about her routine work

高岡です。妻母事務員。日々の考えを整理しています。

コップのふちと言語化に助けてほしい話

 

私は私服で仕事する転職後の新入り事務員なのですが、この間、制服ありの別の職種のおそらく三十路には差し掛かっていない2人の人に「その格好で仕事できます?」「その格好じゃ仕事でけへん」と言われたんですよね。白いシャツ、黒のひざ下スカート、チャコールのジャケット。全部ほぼ無地。何を言われてるのか最初は全然わからなかった。

 

ということがあって、なんだかショックで、ショックだったことがショックだったので、それについて思ったことを書いてみたいと思ったのが最後の一押しでたまった水がコップのふちまできて、ブログを再びやろうと思ったのです。

 

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「戦わないけど仲良くしない」

というのが正しいのかなと考えた。


会社で家庭で暮らしの中のいろんな場所で、他人とかかわり、やりとりする。元気な時疲れてる時でうまくいったりエラーがあったり。お互いの領域、パーソナルスペースをはかって、場所と関係性に見合った接触をする。その中で、時に、突然事故のように他人の何かをぶつけられることがある。八つ当たり、悪意、踏み込みすぎた何か。本当に突然脳を殴られたようなもので、冷静な対処などできたためしがない。取り乱さずいるだけで精一杯で、言い返してやりこめるなんて、ドラマのようにはいかない。

 

そう多いわけでもない(と思われる)その機会に出くわすたびに、いつも胸にじんわり嫌な泥が広がる。怒りと理不尽と悲しさを感じているといえばその通りだけど、一言で言えば衝撃なんだと思う。思ってもみない何かがごりっとぶつかってきました、なぜ?という。衝撃に揺さぶられたら、なかなか揺れが収まらない。

 

私の悪いところで、そんなこと気にしなくていいし、人をサンドバッグにしてんじゃないよとまっすぐ怒ってもいいし、心で毒づいて流しておけばいいし、要するに一大事ではないのに、ぶつけた他人は気にしていないのにぶつけられた方だけ気にしても自分に害であるだけなのに、そんな理屈はすべてわかっているのに、衝撃で2~3日ぼーっとしてしまって、そのショックからなかなか立ち直れない。 

 

ひとつひとつそんな大事に取り上げてしげしげと眺め続けるなんてずいぶんと余裕があるんですねと、自分に皮肉を言いたくなる。いやほんとにねぇ。そんなこと気にし続ける体力があるんですね。いや、ありません。むしろそれが気になって他のことが手につきません。なおさらだめです。本当にその通り。

 

私は勤勉ではないし努力家ではないしそんな褒められるような生き方はしてきてないけども、それでも自分として妻として母として社会に生きてる人間として、自分なりに一生懸命やってはいるつもりなので、よくわかってない他人にちょっとつつかれたくらいでぐらぐら揺れるなんて悔しい。どうでもいいなら無視できるはずなのに、どうしてそんな当たり屋行為的発言に、そしてそれを言った他人に対して、価値を見出して、脳と時間を支配されてしまうのか。しかも自ら進んで。

 

私はこども時代に家族や周囲の人間にけなされあざ笑われ続けてきたことと、そのことがずっと苦しく全体的にフリーズした日々を過ごしていたことに、自分が出産するくらいの年になってやっと気づいたベースがある人間で、だから、ずっと無意識に他人はみんな神様だった。他人の気持ち一つで地獄に行くから息をするのと同じくらい普通に他人の顔色をうかがうことをしてきて、何もしていなくても常にあせっていて、その焦燥的な気持ちをなんとかしたくて、調子にのって空回って結果やっぱり冷たい目で笑われていた。

 

そんなこれまでがあって、諸々のいびつさに気づいて必死に自分の苦しさに向き合いだしてからの時間があって、そしてそれから、何もなくなったように生まれ変わった人生となるわけがないけども、でも中年となった私は大体自分の使い勝手というか陥りがちな傾向をつかんできた。些細なことに揺さぶられながらも、ああうんこれわかる知ってる、と思いつつ、前よりは落ちきる手前で、前よりは浅めのところで、少しずつ自分を取り戻して、なんでショック?どうしたい?何を思ってる?と胸に手をあててみる。

