装飾について その3 *3/21画像の一部を変更

John Ruskin

 モリスにとって工芸美術は、自然の尊重、素材の知識、技術の知識、生活への知識、文化や歴史への知識を活用することで生み出されるべきものである。美を事物の生成に必要な時間*1の遵守によって裏付けること、それこそが、利潤を最優先に計算された労働に対し抵抗する美術工芸、労働のあるべき姿である。モリスは、自分たちの売り出した壁紙がセンスのない使われ方をされていることに落胆させられていたようであるが、問題は制作に注がれた道徳、美術、形而上的なるもの、なのである。それが、モリスの言う日用品を芸術にすること、すなわち「豊かさ」の価値である。
 モリスの手がけた「美術」とはおもに装飾(被覆装飾)である。用いられる染料や素材の選択および制作技術において、それがモノとして正しく作られる必要はもちろんだが、装飾としての機能の上でもまた正しくあらねばならない、とされる。壁紙であれ絨毯であれ、それぞれ事物の用途、用いられる環境に応じて、装飾の全体が構想されるのでなければならない。たとえば壁紙に用いられる色彩の色合いや強度、パターンの有り様、色彩が生む運動の有り様などなどは、室内空間の目的や装飾の視覚的効果を視野に据えて構成されている。*2ちなみに、モリス商会の家具には装飾を施していないモノも多い。カーヴィングやニス塗装のみで美しく仕上げてあったりする。こうした事物が示しているのは、美術と工芸が不可分であるということであろう。カーヴィング(取り扱いや強度を目的とする)やニス塗装(資材の保護を目的とする)といった表面加工は事物としての機能にもとづく工芸でもあり、同時に触覚や視覚などの感覚に訴える美術でもある。道具は単一の「用」から成ってはいるわけではない。様々な「用」から成っている。機能の相対的な自律性*3はあっても、そこに「工芸か美術か」というような矛盾や対立があるわけではない。
 さて、ここまではいずれにせよ機能が問題であった。だが、彼にとって装飾は既存の機能に仕えるだけではない。装飾とは知と技術による構築物のことであり、人々の心に憧憬の念をかきたてるような何かであろうとするものだった。イマココではない、どこか別の場所へと。彼はこうした脱出・脱自の感覚を、「宗教」と呼ぶ。モリスにとってそれは神ではなく自然への愛を意味しているが、しかし、理想社会を念頭に置いて言われるのであるから、やはり形而上的なるものである。装飾は外部への視線(外ヅラ)に向けられるべきではなく、使用者の内面へと向けられるべきなのである。では、そうした装飾が理想社会への憧憬であることは、デザインにおいて、どのようにして示されるのか。このことは、ゴシックリヴァイバルの気運に乗って各地で活発化した古建築の改修に対するモリスの抗議活動が、端的に示しているように思われる。自身装飾家であったモリスであるが、ここでは、技芸とマテリアル(物質)への抑圧という意味において「装飾」を批判してもいる。古建築には、我々が失ってしまった、いまだ我々には理解し切れていないような技術と知恵がある。ゆえに、建築の外形のみ(内装の見かけのみ)を修復するという名目でこれを破壊するようなことはしてはならない、というのが彼の主旨である。つまり、外ヅラ・ハリボテ批判である。研究者であり技術者でもあったモリスは、なんの検証もなしに古くからの技術が今日もそのまま存続しているなどとハナから信じることはなかった。
 モリスにとってはもろもろの技術こそ「民衆」であるが、しかし、「民衆」はたとえば「民族精神」に代表されるような観念的連続性を保証されておらず、そこに切断のあることが認識されている。学ぶべきものをいまだワガモノにしていないという認識があるからこそ、モリスは様々な民族の、様々な時代の技術を貪欲に学んだのだと言える。モリスがユートピアとして思い描いた生活は中世ばかりではなかったが、そうした〈技術=民衆〉がモリスの美意識と哲学を通過して今日の事物として現れることによって、装飾が、脱自であると同時に開示であるような、理想社会への憧憬であることは示される。彼の言う「美術」すなわち「芸術」としての「楽しい労働」には、こうした含意がある。
 多くの場合、モリスは花や草、果物、鳥などを装飾に取り入れた。モチーフとしては珍しくないばかりか当時にあってさえよく用いられたなものであるが、しかし、彼が描こうとしたのは、たとえば藪をすり抜けてゆく感覚や、花と蔦の絡まった壁、寝ころべそうな野原、鳥のさえずる森、というような、身体的に感じ取られるような自然の風景であったところに特筆すべき点がある。用いられるモチーフはそうした風景を構成する特異点(似顔絵を描くときに思い浮かべる特徴のようなもの)として選ばれる。個々のモチーフは写生から描き起こされ、線描を活かしつつモチーフの特徴あるヴォリュームを捉え、複合的な幾何形体によって分析され構成の補助線を与えられることで、装飾構成として使い得る模様として形成される。(図1)




 彼の装飾デザインは、二層から三層の交差し重なり合うレイヤーによって構成されており、色彩によって厚みと浅い奥行きが与えられている。パターン構成のラインが生む枠にモチーフをはめ込んでゆくのではなく、一つの模様が複数の構成ライン(ゲシュタルト)に参加し、さまざまな構成ラインをモチーフ同士の結びつきによって生みだすことに、力が注がれる。(ゆえに視線の運動は際限なく次々と続いてゆく。)*4一つ二つと模様が数えられるようなデザインはダメ、と、モリスは言っていたらしい。モリスによれば自然を直接持ち込むわけではない室内装飾にとって、そこに無限の連続と広がりを与えることが重要であり、ゆえに区分けされたマス目に模様(形態)が行儀良く配置されるだけの装飾は否定されるべきものであった。
 以下、「イーヴンロード」(1883)と名付けられたテキスタイル用のデザインを例にとって、構成の手順を再現してみよう。(図2)


1 まずパターンを反復するためのおおまかなガイドの枠を作る。


2 隣接した5マスを使って、主要な2つのモチーフを上下左右対称に配置する。内3つを、S字のラインで結ぶ。主要なモチーフと結びつけるよう、サブのモチーフを配置する。これらが全体の基本的な骨組みになる。


3 2で作ったラインによって分割される部分を、上下左右の関係(置かれる位置によって、モチーフ間の結びつきが生む運動・構成のラインが異なる)を同時に考慮しつつ、複数の模様による流れと収束を中心に描き進める。

*5


 美術史家のゴンブリッチ*6の『装飾芸術論』*7には、動物において、いかにして装飾が発生するかについて触れている箇所がある。なんと書いてあるかと言うと、動物における装飾活動の発生はさえずり、歌声にある、というようなことが書いてある。鳥の歌声はチャンネル(固有の周波数)を占有することで世界に溢れる音を制しつつ、同種間での特別な合図を可能にする。壁に心を繋ぎ留めるための歌声、他者への呼びかけ、それがモリスの「美術」である。(おわり)

*1:自然および物質の理、技芸および機能の理

*2: 杉山真魚による研究論文、『ウィリアム・モリスの生活芸術思想に関する建築論的研究』が、モリスに関する優れたレポートである。http://bit.ly/yXvaVw

