第6回 「魔人探偵脳噛ネウロ」―魔人と読者にだけは視える異形の顔―


魔人探偵脳噛ネウロ 1 (ジャンプコミックス)
作者:松井優征
版元:集英社
連載:週刊少年ジャンプ


パソコンの調子が悪いのと異動して忙しかったのとW杯を見れる限り全て見ていたのが重なって更新が遅れました。これからは定期的な更新を目指します。


父親が何者かに殺されてしまった女子高生桂木弥子。父の遺影の前で泣いている彼女の前に現れたのは「魔人」ネウロネウロは超常的な力を弥子に見せつけ従わせると、連れて行った喫茶店で早速殺人事件を解決してみせる。殺人事件など人の悪意が発揮される事件に潜む「謎」がネウロの主食。こうして、父親の事件も解決したネウロに言われるがまま、表に出ることを嫌うネウロの代わりに弥子は女子高生探偵として、様々な犯人に遭遇していく。


などと、書いてしまいましたが、流石にジャンプに連載されている作品のあらすじを書き出すのは少し気恥ずかしいものがあります。未読の方(いないかもしれませんが)に説明すると、ミステリーというより、Mっ子弥子がネウロにいじめいじられながら、事件に遭遇していくギャグ要素もしっかりある娯楽漫画です(作者も娯楽漫画って言ってるし)。


この作品はえげつないネウロの行為に対する、弥子の絶妙なつっこみに支えられている面も大きいし、それが大きな魅力でもあります。同時に仮面ライダーにおける「次の怪人はどんなやつ」だろうという興味と同種の、非常にアクの強い犯人も魅力的だったりします*1。ミステリーとしては、弥子が読者に近いワトソン役という形式でありがちですが、読者に推理に十分なヒントを与えるほどではないです。作者も言うようにミステリーとかそういう細かい分類よりも、色々な楽しみ方のできる娯楽漫画というところでしょう。


さて、この作品の楽しみな点のひとつが犯人だというのは上記の通りですが、既読の人はご存知の通りこの作品の犯人は犯行がばれると顔が変形します。犬になったり鼻が異常に高くなったり目と眉毛の形が鋏になったり。このちょっとしたやりすぎ感と、犯人が自分の欲望をストレートにぶちまける辺りが魅力なのです。


この犯人の顔の変形ですが、登場人物は誰も気づいていません。当然ですが、人間の顔が変形することはないのです。つまり、変形した顔は読者サービスというか、読者にだけ視える犯人の異常性を具現化したものでしかないわけです。


今回単行本を読むときに注意したのが、犯人の顔が変わったときの登場人物の反応です。登場人物の犯人に対する驚きや怒りといった反応は、犯人の欲望の告白に対してであり、変形した顔に向かうことはありません。これは意図しなければ変形した顔に驚く登場人物が出てくるはずです。


たとえば、1巻に収録されている3つの事件の犯人ははどれも、まだ異形の顔に変形してはいません。唯一変形するのが殺人シェフですが、彼はドーピングコンソメスープを注射し筋骨隆々の体に変形しますが、これは登場人物も認識しています。ですが、2巻収録の最初の事件で、犯人の顔が鳥に変形します*2


ですが、2巻以降犯行がばれた際、顔の変形しない犯人もいます。その違いは「罪の意識があるかないか」というより「自らの行為を正当化するかしないか」に拠るところが大きいです。人を殺す権利は自分にあると自惚れた人間は顔が変形し、人を殺すことの是非を認識した上でそれでも自分にはやらなければならない理由があったという人間の顔は変形していません。これは「悪鬼のような」「修羅のごとく」など異形のものを比喩として用いる日本だからありえた発想かもしれません*3。醜い自惚れを持った人間の顔だけが変形するというわけです。


ところで、その場の人間に見えていないのに、なぜこの「変形する顔」というやり方を続けるのでしょうか。確かに漫画リテラシーの高い日本の読者なら「なんでこの変な顔に誰も気づかないのだろう」という疑問は抱かないはずです。少し読めば「これはきっと犯人の異常性を具現化しただけなのだな」と無意識のうちに理解し読み進めるでしょう。そして、犯人の異常性を表現するための「お約束」なのだと分かるはずです。


ですが、それだけではないはずです。魔人であるネウロが「視えて」いるからこそ、このようなやり方をしているのです*4。実写で考えると分かりやすいと思うのですが、どの登場人物にも認識されていないのに、犯人の顔が変形したら違和感があるはずです。実写という現実に見ている世界に近い表現形式であれば、「なんで誰もわからないのに犯人の顔が変形してんだろう」と強く感じるはずです。


何の意図もないのに犯人の顔を変形させるということはないと思います。ネウロにだけは視えているからこそ、犯人の顔は醜く変形するのです。ネウロが謎を食べるシーンが証拠になります。初期は、ネウロが犯人から立ち上るエクトプラズムのような謎*5を食べる描写がありました。それが途中からなくなる代わりに、顔が変形した犯人に対応した魔界道具で懲らしめるという描写に変わっています。この変化は意図的に変えたと思います。立ち上る謎も変形した顔も、どちらもネウロ以外には認識されていないという点が共通してますし。そして、この変化は読者を楽しませる効果を生み大成功でした。


このようにネウロにだけは視えているからこそ、余計に自分の欲望をぶちまけ醜い顔を晒す犯人を懲らしめるシーンに面白さがあるわけです。それをきっちり行う作者の上手さを感じながら、今回は終わりたいと思います。


