前のように、一緒に昼寝をすることもできた。体調が悪そうにしていても、様子を気にかけてやることもできた。もし、パンデミック前のペースの生活が続いていたら、こんなふうに一緒に時間を過ごしてやることはできなかったろう。1年間、たっぷりと過ごす時間ができるまで、彼女は待っていてくれたのかもしれない。

 埋葬した場所には、夫が墓標を立てた。竹を切って、花を備えるための竹筒を作ってくれたので、庭先に咲いていた黄菖蒲の花を生けた。眺めていると、もう一匹の若い猫がやってきた。気難しい老猫は、最後まで新入りに心を許さず、仲良くなることはなかったけれど、さりとて、喧嘩をしていがみあっていたわけでもない。老猫とは違い、あまり構わない性格の若猫は、それはそれで楽しむ生活のやり方を見つけて、微妙なそれぞれの領域を守りながら、共存していた。ここ数日の様子が違うのはわかるのかわからないのか、若猫も戸惑っている様子に見えなくもない。近寄ってきた若猫は、埋葬した場所の地面の匂いを嗅ぐと、墓を踏み越え、すぐ向こうの草むらに腰をおろした。それから、神妙な顔をして用を足した。

モミジの下で

2匹飼っている猫のうち1匹、老猫のここ数日の衰弱が著しく、食事も取らなくなってしまった。みるみる痩せ細って見ているだけでも気の毒なのだけれど、もともと気難しく、動物病院に連れて行くのもパニックを起こして、死んでしまうのではないかと思うほどの暴れぶりだったから、動かすのもさらに気の毒で、どうしようもなく見守っている。18歳。寿命なのかもしれない。

食事も取らないで、ずっと私のベッドか、お風呂の蓋の上でうとうとしていたのに、庭先で洗濯物を干していたら、のろのろとコンクリ土間の上に下りてきた。お天気がよくて、きもちよかったのかもしれない。後ろ足が立たなくなってきているから、よろめきながらゆっくりゆっくり歩いた後、縁側にようやくのぼり、しばらく静止したかと思うと、コマ送りの画面のように体を横たえた。ここで昼寝をすることにしたらしい。かわいた初夏の気配。庭のモミジは、緑あざやかに葉を風にひらめかせる。隣家のケヤキの大木からの葉擦れの音だけがあたりに響く。前にもこんな時間があった。去年もあった。その前もあった、もっと前にもあった。人だけが入れ替わる。残り少ない老猫の時間。

ここのところ、世界の景色が急激に変わっているのが見えて、こわいくらいだ。2015年から(社会構造的に)劇的な変化が起きているのだと思うけれど、それがいよいよ表面化してきているのかもしれない。変わっているうちは自覚しない。気付いたら、あたりの景色がまったく変わっている。起きているのはそんな類の変化だ。

大学を出た後、震災が起きるまで、私は、ほとんど社会と接触をしないできた。それが可能だったのは、そして、十年以上ぶりに社会と接触を持ったにもかかわらず対応することができたのは、その間、社会がほとんど変化していなかったことによるところが大きい。実際、気付いてみれば同級生は社会人として立派に働いてはいたものの、世の中はさして変化はしていなかったので、自分が年相応に世間慣れしていないことを除けば、社会の変化に戸惑う場面はほとんどなかった。おそらく、2015年以降の5年間の変化の方が、その前の20年間の変化よりもはるかに大きいし、これからの数年間はそれよりもさらに大きな変化が訪れるのではないかという気がしている。

常套句のように「時間が止まっている」と言われる、帰還困難区域の道路沿いの民家も解体がはじまっていた。人の住まない帰還困難区域も、実際のところ、時間は止まってなどおらず、完膚なきまでに風景は作り替えられていっている。政府が工事を行っているところは、人為的な作業によって、そうでないところは、経年変化と植物の浸食によって。震災前の景色がどのようなものであったか、記憶を探らなければわからなくなってきている。

おそらく、昔からの街道沿いの集落だったのだろう。国道六号の両脇に古い家屋が建ち並んでいた一角も解体されていた。歴史ありそうな大きな家屋が傷んでいく有様も痛ましくはあったけれど、わずかに敷地境界の直線のコンクリ塀だけを残し、更地が整然と並ぶのを見るのも残酷だ。ハンドルを握りながら、ひさびさに喉の奥から悲鳴にならない、空気の量の方が多い擦過音があふれ出た。ああ、この景色もなくなっていく。そういえば、聖火ランナーは、ここを通ったんだっけか、いや通らなかった。あれは何年前、いや、わずか数ヶ月前の話だったか。車中から見えたモニタリングポストに11.6という数値。事故原発から近いポイント、もっとも高い地点のひとつになるだろう。それでも、そんなにあったんだっけか。

