空無からも意味を作り出してしまうコンテクスト

『インターコミュニケーション2006秋』の「<現在>を考える」=浅田彰岡崎乾二郎の対談

昨日の高橋源一郎に続いて、今日も文脈に関する引用文。

1.

不断なる自己更新をその特徴としたモダニズムが、決して革命の勢いと地続きではない、むしろ革命の挫折が「リアルなものの露出」を捉える視座としてのモダニズムを生んだ ― 浅田彰はそのように話している。

疎外を乗り越えて新しい有機的秩序を目指すといった物語からモダニズムが始まったのではなく、そのような物語が挫折の後、紋切型となってアーカイヴの中にうず高く積まれている段階、ある意味でポストモダンな段階から、モダニズムは始まっているわけです。 −10頁

2.

コンテクスト(文脈)の力、というか恐ろしさを実感させる文章に出会った。私が出会ったのは活字化された「文章」だが、もともとは「話されたもの」である。岡崎の発言。

「一九六〇年代にミニマリズムという方法がアメリカの現代美術の中に出てくる。画廊に行ってもほとんど何もない。あるいはただ、誰が見ても四角い箱があるだけだったりする。作品とは通常、作者の自己表現であれ何らかの意図が含まれていると見なされてしまう。その意図を読みとろうとされてしまう。ミニマリズムは、可能な限りそういう恣意的・主観的な読み込みをなくし、客体がただそこにある、「もの」が確かにそこにある、という客体的な事実以外は排除しようとした。(中略)ところが批評家のマイケル・フリードという人がこのミニマリズムを批判したんですね。何もなくたって、観客がそれを見ようとする限り、何か見えてしまう、オプジェとして作品が実際なくてもオブジェらしきものが見えてしまう、と。ダンスに置き換えれば、舞台の上にプロのダンサーがいなくても、誰か舞台に乗れば、素人の身体でもダンサーらしきものとして見えてしまう。見る側が勝手にそれを想像的に作ってしまう。これはマンネリズムとセットになっているわけですね。つまり観客はダンスそのものを見ていなくても、作品を見ていなくても、前もってあるコンテクスト、形式によって意味をもった対象を探しだし、見つけだしてしまう。 −17頁

文脈の解体―高橋源一郎

無限に近い因果関係のネットワークとして存在し続ける世界と、限定された認知能力と限られた情報処理速度と等身大の行動手段でもって向き合わなければならない人間は「物語」に依拠して世界をマッピングせざるを得ない。そして、そのマッピングの技術は物理的にも記号的にも社会的な枠組みの中で提示される。小説というジャンルは、そのような社会的枠組みの一種といえよう。高橋源一郎の次のような文章を読んで、考えたことだ。

高橋源一郎「文学はどこに向かっているのか」『小説トリッパー2006年 秋』

 古井由吉さんが指摘しているように、「内向の世代」ぐらいからでしょうか、簡単にいうと「父殺し」をしなくなった。抑圧されると思うと、するりと身をかわす。縦軸の対立構図がなくなってしまったわけです。そういう人たちは、のちにどうなるかというと、やはり下の世代を抑圧しない。  
 「内向の世代」以降の作者は、マッピングしようにも、自分の位置を決める「原点」がなくなった。原点とは、「純文学中心主義」と「強い父親の存在」といっていいでしょう。これがすなわち文学における近代主義ですね。それがある時期から失調し始めた。−7頁 

 「ポスト近代」という言葉はありましたが、それを実現していると思える、九〇年代以降に出てきた作品は、とりあえず先行する何ものとも似ていません。あるいは、とんでもないものと似ている。いきなり樋口一葉と似ているとか、つまり任意のものと似てしまう。任意の何かとつながるということは、適当につながる、ということです。したがって、ほとんどの作品は適当にできあがっていく。そこには、「歴史性」が欠けています。
 大江健三郎でも中上健次でも第三の新人でも、「作品が適当にできあがっている」ということはなかった。対抗すべき相手がいて、そうではないものをつくるためにはどうするか、と考えられてつくられたものです。今、次々と現れる書き手の胸の中に、鮮烈で明快なモチーフがあるでしょうか。では、彼らはどうしているかというと、歴史は既にないから適当に過去からなにかを選び取ってくるだけです。 −8頁 

 