次回はアニメ化も決まった安野モヨコ働きマン」を予定しています。

*1:個人的にはアメリカ人留学生が好きでした。ああー凄くいい感じで、意図的に短所を強調したアメリカ人だー。と笑いました。あそこまでやってくれるのも魅力です

*2:もっとも2ページした変形した顔がなくそれ以降の犯人に比べるとページ数は少ないです。ですが、ここで犯人の変形させる手がかりを掴んだのかもしれません。ですが、顔の変形しないアヤの後に登場したフリーライターの犯人は目だけが変形するだけに留まっています。犯人の顔が完全に変形したヒステリア以降から、このやり方が定着したのではないでしょうか

*3:日本特有とは言いません

*4:現にネウロは犯人たちの変形した顔を認識しているかのように、彼らを懲らしめます。

*5:当然他の人間には見えていません。かろうじて場の雰囲気が変わったことを弥子が認識している程度

第5回 「戦線スパイクヒルズ」―アイデンティティーを守るための犯罪―


戦線スパイクヒルズ 1 (ヤングガンガンコミックス)
漫画:井田ヒロト/原作:原田宗典
版元:スクエア・エニックス
連載:ヤングガンガン


読み返すと、こだわっていたわけではないのに「あらすじ→大まかな感想→気になるポイントを掘り下げる」という形で書いていたので、これからは意識的にその形にしようかと思っている今日このごろです。


天才的なスリの才能を持つ高校3年の少年ノムラは、スウガクとあだ名される同級生蕪木にスリの現場を見られていた。何を要求されるか動揺するノムラに、スウガクが話したのは自分の計画への参加だった。それは、とあるヤクザが入手する私大最高峰の早慶大の入試問題を横取りして、名門校への受験に成功することだった。その計画に同じく高校3年の少女キクチが参加する。ノムラとキクチの恋、3人それぞれが抱える複雑な家庭事情、ノムラ以上の才能を持つ老婆との出会い、ヤクザとの接触。などなど様々な要素が絡み合い、高校生が経験するには余りにも危険な日々が始まった。


天才的なスリの才能を持ち、魅力的な美少女のキクチが彼女になり、危険な計画に参加しスリリングな気分を味わうノムラ。彼のキャラは思春期の少年のツボを上手くついています。また、その反面、年頃の少年が抱えがちな「周りの人間と自分だけは違う」というノムラの感情を、1巻で早々にスウガクが見透かし否定してみせます。原作を読んでいないので漫画で判断しますが、思春期の少年の願望や「他人とは違う」という感情の象徴であるノムラと、老成し幼さを見せない(少なくとも3巻まででは)キクチの二人はバランスがあり、魅力的な組み合わせです。


それはもう細かく思い出して書くのも痛々しいんですが、「他人とは違う特別な自分」という感情には思い当たるフシがあり、また彼女が出来て舞い上がる点も同じく思い当たるフシがあるので、高校生のときに読んでいたらきっとノムラにシンパシーを感じていたと思います。だけど、もう社会人になってしまうと、ミステリーが好きなせいか犯罪計画をどう成功に導くかの方に興味が向いていますし、若いなあという感じで微笑ましく若者たちを見て楽しんでいる感じの方が強いと思います*1


さて、まず主要登場人物を掘り下げてみましょう。主人公のノムラは、スリの才能を持っている=犯罪者で、母親は新興宗教にどっぷり。そして、同級生に対しても丁寧語を使いながら心の中では見下し、タメ口で話す彼女のキクチ以外の人間とは距離感がある*2。スウガクは死んだ母親の再婚相手とその息子に、虐待に近い扱いを受ける日々。出張ホストのようなバイトに精を出し、ヤクザの事務所に盗聴器をしかけることに全く抵抗がない。キクチは母子家庭だが、男と遊び歩き家庭を省みない母親を嫌悪し、無邪気にノムラを愛しながら、反面大麻を吸わせたりもする。


このように書き出して分かるのは、3人とも家族に問題があり、そのため家庭が安息の場ではないこと。そして、そういう家庭から逃げ出したいので、入試問題を盗むということです。ただ、ノムラもキクチも気づいていないのが、名門大学に入ったからといって、別に実家から通えばいいだけのことで、家庭からの開放にはならないこと。その点に唯一気づいていそうなのがスウガクで、彼だけが入試問題で大学に入ることだけでなく、儲けることまで考えています。もちろん、ノムラだってスリで儲けた金で、実家を出てキクチと同棲生活が出来るだろうけど、そこには思い至らない*3


そして、3人はそれぞれが自らのアイデンティティーを守るために犯罪計画に参加しています。ノムラは自分とキクチが楽しい大学生活を送るために、入試問題を盗むつもりだったはずなのに、スリという行為そのものに魅せられていきます。また、キクチに会うことができるから計画に参加するという面も強くなっていきます。彼にとって、名門大学に大学合格したい(そして、将来が保証されている側に立ちたい)という強い思いは希薄なままです*4。つまり、キクチに好かれ続ける自分を維持するために、そしてスリの天才である自分を守るためスリの腕を上げること望んでいます。


スウガクにとって、実の母親のいない最悪の家庭から抜け出すために、同時に義父義兄に復讐するために(どう復讐するかはまだ明かされていませんが)、入試問題から生まれる利益を欲しています。また1回もスウガクは早慶大に入りたいとは言っていません。彼にとっても大学入学は目的ではありません。そして、温かい家庭で育った自分を取り戻すための犯罪計画です。


キクチはどうでしょうか。彼女は母親が男と遊んでいる家庭に嫌気が差しています。そんな中ノムラと出会い、彼に恋して、高校生よりも自由な大学生活の中で二人楽しい生活をしたいと思っています。彼女にとっても早慶大に入ることはさして重要ではありません。たまたま早慶大の入試問題が入手できそうだから、そこに入りたいだけです。今よりももっと楽しいであろうキャンパスライフをノムラと送る自分、そして仲間と何かをやるという連帯感を喪失しないために計画に参加しています。