 

人生少しずつ楽になっていっている。体力と代謝を失ったけれども、余計なものもはがれていっていると思える。化粧も今の方が楽しい。いろんなものに翻弄されてきたし、いろいろよくわからなかったけど、今の方が自分の好みがわかって落ち着いて自分自身の気持ちを自覚できるところが楽しい。まだ揺れるし乱れるしやらかしてしまうんだけどね。何の話をしてたんだったかな。あぁ他人の当たり屋話。あなたは、なんでただたまたま行き会っただけの人間に、何かを言ってもいいと思ってしまったのかな。あなたに関係ないよねぇ。関係ないそれを距離感すべてぶっちぎってでも言ってしまいたいのはなぜ?そう言いたいそれを欲してしまう何かがあなたの中にあるのでしょうか。でもそれはあなたの問題だと思うんです。泥かけられていい迷惑です。仕事として言わなくてはならないことならちゃんとそう伝わるように言ってください。仕事上言う必要があることだとして、それを言うのは私の上司から私に言うべきではないでしょうか。

 

言いたいことは後からわいてくる。結局私はその場では言えなかった。その時言えなかったのは自分のせいなのだけど、この後から思う、もやっとしたのの中身はこういうことだった!言えなかった!クソがー!という感情のやるせなさ。これにはいつまでたっても慣れない。まぁそれはそれとして。一通り分解が終わったら、次の一手を考えようというやつです。次やつらと出くわした時、次関連アクションがあった時、どうする?という。本件で二度臍を噛む思いはしたくない。私が至らず・・・とか言いつつ上司へ自省的態度で報告とかしてもいいけど、結果には嫌でも自分も巻き込まれるわけで、大ごとにするとどうなるか、というより何がより今後にとって良いのか考えるべき。ど真ん中からズドーンとつっきって相手も自分も大けがあちこち火だらけ!では困るのです。そこまでの案件ではない。

 

 

と考えたけど、相手が何が言いたいのか結局わからないので、対策しようがない。地味な服にそれあかんと言われたという事実が残る。スカートがいやなのか?私の職種は制服ならスカートしか見かけないし、あなたの職種も関連である別の身内の職場は制服スカート使ってる人いますが。

 

社会人って基本的に極力もめないようにするもんだと思っていて、例えば何か問題があってもすぐ上の上司に報告だけしてあとは判断してもらうとか、手順を踏んで可能な限り穏便にやるもんだという考えを持っている。進んで火種を作らない。問題はわりと起こってしまうんだけど、下同士でやりあっても意味がないので、そこを立場と責任のある人に判断してもらって現状維持でも進言するでもある程度平和に沙汰してもらう、上司の皆様におかれましては面倒かもしれませんがそのためのあなたたちの役職手当ですくらいに思っていた。今回は、そこをそれこそど真ん中からズドーンとつっきってこられたのでやはり衝撃でした。

 

私は、自分が不当に何か言われたとしても、自分の方から相手との関係を修復しないとと思ってしまうところがある。そして空気とタイミングを読んで実行する。これは私自身の問題で、何の理由もなく不当なことを言われたら、相手が何かアクションを起こすまで普通に内心怒り続けていたらいいのに、なんかもうさっさと解決したいの。相手も気まずく思っていても何となく何も言ってこず、すわりの悪いままモゾモゾと時間が過ぎていくその居心地の悪さに耐えられない。私も少しは成長したので何もなかったことにはしないしさらっと言及して少しちくっとは言うけども、それはそれだけ。これまでは。だけど、もうそんなことはしたくない。今回相手が何を言いたかったのかわからない。他人の考えなんてわからないし、言葉にして口に出した以上のことは、私にはわからない。口に出されたことだって意味がわからない。私にとって今回のことは自分の基準をこえたもので、理不尽だと感じている。だから自分から当事者の相手に対して何かしない。上の人には機会があればちょろっとこぼすかもしれない、くらいかな。