*3:諸々の認識のあり方を主宰する形式の差異。

*4:いわゆる「平面充填」。Wikiによる以下のリンクを参照 → http://ja.wikipedia.org/wiki/平面充填

*5:装飾研究家のクライブ・ウェインライトはモリスのデザインについて懐疑的であり、彼の仕事はオーウェン(Owen Jones 1809 〜 1874)やピュージン(Augustus Welby Northmore Pugin 1812〜1852)に比べて何ら秀でたものではない、としている。(前掲書『ウィリアム・モリス』リンダ・パリー編に所収。)モリスがオーウェンによる装飾に関する教科書を所持していたことはよく知られており、また、オーウェンとピュージンについてはそれぞれの功績があり装飾デザインにおいてのみ比較するのは公平を欠くが、モリスと彼らの違いは、構成の違いにある。オーウェンにせよピュージンにせよ、彼らのデザインは、基本的には導線でもある主役のラインが生む空白をモチーフで埋めるという、シンプルな階層化によってパターンを作り出す。

*6:Ernst Hans Josef Gombrich; 1909〜 2001

*7:白石和也訳 岩崎美術社

装飾について その2

argfm2012-03-12

 大学を出て23歳の1856年、モリスは建築家ジョージ・エドモンド・ストリートの事務所に就職。ここで建築とプロダクトデザインへの情熱を授かるもわずか9ヶ月で退社したのち、しばらくぶらぶらしていたらしい。ぶらぶらしている間に友人のロセッティ*1らと共に壁画の仕事をしたり、自作の椅子や絵画などに取り組んだりしている。25歳の1859年、無職のままジェーン・バーディン*2と結婚。事務所で知り合って以来の友人フィリップ・ウェッブ*3とともに、自邸(「レッドハウス」)を建てる。ヨーロッパの「中流」とはこういうことなのであろう。いろいろな職種の友人達、すなわち、画家のロセッティとジョーンズ*4、建築家&プロダクトデザイナーのウェッブその他らが集まり、プータローモリスとともに新婚ほやほやモリス邸の内装を行った。レベルは高いが学園祭のようなノリの、いや、これこそ正しく文化祭と呼ぶべき行為なのかもしれないがそれはともかく、このとき集まったメンバーが中心になって「モリス商会」*5が設立される。「商会」は冗談でつけたらしい。ちなみに、モリスとその妻ジェーン、ロセッティの二男一女は、その後、モリスがジェーンとロセッティの関係を認めつつ友人でもあり続けるという(公には黙していたらしい)“前衛的な”三角関係に陥る。立ち上げといいもめ事といい、ほとんどロックバンドのノリである。いや、これこそ正しくバンドと呼ぶべき組織なのかもしれないがそれはともかく、建築、内装、工芸、家具調度品を売りにする。
 金の出所はモリスパパであったが出資者として経営にも責任を負わねばならなかったモリスは、デザイナーとして経営者として、理想と市場とのギャップに直面し続けた。後世の口さがない批評家の中には、彼をタダの商売人とまで言う者もいる。なるほど、当初はメンバーの平等を期して匿名でのデザインが約束事であった商会が、名の売れ始めたモリスとウェッブを専属デザイナーとして前面に打ち出すことになったのも、市場での競争に勝ち抜くためであった。皮肉にも、文人モリスが有名デザイナーとなったゆえんである。また、いくつかの廉価版を出すこともできたとは言え、手間暇かけた多くの商品が「民衆」の手の届かぬような高価格帯から出られないことに対する煩悶は生涯続いたようである。商売には社交界でのロセッティの営業力も貢献した。資本主義の原理に則り、労働者への支払いが競争価格に基づいて決められるのは当然のことであったし、鉱山の株による資金運用も行っていた。のちの彼の講演から察するに、さぞかし罪悪と感じていたのであろう。モリス商会が存続し得たのは、優れたデザイナーが魅力的な品を次々と発表できたことはモチロンであるが、同時に、モリスが経営者としてもしたたかなアイデアマンであったからである。資金繰りをモリスに任せっぱなしにする友人達との決裂から商会は再編に至り、以後、モリスとウェッブを中心にした職人集団となってゆく。
 ザ・モリスバンドの顛末はともかく、モリスは、自らもまた職人であるようなデザイナー、生産手段を所有する小規模生産者に徹することで、結果的に資本主義に抵抗し得る城塁を、あるいは資本主義の胃袋に内側から風穴を開ける術を、確保しつづけることができた。利潤を最優先に強制されるような労働や生産活動に抵抗する力として、商品を自ら作り自ら売る権利と能力が要求され、さらには自由な労働と道徳社会を調和させる美的理念として、「美術」(ないし「芸術」)が参照されることになる。*6モリスが主に手がけたテキスタイル(染色や織物)に関しては、モリス自身が資料を調査して失われた技法を調べ上げ、自らの工房で職人らと共に実験し、技術を教える役割を担った。文化的領土の確保、それがモリスの装飾美術の意味である。モリス晩年の文学作品である『ユートピアだより』*7に描かれた未来社会には貨幣による売買がなく、商品が存在しない。なぜなら、あらゆるモノを自分[達]で作って自分[達]で使うからである。自分[達]で作って自分[達]で使うぶんには、利潤を最優先に算出された労働や商品に、関わることなく済まし得る。*8 不老部落のような自給自足の共同体を作ることはモリスにはかなわなかったが、しかし、それはそれ、これはこれ、である。モリスの求めたような自由な労働リッチな作物を「民衆」が手にすることは、到達不可能な永遠の理想というわけでもない。たとえばかつては*9身の回りの日用品、今日では日曜大工や家庭農園、家事、または、タダで閲覧可能な論文や資料、記事、フリーソフトなどが可能性においては、そうである。「モリス商会」の商品には、購入者が自分で刺繍するための図案集というものもある。DIYスピリットである。そして、そもそもが「モリス商会」の出発点はそこ、自分[達]で作って自分[達]で使うこと(「レッドハウス」)にあったのであり、モリスは生涯みずからの幸福な青春時代を生き続けようとしたわけである。ちなみに「モリス商会」では、自分たちが使うために自分たちで作るモノもあったが、しばしばコストがかかりすぎたために商品化できず、図らずも(?)「自分で使うぶん」になってしまったものも少なくなかったようである。「根深くもセンチメンタルな社会主義者」、しかしながら、“I believe that art cannot be the result of external compulsion; the labour which goes to produce it is voluntary, and partly undertaken for the sake of labour itself, partly for the sake of the hope of producing something which, when done, shall give pleasure to the user of it. ・・・”。それを感傷と決めつけるのは、少し気が早いように思われる。(つづく) *10

*1:Dante Gabriel Rossetti 1828〜1882

*2:Jane Burden1839~ 1914

*3:Philip Speakman Webb 1831 ~ 1915

*4:Edward Coley Burne-Jones 1833 〜 1898

*5:1861年モリス・マーシャル・フォークナー商会設立。商会は1875年に解散、メンバーを入れ替えてモリス商会となる。ここでは必要な場合を除き「モリス商会」で統一。

