恒例の

日京都初雪、師走忙し。そして年内最終入荷日。ついでに1月1日新譜も入荷済み。クロスビートが英NMEを下敷き&丸写しにしたような年間ベストを掲載していたのにはもう笑うしかなかったが、オリジナリティの欠如があの雑誌の存在意義なのだから仕方のないこと。さて、恒例の選考会。仕事柄、週に最低でも10枚前後は新譜を聴いているわけで、単純計算でも年間500枚を聴ききった上での5枚。ただ今年は割りとすんなり決定。他の495枚がクソだったわけではないが、俵の中の1粒はどう考えても重要に思えない。


No.5 Rachael Yamagata / Elephants...Teeth Sinking Into Heart

Elephants: Teeth Sinking Into Heart

Elephants: Teeth Sinking Into Heart

日系の父親を持つヴァージニアの女性SSW。1stから約4年の空白を経てこの10月にひっそりと発表された2nd。ただし、本作のポテンシャルを充分に引き出すためには日本国内盤を聴いてはいけない。本来2枚の異なる作品をコンパイルし2枚組で発表されたのだが、あろうことか国内盤ではこの2枚が1枚にブレンド。ムードも何もぶち壊しの三流編集盤に変貌してしまっている。よって輸入盤もしくは国内盤の曲順を自分でせっせと入れ替えてプレイヤーに取り込むことを激しく推薦する。そして聴くのはディスク1“Elephants”だけでよい。生音重視で構成された本盤は彼女が本来持っている、影を背負ったようなヴォーカリゼーションと相まって、女性SSWの定説であるシンプル・清潔・素朴の三拍子をこえてこちらにぐいぐいと迫ってくる迫力でこちらを圧倒する。中音域を厚くした音作りのせいかずっと聞いていると微妙に疲れてくるのが残念であるが、『次が楽しみ』とかいう無難な評価を必要としないワン・アンド・オンリーな秀作。


No.4 Xiu Xiu / Women As Lovers
Women As Lovers

Women As Lovers

米インディ・シーンで実直でありマイペースな活動を続けるKill Rock Starsレーベルの功労者。ジェイミー・シュチュワートの躁病めいた歌い方と独特のカリスマ性で知られ、Joy Divisionイアン・カーティスの再来などとも言われている。本年度最も官能的なジャケで発表された本作は、これまでの作品同様に聴いていてひどく落ち込むし毎日聴くような代物ではない。出勤前などもってのほかである。つまり“OK Computer系”であり、こちらのテンション(のようなもの)とコノ音楽がリンクした瞬間だけに訪れる刹那的親近感とその先に微かに漂っている甘蜜のごときポップネスのためだけに聴くような作品なのだ。それをスリルと呼ぶか偏屈自己満リスニングと呼ぶかはヒトそれぞれ。


No.3 Morning Paper / What We Wish
ホワット・ウィー・ウィッシュ

ホワット・ウィー・ウィッシュ

所謂シューゲイザー云々で片付けるにはもったいなさすぎる完成度、っと大見得切って激プッシュしたがあえなく撃沈した作品。夕方以降、耳が肥えていて品性の分かるアダルト層が集う時間帯に店頭演奏するもあえなくスルーされた傑作。すっかりすねてしまって下げたあとに『この前あそこにあったやつないんですか?』と聞かれ手渡すとすぐレジに並んでいったオジサマに狂喜乱舞した名盤。今年の日本でこのバンドを聴いたのは、『ホントにこんなにがんばるの?』とヘラヘラ聞いてきたレーベルのセールス担当者と先ほどオジサマ、そして私だけなのだろうか?本気で疑ってしまうほど空回りした本作だがいまでも、これに反応できなかった連中は皆ニセモノだと心の底から思う。北欧から来た3人組。とにかく甘いメロディと理不尽なホワイト・ノイズ。ヴォーカルは微妙に音痴だが、シンセが乗ったこの残響感には、淡い白昼夢のあれこれが常に漂っている。今年最も思いいれの強い作品かもしれない。


