聖セバスティアヌスの系譜


画像はAmazon.co.jpより(http://www.amazon.co.jp/dp/B0000026TR/)。
現代の商業的・大衆的なヴィジュアルの中に現れ出た「聖セバスティアヌス」イメージについては、こちらのブログ記事が幅広く網羅している→http://d.hatena.ne.jp/HODGE/20080224
腕を上方で縛られ、無表情に斜め上を見ている殉教者のポーズは、グイド・レーニの《聖セバスティアヌスの殉教》以降お馴染みのものだ。(三島由紀夫のお馴染みのセミヌードも、このグイド・レーニスタイルを踏襲している。)しかしピート・バーンズの場合、身体に矢が刺さっていなかったり、下半身が薔薇に覆われていたり(キリスト教のイコノグラフィー上は、薔薇は聖母マリアの象徴であり、聖セバスティアヌスに使われるのはちょっとおかしい)、いろいろと勝手に改変されている。グイド・レーニでは少し身を捩った正面像なのに、ピートはほぼ横向きになっているし。ここでは受苦も法悦も希薄で、セバスティアヌスは単にホモセクシュアルなエロティシズムや、異端や倒錯という言葉がもつ「耽美的」な性質を喚起するために援用されているようだ。
聖セバスティアヌス像がいつ頃からホモ・エロティックな含意を持つようになったのかは、寡聞にして知らない。(おそらく専門的な研究は出ているだろう。)ただ、「passion」がもつある種のエロティシズムも、「お耽美」なアイコンとして殉教図が流通する要因になっているのではないだろうか。
ピート・バーンズと言えば、現在ではむしろ、過剰な美容整形手術依存によってフリークスになってしまったかつてのスターとして有名なのではないだろうか。昔日の写真やプロモーション・ヴィデオなどを見ていると、いったいこれ以上どこを美しくするつもりだったんだ?と思ってしまうが(むしろ彼がライバル視していたというボーイ・ジョージの方が、鼻を削った上でもう少しダイエットすべきだったんじゃないかと思うが)、頂点を極めてしまったことへの不安(つまり、社会での自分の位置づけや、アイデンティティにまつわる不安)が、自分の「顔」への不安へと横滑りしてしまったという点は、「顔」のシンボリズムを考える上で非常に面白い。「顔(face)」は社会や他者と向き合うときのfaçadeなのだろう。(整形依存と類似した症状に、過剰なダイエットが帰結する摂食障害があるが、これは社会や他者の視線が、不可視の「コルセット」になっている例なのではないかと思う。)ちなみに、先日から熱くピート・バーンズについて語っているけれど、自分はどちらかと言うとボーイ姐さん派。