本サイトへ帰ります

もともと「AnotherWork」という本サイトをやっていましたが、本サイトにブログを貼ることに成功したので、本サイトへ帰ることにします。いままで「はてなブログ」にはお世話になりました。ありがとうございました。

 本サイトのブログを見たい方は、http://www4.ocn.ne.jp/~sao/index.html へお願いします。(上部のサイドバーにBLOGページが追加されています。)

 ここから日常の小さなことをテーマに記事を配信中です。

ポメラ買いました

ポメラを買ってしまいました。ネットには接続できないし、画像も見られないけれど、ポメラの「シンプルさ」にほれてついつい購入。シグマリオンも使っていたけれど、あまりの電池のっもたなさに使わなくなっていました。ポメラは10時間、それも単四電池で動くので、とても安心です。
 実際使ってみた感想として、タイピング感がいいということ。ATOKの使い心地もとてもいい。キーボートは小さいので、少し慣れないとなかなか使えない感じがします。

森山大道 光と影

 一般的にモノクロームの写真は明暗のグラデーションが大切だとされている。カメラがとらえた光の明暗が滞りなく広がっている方が良い写真だと受け取られるのである。しかし、、森山大道の写真は、「明」と「暗」の部分のコントラストが異常なまでに高く、そして、描いているものと言えば、「明暗の広がり」ではなく、「明暗のショッキングなギャップ」なのである。そして、そんな彼の写真が今や、世界中の人たちを虜にしている。
 森山大道のような写真が現代社会に受け取られているのは、その派手な手法ではなく、彼の撮る、より「リアル」な世界の提示にあるのだろう。世界を知らぬままに照らし続ける「光」の所在は、私たちの生活に欠かせないものであると同時に、人間が存在するための根源的なものであると言える。私たちは心のどこかで絶えず、目に見えない「光」を追い求め続けている。その内在された欲望が、濃厚な影の中に浮かびあがる森山大道の「光」に重なるのである。
 今回の作品に収められている作品は、どれも「光」と「影」に焦点をあてて選ばれたものである。おそらく彼は意図的にこれらを撮ったのではなく、撮影した後に編集し直したのであろう。 撮影された家や、車、タイヤ、クツ、ジュースの瓶は、たしかに光と影の作る独特な世界を感じさせるが、それ以上に驚愕なのは、彼自身の異常なまでの物質的な飢餓感である。それは、人間のあらゆるものを所有したいという欲望のようだ。
 光と影のコントラストと大胆な構図がその欲望を生生しくとらえているところに、森山大道の写真の凄さがある。

エリオット=アーウィットの写真について

「エリオット=アーウィット」という名を初めて聴いたのはいったいいつ頃だったろうか。写真を撮るようになってから、高名な写真家の作品を見る機会がふえていったが、それでも彼の作品を間近で鑑賞することはなかった。

 写真集で見る限り、彼の作品はスナップの手本のようなものであった。肩に力を入れず街を徘徊し、目に留まったものを写し撮ってゆく。その中には、街の表情や人々の姿、偶然出会った決定的な瞬間がある。そういう意味では彼の作品はアート的というよりも、庶民的で人なつっこい面が多分に含まれているように感じられた。
 しかし、彼の写真の魅力はそれだけではない。彼の写真には私たち一人一人が温もりのようなものがある。
 一人の人間が生きるとき、ドラマティックな出来事がそれほどあるわけではない。感動を追い求めていても、平坦な日常が続くこともある。しかしそれでもなお私たちはちょっとした出来事に心を動かされるときもあれば、何気ない日常にぬくもりを感じることもある。何か人に語るほどのことではないが、それでも何か「いい」と感じられるもの。エリオット=アーウィットの写真には、その日常の中に中に埋もれてしまいがちなものをそっとすくいあげる「温もり」にあふれている。