No.2 MGMT / Oracular Spectaclar
まさに日本昔話の世界。コーラスには市原悦子が参加!?(妄想)森の木陰で夜な夜な催されるレイブ・パーティ。リード・トラックの1曲目だけがお粗末な気がしていつもスキップしてしまうが、そのほかは満点。今年の旬は変わり種らしいが、彼らはそんな時流のムーブメントを超越した新たな文化だ。怪しいワールド・ミュージック風のジャケ写に引いてはいけない。ここには総天然色のMGMTワールドが広がっている。“The Youth”の転調ではいつも鳥肌が立つし、“Kids”にはすべての感情を詰め込んで『何でもえぇわい』と開き直れる切なさが溢れかえっている。“The Handshake”のアウトロで踊るもよし、“Pieses Of What”に泣き濡れるもよし。“Weekend Wars”のようなメロディがある限り、ロックは安泰だ。


No.1 Sigur Ros / Med Sud I Eyrum Vid Soilum Endalaust
Med Sud I Eyrum Vid Spilum Endalaust

Med Sud I Eyrum Vid Spilum Endalaust

完璧だと思う。曲、演奏、コンセプト、そして気配りまでもが完璧。とうとう全裸で開放されてしまった彼らだが、これまでの変遷と功績はこの1枚ですべて説明がつく。冒頭曲の反体制アフロ・ビートなリズムで昔からのファンは戸惑いつつも、2曲3曲と進むにつれて口元が緩んできたのではないだろうか?本作が持っているテーマはおそらく開放であり、全裸のジャケ写よろしく前半は軽快で幸せムードいっぱいの楽曲が並ぶ。これまでの作品に代表される反復リズムをベースとした内々に向かうベクトルで楽曲を構築していく方法論はほぼ無視されている。ここには賛否両論あるかとおもうが、後半はより神聖で妖精飛びまくりのあのSigur Rosが帰くる。6分以上の大曲も後半に集中しており、深くて濃い霧の如きサウンド・スケープが存分に楽しめる。ハイライトは“Ara Batur”で聖歌の域にも達せんとする世界観は圧巻。


では何故これがベストなのか?それはコンセプトの明確さだと思う。トップのSigur Rosはもちろん、下位の4枚もアルバムが1つの作品として成り立っている。切り売り上等の現代において、これはやはり嬉しいことであり、MGMTの項で触れた“変り種ブーム”に該当する諸作が持っていないのはこの部分なのだ。あるいはこうした流れへの反動とまとめることができるかもしれない。配信、着うた、youtubeとそれぞれ便利ではあるが、それが便利さを保てるのは“出会いの場”においてのみであり、そもそもそうしたツールでアップされているモノだけのクオリティが高くても、作品トータルとしての質が低く、結果粗悪なアルバムを買わされたり、ライブでも知っている曲だけ盛り上がるような事態となればそれは、逆説的にこれらのツールの利便性をも低下させてしまうのではないか。


おまけ
年間ベスト・プレイリスト
#1 North by North / Faded Paper Figures
#2 A Newer Taste / The Morning Paper
#3 Gódan daginn / Sigur Rós
#4 Chasing Pavements / Adele
#5 On The Safest Ledge / Copeland
#6 Those Dancing Days / Those Dancing Days
#7 Elephants / Rachael Yamagata
#8 I Will Possess Your Heart / Death Cab For Cutie
#9 No Friend Oh! / Xiu Xiu
#10 Kids / MGMT

マンスリー・レビュー

Fotos / Explodieren



に都会的な“わびさび”が効いていて、UKのガキ共みたいにはっちゃけていないところが好印象。今度のTahiti 80のとなりはこれで決まり。ドイツ語が耳にこそばいとは大発見。


Those Dancing Days / Run Run



高校卒業!!1年越し、ようやくアルバムまでこぎつけた。去年のシングルHittenの陽だまりのようなトラックから一転、マイナー・パンク調イントロ〜前のめりなサビでこれぞインディー・ポップなできあがり。


The Little Ones / Ordinary Song



ンバー全員がイケてないくせにこのメロディーは反則。ハモリのパートが最高に気持ちいいが、この爽やかさはカリフォルニアでしか通用しないのでは!?