 歴史とはフィクションです。−10頁 我々は誰も、ほんとうの歴史を知りません。物語になった歴史しか消化できないのです。
 というのも、歴史とは、ほんとう世界で起こっている出来事の総体であって、とうてい個人が理解できるものではないからです。 
 だから、我々はその無限に近い出来事の一部をピックアップし、何かの文脈に従って読むことにします。それこそが歴史というわけです。
 歴史という言葉でわかりにくいなら、文脈という言葉でもかまいません。
何かを読む、という時、我々は、素直に目の前に書かれた文字を読んでいるわけではありません。小説は、たとえばその国や時代に流通する観念に潤色されています。映画やテレビや新聞は、事実や情報を伝えるのではなく、ある文脈に依存した物語を伝えるのです。
 唯一の救いは、いまや文脈そのものが、つまり近代という文脈が終わりを告げようとしていることです。 −11ページ 

普遍は凡庸に、特殊は深い洞察に…

大澤真幸の『文明の内なる衝突』(NHKブックス,2002)を読み終えた。ベットの横に置いて、寝る直前にぱらぱら読み続け、読み終えるまで一週間以上かかった様な気がする。最初の部分はほぼ忘れてしまった。なんとも、まあ、非効率的な読書であることか。それでも、一応引用したい所を引用しておくことにしよう。引用したいと思ったところは、第三者の審級への従属なしには「深い洞察」をも不可能だ、という妙な、かつ説得力のある内容のところである。どうやら、もともとはジジェクの『汝の兆候を楽しめ』にて主張されたことであるらしい。

ハーバーマスは、討議の領域を汚染する、そうした「特殊な偏倚」をひとつずつ自覚し、除去していけば、やがて、まったくゆがみのない合理的な討議の場が開かれる、と見なしている。だが、特殊に偏った独断的な前提―第三者の審級に発する権威的な命令―を失ってしまえば、合理的な判断が得られるところか、われわれは、判断そのものを失うことになるだろう。

 この点に関する理論的な探求に深入りすることはやめておきたい。ここでは、有意味な判断を得るためには、むしろ、独断的で(特殊で)権威的な前提が必要だということを暗示する事例を、ジジェクから借用することで満足しておこう(『汝の兆候を楽しめ』)。それは、人文的な学問における、マルクスフロイト、さらに最近ではラカンのテクストの役割に関するものである。

 これらのテクストは、しばしば「聖典」のように、つまり聖書やクルアーンのように読まれている。それらは、批判を超越した、「真理」の書として扱われてきたのだ。だから、有意味な命題が、これらのテクストの解釈として提示されたりする。これらのテクストの聖なる価値に特に惹かれてはいない第三者から見ると、こうしたやり方は、いささか滑稽にすら見える。「マルクスが言っているからといって、それが何だ。」というわけである。『資本論』や『夢判断』に書いてあることを論拠にしているということは、何ら、その主張の正当性を保障するものではない。

 だから、マルクス主義者や精神分析学者の中から、ときに、マルクスフロイトに対して、「科学的」に開かれた態度をとろうとする者たちが出てくることもある。つまり、マルクスフロイトのテクストも外の社会科学や心理学のテクストと同列に扱って、批判的な討議の対象にするのだ。いわば、コミュニケーションを歪めていた、非合理的な前提を除去しよう、というのである。だが、マルクス主義精神分析をめぐる学問史の中で示された、最大の驚くべき事実は、こうした開かれた姿勢によって得られる結果、つまりマルクスフロイトのテクストを科学的な検証や反証を受け付ける命題群として扱ったときに得られる結論は、常に、まったく退屈で取るにたらない、ということである。マルクスフロイトのテクストに教条主義的に拘泥する者の方が、はるかに深い洞察に到達してきたのだ。p199~200

蓮實、「解釈の無限連鎖」を生き抜く?

1.

今日は、スガ秀美が編集した本『1968』(作品社、2005)に載っている座談会「「一九六八年」とはなんだった/何であるのか」で蓮實重彦が話した内容の一部を引用することにしたい。

