「王様は裸だ」

「KY」という言葉が流行しているらしい。どこで発生したのか、誰が(その「誰か」が存在するとするなら)流行らせようとしているのか、ということはわからないが、少なくともここ数ヶ月で実に頻繁に聞くようになった。「空気が読めない」の略語であるという。


「空気が読めない」ということには大きく分けて二種類の意味、というか用法があると思う。それらはきっちり分けなければならない。仮に「KY」という言葉を辞書に載せるならば(おぞましい仮定だが)、「1.――――。2.――――。」とされなければならない。
一つの用法とは、卑近な領域においての「空気の読めなさ」について。たとえば、数名の仲間内にカップルがいて、二人が最近距離を置いているのは周知の事実であるのに、二人の仲をひやかすような冗談を言うとか、そういうことだろう。
もう一つの用法とは、もっと社会的な「空気の読めなさ」。たとえば、光市母子殺害事件弁護団への擁護論を、その批判の急先鋒とも言うべきテレビ番組に出演して披露するとか。日本シリーズでの完全試合という大記録がかかっている投手を最終回に交替させて、抑えのエースに投げさせるとか。


これらの間で何が異なっているのか。
前者は、後者に比するならばという条件付きかもしれないが、少なくともその「空気」をかもし出す主体がまだ良く見えている。なにせ「卑近」だからだ。それに対して、後者はそれが見えない。なるほど、空気をかもし出す主体として「世間」などという言葉を当てはめることは出来るだろう。しかし、それは一体何なのか。具体的に誰なのか。誰が主体的責任を負うのか。


僕の感情としては、前者に関しては、「KYな人」を批判されてしかるべきだと感じる部分もある。しかし、後者に関してはそれが無い。なぜならば、前者の場合は、「斟酌」とか「思いやり」という言葉を、「空気を読む」という言葉と交換することが可能な場合が多いからだ。だが、後者に関しては、恐らくは全てのケースにおいて、それが不可能である。不可能というか、適切ではない。


後者では、何かしらの倫理的な要因が「空気」を作り出しているという面が小さい。絶対的な何かではなく、「多くの人が何を期待するか」ということがすなわち「空気」である。前者ではそれが、「多くの人が何を正しいとするか」となるのではないか。


表現力が足りない。いまいちきちんと表現できた気がしないのだが、ともかくこの「後者」を問題としたい。


やはり「KY」という言葉が流行する背景には多くのメディアの力があるのだろうが、マスメディアがいとも簡単に「KY」という言葉を受容してしまうという情況そのものに、かなり絶望的な気分になる。そんな言葉を臆面も無く使っていて、「権力を監視することが自らの使命」などとは口が裂けても言えないことと思う。「空気を読め」とは、つまり「王様は裸だ」と言ってはいけないということなのだから。

しばしばテレビで見かけるある漫画家が、前述したプロ野球監督の采配(まあ、山井投手を交替させた落合監督のことだが)を評して「空気が読めない采配」と断じていた。つまり彼はその瞬間、風刺漫画家としての自らの立場を捨て去ったということだろう。「空気を読んだ風刺」など、僕には想像できない。
漫画家でも弁護士でも、テレビに頻繁に出演するようになると途端に「世間の空気」を崇め奉ることになってしまうというのはなんとも滑稽であり、不気味でもある。


加えて言うならば、ネット上の言説空間に「自由」など無いといいたい。「ある程度の自由度」はあるだろうけれども。
一見自由奔放に見えるその匿名の書き込みは、他者の存在を視界に入れていないからそう見えるだけのことだ。人類が消え去った一人きりの地球上で「俺は自由だ」と叫んでいるようなものだ。その様の、なんと滑稽で虚しいことか。


空気を読まなければ「炎上」してしまうような空間に、「自由」などがあるものか。

「できちゃった結婚」という言葉

はてなキーワード」によると、この言葉は以下のように定義されるらしい。

妊娠してからする結婚のこと。
最近では「ママリッジ」とも言うらしい。
アメリカでは「ショットガン・マリッジ」。
類語:できちゃった婚、できちゃった、中出し婚

あまりよくわからない。だいたい「言うらしい」とはなんたることか。情報量が少ない。といいつつ、編集するつもりなど無いけど。
そこで、Wikipediaに情報を求めてみる。「できちゃった結婚」-Wikipedia。ふむふむ。言葉が発生してきた経緯を含め、結構わかりやすい。