老猫が子猫だったとき、この道をのせて通った。成長してからは、大の車嫌いになったけれど、その頃はまだ幼すぎて、よくわかっていなかったのかもしれない。車の中でおろおろはしていたけれど、暴れたりはしなかった。立ち寄ったガソリンスタンドで給油するお姉さんが、かわいいとはしゃいでいた。そのガソリンスタンドはとっくに荒れて見る影もなく、いつか気付けば解体されていた。いつも車を停めたコンビニは残っているけれど、窓にはコンパネ板が打ち付けられている。その景色は無粋ではあるが、解体すれば景色も消える。風景が消えれば記憶はいきどころがない。捨てることもできず、ただ、やり場もなく想念は漂う。

老猫が死んだら、庭のモミジの下に埋めてやろう、と夫が言う。そうだね。モミジを見れば思い出す。葉擦れが聞こえれば思い出す。紅葉すれば思い出す。落葉すれば思い出す。新芽が吹けば思い出す。やがて誰も思い出さなくなっても、記憶は景色と一体になる。誰もいなくても、私がいなくなっても、老猫はきっとそこにいる。

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note の記事を移しました。

ここのところ、書き物は note にずっとアップロードをしているのですが、ここ1年ほどの連続しておきたnote 炎上で note を使うのを敬遠する方が散見するようになったので、こちらにも記事を並行して載せることにします。

 

書いて公開するのは、読んでもらいたくてアップロードするわけですから、プラットフォームが嫌いで読んでもらえないというのは、書く側としては残念なので……。

note.com

喪明けの桜

長い坂道の両脇に山桜が植えられたのは、震災よりもずっと前のことだ。最初は細い苗木で、幹よりも太い支柱が添えられていた。夏には雑草に埋もれ、そのまま消えてしまうようにも思えた。幾本かは支柱だけを残して消えてしまったようだった。

それでも何度かの夏を乗り越え、やがて、幹は支柱の太さを追い越した。通り過ぎるトラックの荷台の上に枝を伸ばして、花が咲いていることに気付いたのは、震災の前だっただろうか、後だっただろうか。気付けば、毎春、道路の両脇を薄桃色が染め尽くすようになっていた。ほとんど純白にさえ見える花弁に、ガクの紅えんじ色が彩りを添える。光を揺らす桜に埋もれる坂道を上っていく。道は空に上っていく。やがて、そのまま空にのぼりつく。

よく晴れた日の午後、桜の道を通ったときに、ふいに、この桜をいまはもう亡い人と一緒に見上げたことがあった気がした。けれど、夫以外の人とこの道を通った記憶はない。いったいなんだって、自分はそんなことを感じたのだろう。いぶかしく思いながら、記憶の糸をたぐり寄せ、誰を亡くしたのだろうかと何度となく反芻してみた。そうして、わかった。その人は、震災前の自分だった。震災が起きることも、その後に起きることを予期もせず、知ることもなく、桜を見上げていた自分を、自分のいた世界を、私は失った。

そう思った時、頬を涙が伝った。

嗚咽も慟哭もなく、ただ、涙だけが流れた自分に驚き、私ははじめて悼むことができたのかもしれない、と思った。走り続けた震災後の10年間、確かに、私には守りたいものがあった。それは、私にささやかな居場所を与えてくれた、山里の暮らしだった。それまで、どうにも自分の居場所を見つけることができなかった私に、この世界にいてもいいのだと、そう思わせてくれたのは、時代から取り残されたような暮らしを頑固に続ける人びとがいるこの暮らしだった。私は、そこに自分を埋没させることを願った。それが無理であることを知りつつも。そう願った私はもう失われて、もはや、この先戻ることはない。

もっと、あなたを見ていたかった。あなたに触れたかった。あなたに聴きたいことがあった。謝りたいことがあった。もっと見せてあげたいものがあった。伝えたいことがあった。もっともっと、あなたに、私は。

けれど、それらの思いのすべてを埋め尽くして桜は咲く。

行こう。喪が明けた。
桜の坂道を抜けて、その先に広がる荒野へ。
視線をあげて、薄ピンク色の輝きが空を埋め尽くす、その向こうへ。