*6:モリスは道徳、宗教、芸術を不可分のものと考える。

*7:1890 W・モリス 松村達雄訳 岩波文庫 

*8:この点で柳の民藝はモリスを受け継いでいると言えるように思う。民藝はそもそも、自分[達]で作って自分[達]で使うという状況において‘発見’されたものである。

*9:千差万別であるが。

*10:モリスについての伝記は、以下の書物によっている。『ウィリアム・モリス』リンダ・パリー編 多田稔監修 河出書房新社  、 『図説 ウィリアム・モリス ヴィクトリア朝を越えた巨人』 ダーリング・ブルース/ダーリング・常田益代 河出書房新社 、 『世界の名著 ラスキン モリス』「ラスキンとモリス」五島茂 中央公論社 、 『ウィリアム・モリス ラディカル・デザインの思想』小野二郎 中公文庫

装飾について その1

John Ruskin

 柳宗悦民藝運動ウィリアム・モリス(1834〜1896)のアーツアンドクラフツ運動に連なるが、その柳はモリスに対して、「正しき工芸の美を知らなかった」と批判してもいたことは、前回触れた。美意識に煩わされた工芸であり、充分にゴシックでないと言って批判したわけである。柳が「ゴシック」と呼んでいるのはモリスも学んだジョン・ラスキン*1が描き出す中世の職人集団のことである。要するにここで柳は、モリスは父なるラスキンの遺志を実現し得ていないと、モリスの仕事は代用品に過ぎないと、ニセの欲望に囚われちゃって未熟だなあと、言っているわけである。言ってるようなもんである。だが、ラスキンに遡ることのできる、都市批判・資本主義批判としての、世界中の古い民芸に学び、環境風土を含めた生成のプロセスにこだわるというコンセプトにおいて、柳が賞賛した芹沢と非難したモリスとの間に区別をつけることは難しい。柳自身が明確にその区別を説明していない。だから、柳の批判はいつも、どうにも残念な世俗的コンテクストにこだわっているように思われてならないのだが、ともあれ、果たしてモリスの仕事はラスキンの誤解であったのか。民藝理論によって断ち切られたモリスの「美術」とはどのようなものであったのか。
 日用品を芸術にすべしと説いたモリスの講演から、まずはモリスの言葉を引いておこう。


I believe that art cannot be the result of external compulsion; the labour which goes to produce it is voluntary, and partly undertaken for the sake of labour itself, partly for the sake of the hope of producing something which, when done, shall give pleasure to the user of it. 私は、芸術は外部からの強制の結果ではあり得ないと信じている。芸術を産み出そうとする労働(labour)とは自発的なものである。それは労働それ自体のために為される労働でもあり、また、うまくいった暁には使い手に喜びを与えるような何かを産み出すことができるだろうという希望のための労働でもあるのだ。(筆者訳)」*2



 モリスは社会主義思想の熱心な活動家としても知られている。今日モリスの講演録として知られている文章の多くは、彼が政治活動に乗り出してからのものであり、芸術の社会的使命を論じているわけだけれども、齢四十を過ぎて目覚めた政治活動をきっかけに彼のデザインコンセプトが大きく変わったという様子はない。もともと彼のデザインはラファエル前派やラスキンらとの交流を素地としており、ラスキンは美術研究者・批評家にして初期社会主義(資本主義批判)の著名な思想家の一人である。上に引用したような彼の主張などはほとんどラスキンの言葉そのままであり、したがって、基本的に彼の政治活動は、それまでの自らの美術活動を支えたラスキンの思想が当時沸き起こったさまざまな抵抗運動においても活きるような論理を模索したものとして、解し得る。
 そうした思想上のいわば相乗りが成功したかと言えば、理論としてはチョット破綻している部分もある。イギリス初の社会主義政治団体*3において重要な地位を占めていたモリスによる講演は、しばしば美術家*4の使命がすべての労働者にとっての使命へとすり替わっていくこと、および、美と芸術と希望が同一視される傾向にある。エンゲルスはモリスを評して根深くもセンチメンタルな社会主義者と言ったらしい。このような理論上の難が、社会主義理論の黎明期にあってモリスの貢献とはいかほどのものかと議論が分かれるゆえんであろうが、 *5ただし、すべての労働者が守るべき格律として解すれば無理があるかも知れないが、モリスの主張を、「芸術家」モリスが一労働者として資本主義に抵抗すべく自らの社会的使命を考え宣誓している、という意味に受け取るならば、これはあてどなき空論であったわけではない。モリスは〈デザイナー=工芸家〉であり、〈デザイナー=工芸家〉としての立場から、労働の自由を標榜した。自然と調和した伝統技術に従い、労働者の自立と人々の生活に奉仕する仕事の充実が、理想社会の到来を準備すると、考えたわけである。そんな次第であるから、モリスを評価するにあたって彼から資本主義批判の流れを取り上げてしまったら、そもそも話題にする意味がない。モリスの仕事ははたして「煩わしき美意識」であるのかどうか、判断をおおいに左右する一点である。この点については、のちに再び詳しく取り上げる。
 批評によって美を‘産み出す’柳にとって、美は制作者にとって目的の位置を占めることはなく、柳にとっての目的(道徳的社会)を実現するための間接的手段(流通を促進するための、批評家による賞のような役割)である*6が、モリスにとって美とは新たなる完成へと向けられた意志(労働意欲)を規定する目的そのもの、である。つまり、日用品は芸術だと人々を説得することが課題なのではなく、日用品(都市や道路、耕作地を含む)を芸術として製作することが課題である。さて、ここで「外部からの強制」としてモリスがやり玉に挙げているのは、自然への知識や伝統的技芸の合理性などに従うことを指しているのではなく、はっきりと、市場からの要請・強制のことを指している。資本主義下においては原理的に、あらゆる商品の使用価値、あらゆる福利厚生は、資本を利する限りで認められる。しばしば利潤は、資本主義が自ら生みだすことのできない活力ないし資源(=自然、動物、人間、国家・共同体間の落差が生む位置エネルギーetc)への「支払う義務」を怠る*7ことによって、および、事物の生成に必要なコスト(時間的にも経済的にも)をねじ曲げることによって、生みだされる。モリスは、資本がそうした暴力を労働者に、消費者や商品に、自然の生態や環境に振るう限りにおいて、これを「外部からの強制」と呼んでいるわけである。*8来るべき社会を望み得るだけの精神を涵養することが、労働においても制作物においても、デザイン工芸(「美術」)に[もまた]託された使命である。
 柳は批評家であり、批評家としての立場から、宗教家としての独自の判断基準に基づいて、評価に値しないと見なされてきたような事物(工芸・民藝≠美術)を評価するという仕事に重点を置いた。美そのものを価値転換することによって道徳社会の到来を目指していたわけである。「無意識」(「自然」)が生産したものであるからこそ、批判的な価値がある。一理ある。愚かな人間理性ではなく、自然が思考するのである。*9だが、民藝の「無名」の作者を「無意識」と同一視し、「無意識」が生産するのだと考えた柳には、単一の「用」に還元されない作者(労働者)の自由(欲望、無意識)という観点が欠けており、ゆえに、「民衆」(ないし労働者)がみずから社会を形成してゆくプロセス、あるいは抵抗を含む社会からの逸脱という出来事を、把握することができない。(これは彼の芸術家ぎらいとも対応しており、ゆえに「美術」ぎらいとも対応している。)自然と調和し、市場経済の外部へのコストも含めた生活全体に位置づけられるものとしての日用品を生みだすことが「無意識」と呼ばれるならば、モリスがやろうとしたことは抵抗としての無意識‘を’生産することであったと言えるかも知れない。(つづく)