で、非常に個人的な印象ではあるが、「できちゃった結婚」という言葉には多分にマイナスのイメージが込められていると思う。軽薄、思慮の浅さ、というようなニュアンスが多分に含まれている。「〜ちゃった」という日本語を使っているところにそれが表れているだろう。

しかし、多くの「時の洗礼を十分に受けていない」用語に言えることであるのだが、この言葉も「その言葉がどのような意味を持つのか」が十分に考慮されないままに使われることが多い。今や、基本的に結婚以前の段階で妊娠していればそれは全て「できちゃった結婚」とされる。その際そこにどのような思慮があったのか(あるいは無かったのか)、当事者たる二人はどのような未来図を描いていたのか(あるいは描いていなかったのか)、そういったことがらは全て無視される。芸能人の妊娠・結婚が報道される際、スポーツ新聞などでない一般の新聞も、今やこぞって「できちゃった結婚」という言葉を使う。

もちろん、「どんな考えがあったにしろ、『婚前交渉→妊娠→結婚』というのは全てふしだらで軽薄な行為であり、『できちゃった結婚』という言葉が含むニュアンスそのままを当てはめられてしかるべきだ」という考え方も一つの態度だろう。

だけど、たとえば入籍をせずに事実婚状態で結婚生活を営むといった形式も今や社会に受け入れられつつあるし、「婚前交渉=ふしだら」という、日本的価値観に照らして大雑把に言えば「古い」考え方(この文脈では、これを否定しているわけでは無い)は大勢を占めなくなってきている、と感じる。「感じる」とかいう曖昧な表現で不足があるなら、たしか少し前に東京地裁判例で「非嫡出子」に関する画期的なものがあったと思うのだけど、それを引き合いに出すことも出来る。「非嫡出子」を「嫡出子」と同じく「長男」「長女」のように戸籍に記すべしという内容である。「嫡出子」と「非嫡出子」の間の差別問題に一石を投じた、画期的な判断であったと思う。


まあ「親の意識」の問題と「生まれてきた子供が被る差別」の問題というのは別ではあるのだが、大雑把に見て、やはり婚姻・妊娠・出産をめぐる日本社会におけるリスペクタビリティというのはかなりフランクな方向に転換してきている、と思う。そんな中で、婚前妊娠への「できちゃった結婚」という言葉によるネガティヴなレッテル貼りというのは完全に逆行していて、不思議なねじれ現象であるなあ、と感じる。


ここで、この呟きは唐突に半ば暴論風に幕を閉じるのだが、「できちゃった結婚」が大々的に取り上げられるのは芸能人の結婚に関してである。この場合の「ねじれ現象」には芸能人に対する「チャラチャラしやがって」というやっかみをどうしても感じる。頑固一徹な倫理観というものは感じられないのである。完全に印象論で説得力の欠片も無いのだが(苦笑)、絶対そうだ。そうでなければ、このねじれ現象の説明がつかない。どう考えても、友達とか近しい人の「妊娠結婚」に対する一般的な態度と完全な乖離があるのだ。特に(僕も含めた)若い世代に関して。


だけど、プライヴェートな恋愛すら何か悪いことをしたかのごとく「スキャンダル」として取り上げられる芸能人という立場の人々は、結婚の際に妊娠という既成事実を作ってしまうことが必要だったりもするのではないだろうか、と思う。もちろん妊娠を手段としてしまうことはけしからんことなのだけど、そうではなくて、「二人は一生を共にしようと既に決意していて、普通なら妊娠する遥か前に結婚していたはずなのに、芸能人だからそれが出来ず、妊娠という事実の重みを添えた上でようやく結婚にこぎつけた」という場合だってあるのだと思う。そんな場合の妊娠は「できちゃった」と呼べるような妊娠なのだろうか。そんな言い方は、それこそ生命を軽く見た浅はかな態度と言えるのじゃないかと思うのである。



大好きな飯田圭織さんの妊娠・結婚という報を受けて、久々に更新してみました。
もう一方のヲタブログに詳しく書いたのだけど、心から祝福したいと思います。

亀田興毅が王座獲得

良い試合だったと思う。真っ向から打ちに行く若い亀田に対して、経験豊富なランダエタは巧みに攻撃を受け流し、高いテクニックで反撃を打ち込む。1Rにいきなり亀田がダウンしたことには驚いたが、やはりその後の闘いを見ても亀田は劣勢だった。世界戦ともなるとやはり今までのようにはいかないのだと実感する。

