これはただの備忘録であり、今後私がこのことを忘れないためのだけに綴る物である。

先日祖父が亡くなった。癌だった。
暑い夏の日だった。本当に暑かった。早朝、電話があり急いで向かおうにも道路は大渋滞。ついたのは一般的な始業時間くらいだった。意識が戻らないと聞いていたが、到着したとき祖父の長男、つまり私から見て伯父に当たる人から「意識戻ったよ、大丈夫だ」と聞いた。確かに病室に入るとしっかりと目を見開き、私たち家族を見ると、手を上げて歓迎しているように見えた。ただ、一ヶ月と少し前、まだ自宅にいたときの元気さからはほど遠い状態だった。あのときはまだ自力で動けたし会話も出来た。が、そのときはすでに、声にならない声を出し、ベッドにただただ横たわるだけだった。
あとは大勢いても仕方がないと言うことで母以外は病室を後にし、私は帰宅した。そのことを今ではすごく後悔している。
帰宅して、無理言って休ませてもらったバイトに今からでも行こうとしたとき、電話がかかってきた。

暑かった、本当に暑かった。もう、急いでも何も変わらないというのに、ただただ気持ちが早く行きたいという気持ちでいっぱいだった。駅までの道を走り、乗り換えの間を走り、少しでも早く、少しでも早く、と思いながら。
もうすでに、息を引き取った後だったが。

病室から運び出されるとき、主治医の先生と執刀医の先生、関わった看護師の方々が病院を出るまでお見送りをしてくれた。最後まで手を尽くしてくれた先生や看護師の方々の心中はいかほどかと察するまでもなく、皆がすすり泣く声が移動中のエレベーターのなかで響き渡っていた。

    • -

幼少期は、夏休みに家に泊まりに行ったり、家族旅行でいっしょにディズニーランドに行ったりもしていた。中国の演奏旅行にも一緒に行った。学校行事にきてくれることもあった。かなりつきあいが親密であったことは確かだ。

祖父は、それはそれは酒が好きだった。朝から日本酒や焼酎をのみ、昼も酒、夜も酒、と、とにかく酒を飲む人だった。学校行事などでうちにくるときもワンカップを道中で買ってきて飲んでいた。80歳超えたらディズニーシーいこうね、とかいっていた。あそこは酒が飲めると聞いていたからだ。中国に行ったときも、紹興酒の本場、紹興市だったこともあり、おいしいおいしいと飲んでいたこともよく覚えている。
私が二十歳を超えたら、いっしょに酒を飲みたいと言っていた。祖父は孫と酒を飲むのが楽しみだったようだ。うちの母が祖父母の子供のなかで末っ子と言うこともあり、うちの兄妹が孫のなかで一番若かったのだ。なので、私たち兄妹が飲めるようになるまでは長生きしてやるという意思の表れでもあったのでは、と今は思う。しかし、私が二十歳を過ぎてからは、多忙などを理由に会いに行けることはほとんどなかった。あと私があまり酒を飲めないこともあって、祖父の願いを叶えられなかったことが今では一番の心残りになっている。最後に祖父母の家で会った祖父は、最後の入院の数日前。そのときはもうすでに祖父は、あれだけ好きだったお酒を一滴も飲めずにいた。

    • -

葬式は親族だけで粛々と執り行った。生前からあまり大騒ぎするな、別に誰にもつたえんでええ、と言っていたようで、親戚でもほんの一握りしか伝えられていなかった。頑固な祖父らしい、といえばらしい話である。
祖父母の家の近所の葬儀屋で執り行ったこともあって、まるで家でくつろぐかのような、暖かな葬式になったようなきがする。祖母方の親戚がもともと九州のほうで、それはそれは酒を飲む。ビールをいくら買ってきても足りないくらいに飲んだ。これも、祖父の供養だと言いながら。生前もよくいっしょに飲んでいたようだ。
柩のなかには、病室でやっていた漢字クロスワードの本や鉛筆、愛用の万年筆と愛用の団扇、普段着を着せ、普段はいていた靴をいれ、愛用の帽子をかぶせて、あとはめがねをいれた。向こうでも不自由なく好きなことが出来るようにと。そして最後には皆で酒を飲ませた。あまり多い物は困ると言われ、よく飲んでいたワンカップを用意して。もちろん私も。本当はいっしょに飲めたらよかったんだ、と心の中で激しく後悔をしながら。私から見た従姉妹からきていた弔電が私のその気持ちをいっそう強くしていた。その弔電には「じいちゃんと一緒に飲んだお酒は本当に楽しかった」とあった。どうして私は…という気持ちが消えずにいる。