*1:John Ruskin, 1819〜 1900

*2:『The Aim of Art  芸術の目的』http://www.gutenberg.org/wiki/Main_Page 邦訳は『民衆の芸術』などに所収 『民衆の芸術』中橋一夫訳 岩波文庫

*3:「民主連盟」は当時のイギリス国内唯一の社会主義組織。1881年結成。モリスの参加は83〜84年まで。立法上の改革よりも民衆の啓発を重視するモリスの理想主義は連盟からの脱退、エリノア・マルクス(Jenny Julia Eleanor "Tussy" Marx 1855-1898 社会主義活動家。カール・マルクスの三女。)らとの「社会主義同盟」の設立につながる。ただし、講演録などから明らかであるが、モリスは国家や企業の‘支払う義務’を強く求めており、労働者の福利厚生についても、これを評価していないわけではない。念のため。

*4:モリスにとって美術と芸術との間に違いはない

*5:モリスがデザイナーとして活動した19世紀当時のロンドンは、帝国主義産業革命を原因とする深刻な社会問題があちらこちらで生じている、そんな状況であった。こうしたなか、裕福な中産階級の家庭に育ち大卒のインテリ文学青年であったモリスは、バルカン半島における紛争(露土戦争)への抗議活動を皮切りに熱心な社会主義思想家へと変貌、後半生をつうじて、労働争議や環境問題、都市と農村の格差、伝統文化の保護、劣悪な商品への批判、植民地主義への批判といった諸々の闘争にかかわってゆく。バーン・ジョーンズ(Edward Coley Burne-Jones 1833 ~ 1898)の紹介による学生グループとの討議、ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti 1828~1882)を介しての植民地主義批判、ミル(John Stuart Mill 1806〜 1873)とマルクス(Karl Heinrich Marx 1818〜 1883) の読書などを経て社会主義思想への信念を固めていったようである。本人は経済理論がよくわからなかったと自嘲気味に話してはいるものの、『資本論 第一巻』(仏語版)は読み込まれすぎてページが抜け落ちるほどだったという証言が残っている。文学者としてすでに名声の高かったモリスによる運動への参加は歓迎され、弁が立ったこともあって、関わった組織ではつねにコアな存在であった。ただし、思想家としてのモリスに対する評価は一般に決して高いとは言えない。

*6:美と技術に関する柳の思考は、ハイデガーMartin Heidegger 1889〜1976)の技術論に少し似たところがある。興味のある方は以下の記事を参照されたい。関連記事 http://d.hatena.ne.jp/argfm/20090831 

*7:ちなみに、ここで言う「支払う義務」とは、法権力などによって強制的に発生する義務のことではなく、自分のものでない力を借りて恩恵を受けているがゆえの「支払う義務」、という意味である。

*8:モリスが機械仕事を批判するのはこの意味においてである。彼は機械による生産を必ずしも否定してはいない。事物に宿る「魂」を評価するモリスは、機械を生みだした知性をも矛盾なく評価する。たとえば紙を機械で作ることも、品質および労働環境、自然環境などの条件さえ満たすものであるなら認めている。モリスの怒りの矛先は、機械そのものへ向けられていると言うよりはむしろ、当時の製造業者―-あるいは今日の一部製造業者&経済人&政治家--らが抱いていたような、機械技術の進歩が文明の進歩であるといった観念に安住することへと、そうした安住が生む環境破壊や品質の低下、労働者の搾取へと、向けられている。

*9:だが、民族と風土の固有性が関心事である柳の‘批評’にはつねに、何をもって代表と認めているのかという問題がつきまとう。ひいては、なぜそれが代表として認められ得るのか、誰が認めるのかという問題がつきまとう。柳銀行の発行する「美」そのものの信用はどのように保証されるのか。なぜ土管や道路、排水溝、カツラや下着は選ばれないのか。

柳宗悦と芹沢銈介 その3

argfm2011-12-21

 柳は、まず「直観」によって事物の美を見出し、しかるのちに、よくよく調べてみるとそれが「正しく作られている」モノであることが判明するのだ、と言っている。彼は色んなところで同じことを言っているからいちいち引用しない。民藝の美とは、柳によれば、自然の合理性、環境風土との調和、労働作業の合理性および作物の機能性が一連の流れとなって結果するもののことであった。そのことをふまえた上で、柳の言う「美」は美男美女とか美味とか機能美とかの「美」ではない、ハッキリ道徳的な正しさのことである。柳はウィリアム・モリスに対して「正しき工芸の美を知らなかった」 *1としてその美意識を批判してさえいる。(英訳時にはFolk ArtではなくFolk Craftと自らは記していたようである。)まどろっこしくも混乱を呼ぶような「美」という呼び方に柳がこだわる理由は、美術という自らの携わるジャンルないし市場に向けて、道徳性を喚起したかったがためであろう。というか、民藝の可能性を思うとそうとしか考えられなくなってくるのだが、とすると、そもそも柳の理論は美術界へと向けられた内輪ウケな話なのだとも言える。はてさて問題は、柳の言うような合理性から自動的に「直観」し得る「美」が現出するものだろうか、ということにある。
 民藝として批評される対象は工芸(道具)に限られているのであるが、およそ日常の用に向けられ量産を前提とするようなほとんどの実用品は、経済合理性に基づき「正しく」作られているものである。だから、調べたら分かったと柳が言うのはちょっとズルである。しばしば資本主義や近代化の象徴であるかのように言われる機械*2による制作物は民藝から除くとまで彼はルールを決めているのだから、ますますズルである。したがってその正しさを検証すべく残された課題は自然環境との調和であり労働の充実であることになろう。(そこまで含めて、〈生活の創出=美〉である。)これらを検証するにあたって確認しておきたい点は、直観において現前してはいないようなもの、あるいは、痕跡すら残さないようなものの力が、美醜を決める吟味(批評)の対象に含まれているということである。たとえば少年少女を就学させることなく安い労働力としてコキ使ったりしていないか、廃液やゴミを垂れ流していないか、などといったことは、決して眼前の道具のみから「直観」し得ることでない。だからこそ、監督者すなわち批評家が要請されるわけでもある。分からないけど何かイイんだ、などと言ってはいけない。いかにしてこの事物が可能であったか、その条件をハッキリ見定めるのでなければならない。解釈の余地など無く「正しく」読み取る義務がある。ここのところ、対象をよく調査分析することなく「直観」を正当化する作業にのみ従事したとするなら、正しい社会生活の創出に寄与することが存在意義である民藝批評家としては、充分な仕事をしたとは言えないだろう。事物を生み出した背景としての社会の制度や法もまた、事物においては「直観」し得ないものの一つであるが、制度や法について無頓着を決め込む柳の民藝理論が、にもかかわらず共同体(主に民族、国民)の創出ないし、共同体が共同体であり続けるための力を語ることの限界もまた、ここでハッキリ見えてくるだろう。*3
 ここは柳を難詰するための場ではないからこれ以上このテーマを掘り下げることなく、課題を課題として受け取った上で、話を次の段階に進めたい。要するに、柳自身がなんと理屈を付けようと、柳の理論と実践は事物が生成する過程にではなく、「直観」し得るような美(選別・選抜)に向けられている、ということである。柳の民藝理論は、素朴で時にグロテスクでもあるような民衆の自然な生の発露(「動的な本能的なもの」)というロマンティックな柳ワールドの構築に向けられているが、しかし、なぜ彼の直観したものが〈生の発露=美〉であると言えるのかという、「美」そのものの理を、柳は論理的に説明できずにいる。*4
 柳自身は美を教えることはできなかったけれど、彼が接した工芸の中に美を教え得るものが含まれていたことは間違いない。1928年に上野で開かれた御大礼記念国産振興博覧会において、柳宗悦らは「民藝館」という住宅プロジェクトを展示。当時33歳の芹沢はそこで初めて沖縄の紅型(びんがた)に出会う。彼は柳を唯一の師と呼んでいたが、実のところ彼を支えた技術上工芸上の師は紅型(びんがた)である。1939年の沖縄滞在にあって芹沢は瀬名波良持(せなはよしもち)と知念績秀(ちねんせきしゅう)の二人から紅型の指導を受けている。紅型は13世紀頃に生まれたとされ、中国・日本・東南アジアとの盛んな貿易において、琉球王朝時代(1429〜1879)に最盛期を迎える。紅型のモチーフは沖縄のもの、本土由来のもの、中国由来のもの、インドや東南アジア由来のものと、一着の着物にあってさえ、アジアベースでありつつも無国籍状態である。柳が沖縄の古着屋で安く買い求め芹沢が感銘を受けたのは、外交上の貢物として王朝の保護を受け特権階級にある職人たちが腕を競った18〜19世紀の産物である。その意味で、彼らが見ていた「紅型」は必ずしも「民衆」による「民衆」のためのものではない。紅型には支配階級のための「首里型」と一般市民のための「那覇型」の二通りあるが、高級品である紅型が衰えたのは、労働作業と生活の近代化はもちろん、琉球王朝の滅亡によって庇護を失ったことが最大の原因とされる。こと民藝的文脈から言えば、紅型に用いられる藍色は亜熱帯ならではの沈殿法を用いて琉球藍から得られる産物であり、透明感を湛えた独特の美しさがあると評される。