しかし亀田の精神力は凄かったと思う。初の世界戦でいきなりダウンを取られるという状況。以前から、あのビッグマウスの裏にある冷静さ・したたかな戦略は感じていた。彼の奥底にあるものは、メディアが創り上げた薄っぺらい狂騒の中に取り込まれてなどいないだろうと思う。インタヴューの受け答えなどを見ても、自分の置かれる状況をごく冷静に認識していたのではないか。

そんな彼はやはり、もともと感じていたものに加えてさらに相当のプレッシャーをあのダウンで感じたことだろうと思う。しかしそんな中でも最後まで冷静に・熱く闘い抜いた。自分より年下の男があのような勝負を見せてくれたという点にも感心した。

そして勝負は判定へ。僕はそれでもやはりランダエタの勝利だろうと感じていた。しかし亀田の勝利。「疑惑の判定」と言われても仕方あるまい。既に、メディアの中にも判定の不可解さを指摘する記事が見られる。そして多くのネットにおける発言者は大騒ぎだ。やれ八百長だ、インチキだ。そしてそれは亀田の人格への攻撃にまで至る。


もちろん僕も、あの判定の背後にある様々なしがらみ、汚い思惑は感じる。だが同時に亀田のことを、当事者でありながらそのようなことを感じられないほどの馬鹿者だとは思わない。亀田という一ボクシング選手とそのようなしがらみは切り離して考えたい。

「世間をなめるな」などとのたまい、その実まったく冷静な捉え方をせずに、亀田のパフォーマンス等に対して感じる感情を「正当化」するために判定の不可解さを利用する者もいる。なるほど、「世間様」とはずいぶん賢くていらっしゃる。


僕は「世間」を構成する一人なのだという責任は忘れることなく、しかし「世間」などというものに帰属意識を持ったりその権威に虎の威を借るようなことはせずに、一個人として発言したいと思う。そして、「今日の試合そのもの」に対して思うことは、やはり単純極まりない以下のことだ。


ランダエタ・亀田両選手、良い試合をありがとう。できることなら、再戦が見たい。

「白か、黒か」?

ネット上に言説を垂れ流す際の「御作法」としては、とりあえず自分の立場をわかりやすく決め付け、規定しなければならないようだ。右か、左か。賛成か、反対か。


今日、山口県光市の母子殺害事件の最高裁判決が出た。判例主義の問題等、様々な論点があるようだが、恥ずかしながら勉強不足の僕には、ごくごく基本的なことしか解らない。ただ、とにかく最も重要な論点となっているのは、死刑のことだ。犯行当時少年だった被告への死刑判決。無期懲役の判決を最高裁が差し戻したということで、死刑になる公算が高いと言われているようだが、どうなるのだろうか。

さて、このようなことを語る際には、まず死刑制度に対して賛成なのか反対なのかをはっきりさせなくてはならないのだろう。しかし僕は恥をしのんで言いたい。僕は賛成なのか反対なのかを、自分の中ではっきりさせることがいまだに出来ていない。

ただ一つ思うこと。「遺族感情を考えれば〜」という、一部の死刑賛成論者の安易な言い方には違和感を感じる*1。遺族感情って、そんなに簡単に理解できるものなのだろうか。僕はそうは思わない。今回の事件でも、被害者の母子の夫(父)の悲痛な叫びを見れば、もちろん胸に突き刺さるものがある。涙さえ流れそうになる。それは人として自然なシンパシーの発露だろう。だけど、それをもって「遺族感情がわかる」などとは、僕には口が裂けても言えない。

冷たい言い方と取られるかもしれないし、語弊を呼ぶかもしれないが、「凄惨な事件が起こった。幸いながら、僕は被害者ではない(そして加害者でもない)」というのが、自らの立場について考えた場合の正直な気持ちだ。実際、関わりの無い全ての人はそうだろうと思う。正義ヅラをしたい者はするがいい、だけど僕には、どうひっくり返ってもそれ以上の認識ができない。