つまり、3巻時点では彼らの誰一人として、名門大学に入りたいとは強く思っていないわけです。彼らが計画に参加している動機はどれも今の環境を抜け出し、自分の大事な部分を守るためです。たまたま、大学受験という間近に迫った問題と今の環境がシンクロしただけなのです。だけど、そういう「大学受験」というテーマがあるからこそ、主人公たちは高校生でいられるわけです。もし、大人が主人公なら金を儲けて話が終わってしまいます。


今後、ヤクザから入試問題を盗めたとしてキクチの身の安全をどう保証するのか。キクチに入れ込んだノムラは高い確率で自分と相手との気持ちの差に気づくはずで、そのとき果たして計画に参加し続けるのか。などなど、原作を読んでいないので、今後の展開が楽しみでもあります。もっとも楽しみなのは、計画が成功したとき、そして、大学に見事入学したとき、彼らはどうなっているのだろうかということです。そんなことを考えながら、若いっていいなあと思いながら4巻の発売を待っています。


次回は松井優征魔人探偵脳噛ネウロ」を予定しています。

*1:そういう意味では「G戦場ヘブンズドア」も目標に向けて頑張る高校生を見守る感じで読んでもおかしくないです。だけど、マンガ家になるという高校生に限らず大人でも目標にすることがメインテーマだったため、それほど登場人物と距離感を感じることはありませんでした。

*2:ノムラのモノローグはスウガクとキクチと一緒にいるとき以外は、大体負の感情で、スリのときは獲物を冷静に分析し、正の感情がむき出しになるのがキクチに対する思いだけです

*3:母親を初めて怒鳴りつけたとき、ノムラは「早慶大に受かってやる」とは言うが、「その代わり受かったら、ここを出る」とは言わない。

*4:将来に対する不安はあっても、それは信者にさせられるかもしれないとか犯罪者として生きることになるかもしれないということに対して、つまらないサラリーマンになるかもしれないという不安は現実的でない希薄なものです。

第4回 「BLACK LAGOON」―B級世界に彷徨う日本人―


ブラック・ラグーン (1) (サンデーGXコミックス)
作者:広江礼威
版元:小学館
連載:サンデーGX


大雑把なあらすじ。黒人の大男ダッチに気の短い中国系アメリカ人女レヴィ、そしてバックアップでハッキングもこなすベニー。この三人の仕事はクライアントの求めるものはなんでも見つけ出し運ぶ、運び屋だった。サラリーマン生活に嫌気が差した岡島緑郎ことロックは、ひょんなきっかけで彼らの仲間となることを選択する。ロックは特殊部隊上がりの女マフィアやショットガンを仕込んだ日傘を使いこなすメイドや殺人狂の双子や武器密売を行うシスターや全共闘崩れのテロリストやら*1が跋扈する闇の世界の住人となる。


唐突ですが「処刑人」*2という映画をご存知でしょうか。かいつまんで言えば、ささいな喧嘩で死が目前に迫ったある敬虔なカトリックの兄弟が、神の啓示を受けて相手を殺して生き残る。そして、その啓示は悪を滅ぼせというもの。この二人の兄弟は何をするかといえば、本当に悪=街のマフィアを銃で皆殺しにして回る。しかしこの兄弟の犯行を疑う人物が一人だけいた。彼は有能でゲイな刑事だった……というお話です。


このあらすじを聞くか、もしくは実際に映画を見て、「だから銃社会はダメだ」「カトリック、ひいてはキリスト教徒はバカだ」「なんで市井の兄弟が銃を見事に使いこなすんだ」「悪を暴力で裁いていいのか」と思う人。そういう人は向いてないんです。じゃあ、どんな人が向いているのか。「左手に持ち替えた拳銃から、イジェクトされた空薬莢をそのまま右手でキャッチかよおおお!」と身もだえする人です――そのほかも見所となるべく作られた銃撃シーンは沢山あります。命のやり取りをしているシーンに出てくるくだらない会話や、そのくせ友情に篤いところとかでもいいかもしれません(主役二人の男前加減にハマってもいい)。


なんで「処刑人」を引き合いに出したかというと、素晴らしいまでにB級アクションだからです。無茶苦茶な設定、燃える銃撃戦、素晴らしくイカレたキャラなどなど。凄くB級アクションしてるわけです*3。殺し屋になった悲哀とかそういうのは「ミュンヘン」とかああいうのでいいんです。そして、「BLACK LAGOON」もまたこういうB級アクションであります。


それを証明するように、作者はインタビュー*4で「基本的には洋画みたいなセリフと馬鹿なアクションを楽しんでもらえれば、それが一番いいですね」と話しています。モチベーションにあるのは、腐敗した町や暴力がなくならない世界の悲哀や人が人を殺すことの重みではないのです。そして、そういう「上等なもの」から遠いところにある点、それこそが愛すべきB級感をかもし出しています。


また、この作品は自分の手元にある5巻までで見る限り、一人たりとも善人がいない*5。というよりも、それぞれがそれぞれの言い分で悪人をやっているだけ。ラグーン商会もホテルモスクワも三合会もネオナチも双子もですだよねーちゃんもタケナカも、誰も彼も自分が悪の側にいることを分かっている。そして、生き残るのも正義だからではなく、ただ単に殺し合いに勝っただけなわけです。それを作者が徹底しているため、虫酸の走るような綺麗事が出てこないわけです。例外が生じた瞬間魅力を失ってしまうからです。