図1 紅型『斜め格子に菊梅牡丹文様子供着』(沖縄県立博物館蔵)


図2 紅型『笠に藤蛇龍水葵杜若文様衣裳』(沖縄県立図書館蔵)*5


 さて、芹沢の憧れた紅型の美しさ、魅力は何か。紅型とは、型*6を切り抜いたところに糊を塗って防染し、そこに筆で少しずつ色を差し重ねていく染色法である(「イルシャシ」)。*7顔料を用い豆汁(ごじる)*8で定着させる。最初に薄く色づけし、乾かしてから濃い色を重ねてゆく。型染めと聞いて字面から版画などをイメージすると間違いのモトになる、むしろ刺青なんかに近いわけである。模様が細かく多くなるほど大変な作業ではあるが、微妙な濃淡や複雑な色の重ねが可能であるのはこのためだ。ちなみに両面染めという技法を用いる場合は、裏からも色を差す。裏表の模様をぴったり重ね合わせなければならないため難易度が高いと言われる。で、模様と色彩とを別々に施すことから、色彩は模様を視野に捉えつつもその輪郭に囚われない自由な運動を展開することが可能になる。「配色はまず主色を要所に配し、次々に所要の色を撒き散らすように差していく。模様の形象に構わずに、ひたすら美しい配色を念じて」と、芹沢も述べている。*9青い桜や赤い雁といった非写実的な彩色も多く、と言うか、友禅などに比べるとはるかに限られた色数で彩色している紅型であるから当然そうなるのだが、写実性から離れた自由な色彩構成の多くは、等価に主張し合う主要な数色の組み合わせに対してその中間色を構成することで、色彩の流れと色彩上の比例の正しさを与えられている。紅型には色を施すためのルールがある。
 こうした技法上の特長ゆえに紅型は、決して色数が多くないにもかかわらずオールオーヴァーに拡がる華やかさの印象を与える。模様の大きさや構成はいくつかの異なる単位で分けることができるが、大小の模様を配置することで生まれるスケール感はもとより、しばしば、どの模様がどの模様との組であるのか分からなくなるため、ぱっと見て全体が同じくらいの強度で目に入ってくる派手さがある一方、細部の結びつきが作り出すネットワークによる視線の攪乱からふくよかな拡がりの感じ、繊細さと深さの印象が生じる。ちょっと、万華鏡を見ているときの感じにも似ている。紅型の「びん(紅)」とは、多彩な、の意味であるが、染色プロセスとしてはよく似ている友禅との一番の違いは、こうした色彩や模様の用い方にあるだろう。芹沢の型染めは「モダーン」だと言われるが、そもそも紅型の色彩構成がかなり「モダーン」なのである。その技法上の必然によって、複数の画面を重ね合わせたような柄も生まれている。


図3 紅型『網干に菊桜水葵文様衣裳』*10


 自宅に置かれた生活道具が実にベースなしの多国籍多民族であったという芹沢は、飛白体や朝鮮文房図など、さまざまな「民藝」をコピーしているが、その手法は一貫して型染めであった。芹沢は言う。「私の染の仕事、結局は他のいろいろの場合もですが紅型を出発点としています。堅固なその型、確かなその構図、華やかな色、楽しい配色、はれやかな持ち味、底にある深さ、静けさ、思えば紅型を慕い、紅型を追って今日まできました。」*11柳の民藝理論は正しく、芹沢において、共同体としての輪郭が定かではないような技芸(精神)の結びつきとして、実践されたとは言えるかも知れない。ただし、そこに作家-職人の階層構造が忍び込んでいたのではあるけれど。晩年の柳は自らの仕事を振り返ってこう語っている。「今まで世界にもいろいろの工藝運動はあるが、民藝運動の一つの特色は、ある意味で精神運動でもあって、この事はやがて一つの著しい旗色ともなるであろう。また有難いことにこの動きは、友愛の賜で、考えると吾々ほどよい僚友を持っている仲間はあるまい。別にギルドのごとき形をとっているわけではないが、そういう形式以上の繋がりが、お互いの心にあるのは何とも感謝すべきことのように思う。」*12(了)


 *今日の画像は芹沢銈介の『苗代川春景』(絹地に型染め 1943頃 静岡市立芹沢銈介美術館蔵)です

*1:『工芸の協団に関する一提案』

*2:有名なアンティキラの計算機のように、機械は既に紀元前の古代ギリシアからある。民藝の文脈からするならば、問題は自動か手動かの違いであり、すなわち、どこからどのようにエネルギーを得るのかということ、また、余剰とされる排出物(用途のないエネルギーを含む)が自然へと還されるにあたっての、人間も含めた生態への影響などが問題とされるのでなければならないだろう。

*3:柳の理論が----その目論見に反し----何を「見る」ことができないか、という点については、紅型の生産を支えた社会制度がどのようなものであったかを知れば充分であろう。

*4:日本民藝館を訪れると、そこに展示されているコレクションの玉石混淆ぶりに困惑させられる。技術において、資材の質において、労働の質において、知性において、玉石混淆である。

*5:図1、2ともに『日本の染色18 紅型』 吉岡幸雄 京都書院美術双書

*6:「一枚型」。一枚の型を切り抜いて用いる。同じ模様の反復に見えても、一つ一つ少しずつ違いがあるのが分かる。

*7:紅型の技法については主に以下の本を参照した。児童向けであるが、社会分析も含めた好著である。『沖縄の心を染める 伝統の紅型を復興させた城間栄喜の物語』 藤崎康夫 くもん出版