ポストモダンシニシズムにつける薬はないと思います。好きなようにやらせておくしかない。ポストマルクス主義的な運動の多様な「共存」でも何でもよいのですが、一元的な「党」の消滅 −それは、「神は死んだ」でも「作者の死」でも同じことだと思いますが− は、あらゆることを可能にしたと同時に、すべては不可能だという事態にも直面させたわけで、可能性と不可能性の間に宙づりされた時間 −それを「現在」と読んでもいいわけですが− をどう耐えるかがモダンなシニシズムで、これを避けることは誰にでもできない。そうした時代としての「近代」は、まだ終わっていないばかりか、たえずいま始まったばかりだとさえいえると思います。ところが、ポストモダニズム特有のシニカルな主体は、その多くが可能性と不可能性とを何とか調和させようとしてパラドクシカルなフィクションをつむぎだそうとする。そのパラドックスを「止揚」するものが「党」だとは思えません。私は、それを「仮死の祭典」に貢献しうる匿名化された主体と考えます。本来が不可能性の開示にほかならぬ解釈の無限連鎖を可能性の開示と勘違いすることのない、批評的な主体といいかえてもよい。解釈の無限連鎖を可能性の開示としか考えない連中は、単なるバカである。 −p50

2.

可能性と不可能性の間に宙づりされた時間を耐え続ける(モダンなシニシズム)という運命を、想像的(フィクショナル)に回避し、あたかも<象徴界第三者の審級大きな物語>の衰退を「すべてが可能な状況」として受け止めようとするのが、どうやら蓮實のいう「ポストモダニズム的主体」のようだ。蓮實によると、そのようなポストモダンな主体は「解釈の無限連鎖」という現象を「可能性の開示」として読み取ってしまう「バカ」でしかない。一方、同じ「解釈の無限連鎖」が実は「不可能性の開示」であるという現実認識に基づき、批評的な眼差しで現実と関わる主体は「匿名化された主体」と呼ばれる「批評的な主体」である。

蓮實のこの発言は、大澤真幸東浩紀の現状認識と多くを共有しているように思われてならない。

「解釈の無限連鎖が実は不可能性の開示」である、というのは大澤真幸が「自由の牢獄」で論じたパラドックス(過剰な自由は、人間にとって「自由の牢獄」として経験されてしまう、というパラドックス)と非常に似ているのではないだろうか。あるいは、後期資本主義の状況は、人間の自我にして無限のメタ運動を強いる、という東浩紀ポストモダン分析にも直結している。さらに、「匿名化された主体」と非常に似た概念(「匿名の主体」だったかな?)を東浩紀がよく使っているようだが、これも気になる。

3.

ともかく、蓮實重彦は「バカの啓蒙」には、はなから関心がないらしい。それが、彼の魅力であると同時に、どこか「あきらめ気味」と捉えられてしまう所でもあろう。あるいは、「批評的な主体」たらんとすることからの当然の帰結なのかも。モダンなシニシズムに立つ主体であるのなら、「バカの共同体」を啓蒙するのは不毛である、という冷徹な現実認識を欠いて振舞うわけにはいかない、ということ?

しかし、蓮實に魅せられ続けるのは事実で、安易に、蓮實が紡ぎ出す言葉の連鎖にフィクショナルに同化したい欲望を感じてしまう。

超近代の自己反省性

「超近代」が要求する自己反省の強度に、人間は耐えうるか?


 最近読んだ佐藤俊樹の『ノイマンの夢・近代の欲望』を本棚に仕舞い込むのが、どうしてか心残りで、無意識の命令に従い、軽く読み返した。そして、最後の章の「超(ハイパー)近代」に関する内容を読んで、「これを読み落としたのか!」と無意識の判断の正しさに打ちのめされてしまった。


最後の章では、近代産業社会を19世紀型(以下<1>)と21世紀型(以下<2>)に分けて説明している。佐藤によると、近代産業社会を通底する大原則は<近代的な個人の自由選択―自己責任の原則>である。言い換えれば、不確定的な未来に対する判断(選択)を個人に委ね、その代わり不確定性に起因するリスクをも個人に帰するものとすることで、社会の資源を配分していく仕組みが近代産業社会なのである。基本的にリベラリズム的な立場に立った近代の定義といえよう。


ただ、実際の近代の歴史は、個人と巨大組織との対立の歴史であり、巨大組織(権力)が個人を無力な存在にしてしまったとき、近代自体が危機に陥ったと佐藤は言っている。この主張にちょっと首を傾げてしまった。佐藤は近代的な個人の誕生をフーコーで説明しているが、実際にフーコーが彼の理論をとおして解体しようとしたのは、佐藤が言ったような(個人と権力組織を対立するものとしてみる)近代的エピステーメーだったのではないか?むしろフーコーは個人と組織を対立関係としてではなく、「共犯関係」として捉えていると思うのだが。フーコーと佐藤との立場は、その意味で、かなりずれがあると思う。
 