ところが、日本人ロックはその「例外」でした。どこかで日本人らしい綺麗事を捨てきれないロックは5巻までは、甘い面が顔を出し続けていました(少しずつ現実に適応してきてはいましたが)。だけど、仕事で自分の故郷に戻ってきて、すでに自分はもう居場所がないことに気づいてしまいます。ロックはレヴィに、公園で遊んでいる子供たちに缶を実弾で撃ってやれと言い、撃った直後は何かを諦めたような表情をしています。


また、同じ5巻では、女子高生ながら組長にならざるをえなかった雪緒を助けてやるため、雪緒が組長を務める鷲峰組にはこれ以上手を出さないようバラライカに頼みます。そして、バラライカに銃を突きつけられたとき、ロックは笑っています。歯をむき出して。だけど、それはまだ覚悟が決まっていないかったときの、強がりだったように見えます。


再度ロックはバラライカに雪緒を助けるように頼みます。1度目はとは違い、雪緒を助けるためには――暴力が支配する世界から抜け出させるためには、鷲峰組を壊滅させて彼女が戻る場所を奪うしかないとし、それをバラライカに頼みます。複数の人間の死をもって、一人の人間を救うというやり方は「日本人」ロックにはなかった発想でした。バラライカと向きあうロックの目は怯えも虚勢もない、澄んだ目をしています*6バラライカの言うとおり「悪党」になった瞬間でした。暖かい日常から決別した瞬間とも言えます。


ロックは日本人がこのB級世界で生きることになったとき、どうすればいいのかということの答えを出しました。「ひとつの命を救うのには必ず誰かの命が要る」という世界では、その流儀に従うほかないということです。ロックは双子の片割れを救いたいと思ったとき、何も行動しませんでした。ただ「かわいそうだ」「ひどすぎる」と思うだけでした。5巻のヤクザ編を通して幸か不幸かロックは悪党として成長してしまいます。。


ですが、一つだけこの世界で生きる人間にあってロックにないものがあります。それは自分の手で引き金を絞り他人を殺したという経験です(ベニーにもないかも)。そういう意味では、本当にギリギリのギリギリのところでまだロックは踏みとどまっているといえます。彼が今後、どう転げ落ちていくか楽しみでもあります。


(個人的な話ですが、ボストン・テランの「神は銃弾」のコミカライズを広江氏に是非やってもらいたかったりします)

*1:知らない人のために言うと全部マジです

*2:1999年公開。ショーン・パトリックフラナリー、ノーマン・リーダスウィレム・デフォー出演

*3:感覚がつかめない人は「必殺処刑コップ」で。すいませんもっと分かりませんか。

*4:詳しくは http://www.toranoana.jp/torabook/toradayo/ncomic28.html を読んでください

*5:こういうノリは「ドーベルマン」という愛すべきB級映画と親和性が高いと思います。

*6:基本的にベタで塗りつぶされていたロックの瞳が、ベタとトーンの二種類で描かれています。また、瞳の大きさもラグーン商会に入ると決めたときやレヴィと衝突したときなど何か強い思いを秘めているときと比べ、大きいのも特徴です

第3回 「げんしけん」―ユートピアの向こう側―


げんしけん(1) (アフタヌーンKC)
作者:木尾土目
版元:講談社
連載:月刊アフタヌーン


再録してそれでというわけにもいかないので、「げんしけん」をやってみようと思い立つ。一部の世界では「くじびきアンバランス」アニメ化ということが一番話題かもしれない*1けど、まあここでは「げんしけん」について。


ざっとあらすじを説明すると、ヌル〜いオタク*2だった笹原が大学入学と同時に、現代視覚文化研究会(大雑把に言えば90年代のオタクカルチャー全般が好きな人のサークル)に入部する。そこ出会ったのが、イケメンにも関わらず高濃度のオタクである高坂。その高坂の彼女だがオタク文化には全く興味のない春日部。金は全てオタクグッズに流れる二代目会長の斑目。絵を描くのが得意で気は小さい久我山。コスプレとプラモデル制作が得意な田中。帰国子女で巨乳でコスプレ好きでやおい好きな大野。オタク嫌いなのに腐女子という複雑な背景の荻上。という面々。彼らと繰り広げるオタクライフをきっちりかっちり4年間お届けしているマンガです。


とここまで頑張ってあらすじ書いたくせになんですが、これはオタク世界を描いたものよりも、オタク世界で楽しく生活している大学生を描いたマンガです。たとえば、農大で菌を研究するゼミとその周囲の人々との生活を楽しく描いたマンガがあったとして(ちゃんと分かってますよちゃんと)、そこでは菌を分類したり、実際に酒を作ってみたりするわけです。この場合の菌を分類することはアニメ感想会議に、酒造りを同人誌制作に置き換えてもいいし、菌に関する知識はオタク知識に置き換えられうるわけです*3。ただ、一点オタクというのは何かと金がかかる生き物だし、別に趣味は学業でもなんでもないという違いはあります。


だけど、そのオタクであるという一点が、さらにこのマンガを魅力的なものに押し上げている面はあります。たとえば、春日部は高坂のオタク趣味を止めさせたいのだけど本人には止める気配が全くない。というところからコミケにサークル参加するために会員一同頑張るという話まで。全てオタクにまつわる話として進行するだけに、一般人とはまた違う生活スタイルが描かれ、そこで活き活きとしてる登場人物が面白いわけです。また、各人に強い分野があって、それに対して無駄だけど微笑ましいこだわりがあるのも面白かったりします。キャンパスライフを描いた青春ものとしても面白いし、一つのオタクのユートピアを描いた楽しさもある思います*4


とまあ、ここまでは面白い点を書きましたが、少し引いた目で作品を眺めてみようと思います。ここからはネタバレしてるので、何も知らないまま読みたい人は読んでみてから、ここに戻ってきてください。


※大したネタバレではないですが、8巻に収録される内容にも触れています。単行本派の人で先を知りたくない人は読まないようにしてください。最終巻を買ってから読んでください! 絶対に!