*8:*大豆の絞り汁ですが、食べ物ではありません。

*9:別冊太陽『染色の挑戦 芹沢銈介』

*10:『日本の染色18 紅型』 吉岡幸雄 京都書院美術双書

*11:『芹沢銈介全集』月報三、一九八〇年

*12:『民藝四十年 後記』

柳宗悦と芹沢銈介 その2

argfm2011-12-18

 民藝と芸術との境界線はどこにあるのだろうか。柳は個人の表現に冷たい。「天才の芸術」をまったく評価しないわけではないのだが、冷遇して黙殺しあわよくば視界から消えてほしいというような、底意地の悪さを感じさせる。なぜなのか。その理由は、柳が考えていた民藝の政治的使命に求められる。
 さて、民衆レベルの物流というか精神の交感というか、国境を横断する交流において理解された民芸は、Love&Peaceを志向する。民藝とは、政治的に引かれた境界や対立を越えて、他者の歴史や精神を理解し、リスペクトを可能にする制作物のことである。現地への旅行を通して既に朝鮮美術に対する敬愛の念を深めていた柳は、1919年大日本帝国統治下の朝鮮において起きた3.1独立運動に共感し、運動を暴動と煽るマスメディアに抗して、勇敢にも植民地主義政策を批判する一文を読売新聞に投稿する。近代化や政治的対立を基盤として生まれた価値観に抗し、自然環境に見合った合理性とその美しさにおいて沖縄の赤瓦を評価、廃れかけていた染色技術(芹沢が学んだ「型染め」)を制作技術の高さにおいて再評価して脚光を当てたのも柳である。柳は民藝によってアイヌの文化、台湾少数民族の文化を紹介してもいる。たいしたもんである。ポストコロニアル思想の祖と言われる思想家・革命家フランツ・ファノンは、その著『地に呪われたる者』の中で、民族文化は植民地主義政策に対して有効な反証たり得るのだと書いている。植民地主義政策の手法が、自律し得ず劣った存在である者達(野蛮、堕落、動物化)を正しく導かねばならないという「大義」に基づくとするならば、民族文化への評価は、過去が恥ではなく尊厳であり、栄光であることを示すのだ、と。
 民藝が民衆(匿名性、「無名」)の工芸でないような芸術について冷淡である理由の一つは、民藝のこうした非政治的な政治性に求められるだろう。ここで「非政治的な」と書いたのは、要するに、社会や共同体の創設を志向するとは言え、柳には制度や法についての考察が欠けているからである。したがって、柳の理論を政治的統一体としての社会の創設として受け取ると難問が生じる。ちなみに先にも触れたアルジェリアの革命家ファノンは、伝統的な民族文化の擁護は政治的経済的自立を獲得する闘争にとっては役に立たないと批判を加えてもいた。特産品の保護開発や観光誘致という手法は当然であるかのように柳も奨励しているのだが、こういった手法は政治としての自治には直結しない、ということである。*1宗教家にしてアナキストであった柳の民芸理論はその意味で‘非政治的’であり、社会を作るとは言っても、国家や法と接触しない限りでの(それが可能である限りでの)、生活ないし生産様式限定の理論であると考えるべきだろう。民藝が「民衆の生活」を創出するその力とは、なるほどなあ、なるほど上手いことやってやがるなあ、という、誰の私有でもないがゆえに誰にでも開かれている理(合理性)の持つ力である。世俗的なコンテクストを離れて受胎させる力。モノとしてであれ技術としてであれ、民藝はこうして交流を、平和を生む。民藝はLove&Peaceのためにある。尤も未だ、それが倫理的でもあるようなLove&Peaceなのかどうかは定かでないのだけれども、この点については後で考えるとして、とりあえず、なるほどピカソマティスの作品を観てスペイン人やフランス人を尊敬するかと言えば、必ずしもそうはならない。デュシャンレディメイドを誰しもが行ったとすれば無意味でありスキャンダルにもならない。民藝は作品を作る主体に「民衆の生活」を据えるのであり、民藝の政治的使命にとっては誰でも良い誰かであったという事実、すなわち作者の匿名性が欠かせない。要は奇特な人は民族の生活を知るためのサンプルとはならない、ということである。ゆえに、個人の主観に任されてある[ように柳の目には映る]芸術は冷遇されることになる。・・・しかし、何かがおかしい。
 何がおかしいか。一つには、民族[の生活]を愛するために個人による作物への愛を捨てねばならぬという帰結が、おかしい。仮に柳が「直観」によって眺めているその器なり道具なりを生活の産物であると示すことができたとしても、同時にそれが個人の作物でないと、天才の/あるいは鈍才の/あるいは奇特な人の作物でないと、証明することは難しいだろう。逆もまた然りである。個人の作物であることは生活(環境風土、労働)の産物でないことを必ずしも帰結しない。二つには、道具と芸術を並べて優劣の判断を下しているところが、おかしいのである。芸術は柳による民藝の規定の内には収まらないかも知れないが、しかしこのことは、単に、芸術と民藝との区別を意味しているに過ぎない。区別という点から言えば、なるほど民藝と芸術は逆説的な関係にあるようにも見える。たとえば民藝によって逆説的に定義される芸術とは、すなわち、嘘が許されるもの(道具に嘘はない)、現在に奉仕せず時代錯誤であるもの(使われなくなれば廃れ捨てられる道具は現在に奉仕する)、個別な存在の領域----柳によれば「主観」----にあるもの(道具においては全てが明らかであり、かつ明らかでなければならず、道具に理解不可能な秘密はない)、などである。さて、これらの非民藝としての定義をもってしても、芸術は国境を越えた交流を許さないという帰結が得られるまでには至らない。すなわち、柳が「芸術」を斥ける理由は正当化され得ない。全てを理解し愛する交流と、全ては理解できないまでも注意を傾け心に留め続ける交流とは別のことだが、共にLove&Peaceの可能性ではないだろうか。したがって、政治的使命という見地から下される柳の価値判断は不当であると、私は考える。民藝と芸術の境界線を、あるいは民藝による芸術批判の可能性を、そこに求めることには意味がない。
 では最後に、民藝の「美」について考えてみることにする。(つづく)

*1:今日では、「特産品」としての商品が資本主義ないし〈中心=周縁〉という階層構造の副産物であることすら珍しくない。「特産品」の「制作者」たちの責任を、その自己決定の自由において、かつ理由(理性)において、問わざるを得ない局面があるのは、このためである。