これは、決して無関心というわけではない。第三者である者は、第三者としてきちんと考えねばならないということだ。安易に被害者に(加害者に、という場合もあるのだろうか…)「感情移入もどき」をして、半ばストレス発散のようにして何かを叫ぶのではなく、第三者という立場だからこそできるとらえ方でとらえ、考え方で考える。それが私たち「幸運な者たち」が社会に対してすべきことなのではないか、と思うのだ。


それに則って考えているのだが、しかし、僕にはまだ色々なことがわからない。「色々なことがわかっていない(勉強しなければならない)」ということへの認識があるだけ、ある種の人々よりは随分マシだと思っているのだが、何のなぐさめにもなるまい、とも思う。もっと頭を、心を働かせなければならない。

*1:安易でない意見も多くありますよ、もちろん。念のため

エンジョイ・スポーツ

僕はスポーツ観戦が好きで、結構何でも見る。サッカーや野球だってもちろん見る。

幼い時分などは、テレビの中でスポーツをしている「プロのひとたち」は我々普通の人間とは全く違う世界の人たちなのだろうと思っていた。だが、少し成長してからそうではないということに気付いた。彼らだってナーヴァスにもなるし、精神状態によってプレーが著しく変化する。というより、「一流」と呼ばれるような人々の闘いは、多分9割以上は精神的な部分にあるのだろうとすら思う。「力を出し切れば勝てる」のだ。問題は「如何に力を出し切るか」。緊張、焦り、興奮、そういった様々な感情の動きを飲み込んでパフォーマンスを発揮し、勝負を賭ける姿は美しい。それに気付いたとき、スポーツ観戦は僕にとってより一層面白いものとなった。

スポーツ選手に「同じ人間なのだ」ということを感じさせてくれたのは、以前にも書いたことだが、幼い頃ジャイアンツの練習場を見学に行ったときに気さくに接してくれた原辰徳だ。良くも悪くも、情にもろかった巨人軍の4番。その原が率いる、つまり僕が応援するジャイアンツは、目下ドン底状態。ついに8連敗だ。我慢強く観戦していてよくわかるが、如何に主軸が怪我をしていても、そんなに負けまくるほど戦力が落ちているわけではない。具体的なことは言えないけれど、精神的に「負けモード」になってしまっているのだ。決して勝負を投げているわけではないのに、プロならば当然のように出来そうなプレーができない。

だけど「プロだから出来て当然」ではないのだ。その「出来て当然」と思われがちなことを、如何にきっちり達成するか。その過程、精神の戦いに、人間同士が技を競う醍醐味があるのだ。「出来て当然」という前提でスポーツを観てしまったら、観戦の醍醐味は半減どころか、9割以上無くなってしまうだろう、というのが僕の考えだ。

戦術を知ることももちろん大切だ。だが、僕にとってそれは、「その瞬間、選手の脳裏に何がよぎっているのか」「その刹那、どのような決断がどのような覚悟で行われたのか」をイメージするための材料に過ぎない。具体的に言えば、「1点を追う9回裏、1アウトランナー1塁・3ボール1ストライクで内角低めの速いストレートを振り抜くとき、そこにはどんな決断が存在するか?」とか、そのようなことに思いを馳せたいのだ。僕にとっての問題は例えば「何故高原はあそこで思い切ってシュートに行けなかったのか!?」だ。「あそこで打たなかったのはFWとして失格だ」なんて切り捨てたら、そこで終わってしまう。別に高原を擁護するわけではないけれど(だって、「打ってくれよ!」と思うからそういう疑問が沸くのだし)。


スポーツの楽しみ方は数あろうけれど、僕はこのような楽しみ方をオススメしたい。例えば世界的な大会が行われて、それがただのスポーツ大会の域を超えてある種の社会現象を呼び、それにある種の反撥心を呼び起こされたとしても、そんなこととは無関係に目の前にある比類なき精神の駆け引きを楽しむことができるわけだしね。

「ストップ・ザ」の謎

家の近所を歩いていて、よくある「地域のスローガン」的なポスターを見かけた。そこにはこのように書いてあった。


ストップ・ザ・火事!


火事を出さないように火の始末には注意しましょう、ということはわかるのだが、それにしてもこのスローガンはなんとも気持ちが悪い。なんだ、この「ザ」は?