さて、この作品は斑目という一人の人間が重要な存在です。影の主人公は間違いなく斑目です。実のところ彼は、サークル内で何かをしたかと言えば、特に何もしていません。笹原は会長としてサークル参加を目指し、春日部と大野も同様にコスプレで貢献し、久我山荻上は絵を描くことで貢献します。さらに言えば、斑目は何かを作るというシーンはありません。オタクとしてサークルに所属している人間では斑目のみです。それでは彼は何もしない無用な人間だったのでしょうか。作品内ではそうかもしれません。ですが、作品全体では決してそうではありません。


彼は現代視覚文化研究会というサークルとそこにいる人間が好きなだけで所属しているわけです。そして、同じサークルにいる彼氏持ち(しかもベタ惚れ)の春日部を好きになって、彼女と一緒にいたくてサークルに所属しているわけです。そして、斑目は大学から10分しか離れていない場所を就職先に選びます。社会人になってからも、部室に通い続けます。自分の趣味を分かってくれる仲間と自分が好きな子がいる部室に。


彼は自分の趣味を分かってくれる友人のいるユートピアから抜け出すことができませんでした。久我山と田中に比べて、卒業後の登場回数が多いことからもうかがえます。さらに、そのユートピアには春日部もいるわけです。最終話から2話前の48話、彼は春日部と部室で二人きりになったとき、斑目は全てを打ち明けようとします。鼻毛が出ていたことを見てしまった以上に、どうせ振られると分かっているけど自分が好きだということを。結果、それを伝えられない。


この後49話では春日部も参加する撮影会(ただし男子は見れない)を冷やかしに斑目も来ます。しかし、撮影会が始まると斑目は一人キャンパスをあとにします。後日、大野から内緒で写真をもらおうとするけれど、春日部にばれてそれもうやむやに。長い説明でしたが、ここからが重要なんです。


写真を見せることに対してブチ切れる春日部を尻目に、照れくさそうな顔をしている斑目のコマが入ります。続いて、営業に回る久我山、専門で勉強する田中、一足先に働いている高坂のコマがそれぞれ入り、最後にくるのは何かを吹っ切ったように口を引き結んだ斑目の表情が! そして部室棟と「ははっ」という写植のあるコマ。そして、キャンパス全体を引きで描いたコマが入り、卒業式の大ゴマです。


進路に進むということは当然卒業を意味します。進路の決まった3人はそれぞれの進路先の風景が描かれているのに対し、その後描かれる斑目の表情は何か決意したことをうかがわせる*5表情です。その後には楽しかった学生生活の象徴である部室棟と心の中で笑った*6斑目の声。続く引いた部室棟はそこから「本当に卒業した」ことを意味しているように思えます。


49話はスラムダンクばりに吹き出しもモノローグもない絵だけの話でした。その中で、斑目が学生生活に踏ん切りをつけたことを示すのが卒業式の最終話です。後輩の卒業式に駆けつけた斑目ですが私服です。休日に卒業式が行われたのかもしれないし有給を使ったのかもしれないけど、仕事を辞めたのかもしれません*7。そして、春日部とは会話するコマもありません。


オタクということは全く関係なく、キャンパスライフというひとつの青春時代を描く作品として、サークルと好きな子から卒業する斑目が一番それを体現しています。彼にとって行事としての卒業式は意味を持っていなかった。彼は自分の意思で卒業しなければならなかったわけです。荻上よりも笹原よりも誰よりも成長したのは斑目だったかもしれません。だからやはり斑目は必要な存在でした。


本当は荻上の過去話につっこんだりしようとしたんですが、野暮なことは抜きにして、斑目にしぼりました。とここまで書いたんですが、斑目はこうであって欲しいなという願望に基づいた分析なので斑目はこのままサークルから離れないかなあとも思います。でも彼の人生に幸あれ! 

*1:というかアレをアニメにしてどうにかなるのか。作者がかかわっていればいいというものなのか。くじアンってそんなに面白いもんか? 等々色々な意味で楽しみでもあります。

*2:ヌルいヌルくないの基準って何よ? と言われた単純になんとなくマンガやアニメが好きとかそれくらいのオタクと考えてください。入学前の笹原と同じ状態の人ということです。

*3:この作品には教師がいませんが

*4:世代によっては「究極超人あ〜る」よりもこちらが親和性が高いかもしれません。自分もこっちだと思います

*5:当たり前のことですが、彼一人だけが大学に遊びにきている状況です

*6:写植はモノローグと同じタイプで太いものであることから推測できます

*7:サークルからも春日部からも本当の意味で卒業してしまった斑目には大学から近い勤務先にいる意味がないですから。

第2回 「MONSTER」―2002年までの浦沢作品―


Monster (1) (ビッグコミックス)
作者:浦沢直樹
版元:小学館
連載:ビッグコミックオリジナル


ネタバレしてます。
消してしまった記事の再録です。
口調が違うのはまあスルーで。


さてまずは「MONSTER」です。まあ、それほどミステリーとして優れてるとは思わないんですよ。まず真相に近づく手段が、「誰かと出会う→助ける→情報を聞き出す」の繰り返しになっていて(それゆえ間延びもする。登場人物一人一人のエピソードを浦沢は丹念に描くから)、能動的にテンマが謎に近づいてる感覚が薄い(それを言い出せば、テンマが明らかに巻き込まれ型*1なのだが)。