柳宗悦と芹沢硑介 その1

argfm2011-12-14

 我が家に置かれている茶箪笥には、傷を隠すためか芹沢硑介(1895〜1984)のカレンダーが引き戸の矩形に合わせてトリミングされ、貼り付けてある。洋風とも和風とも付かぬ、いつの時代に作られたものかも曖昧であるようなかわいらしいデザインのカレンダーである。芹沢のカレンダーは終戦間もない1946年からバブル到来の1984年まで、時には一万部超刷られることもあったという人気商品だったらしい。芹沢硑介は、名前は知らなくとも彼のデザインしたものなら誰でもどこかで一度くらいは目にしたことがあるという、まあデザインってのはそういうもんじゃねえのというツッコミはともかく、国外にもその名を知られた有名な工芸家・デザイナーである。バルテュスと友だち。ちなみに、女優のイザベル・アジャーニは私の生涯の画家はバルテュスですとか言っている。そのアジャーニが映画デビューした年に生まれた私の誕生日を祝って、たまたまやっていた芹沢硑介の展覧会へと足を運び、そのついでと言ってはなんだけれどもしばらく忘れていた柳宗悦(1889〜1961)のことを思い出したりした。芹沢は柳を生涯の師とまで呼んでいたらしいが、その芹沢と柳との関係とはどのようなものであったのか?
 柳宗悦と言えば民藝と呼ばれる美術工芸の運動を指導した理論家にして宗教家であるが、その理論というのが、まずは簡単に言って済ませれば、無名の職人がなーんも考えずに反復作業に身を任せて作ってりゃイイモンができんだよ、というものである。これを「他力の美」と言う。単純化がひどすぎる、言葉遣いを敢えてぞんざいにする点に敬意の無さが読み取れる、などと怒り出す人がないとも限らないから後でもう少し詳しく説明する。要するにここで言っておきたいのは、匿名の作者による作為を排した制作を奨励した柳宗悦と、有名作家で工夫を凝らす工芸家芹沢硑介との関係がどんなものだったのか、そのことを気にかけてこなかった自分に気がつき、二人の関係を詳しく知りたくなった、ということである。なにせ芹沢は柳の論文『工芸の道』を読んで「工芸の本道初めて眼前に拓けし思いあり」とまで感動し、その後も柳を生涯唯一の師として尊敬していたのであり、柳は柳で芹沢を「芹沢君のような人に出逢ったことをいつも生涯での有り難い出来事だと思っている」とまで絶賛しているのである。
 まず柳の理論を見ていこう。話の前提として、柳はどんな文脈で民藝(道具)を考えていたのかを知る必要がある。そこで道具についてである。他の動物に比べると、人間は道具や技術に関して、より着脱の自由が利く。人間は提灯アンコウのように獲物を引き寄せる道具を頭にぶら下げて生まれて来たりはしない。人間の幼児が狼に育てられることが不可能であることの理由は、両者の世界があまりに違いすぎるから、すなわち、幼児の身体には狼のような早さで移動できる脚も、狼同様の食事をとるための牙も備わっていないからであり、極寒の地にも耐え得る毛並みが生えてくることなど望むべくもないからである。人間以外の動物が本能に導かれて環世界に生きることができると言われるのは、彼らの身体がそのまま道具でもあるからだけれども、人間の場合は必ずしもそうではない。とすると、動物の環世界にあたるようなもの、すなわち生活(道具連関)を、人間は自ら作り出さねばならない。道具を作ることは道具を作るための素材を作る(得る)こと、労働を作ること、生活を作ることと不可分である。さて、こうした議論を前提として、柳宗悦の民藝理論において重要な点は要するに、道具を、その作られ方の正しさにおいて評価した点にある。ここで作られ方の正しさを評価するとは、風土(環境)との調和や素材を用いる際の合理性などにおいて、今日の諸問題を引き起こしている原因を予め(能動的に)拒否するものとして、その価値を見定めるということであり、ゆえに、民藝運動は正しい生活(および正しい労働・正しい組織=「相愛による団結」)の創出と不可分である、ということになる。器に施されている模様といえど例外ではない、「原料をただの物資とのみ思ってはならぬ。そこには自然の意志の現れがある。その意志は、いかなる形をいかなる模様を有つべきかを吾々に命じる。誰もこの自然の意志に叛いて、よき器を作ることは出来ぬ。」*1のである。ここで柳が言及している「模様」というのは、たとえばスリップウェアや油滴、刷毛目といった、物性によって生まれる模様のことである。宗教家柳にとって「物性」とは「仏性」に他なるまい。柳は正しく作られたモノの有り様を「美」と呼んだ。が、そうであるならば、柳の議論は広くエコロジック&エコノミック(節約・省エネ・合理性)な話であって、何も狭く工芸にこだわる必要はないわけであるが・・・。
 さて、けれど、よくよく考えると、「正しく作られたモノ」を「美」と呼ぶのはちょっと飛躍しているように思われる。「正しく」作られてはいるが美しくないモノはたくさんあるからだ。(たとえば有機農業のための肥料。)正しく作られており、かつ、美しいというのなら分かる。けれど、そういうことなら、「美」とは何かを別の話として説明するのでなければならないだろうが、そうはならない。柳先生はずばり、「工芸の美は奉仕の美」と言い切っておられる。「こうげい」にも「ほうし」にも「び」は含まれていないではないか!という伝わりにくかろうジョークを思いついたので、ここに記して先に進む。分かりにくいのは、「美」とはどういうことか、「正しく作る」とはどういうことか、である。
 正しく作るとはどういうことか。柳にとって正しく作るとは、技術や自然の作用に制作者が身を差し出すことでその自我が消え去ることを意味している。自然環境や物性が人間の労働を主宰することを旨とし、自然から与えられた原料を廃棄物も含め十全かつ合理的に活用し活かすこと、「用」を見出すこと、すなわち経済合理性と機能性の追及、それが彼の言う「正しさ」である。柳が「無駄を排する」とか「節約」というような「商業主義」と区別の付かない見解を述べる一方で、にもかかわらず、「商業主義」と一線を画す道徳的な主張として民藝運動を誇ることができたのは、正しい用途への私心なき奉仕という観念に彼が魅了されていたがゆえにである。彼の言う道徳が、まあしょせんは、ムダをしない、自慢しない、慎み深くチャラくない、といった程度の、妬みを回避するための処世術に過ぎなかったとしても、である。これを「用の美」と言う。*2自然に則した合理的で正しい生産の有りように私利私欲なく従事する者(匿名性)は道徳的に正しい。「正しく作る」ことの「正しさ」とは、かくもダブルミーニングである。ここで、ゆえに柳は、技術の運用こそが人間を守護するという意味において、制作者自身は制作において「無意識」でなければならない、と言う*3。一理ある。誰でも、タイピングは慣れれば「無意識」に打てるし、技術の習得とはそういうことである。トリプルアクセルやコールマンを誰しもが決めることができるのかはともかく、つまりは慣れた手つきの見事さ=美しさ、というわけである。人間の身体は複雑だから、そこにはちょっとした個性(偏向)さえ生じる余地があるだろう。匿名性と個性との間の矛盾はこうして解決される。‘批評’の生じる余地があるわけである。ともあれ、こうして民藝において、合理性と道徳と美が結びつく。
 ・・・さて、柳の理論は正しいか?どうだろうか?よくよく見ると、柳の理論には階層構造があることに気付く。自然の合理性、労働の機能性、美、である。これらは順に、前の物から次の物が導き出されるように並べられているわけだけれども、その逆はない。美から自然の合理性が導き出されるわけでもないから、循環構造を成しているわけでもない。つまりは「美」を目指して組織された階層構造なのだと言える。「美の王国」。ここで、彼が使っていた「無意識」の語に注目すると、この階層構造の怪しげなところが見えてくるのだけれども、と同時に、匿名性を賞揚した柳が、なぜ芹沢硑介や濱田庄司のような作家たちを擁護し得たのかも、分かってくる。
 柳は言う。「凡ての職人をして意識的作家にしようとするなら、仕事はたちまち不可能に陥るでしょう。それは凡ての人間に善人足ることを強要するのと等しいからです。」*4 民藝とは自動的な産出であり、自由意志の外に、善悪の彼岸にあるものだ。柳の言う「無意識」(「自然」)とはそういう意味でもあり、ここに紹介した文章で言われているのは、「職人」は善悪の判断が付かない、ということである。「いわんや悪人をや」。では一体、「職人」が無意識のうちに身を任せている労働が「正しい」ものであることを、‘自然人’たる「職人」はどうやって知ることができるのか?柳の思想が就学率や識字率を高めようという方向に向かわないことだけは確かだけれども、柳の答えは、自然への働きかけや技術が正しいものであるか否かは、善悪の区別が付き、「美しい作物」が生まれる理由を看取することのできる「意識」が、すなわち「指導者(批評家)」および「意識的作家」が決めるのだ、というものである。つまり、「職人」たちおよび社会の未来を、決定し切り開く可能性(能力、権力)、および、美を美と呼び社会に告知する権利を手にしているのは指導者と作家のみである、ということだ。ブタもおだてりゃ木に登る作戦。ネオリベ教育委員会。権力の支配を排する「相愛による団結」はどこに行った?という感じではある。
 柳の理論で行くなら、正しくないもの(意識)が正しいもの(無意識)を正しく導くのだということになるだろう。これが先の階層構造の意味である。理屈はなんだかよく分からないがしかしとりあえず、芹沢硑介のような「作家」を擁護することと民藝としての「無意識」による産物を擁護することとの間の矛盾がこうして‘止揚’されたことは分かった。作家は民藝の代表者であり、頭脳であり、指導者、なのである。柳の民藝(「職人」)に自己決定の自由はない(つまり、歴史もなく、変化の自由もない、ということだ)。
 だが、人間の技術による産物の多くが自然界や動物による産物の模倣であることにも似て、民藝の作家-職人-自然という階層構造にあって、思考し制作し発明しているのは、すなわち立法の自由と必然を手にしているのは、「職人」および「自然」の方である。それを美であるとか醜であるとか批評するのは批評家柳の勝手(意識)であり、善人だとか悪人だとか慮るのは宗教家柳の勝手(意識)に過ぎない。作家もまた、しょせんは柳同様のポジションを占めているに過ぎない存在になる。*5私の疑問は解消されたけれど、単なる鑑賞を離れて生活環境をも含めた生産様式のあり方に注目すべきだと唱えた柳の民芸理論も、これでは少々減点である。法の審級が間違っているからだ。だが、そもそも、柳の美術批評で面白くなるのは、「無名」の「職人」の技をその発明工夫において評価する時である。(だから矛盾している。)そしてこの見方こそが、彼にとって、目利きへの社会的世俗的な「信用」によって成り立つ「茶道」的美術批評に対抗し得る最大の強味であったはずなのだ。
 ところで、では、美はどうなるだろうか。美や芸術を合理性に還元して正当化しようとする柳の一元化理論に無理があることは分かった。相容れないわけではないにしても、それらの間には未だ深〜い溝があるようだ。(つづく)