佐藤の<1>と<2>の説明に戻ろう。<2>は<選択の自由―自己責任>の原則をより「純化」する傾向を持っており、そのため<2>は近代産業社会の延長線上にある社会である(佐藤は「原近代の再生」という概念を用いている)。しかし、<2>は<1>とは異なる一面をもっている。それが<超近代性=近代社会のしくみそのものを反省するような視線>である。超近代的な個人たちは、頻繁に自分自身を相対化し、反省の対象として位置づける作業をし続けてしまうのである。佐藤はこの傾向を「強い反省性」と呼んでいるが、このような後期近代の捉え方は、イギリスの社会学者Anthony Giddensが論じた「再帰的近代」と非常に似ている。ともかく<1>は「原近代」だけをその特徴としているが、<2>は「原近代」と「超近代」の特徴を併せ持っている、というのが佐藤の認識である。


 超近代の「自己反省性」を理解するうえで、参照項として有効なのが、資本主義の運動における「外」から「内」への転換である。<1>の資本主義は「外へ外へと無限に拡大」する運動をしていた。帝国主義=植民地化の歴史がそれを証明している。一方、<2>の資本主義は「有界な空間内部で無限運動をつづけていく社会」である。即ち、<2>は自己差異化運動で機能可能な社会なので、終わりなき自己相対化=自己反省=自己差異化を個人は演じ続けるわけである。


このような論理展開は、柄谷行人が『マルクス、その可能性の中心』で論じた資本主義の運動形態と同型のものである。柄谷は『マルクス』で、商業資本主義から産業資本主義への移行を、「空間の差異」から「時間の差異」への移行として説明している。つまり、商業資本主義はAという共同体とBという共同体との間の価値体系の差から利益を得ることで機能するものである反面、産業資本主義はAという共同体の「今」の価値体系と「未来」の価値体系の差から利益を得ることで機能する、というのである。20世紀のフォーディズムは「消費者」を前景化することで資本主義の有り方を変えたが、これはまさしく「時間の差異」に基づく資本主義への転換を意味する。一方、ポスト・フォーディズムは生産形態を少品種大量生産から多品種少量生産に変えることを意味しているが、「消費者」に合わせた生産、という面ではフォーディズムの延長線上にあり、よってポスト・フォーディズムも「時間の差異」を利用する資本主義運動であることには変わりない。


 もとの話に戻ろう。佐藤の<1>から<2>への移行は、柄谷の「空間から時間へ」の移行と基本的に同じ構造をもっていると言える。ただ、この移行を「自己反省性」(Giddensの「再帰性」)と結びつけたことが興味深かったし、説得力があった。

最後にもう一つ、未来の不確定性の如何が社会の在り方を変える、という主張も注目に値する。これは、柄谷が「時間の差異化」を産業資本主義の運動として捉えたこととも、緊密な関係があるように思われる。佐藤は、未来がある程度確定的にわかっている場合は、「テクノクラシーがうまくいく」と論じながら、これを、テクノクラシーが後発近代社会において有効に機能した理由にもしている。なるほど、と感じた部分である。確かに、歴史的事実は、この主張に頷かせる所が多いのではないだろうか。一方、佐藤によると、先発近代社会に追いつくにつれて個人の自由の選択―自由責任の原則の必要性がましていく。未来の予見が不可能な状況では特定の誰かに選択をゆだねることは非合理的であるからだ。そのため、次のような結論に達することとなる。

不確定な未来を生きる状況では、個人個人の選択の結果としてそのリスクを分配するしかない。 -p237

そのため、常にリスクの計算を強いられる状況に置かれた「超近代」の個人は、終わりの無い自己相対化=自己反省をし続ける存在、「メタ自己」を生き続ける存在になる ― 佐藤の論理の帰結はこれである。しかし、この終わりなき「メタ自己」の運動に現代人が耐えられなくなる、という可能性は、ここにおいて論外にされていると言わざるを得ない。東浩紀が問題にしている「動物化」とは、「メタ自己」であることを諦めてしまう超近代の現状だと思うのだが。人間は「合理的存在」である、という前提のうえに構築されたリベラリズムは、人間の動物化=非合理的存在化の現実を説明しえないのであろう。