テンマが真相に近づく手段は知ることではなく、多くの場合誰かに出会うことになっている。情報を得るために誰かに出会うのではなく、誰かに出会った結果情報を得る。些細な差だが、そこに話の間延び感がある。「困ってる人を助けた結果情報を得る」と「自分の欲しい情報を持っている人間を助けた結果情報を得る」では、困った人間を助ける人間の気持ちに差が出る。そして、後者ではなく前者を選ぶのはやはりテンマが善人だからではないか。下心を隠して相手に近づくにはテンマは余りにも心が白すぎる。


同時に図書館あたりまでは異様な存在と思えたヨハンも、実はただのトラウマボーイだったことに、もう21世紀なのにそれかと脱力した記憶がある。ヨハンは「ナチュラルボーン・モンスター」だと思って読んでいた読者も少なくなかったのではないか。途中までは、よく漫画に出てくるような「設定では感情の欠落してるけど、実際はただクールなだけのキャラ」ではなく、感情と同時にそれ以外の様々な何かが欠落した文字通りのモンスターだった。それが謎が解かれていくと、カリスマ性を備えてヒトラーに並ぶかぞれ以上の存在になりえたヨハンが、最後にやったことといえば街ひとつを混乱に陥れただけだった(ヨハンが完全なる自殺を遂げるためだったにせよ、物語としてはクライマックスなのでスケールの小ささは否めなかった)。


トラウマオチに関しては、早い段階で明かされていればまだよかった。トラウマが原因で人生をどれだけ狂わされたかを丹念に描けるから。だが、実際はヨハンが511キンダーハイムを壊滅させたエピソード等で、彼の怪物性を描いておきながら最後の最後でトラウマが原因としめている。考えて欲しい。ハンニバル・レクターの怪物性の原因がトラウマだと言われてどう思うだろうか*2。こうなった原因は多分、浦沢が徹底した悪を描けない(能力的な問題もあるかもしれないが、それ以上に性格的な問題で)からではないだろうか。


「怪物ヨハン」ではなく「人間ヨハン」として物語を終わらせるためには、世間と折り合いがつくような分かりやすい理由*3が必要だった。もちろん、そこに安心する読者もいるはずだ。京極夏彦の「魍魎の匣」で主人公の中善寺秋彦は「動機は、世間がその犯罪が何故行われたのか納得し安心するための方便だ」という感じに喝破するのだが、ヨハンに関しても似たようなことが言える。怪物だったはずのヨハンだが、そうなる原因はトラウマだったという分かりやすい構図を与えれば、得体の知れなさは払拭され共感が得られるし、ヨハンは怪物から人間に戻れる*4。それをあっさりやってしまうのが良くも悪くも、さらりと人情話を描いてしまう浦沢の淡白さであり、根っこが善人であることの現われかもしれない。


だが、ヨハンがなんのトラウマも理由もなく、突然完全なる自殺を求めて自分に関係する人間を死なせていくほうが不気味だったと思う。なんの理由もなく突然というものほど不気味なものはない。「終わりの風景を見せる」というのも、無邪気な悪意の発露ではなく、トラウマに関連しているのが惜しかった。ただ、そうするとテンマが関わる意味合いが薄れてしまうのかもしれないが。


その淡白さはテンマにも出ている。この作品は「殺人の容疑者になり、医者としての輝ける人生もドブに捨て逃亡者として生きていかざるを得ない男」の物語なのだ。にもかかわらずテンマがもがき苦しんだ記憶がない。それなりに苦しむが結構あっさりと逃亡者になることを自己承諾している。これが土田世紀あたりなら「違う。俺は、俺はやっちゃいねえ!」と魂の叫びでもするだろうし、新井英樹ならもっと業の深い逃亡者になっていただろう。テンマはそれなりの緊張感(検問でドキドキするなど)は見せるが、警官の母親を救うときなど実に堂々としたものだ。つまり、切迫感がない。自分がヨハンを殺すと決意するのも同様だ。そして精神的にも揺らがない。


それは他の作品の主人公にも言える。ジェドもキートンも柔も幸も精神的にはタフだし思いやりがあり(善人で)、それぞれの生きる世界での能力は天才的だ*5。完璧超人が主人公といってもいい。ある程度安心して見ていられる主人公のピンチ(これが結構大事だったりする)に、人間味のある部分も見せる悪役たち。確かに安心して読める形ではある。「YAWARA」は売れる漫画を描こうと思って描いたと発言した記憶があるが、基本的にどの作品も味付けは違っても売れる漫画だ。マスに好まれると言ってもいい。そこに職人性を感じるのだ。


BSマンガ夜話で「MASTER KAETON」が取り上げられた際、「8分の力で流している」だとか「ほらこうすれば面白いだろ。というのが感じられてやだ」だとか、前者はいしかわで後者は岡田が言っていたと思うが、そういう評価を受けていた。個人的にはどちらにも同意しない。むしろ、浦沢が今まで描いていなかったような全く異質なマンガをいつ描いてくれるのだ。ということの方を読者の勝手で言いたい。


そういう意味で浦沢は職人だ。クリエイティブな仕事だと思われる漫画家に対し、職人というと創造性がないと非難しているようだが、個人的には物凄く評価しているのだ。出す作品出す作品をきっちりヒットさせるが、世の中の流行(萌えだとかね)に流されるわけでもなく、文字通りのストーリー漫画を提供するというのに、職人性を見る。その職人性というのは安心感につながる。だから、自分自身「パイナップル・アーミー」も「MASTER KAETON」も買っているのだ。「MONSTER」について語りながら浦沢の問題点を挙げ続けただけのように見えるかもしれないが、実は結構好きなのだ。