Friendly Fires / Paris



こまでくるとロックっつーよりファッション。今年のデビュー組でも1番苦手な部類。はい残念。。

続・阿波日記

石海峡大橋が開通して今年で10年になるという。開通当時は場違いな印象を与えていたであろうこの鉄の塊も、10年の歴史がそこここに刻まれそれなりの威光を放っている(件の“窓際”のお陰でこちらはその威光を堪能できていないが)。長距離バスが恐らくその絶景の挿し色となるころ、私は音楽を聴いていた。Coldplayだった。


Coldplayといえば、先ごろ発表された4枚目の作品が企業のCMに使われ、しかもその出来がすこぶる良かったためか一気に日本のお茶の間レベルにまでその名を知らしめることに成功したイギリスの4人組。保守的なアイデアや目に余るセレブ崇拝主義的な側面を嫌った一部の評論家からは酷評されているものの、私はこの作品をあまり悪く捉えておらず、むしろ積極的に擁護したいタチの人間である。


なぜか。それは、この作品が例えるならば“なんだかんだ言いながら結局のところ紅白を観てしまう大晦日の感覚”をもっているからである。純粋に美メロであり、いつものように暗い曲調が大半を占め、歌謡曲的な曲構成が目立つ。ここまでならば三流にも作れる。だがこのバンドはこの作品においてその定石を打破しようともがき、そしてそれにことごとく失敗している。1枚を通して聴き終わると『本当はもうワンランク上のことがしたいのだろうな』と思えて愛らしいのだ。極端な転調や独立した2曲が1つの曲に押し込められているなどのチャレンジは、彼らが投げうる最も果敢な変化球であり、それらが中途半端な仕上がりにとどまっている点が本作の魅力だと思う。変わったことや奇妙奇天烈を装うことは案外簡単で、それをさもオリジナルであるかのようにのたまうHadouken!やLate Of The Pierなどの一派は世間でいわれる以上に脳ミソが小さいのだろう。少し脱線したが、要は特別なものにしようと意気込んだが結局普通に落ち着いた一連のプロセスが見て取れるColdplayの最新作は、それだけで人間の味がするし変人の何万倍も存在する普通の人がダイレクトに共感できる良い例なのではないだろうか。


先だって観た舞洲での彼らの演奏はやはり圧巻であったし、その直前にステージに立ったAlicia Keysを目当てに来ていたと思われる少しやんちゃそうな男女のグループが鼻を垂らしながら立ち尽くしているさまは痛快そのものだった。やはり彼(彼女)らもやんちゃそうではあるがごく普通の人間で、そうした人達を一音で立ち止まらせることのできるバンドはColdplay以外にそう多くいるわけではない。


そんなことを考えている私の目的地では、ちょうど阿波のおどりが開催されている。これもやはり普通の人達へとダイレクトに突き刺さるリズムと音色を持っている。蜂須賀家政の一言で始まったとか、精霊踊りや念仏踊りがその起源であるとかのうんちくは面倒なので譲ろう。なにしろ10年ぶりなのだから。

阿波日記

の休み、日本の津々浦々で帰省ラッシュは発生するが、郷里を目指す者と郷里を離れる者とが入り乱れる稀な路線がある。関西や関東、そして阿波の言葉が飛び交う車中、通路をはさんだ隣の席にはどちらも能面のような顔をした母子が腰掛けていて、その男の子がさっきからギャアギャアと騒ぐので少し不快だった。


もともと長距離のバスは好きなほうで、途中で寝るようなことはほとんどなく、窓越しに過ぎる景色を眺めるのが密かな楽しみでもあった。ところが今回は時期が悪く、窓側の席を確保できていない。おまけに窓から差し込む日差しを気にしてカーテンを閉めたがる大馬鹿者が隣にいたため、これもまたこちらの気分をひどく害した。思うに長距離のバスというものは社会の目とそれに対する遠慮のすべてがつめ込められた、一種の模擬社会のような性質を持っていて、その算段でいくと通路側の席は社会的弱者そのものなのである。


これは見知らぬ他人どうしが偶然乗りあわせた場合のみ成立する構図であるが、例えばいまのように通路側に座った人間がいくらカーテンを開けておいてほしいと願ったところで、カーテンの主導権をにぎる窓側の人間がカーテンを閉めておきたいと思えば、カーテンは自ずと閉まるのである。その逆も然り。通路側の人間からすれば、隣の人間にカーテンを開けさせるための社会通念的に筋の通った理由を持ち合わせていないため無理やり開けることもかなわず、仮に『カーテンを閉めてもいいですか?』の一言があったとしても、『ダメだ』とは絶対に言えないのだ。