 もう一つ、佐藤は「蓋然性の高い未来」と「不確定な未来」を区別し、どのような未来をその社会が描いているかによって、組織と個人の力関係が変動する、という興味深い指摘をしているが、これはリオタールのいう「大きな物語」と「小さな物語」に対応するのではなかろうか。「大きな物語の機能不全に、人間はどう対処するか?」現代思想は、この30年間、この問題と戦い続けてきたと思うが、佐藤は人間の忍耐力を高く評価しすぎているように見えなくもない。

境界的言説としての物語

ブルーナーの『意味の復権』を読んだ。文化をささえる最も重要な装置として物語を提示しているが、彼の考える物語の核心的な機能は「意味」を作り出すことである。このような立場をベースにして、主に文化心理学的な側面から物語について論じている。



その中で特に興味深かったのは規範性と逸脱性という対立項の中で物語が担っている役割である。ブルーナーによると、物語はその内容において逸脱性に重心を置くが、逸脱性を物語ることによって物語がもたらす効果というのは、規範性の地平から逸脱性というものを捉えなおすことである。



物語は、日常性のコンテクストからずれている現象を日常的コンテクストに結び付けて新たな意味生成へと向かう、というブルーナーの立場は、物語は異質な二つを結びつけて意味を作り出すものである、という今まで検討してきた「物語に関する理論」の共通的な了解と似ているように思える。ここで言う「異質な二つ」を、根源的には<規範性/逸脱性>の対立項をよりラディカルにした<既知の世界/未知の世界>または<理解可能な世界/理解不可能な世界>として捉えたほうが良さそうである。このように捉えたとき、物語は生得的に「理解不可能な世界」を内包する形でしか成り立たない言説形態として理解されるべきであろう。知の境界領域(論理的世界の限界)こそが、物語の生成されるトポスなのだ。

ノイマンの夢・近代の欲望

佐藤俊樹ノイマンの夢・近代の欲望』講談社1996


1.

10年前に出版された本。産業社会に取って代わるかも、と主張したりする「情報化社会論」自体が近代産業社会の一部をなしている、というのが著者の言わん所。基本的に著者の立場に賛同。非常に丁寧に著者の立場を提示してくれている(即ち、見方を変えれば「くどい」と感じるかも)。技術決定論的な情報社会論が蔓延る風潮は、さすがにITバブル崩壊以降衰えたが、最近は「バイオ技術」や「脳科学」という形に姿を変えただけで、その流れはさほど変わっていないと思われる。言い換えれば、自動車産業の「モデル更新」とあまり変わらないのである。一言で言うと「技術決定論イデオロギーに過ぎず」。


2.

個人的に、情報技術論に関する内容よりは、「メタ自我」に関する内容の方に興味があって、この本を読んだ。技術決定論の立場から「自我の在り方がメディアの変容によって変わっていく」という主張が説得力を持つような風潮があるが、著者の立場から見るとそれは「幻覚」に過ぎなく、私も同じ立場である。

個人の自立性と相関するのは、音声か文字かではないし、もちろんメッセージの物理的な伝送速度でもない。そのメディアをどのように読むかという読み方なのである。 −86

「読み方」とは、結局社会的な使い方によるものである、ということだ。技術が自我や社会の在り方を変える独立変数として作用することはない。技術が持つ様々な可能性の内ある一つが社会的な要求によって現実化するのであり、もし、まるでテクノロジーが社会的な変化の原因のように現れるときは、まさにそれを社会が要求するからである。技術は社会の従属変数なのであって、決して独立変数ではない。


3.

最後に物足りないと感じたことを一つだけ指摘しておこう。佐藤は産業社会を特徴付けるメカニズムの一つとして「日常生活」を常に変えていく力を挙げながら、次のように論じている。

産業社会では日常生活と社会のしくみは絶対に一致しない。 −187

言わんとすることが理解できないわけではない。現実的な日常生活の具体的な変化が、社会的なメカニズム(ここでは「産業社会」)の変化として解釈されやすいが、そのような解釈は間違っている、ということであろう。目に見える日常の変化と、目に見えない社会構造の再生産が同時的に起こっているのも理解できる。しかし、ここでいう「日常生活」と「社会のしくみ」はどこまで厳密に区別できるものなのだろうか。そこの所をもっと詳しく知りたかった。はたして、「日常生活」と「社会のしくみ」とはどこまで乖離しているのだろうか。もし、乖離が甚だしいのなら、「日常生活」から距離をおいた観点でしか「社会のしくみ」は認知できないのではないのか?だとしたら、プラトンの洞窟の寓話から人類は一歩も外に出ていないのでは?ま、こんな疑問が頭をよぎる。