    • -

生あるもの、いずれ死がきたる、といわれ、それをこの機会にどう見つめるかが重要である、と教えたれた。いつもは当たり前と思っていることも、当たり前ではなく、終わりがあるのだ、と。
正直、こんなに早くこのときが来るなんて全然考えていなかった。去年の末から入退院を繰り返していたことは知っていたけど、一ヶ月少し前に会ったときには、まだまだ元気なように思えていたので余計かもしれない。後から聞けば、実は何もかも遅かったのだ。発見自体が遅れ、しかも癌が出来た場所が悪かった。なので程なくこのときが来るのはわかっていたのだ。ただそれを私が受け止め切れてなかっただけで。
これからはわたしにできることをしよう。出来れば家と同じ市内、できるだけ近くに供養してあげたい。祖父母がお互いに近い方がいいだろうと思ってのことだ。そのために私はそのようなところがないか探すことにする。祖父の願いを叶えられなかった私の償いになれば、と思って。

これはただの備忘録であり、今後私がこのことを忘れないためのだけに綴る物である。

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先日祖父が亡くなった。癌だった。
暑い夏の日だった。本当に暑かった。早朝、電話があり、急いで向かおうにも道路は大渋滞。ついたのは一般的な始業時間くらいだった。意識が戻らないと聞いていたが、到着したとき祖父の長男、つまり私から見て伯父に当たる人から「意識戻ったよ、大丈夫だ」と聞いた。確かに病室に入るとしっかりと目を見開き、私たち家族を見ると、手を上げて歓迎しているように見えた。ただ、一ヶ月と少し前、まだ自宅にいたときの元気さからはほど遠い状態だった。あのときはまだ自力で動けたし会話も出来た。が、そのときはすでに、声にならない声を出し、ベッドにただただ横たわるだけだった。
あとは大勢いても仕方がないと言うことで母以外は病室を後にし、私は帰宅した。そのことを今ではすごく後悔している。
帰宅して、無理言って休ませてもらったバイトに今からでも行こうとしたとき、電話がかかってきた。

暑かった、本当に暑かった。もう、急いでも何も変わらないというのに、ただただ気持ちが早く行きたいという気持ちでいっぱいだった。駅までの道を走り、乗り換えの間を走り、少しでも早く、少しでも早く、と思いながら。
もうすでに、息を引き取った後だったが。

病室から運び出されるとき、主治医の先生と執刀医の先生、関わった看護師の方々が病院を出るまでお見送りをしてくれた。最後まで手を尽くしてくれた先生や看護師の方々の心中はいかほどかと察するまでもなく、皆がすすり泣く声が移動中のエレベーターのなかで響き渡っていた。

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幼少期は、夏休みに家に泊まりに行ったり、家族旅行でいっしょにディズニーランドに行ったりもしていた。中国の演奏旅行にも一緒に行った。学校行事にきてくれることもあった。かなりつきあいが親密であったことは確かだ。

祖父は、それはそれは酒が好きだった。朝から日本酒や焼酎をのみ、昼も酒、夜も酒、と、とにかく酒を飲む人だった。学校行事などでうちにくるときもワンカップを道中で買ってきて飲んでいた。80歳超えたらディズニーシーいこうね、とかいっていた。あそこは酒が飲めると聞いていたからだ。中国に行ったときも、紹興酒の本場、紹興市だったこともあり、おいしいおいしいと飲んでいたこともよく覚えている。
私が二十歳を超えたら、いっしょに酒を飲みたいと言っていた。祖父は孫と酒を飲むのが楽しみだったようだ。うちの母が祖父母の子供のなかで末っ子と言うこともあり、うちの兄妹が孫のなかで一番若かったのだ。なので、私たち兄妹が飲めるようになるまでは長生きしてやるという意思の表れでもあったのでは、と今は思う。しかし、私が二十歳を過ぎてからは、多忙などを理由に会いに行けることはほとんどなかった。あと私があまり酒を飲めないこともあって、祖父の願いを叶えられなかったことが今では一番の心残りになっている。最後に祖父母の家で会った祖父は、最後の入院の数日前。そのときはもうすでに祖父は、あれだけ好きだったお酒を一滴も飲めずにいた。