またこれは経験測ではあるが、カーテンを閉めたがる窓側の人間にも景色を楽しみたいタイミングが必ずあって、そのときだけ彼らはカーテンを少しめくって自分だけ外を覗き見する。人間がコソコソと自分の既得権益を濫用するしぐさの模範のような光景である。ここまでされると通路側の人間を怒りをこえて自分が惨めに思えさえしてくる。
この日、私の隣の通称“窓側”も道中この醜態を3度ほどさらした。充分予測可能であったからこそ窓側を確保できなかった自分の手落ちに悶々としつつも車はすべりだし、真夏のアスファルトが造る蜃気楼のなかへ流れ込んでいった。


<つづく>

徒然

日、作業中に声をかけられ、その余りに端整な顔立ちと裏腹に隙を感じさせる目付きに気を惹かれ、職務遂行の義務を放棄しかけていたところ、相手が『猫の宅急便はどこか?』と聞くので、ジブリ作品にそうしたタイトルのアニメが存在する前提で応待を続けてしまった。またべつのとき、その日はレディオヘッドのベスト盤が入荷した日だった。大柄な黒人男性がブラックミュージックのコーナーを物色したあとでおもむろにこちらへやってきて、平然を装いながらも自分のつたない英語力を総結集し第一声を考えつつ内心どぎまぎしている私にむかい、『らじおへっどアル??』と明らかに関西人の友達がいる留学生独特のイントネーションで問いかけてきたので、びっくりした私は思わず『ない』といってしまった。


どちらのエピソードも、営利目的の客商売としては甚だ落第だろう。けれども、“猫の恩返し”と“魔女の宅急便”を並べて薦めても彼女は腹を立てただけだろうし、“Radio”を“ラジオ”と発音する和製英語になれた我々であっても、オックスフォード出身の5人組を“ラジオヘッド”とは呼ばないわけで、あのとき私が何も言わずレディオヘッドを渡してやっていれば、彼はその関西人の友達のまえで一生“らじおへっど”とのたまっていたかもしれない。これはこれでありなのだと思う。




The Troubadours / Gimme Love



M83 / Graveyard Girl



Gotye / Learnalilgivinanlovin



Dead Trees / Shelter

妙な1日

たひと月ほど日記をお留守にしてしまった。そのあいだ特に重要なことなどなかったのだけれど、例えば上司の生誕祭に遅れて登場し、所謂遅参者がさせられる乾杯の挨拶で男の上司に愛の告白をしたことが妙にウケたり、少し体を動かしただけで次の日にくる筋肉痛が切なかったり、あるいはざざ雨の日に茨木まで車をとばして滞在時間が移動時間の4分の1という全く非生産的な休日を過ごしてみたり(助手席に座っていた友達はそうでもなかったご様子)、“妙な1日”が多かったような気がする。


そういえば今日、いつもの時間いつもの休憩でいつものハンバーガーの列に並んでいたときのこと。タッチの差で僕より早く列の最後尾に付いた老人が他の客たちをしれっと抜かして、レジから数えて2番目のところまで行ってしまった。ほぼ同時に付いた僕が6番目だというのに。“年寄りだから”という理由で順番抜かしが許される暗黙の了解も嫌いだが、何も気にしていないフリをする老人の得意技はもっと嫌いだ。こちらとしては1秒でも早く買い物を済ませて文字通りの休憩に入りたいという心持のなか、それでも例えこの老人が何番目だろうと僕が6番目なことに変わりはないなどと考えているうちに自分の順番がきた。他人の接客はトロく見えるが自分の番が来るとやり取りはスムーズで一瞬のうちに事が運ぶ。急いで戻る横目、さっきの老人が視界に入る。彼は順番抜かしをしたぶんだけ早く食事にありついていた。ふと彼の手元を見て驚いたことは、その老人はハンバーガーを上下逆にほおばっていたこと。つまり、平べったいパンが上でゴマがのった丸パンが下という具合。そうか、この人は本当に何も気にしていないのかっと思うと妙におかしくなって、含み笑いを噛み殺しながらフードコートを後にした。


あぁ、2時までには寝床に入りたかったのに、気が付けば3時。偶然出会った老人の奇行のせいで、睡眠時間がどんどん削られる。けれど、どうしても書きたかった。どんなに老いぼれたとしても、社会的ルールを逸脱したうえにファーストフードの食べ方まで蔑ろにするような大人にならないためにも。ただ、妙な1日だと言ったところで“妙じゃない1日”の方が少ない感じがするのも事実。変な人や変な天気、変なニュースで平凡な日常は作られていて、時には自分が誰かにとって変な奴になることもありえる。明日も“妙な1日”であることを期待しよう。