河童だわ

Uさんが五歳の甥と散歩に出かけた。
利根川の支流、小野川沿いを二人で歩いていると、川岸に繁った草むらの一部がガサガサ動いている。
何かいるのかと土手の上から眺めていると、草の中からヌッと顔を出したものと視線がぶつかった。
それが人かどうか、よくわからなかったという。
毛のない、ぬるりとした頭。
肩から下は草に隠れて見えないが、草丈からすると身長は甥より少し大きいくらいだろうか。
鼻や口がどんなものだったか、耳があったかどうか、後から思い返してもよく覚えていなかった。
ただまん丸な目の大きな瞳がじっと見つめてきた印象が強く残った。
ずいぶん長く感じられたが恐らくはほんの数秒間、互いに凍りついたように見つめ合ってから、不意に向こうが身を翻して飛び上がった。
ギャーッ!
鷺のような鳴き声を上げながら大人の身長くらいの高さまで一気に跳び上がり、そのまま水しぶきを上げて川へと飛び込んでいった。
大きな波紋が川面に広がっていったが、何も浮かび上がってこない。Uさんは甥の手を握ると急いで引き返した。
ねえあれ何、と甥は興奮していたが、Uさんにもわからない。河童じゃないかな、と出任せを言った。
家に帰って両親に川で見たものを伝えると、そりゃあ河童だわ、と口を揃えた。
よくわからないものについて出任せを言う癖は親譲りだなと、Uさんは我ながら呆れたという。

握り歯

Rさんが中学生の頃、家族のアルバムを見ていてふと気づいたことがあった。
赤ちゃんの頃の自分の写真では、手首にお守りらしきものがくくりつけられているのだ。物心つく前のことだから自分では全く覚えがないのだが、その頃の写真では常に自分の手首にお守りがついている。写真を見る限り、三歳頃まではずっとそれが続いていたようだ。
両親は特に信心深い性格ではない。それなのに自分の子にお守りをずっと着けておくのは何か理由があったのだろうか。
疑問に思って尋ねてみると、両親は眉間に皺を寄せて目を見合わせると、赤ちゃんだったからね、何も覚えてないよねと言った。

 


両親の話ではこういうことがあったらしい。
Rさんの一歳の誕生日よりひと月ほど前のこと、ベビーベッドで眠っていたRさんが目を覚ましたようなので抱き上げようとしたところで、母はRさんが左手に何か握っていることに気がついた。
指をそっと開かせてみると、変なものが出てきた。
歯だった。
太い歯根のついた、人の歯だ。
母は思わず投げ捨てようとしたのを堪えて、ティッシュに包んでおいた。一体誰の歯だ。なぜうちの子が握っているのか。
その時家にいたのは母とRさんだけ。Rさんに近づいた人間は他にいなかったはずだ。
仮に誰かがRさんに握らせたのだとしても、意図がわからない。
Rさん自身の歯のはずはないし、家の中にそんなものが置いてあったはずもない。
空中から歯がひとりでに現れるはずもなく、不気味で仕方がなかった。
後で帰宅した父とも相談したが、歯がどこから出てきたかは全くわからない。とにかく戸締まりは厳重にしておこうということになった。
しかしそれから数日後にまた同じことがあった。状況は同じで、家で眠っていたRさんがいつのまにか人の歯を握っている。
やはり誰かが家に入ってきたとは考えられなかった。今回の歯も前回同様に歯根のついた大人の歯だ。
ベビーベッド周辺にもちろん歯など隠してあったりはしない。どこから、いつのまに現れたのか見当がつかなかった。
警察にも相談したが、応対した警察官は困惑した様子で、一応巡回は増やしますので戸締まりをしっかりしてくださいと言われただけだった。
そこで両親は相談の上、Rさんを連れて神社に行った。二本の歯を見せると神主はぎょっとした表情を浮かべたが、その場でお祓いして御札とお守りを授けてくれた。
御札はベビーベッドの近くの壁に貼り、お守りは神主の言う通りに歯を握っていた手に巻き付けた。持っていった歯は神主がお祓いしておくというので渡した。
それからは同様のことは一度も起こらず、お守りはRさんが三歳になってから紐が切れて落としたのか、気がつくとなくなっていた。
お守りがなくなったことでまた再発するのではと心配したが、特に変なことは起こらなかったという。