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葬式は親族だけで粛々と執り行った。生前からあまり大騒ぎするな、別に誰にもつたえんでええ、と言っていたようで、親戚でもほんの一握りしか伝えられていなかった。頑固な祖父らしい、といえばらしい話である。
祖父母の家の近所の葬儀屋で執り行ったこともあって、まるで家でくつろぐかのような、暖かな葬式になったようなきがする。祖母方の親戚がもともと九州のほうで、それはそれは酒を飲む。ビールをいくら買ってきても足りないくらいに飲んだ。これも、祖父の供養だと言いながら。生前もよくいっしょに飲んでいたようだ。
柩のなかには、病室でやっていた漢字クロスワードの本や鉛筆、愛用の万年筆と愛用の団扇、普段着を着せ、普段はいていた靴をいれ、愛用の帽子をかぶせて、あとはめがねをいれた。向こうでも不自由なく好きなことが出来るようにと。そして最後には皆で酒を飲ませた。あまり多い物は困ると言われ、よく飲んでいたワンカップを用意して。もちろん私も。本当はいっしょに飲めたらよかったんだ、と心の中で激しく後悔をしながら。私から見た従姉妹からきていた弔電が私のその気持ちをいっそう強くしていた。その弔電には「じいちゃんと一緒に飲んだお酒は本当に楽しかった」とあった。どうして私は…という気持ちが消えずにいる。

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生あるもの、いずれ死がきたる、といわれ、それをこの機会にどう見つめるかが重要である、と教えたれた。いつもは当たり前と思っていることも、当たり前ではなく、終わりがあるのだ、と。
正直、こんなに早くこのときが来るなんて全然考えていなかった。去年の末から入退院を繰り返していたことは知っていたけど、一ヶ月少し前に会ったときには、まだまだ元気なように思えていたので余計かもしれない。後から聞けば、実は何もかも遅かったのだ。発見自体が遅れ、しかも癌が出来た場所が悪かった。なので程なくこのときが来るのはわかっていたのだ。ただそれを私が受け止め切れてなかっただけで。
これからはわたしにできることをしよう。出来れば家と同じ市内、できるだけ近くに供養してあげたい。祖父母がお互いに近い方がいいだろうと思ってのことだ。そのために私はそのようなところがないか探すことにする。祖父の願いを叶えられなかった私の償いになれば、と思って。

夜中の誘惑

ふと小学生の頃を思い出すと、あのことは夜更かしなどもってのほか、21時以降のドラマも見させてもらえずに、なかなか悶々とした記憶がある。21時には寝なさいと親にしつけられたためである。
中学生になるまではそんな感じ、中学生になって、21時以降のドラマも見れるようになったが、せいぜい23時には寝ていた。
その当時と言えばゲームハードではスーパーファミコンの時代だったが、我が家にSFCなんてものは無く、友人達がドラクエの話などをするのがうらやましくて仕方がなかった。その後なぜかゲームギアがやってき、その後はゲームボーイ、中学生以降でプレイステーションだっただろうか。どれもずいぶん遅くやってきた記憶がある。


私は回転寿司屋でバイトをしているが、もうかれこれ8年ほどになる。8年もやってると変わること、変わらないこといろいろ出てくる。その中でも特に変わった、と感じることがある。それは「客層」である。
単に「客層」と言うと、子供から大人まで幅広く来店しているが、そういう話ではない。時間帯別による客層の話である。
うちの店は22時30分入店ストップの23時閉店である。特に変わったところのない、普通の営業時間である。
最近では、24時間営業の店も増えて来ており、労働時間も様々だろう。そのせいもあってか、ここ数年、閉店間際に来店されるお客さんも少なくない。それはある意味で売り上げは上がるし喜ばしい限りではある。
しかしながら、その客層を見ていると時々首をかしげたくなることがある。


それは、閉店間際に来る子供づれの家族、である。


一見するとほほえましい光景に見えなくもない。事実、ほほえましい家族も多くいるが、すべてがそうではない。
親だけが食事をし、子供は何も食べずに暇そうにして、あげく寝てしまうところ。それがめずらしい、とか言う数ではない程度に来るのである。小学生、中学生くらいまでならまぁまぁ普通か、とも思えるのだが、幼稚園、保育所くらいの年齢の子供までいたりする。そういう子供は大体暇そうにしてそこらじゅう走り回りはしゃぐか、ぐったりしているかのどちらかであることが多い。
ふと思い出せば、冒頭のような生活を送っていたせいか、どうも違和感を感じざるを得ない。私の中での幼少期の夜更かしと言えば、ベッドの中でこっそりと聞く深夜ラジオが限界であった。それは今では、普通に起きてテレビを見たりゲームをしたり、外食に行く、と言うことが普通なんだろうか。


私は幼少期我慢した(と思っている)おかげで、今夜更かしすることが贅沢で仕方がない、とまで思ってしまう。押さえつけられていたモノが解放されるときに快感は、まず押さえつけられないと味わえないモノである。
しかし、今、何の不自由もなく、ほしいものが手に入り、やりたいことができる環境で育つ子供が、将来大人になって、不自由な思いをしたとき、それを乗り越えたときに得られる快感に気づくだろうか。
私の考え方が古すぎるのかもしれない。豊かな世の中になったと言われる現代、私もその渦中の人間だろう。それより昔の辛かった時代を生き抜いてきた方々と比べるとおこがましいくらいである。