*1:『雑器の美』

*2:柳の論理において、アブソープション(没入)と私心なき奉仕との区別は為されていないが、いずれにせよ、ある行為を「用の美」と評価する権利は、理論上これが行為者による美を目的とした意図的な反復を禁じている以上は、それを観察する者にのみ与えられているのであり、つまるところ「用の美」がそれとして存在し得るのは観察し報告する言説(語り)の中においてでしかないということになる。語られる対象として語りの中にあるときのみ、それは「美」なのである。カントも陥った「天才」のパラドックスであるが、後述するように、問題はそこにある。

*3:『民藝の趣旨』

*4:『民藝の趣旨』

*5:作家は職人の技を謙虚に学んだ・・などといった、およそ謙虚さを欠いた表現が用いられたりする。

ガストン 〜珠玉のフィリップス・コレクション

argfm2011-11-02

●『Native`s Return(帰郷)』(1957) フィリップ・ガストン(1913-80)


 もともとはピカソメキシコ壁画運動(オロスコやシケイロス)、デ・キリコなどの影響の下に絵画を制作していたヒト。初期の頃から既にKKKを画面に登場させている。抽象表現主義を経由したのち、具象絵画に戻る。当時抽象表現主義からの「転向」は簡単ではなかったようで、作品以外の何ものをも目指さない(純粋性)、作品それ自体を目的とした(自己決定)芸術、すなわち自己完結した自由(自律性)の確立を目指す抽象表現主義に対し、作品は不純なものであり自己完結などしないと反論を展開。鑑賞者が持ち込む文脈を必要とする不確定なイメージを扱う方向へ舵を切る。いずれにせよ、こうした議論は、ヘーゲル弁証法とこれに対して批判したり脱構築を企てたりした哲学者たちとの議論を彷彿とさせる。抽象表現主義のリソースであったモンドリアンカンディンスキーがそもそもドイツ観念論からかなり理論を拝借しているので、こうなるのも致し方ないが、彼らが何を目的に争っているかと言えば、自由(自己決定の自由)と普遍性(平等)である。つまり、主権(唯一性)と民主制(無差別性)をどう考えるかということであり、つまり、政治哲学である。以前、何かの本でジャーナリストの筑紫哲也が、芸術の話を聞けると思っていたのにアメリカの美術家たちは政治の話しかしないと言っていたように記憶するけれども(彼が言っているのはメジャーなギャラリーに集まってくるような美術家たちのことである)、そもそも、彼らの現在はそうしたことにある。
 こうした議論にはいくつもの作品によって既に答えは出ているようにも思うのだが、文脈を変えれば複雑な話にもなる。ロジックとしてはあまり刺激が無くとも、議論が召喚せざるを得ないさまざまな事象に出会えることは面白い。
 『Native`s Return』。印象派を彷彿とさせる、微妙な色彩とストローク。ドローイングなどを見るとあからさまだけれども、キュビスムシュルレアリスム的な、面によって構成された〈立体=オブジェクト〉を一背景の上に構成した画面である。一見形態など無いように見えるけれども、描かれているのは形態である。錦糸カボチャのような〈色面=形態〉である。だから、印象派風の色彩とストローク、ホフマン風の色の強度による空間構成といった点を除けば、作画へのアプローチは初期具象絵画の頃とほとんど変わっていないと言える。具象と抽象で本質的にあまり変わりがないと言えば、ガストンの友人であったデ・クーニングもそうである。なかなかいい雰囲気にさせられる絵だけれど、構成のゴールはしばしば視覚的な像(ゲシュタルトによるまとまり)に依存している。なので画面全体としてはユルく感じられてしまう。なんだ、それがオチかよ、というような。おそらくこうした視覚的な像(ゲシュタルトによるまとまり)に支えられることを恣意的で主観的であると、そんな感じで嫌悪して、「主人」の視覚による作品支配を批判するものとしての具象へと向かったのではないだろうか。それはそれとして、だがガストンは、政治的批判が前提として含むはずの、それ自体での権威や価値といった問題について、どう考えていたのだろう、宿敵抽象表現主義と同一視され打ち捨てられてしまったのか、それとも別のアプローチから取り組んだのか。


*今日の画像はゾフィー・トイベル・アルプです