Tokyoの話をしよう

東京から離れてふと感じるのは、自分が東京という街にいながら、東京のことを何も知り得ていないのではないかという不安だ。もちろん、東京に住み慣れれば慣れるほど、自分の行動範囲も広くなり、知り合いも増えていく。しかしそれでもなお、どこからか「自分の知っている東京はほんの一部なのでないだろうか」という思いが沸き上がってくる。

 東京とはいったい何なのだろうか?そんな思いが僕を写真へとかりたてる。東京の名もない街角に、あるいはふとたたずむ人の姿に僕はレンズを向ける。たとえそこにあるものが価値のないものであったとしても、それは紛れもなく東京という街の一部なのだ。それが一部であるゆえに、少なくともそれは僕を安堵させる。しかし、その安堵はほんのつかの間だ。しばらくすると再び自分の中に不安が舞い戻ってくる。

 いつしか僕は東京を巨大な身体であるように感じるようになった。自らの身体を拡張したいという個人の欲望を、東京の街は吸い上げてしまうのだろうか。ひとたび飲み込まれた魂は東京の街から離れようとはしなくなる。

 東京の街は他の街よりも便利だから、仕事があるから、知り合いがいるから、理由はいろいろとつけられるけれど、自分が東京の街から出ようとしないのは、東京という巨大な身体を持ったがためなのだ。

旅日記2

anotherwork2008-08-08

函館駅前より6系統のバスを乗り、湯の浜で降りる。天気がよかったせいか海岸では海水浴を楽しむ人で賑わっていた。そのまま海岸をまっすぐ歩き、根崎公園から湯の川へ。。前回来たときの大がかりな道路工事はすでに終了しており、すっかり様変わりした光景に愕然とする。その後、再び根崎を目指し、湯の川小学校へ。グランドにはめずらしく野球少年たちが練習にはげんでいた。
 根崎を目的はただ一つ。海岸で働く猟師たちとその生活の場である風景を収めるためだ。前回の撮影時では時間も余裕もなく撮ることはできなかったが、今回はぜひ撮りたいと以前から思っていた。決して有名な場所ではないが、ここは自分が幼い頃から慣れ親しんでいた海があり、同級生たちの家もある。その点で思い入れの強い場所なのである。
海岸沿いを歩くと、猟師たちの家が続く。敷地には一面に干された海草がほされ、大きな浮きがいくつも連なるようにして置かれていた。かなり奥まで歩くと、海沿いで漁師たちが干していた海草を運んでいた。彼らは家族なのであろうか。五,六人で手分けして海草を運んでいた。ちょうど日が暮れだしていたが、それでもかまわずシャッターを数枚切った。彼らの背後には果てしのない海が広がり、そしてその後ろには函館山がぼんやりと見えていた。

旅日記1

anotherwork2008-08-07

午前7時2分上野発の「はやて1号」にて函館へ。予約は前日午後1130ごろ、JRのサイト「えきねっと」にて行う。どうやらJRは混雑しているようで、「八戸〜函館行きのスーパー白鳥」は自由席しかとれなかった。8日、家を出たのは午前5時50分ほど。上野駅に到着したときには6時30分ほどだった。切符を受け取るのに5分間ほどかかり、無事に「はやて1号」に乗り込む。新幹線のグリーン車なのだが、なかなか広々としており、よい感じである。驚いたのは、PHSの通信機能でメールが送れたこと。ウィルコムの通信技術は新幹線の中からも可能なほどハイレベルだった。

10:03に予定通り八戸へ到着。急いで席を確保しようとするが、時すでに遅し。超満員のため、なんと立ちっぱなし。
なんとか隙間に入り込み、荷物置きのミニテーブルに腰を降ろす。これに座れなかったら、本当に地獄であった。ところが青森に到着するやいなや、混雑は解消。どうやら函館行きの人は少ないらしく、八戸から青森までが混んでいるようである。もしかしてこうした状況は帰りもいっしょなのかもしれない。

13:14予定通り函館へ到着。コインロッカーの小銭がなく、少々まごついたが、なんとか荷物をコインロッカーへ。これよりバスに乗り込み、撮影を開始する。