もし、自分に子供ができたなら、こう育てたい、と言う漠然とした思いはある。それらの多くは自分の親にされたしつけから来るモノがほとんどである。当時はそんな夜更かしもできない家が嫌で仕方がなかったのに、不思議な話である。それは、今の歳になって、あぁ、あのときああいう風に育ててくれてよかった、と思えるようになってきたからなのだろう。


今、小さな子供を持つ親はどう思うのだろう。正直今年の誕生日を迎えると四捨五入で30になる私だが、同級生や友人知人には子供のいる人も少なくない。いわば、小さな子供を持つ親と同年代、と言うことになる。
私の考え方が正しい、とはいえ無いと思う。考え方はいろいろだ。しかし、どこか釈然としない。本当にいいのだろうか。


バイトをしていると、昼間来る、常連のお客様に小さい子供をよく連れてくる方が2組いる。2組とも子供が食事をしている間、隣のスーパーで買い物をしているようである。かたや、食事が終わると椅子で暇そうに遊んだり、店内を走り回ったりする。かたや、食事が終わると握りしめた500円玉でお会計まで済ませ、母親が帰ってくるまで椅子に座って待っている。
500円を握りしめた彼は、一体何時に寝ているのだろうか・・・。

時過ぎたるは早し

きっと最近日記を書かないのはtwitterのせい。と、人のせいにしてみる。
ちょっと思うところがあって昔の日記をちょこちょこ読み返してるんですけど、やっぱり私には文才がないなぁ。読んでても全然おもしろくない。ひどい、ひどすぎる。自分でも何とかしたいと思うよ、一応。

別におもしろいことも何も無い。気づけば結構時間が過ぎてたりして、あぁ、あの頃はいろいろあったなぁ、なんて感傷に浸ったり。今更後悔することもあったりするけど、まぁ、私は元気です、はい。
遊びたいですね・・・はい。

ずいぶんと放置

なんだか完全に放置モードですね。朝比奈です。

別にこれといって書くこともないんですけどね(笑。
まぁ、相変わらず大学は卒業の危機。やばいです。ちょーやばいです。

それに伴い、同人活動も休止状態ですね。いやまぁ、もっと生産的じゃない活動はしてますけど(笑。
まぁ、そんなかんじ。

なつやすみー

気がつけば8月。ご無沙汰な朝比奈です。
同人活動は地味にフェードアウト。社会人になっても余裕があれば続けたいけど、まぁ、無理かなぁ?
そんなこんなで、今年の夏コミはスルー。ってもうそんな時期なんだなぁ…。


ところで、8月に入った事で、一気になつやすみー、といいたいところですが、前期試験、あまりにも芳しくなかったため、コレはかなりピンチな状況。さらに夏休み中も絶賛卒研だし、内定者教育でグループワークとか、もう夏休みなんて名前だけですよ、マジで。


とりあえず誰か、単位ください。マジで。このままではまた留年してしまいます…。そして、今年度限りで父が仕事やめるそうなので、来年も、なんて事、怖くて言えないとです…。はぁ、何も考えずに遊んでいたい…。

WILLCOMのお話2本立て

http://pc.nikkeibp.co.jp/article/news/20080526/1003327/
http://d.hatena.ne.jp/yamadaatmn/20080527/1211899045
一つ目は、GSM方式のW-SIMの話。国内で使う分にはあまり関係なんですけど、むしろW-CDMA方式のW-SIMも開発されてるところにびっくり。これが実現すれば、携帯電話開発にも少し変化があるかもしれないですね。
二つ目は、WILLCOM 03のお話。搭載されるFlashはバージョン8相当って聞いた気がするんですけど、それでニコ動をサポートするとなると、MP4は足切りって感じでしょうか。まぁ、どうせハード的にかなり厳しいですし、第一PHSの速度では到底厳しいですしね。現実、Adv/[es]YouTubeはみれるはずなんですが、実用的じゃないですし。私がEeePCを買った一番の理由は携帯端末(私の場合はAdv/[es])でニコ動がみれないから、という不純な動機なんですから(笑。結局相当難しいはずですよ。

それはそうと、03は魅力的な機種ですね(笑。
もし、Adv/[es]に縛られてなかったらこれは変えてたでしょうね。たぶん。特にBluetooth搭載は大きいと思います。うん。
しかし、ガラパゴス諸島を目指さないってのはわかるんですけど、今のままであって欲しいと思う人もいるでしょうね。少なからず。