"the"とか"a"とかの使用法については、多くの英語学習者が悩まされた経験を持つところだと思う。僕ももちろん類に漏れることなく、中学・高校の頃にきっちりと間違いまくった記憶がある。しかしそのお陰様で、一般的な"the"の用法はほぼ正確に理解できている……と思う。ごくごく簡単に言えば「その/あの/例の/唯一(の集団)に決めることができる」という認識で、大ハズレは無いだろう。

そこで、「ストップ・ザ・火事」である。なんだか、「例のあの火事」だけを阻止すればいいような気がしてくる。他の家が火事になろうとどうでもいいのだ。とにかく、あの火事だけは絶対に阻止しなければ!!


英語を学び始めてから10年以上になる。日本では、一般的には中学生から英語教育が為されるわけで、僕の英語歴は初心者の部類に入るだろう。しかし、そんな初心者すらこれには違和感を覚える。

どうも、「ストップ・ザ」というのが一種の熟語になっているように思う。試しに「ストップザ」でググってみた。中には正しい用法のものもあるが、全体的にはなかなかの眺めだ。「ストップ・ザ・暴走族」などというのもある。「暴走族そのものはどうでもいいから、とにかく毎日うちの前を爆走していくあいつらだけをなんとかしてくれ!!」なるほど、正直でよろしい。

そういえば、さらに凄まじいものになると、「STOP THE KOIZUMI」というスローガンがあった。固有名詞につけるというあたりに、強烈なインパクトを感じたものだ。


ただの揚げ足取りで終わるわけにはいかないので、僕なりの考察をしてみたい。結論から言えば、恐らく英語の"the"と日本語の「ザ」は異なるのだ。

まだ英語を学習する前の幼い日の僕にも、「ザ」なる謎のコトバはインプットされていた。そして実際に使っていたように思う。ここでは、それが文法的に正しかったかどうかが問題なのではなく、僕が色々な文脈から学び取った「ザ」はどのように使われていたのかが問題なのだ。そこで、少し記憶をたどってみる。僕は「ザ」をどのように使っていただろう。

そこで思い出すのは、幼稚園のときの同級生Tのことだ。彼はいつも威張っている同級生Kの腰巾着のような奴で、僕は彼のことが気に食わなかった。そのTが、ある日ウ●コをもらしたのだ。僕はどうするか。当然、からかって馬鹿にしまくる。なんといっても幼稚園の子供。ウン●大好きである。僕が大喜びで彼につけた不名誉なニックネームは、こうだ。


ザ・ウ●コ


強烈である。今思い出しても、あまりにも強烈である。ウ●コ大好きな子供たちは、その言葉が口に出されるたびに笑い転げていた*1。その笑いを誘発するにあたって、やはりこの「ザ」は重要な役割を果たしていたように思う。

これをふまえて、僕の独断と偏見に基づいた感覚的な結論を。日本語の「ザ」は、ズバリ「効果音」なのである。「ジャジャーーーン!!」とかいう、効果音。しかも、どのような効果音にも適応できるのがミソである。

例えば、上記の例で言えば、間違いなく「ザ」は「ぶりぶりぶりぶりっ!」という効果音を代弁*2していたはずだ。「ザ・火事」の場合は「ボォォォォオオオッ!」という感じか。恐らく「ザ・小泉」ともなると「ゴゴゴゴゴゴゴ……!」的な、「どくさいしゃ こいずみ が あらわれた!」(ドラクエ風)という感じだろうか*3

ただ、この用法のためには、やはり「ザ」とカタカナで書いてあることが必要だ。「STOP THE KOIZUMI」とかだと、僕としては「単純に文法ミスをしてしまった」ような印象を受けてしまう。なにより、これでは効果音が聞こえてこないではないか。


「日本語の『ザ』は効果音である説」はどうだっただろうか。僕としては、アホらしくもありながら、結構的を射ているのではないか、と思っている。だけど、やはりしょーもないエントリである。口直しにというのも失礼な言い方で恐縮だが、色々と調べているうちに関連する事柄についてプロの翻訳者の方が書かれたエントリを見つけたので、参照されたい。この次のエントリも含め、大変勉強になった。


最後に。本エントリにおいては、心ならずも大変お下品な言葉が飛び交ってしまったことについて、お詫びいたします。でもちょっと楽しかった。はっはっは、いつまで経ってもガキだなあ。ウ●コ〜〜!!

*1:親分であるKも笑い転げていたのは気の毒だった

*2:「大便」とかかってますね。わざとじゃないです(笑)

*3:僕の政治的思想とは無関係です、念のため