なぜ「MONSTER」は枝葉のエピソードでだれても読み続けられるのかというと、やはりそのエピソード単体でみるととてもよくできているからだ。個人的には大学時代の友人だけでなく、テンマもカンニングしていたというエピソードなどとても好きだったりする。そのほかにもダンスパーティーやココアの話など記憶に残っている。特にグリマーの「超人シュナイダー」のエピソードとアル中探偵リヒャルトの悲劇など白眉だった。あれだけで物語が作れてしまう。だから、「MASTER KAETON」の方が「MONSTER」よりもいいというのはこの特性のためだ。

エピソード作りが上手い浦沢にはうってつけの作品で、役者でいうところの「ハマリ役」ならぬ「ハマリ漫画」だった。小さな物語を作るのは抜群に上手いのだ。「MONSTER」はミステリーとしてはとても優れているわけではないと思う。だが、何度か読み返しているのはよく出来たそれぞれのエピソードを読みたいからなのだ。ヨハン探しの旅をする中で様々な人間に出会い、その人生に触れていくのが面白い。


「MONSTER」は長すぎると言われるが、どこを削っても「MONSTER」足りえないのだ。過剰なボリュームで主要人物以外のエピソードが語られて、それによって成立している物語だからだ。原因は、テンマのキャラが無色透明に近いからだ。テンマが強烈な個性を持たないがゆえに、脇役のキャラが勝手に立つ。だが、無色透明なので脇役の色に染まることはない。それゆえ、淡々と様々な人物の人生に立ち会える。これが浦沢の計算であるにせよ無意識であるにせよ、日本人テンマによる「東ヨーロッパ人生巡りツアー」は成功だった。物静かで勤勉な日本人というステレオタイプな設定だったからこそ、逆にこの作品は成立したのではないか。もし本当に映画版を作るのなら、どうせ非日本人がテンマ役をやるのだろうが、自然と他人の人生に交わるテンマを描くことはできないと思うのだが。


20世紀少年」も「PLUTO」も完結すればまとめて買うだろう(「MONSTER」を見る限り枝葉が長いのでまとめ読み向きと判断して)。なんだかんだ不満を挙げてもやっぱり気になる作品を描いている。結局読む時点で浦沢の勝ちなのかもしれない。

*1:事件に能動的にかかわるのではなく、巻き込まれるタイプ。ミステリーでは無実の罪を着せられたり、過去の犯罪を見逃すために別の犯罪に加担させられたりなどがある

*2:現実は、猟奇殺人犯などを見ていくとトラウマが原因と思われるものも少なくない。ただ、物語の世界くらいトラウマから解放された怪物が見たいというのは高望みだろうか

*3:幼児が母親に捨てられる。それも双子の妹との選択の末捨てられる。という状況は分かりやすいと言える安っぽさは全くない。だが、物語としては分かりやすいと言わざるを得ない

*4:結局、この作品には怪物はいない。ヨハンを捨てた母親こそ怪物だったというのも少々苦しい。連載当時すでに車内に子供を置き去りにして死に至らせるパチンコ狂いの母親のニュースはあった。科学のために心売ったにせよ(なぜ母親がヨハンではなくニナを選んだかは分からなかったはず。単純に男なら一人でも大丈夫だろうと思ったのかもしれない)ヨハンの母親程度では怪物と言えない時代になってしまっている。安っぽい言い方になるがヨハンを生み出した狂気の時代そのものが怪物なのかもしれない

第1回 今のマンガを取り巻く状況


ずっとさぼっていたブログを1年近くぶりにリニューアルして再開しました。
「たまには真面目に考えてみよう」というタイトルで真面目に考えてみるのは、主にマンガのことです。マンガについてあーでもないこーでもないと考えるのは楽しい。それをまあここにアップして、奇特な方に読んでもらえたらと考えています。更新は大体週に1回か2回です。長文が多くなるでしょうがお付き合いください。


じゃあ、初回は何をということで、大上段に構えて「今のマンガを取り巻く状況――雑誌で読むか、単行本で読むか――」なんてものについて考えてみようと思います。まあ、結論は出ないことでもあります、事実出せていませんが(笑)。最初に言うと、単行本で読む流れは止まらないだろうと思います。


創出版から刊行されている「創」*1という雑誌は年に1回マンガ特集を組んでいます。最新号の特集タイトルはずばり「マンガはどこへ行く」です。荒川弘久米田康治の対談は非常に笑えるのでおすすめですが、ここでは「マンガはどこへ行く」という特集と同じタイトルの記事を参考にしながら話していこうと思います。


まず、出版物の市場規模自体、すでに右肩下がりです。マンガも同様で、全体の市場規模は縮小しています。ただ、2005年はエポックメイキングな年でした。ずっと単行本より雑誌が上回っていた推定販売金額*2が、2005年は単行本が上回ってしまいます。コミックスの推定販売金額は91年から見て過去最高にもかかわらずです。記事が指摘しているように、読者は雑誌を買わずに単行本を買っていることになります。登場する編集者(一編集者というよりは肩書きの立派な方々ばかりですが)はその状況に危機感を抱いています。