 

でも次の一手はいるんですよ。困ったもんで。で、考えたのが冒頭の「戦わないけど仲良くしない」。仕事はコミュニケーションから、コミュニケーションは笑顔から、的なことをハチクロの真山くんが言っていたけども、私も少なからずそう思っていて、やりとりして確認して進めていくのが仕事で、むすっとした人よりむすっとしてないように見える人の方が話しかけやすい、要するにやりやすい、と思ってもらった方が円滑。無駄を省きたいので余計な心労や気がかりはなくせるものはなくしたい、そのための愛想は必要だと信じてるけど、相手が心象悪い言わんでいいこと言ってきたのに、そうではありますがこちらはこちらとして引き続き愛想よく相対させていただきますというのは、できるひとはやればいいけど、本件に限って言うなら私は嫌。

 

いきなり大げさなようだけど、私は、これまでの人生で、言いたいことは言えないし、怒れないし、無駄なしなくていい我慢をしてきたことを、すごく悔いている。言えないのはフリーズしていたからでもあるし、他人にどう思われるかただただ怖かったからでもある。自分の気持ちを話すその必要性重要性を認識もしていなかった。自分を押さえつけてきたのは自分で、だけど、言えないということ、自分の思いをないものにするということ、そのつらさを自分の経験として知っているつもりでいる。もう無駄な我慢はしたくない。自分の感情を殺すとろくなことがない。自分のことを知れば知るほどそう思うようになっていた。

 

偉そうに言ってしまったけど、これからだって必要があったり恐怖が勝れば私は下出に出るし卑屈になるし平気で自論をひっくり返すと思う。だから今回だってやっぱり無理でしたーとすぐさま弱気なことを言ってしまうかもしれない。それとは別の話、衝撃波が落ち着いたその時、次にやってくるのは、やっぱり当たり前だけども、理不尽に言葉で殴られた怒りなんです。殴った方はそこまで気にしていない、殴られたこちらだけがダメージを負い、その痛みに耐え回復するコストをも負う。穏やかな気持ちで過ごせるはずだった時間を奪われる。なんて理不尽。起きてしまったこと、望まないのにぶち上げられた事態を、ある程度問題ない形に着地させてまた日々を続けるコスト。大げさな言い様だとは思わない。気にしすぎる方が悪いと言うなら、距離感誤ってかかわってくる方が悪いと先に言え。我慢してきたこれまでがあるからか、もしくはご覧のとおり根暗な性質だからか、嫌いになったらどこまでも呪詛を吐けてしまう。他人のふるまいや自分の感情に振り回されすぎてしまう。これは私の課題。策はまだない。

 

感情と思考のいろんなターンを経て、久々に自分自身にある呪いやルーツをじりじり感じながら考えた結果、相変わらずショックを受けて言い返せなかったけど、問題にされたことについて現時点で自分は間違ってないと思うし、人に何か言われてもそこまで気にすることはないし、何しろ仕事はきっちりやってるし、実は本当は自分が間違っていたとわかるその時がきたらまた考えるけれども、今は堂々としていることにした。味方になりそうな人がいる部署配置ではないので不安は絶えないけど、でも、やってみましょう。スカート上等。自分が抱えなくていいことまで抱えて勝手に苦しまない。合言葉。そしてさっき騒動を着地させないと的なことを言ったけども、いろいろ勝手に察して勝手に動かない。静観する胆力を養う。いろいろあるね!

 

日記として文章にしてみたら多少気持ちが軽くなった。対話や言語化でかたちのなかった感情のかたまりが見えて整理できる。これはこれからもきっと私の助けになる。夫も話聞いてくれていつもありがとう。把握して進みたい。自分の感情の根を知りたい。そのためにひねり出すし、熱量と重量にふさわしい言葉を探せる、探してる限り大丈夫なんです。