さて、以前とあるセミナーに参加し、大手出版社のお偉いさんの話を聞きました。彼は「自分のとこに入社する社員ですら、単行本は買っていても雑誌は買っていない」と嘆き、続けて「マンガ雑誌も文芸誌のように、雑誌は作家をつなぎとめる媒体となり、収益は単行本で上げるようになってしまった」という趣旨のことを話していました。この話を聞いたとき、単純に「やっぱり大手版元なんだな」と思ったわけです。他に金の使い道があるのに、読み飛ばす作品の含まれるマンガ雑誌を好き好んで買う若者がどれだけいると思っているのだろうと*3。そして、そういう状況に、決して少なくない数の大手未満の出版社が陥っているだろうと*4考えられます*5


マンガ雑誌には「読みたいマンガが3つあれば買う」という話があります。試しに「週刊少年ジャンプ」を1年間買う際のコストと、3ヶ月に1冊発売される単行本を年3タイトル買う際のコストを比較してみましょう。


240円×4週×12ヶ月=11520円
410円×3作品×年4回発売=4920円


つまり単純に好きな作品3作品だけを読むだけなら、単行本で買うコストは雑誌を講読するコストに比べ半額以下になるわけです。この数字はかなり重いです。ジャンプを年間購読する際のコストに釣り合いを取るためには、年4回発売される作品を7タイトル購入しなければなりません。今、一雑誌の単行本を7タイトル分購入している読者はどれだけいるでしょうか。自分自身のことを考えても、6タイトル購入している「アフタヌーン」が最多です。身も蓋もない言い方をすれば、目当ての作品だけを読むなら雑誌で買うより単行本で買う方が元が取れるわけです。


だけど、新連載や自分の知らなかったマンガに出会えるチャンスがあるじゃないか! というのも一理あります。でも、それは売り手、もしくはマンガ好きの理屈で、ちょっとマンガを読む読者にとっては、自分の読みたいもの興味があるものだけを買いたいわけです。だから、「NANA」の14巻が230万部売れているのに、掲載誌の「Cookie」は20.4万部なわけです。「Cookie」に興味はないけど「NANA」には興味がある、この状況が成り立つ雑誌は少なくないはずです。


その上、今はネットで「○○で始まった△△は面白いらしい」だけでなく「△△はこういうジャンルのマンガだ」ということまで簡単に知ることができます。情報を拾いやすくなった分、外れを引く可能性がある雑誌買いよりも、高い可能性で自分の好みに合う作品をチョイスできる単行本買いに移行していると言えます。そういう状況を後押しするのが、メディアミックスです。


今ドラマで放送している「クロサギ*6ですが、Amazonで調べてみると、一番売れているのが1巻で、次に売れているのが最新刊の9巻です(2巻、3巻、8巻と続いていきます)。これは明らかにドラマの影響です。内容的には女性受けしにくいものですが、主演が山下智久ということで、女性読者が増えていると言えるのもかもしれません。そして、ヤングサンデーが売れているという話も余り聞きません。


もうすでに、マンガ雑誌は文芸誌型の売り方に移行していると言えます。マンガと似たような状況にあるのがミステリーです。ミステリー雑誌は売れていません。その上、一部のベストセラー以外は初版1万部というのも珍しくなく、それを切る作品も多々あるでしょう。売れる作品はそれゆえマニア以外の読者にも読まれ、売れていない作品はマニアに支えられているといっても過言ではないでしょう。マンガもすでに状況的には似たようなものではないかと推測されます。ただ、マンガはミステリーよりも読者層が圧倒的に広いという違いはあるでしょうが。


そして、雑誌を売るか、単行本を売るかという観点で言えば、メディアミックスなどの効果から単行本の方が売りやすい。そのため、今後マンガ雑誌の版元はプロモーターとしての側面が重要視されることでしょう*7。ただ、なんでマンガがこれだけ海外にも輸出される(BLですら!)コンテンツになっているかといえば、それはマンガ市場のピラミッドが巨大な底辺を持っていることにより、多様性が生まれたためといえます。売れるものも欲しいけど、一般層には売れなくともマンガとして面白いものも欲しい。という市場の要求をどう処理していくか、そして、娯楽がこれだけ多様化した世の中で、マンガがどうやって現状を維持していくか。一読者として市場を眺めた場合、結構不安なわけです。


じゃあ、どうすりゃいいんだよ! という意見を持つ人も少なくないでしょう。結局のところ、面白い作品を作るしかないわけです。こちら側からすれば、面白い作品は買うわけですしね。マンガのライト層もつまらない作品を敢えて買うことはしないわけです。ただ、その面白い作品を作るだけでは立ち行かなくなっている現状もまた事実です。結局、打開策は出ないんですが、自分が子供の頃はマンガがこんな状況に陥るとは思っていなかっただけに、現状にはどこか寂しさがあります。そんな中で、自分が面白いと思ったマンガを取り上げることで、少しでも作品の読者が増えたらなと思ってここに書いていくつもりです。なんて、心にもない真面目なことを書いて終わりたいと思います。

*1:マンガ特集以外は、個人的に岡田×唐沢のコラム対談記事以外は特に読みたいもののない雑誌です

*2:出版科学研究所調べ

*3:それでも1号百万部以上売るマンガ雑誌が存在するのは凄いと思います

*4:コミックビームの売り上げは人づてに聞いた話だと数万部だそうです。個人的には「月の光」「銭」「機動旅団八福神」の単行本は買っていますが、雑誌は買っていません

*5:この辺りの状況に関しては、「銭」が詳しいです。

*6:ヤクザやアングラ関係のムックで見かけた夏原武氏が原作なのに、1巻を店頭で手に取ったとき少し驚きました

*7:この点は「創」三田紀房のインタビューやムック「KINO」の「Cookie」編集長のインタビューが詳しいです