 

そうめん

Sさんが友人の住むアパートを訪ねたときのこと。
昼時になったので、何か外に食べに行かないかと友人に提案した。
すると友人は、昼はそうめんにしようと思ってたんだけど、と言う。
折角だからもっといいもの食べに行こうぜとSさんが言うと、そろそろそうめんにしないとうるさいんだよな、と友人は渋る。
うるさいって何が? と尋ねると友人は子供がうるさいんだよと言う。
友人はひとり暮らしだ。誰の子供がうるさいのだろう。近所の子だろうか。
それがそうめんとどう関係あるのか。
重ねて質問しようと口を開きかけたときである。
「そうめん」
部屋の中で声がした。子供の声だ。
しかしそこにいるのは友人とSさんだけ。
「そうめん」
もう一度聞こえた。空耳ではない。
何この声、と訝しむSさんに、友人は昼食の支度をしながら説明してくれた。
この部屋に引越してきてからというもの、時々部屋の中であの声がする。周囲に子供の姿はない。
スマホで録音しようとしてもなぜか録れないが、はっきり聞こえる。
無視しているとそのまま繰り返されるが、言葉のとおりにそうめんを食べると静かになる。
数日置くとまた聞こえるので、その都度そうめんを食べる。だから友人は週に二度ほどそうめんを食べる生活を続けているという。


お湯が湧いて麺が茹で上がるまで、子供の声は更に三度ほど聞こえたが、食べ始めてからは確かに聞こえなくなった。
お祓いでもしたほうがいいんじゃないの、とSさんが言うと、友人は首を横に振った。
そうめんは嫌いじゃないし、他に害はないから気にしてないんだ。そう言ってそうめんを啜った。
友人はその四年後に結婚して家を買うまでその部屋に住み、そうめんを食べ続けたという。

黒いボール

Wさんが商談で宇都宮に行ったときのこと。
相手のオフィスはビルの六階にある。エレベータを降りて廊下を進んでいくところでふと窓の外に目をやった。
隣のビルの屋上が眼下に見える。そこに黒いボールがひとつ、ポンポンと弾んで横切っていく。
屋上に人の姿はない。死角にいる誰かが投げたのだろうか。
視線を戻そうとしたところで、ボールが弾みながら進む方向を変えた。見えない何かに弾かれたか、あるいは意思を持っているかのように。
なんでだ?
思わず足を止めた。
そもそもあれは何のボールだろう。よく跳ねるが、きれいな丸ではなく歪な形をしている。
そう思いながら見下ろしているとボールの表面がブワッと広がった。髪の毛だ。
ボールではない。
広がった髪の間に泥だらけの顔があった。首だ。
嘘だろ、と目を凝らしたところで首は屋上のまわりの柵を跳び越えていなくなってしまった。

 

商談は何とかまとまったが、ずっとあの首が気になって仕方がない。
Wさんは帰りにあの屋上とビルの周囲を見回したが、どこにもそれらしきものは見当たらなかったという。

ポニーテール

Gさんが彼氏と一緒に旅行中、たまたま通りかかった神社に立ち寄った。
本殿に向かって二人並んで柏手を打ち、道中の安全を願ってから彼氏のほうを向くとまだ手を合わせて祈っている。
その姿に違和感がある。原因はすぐにわかった。
髪型が違うのだ。いつも短く刈っている彼の後頭部から、長い後ろ髪が伸びている。突然ポニーテールになっていた。
いつの間にそんなものが?
彼氏の向こう側に髪の長い人がもうひとり立っているのかとも思ったが、確かに髪は彼の後頭部についているようだ。
刈り込んだ頭にそこだけ長い房が突き出ているから違和感が大きい。
ふざけてエクステ*1を付けているのだろうか。旅行の間にそんなものを持ち歩いていたというのか。それにしてもこんなところで?
お祈りが終わったら訊いてみようと横顔を眺めながら待っていたが、彼は目を閉じ手を合わせた姿勢のまま動かない。
何をそんなにじっくり願っているのだろうか。眠っているわけでもないだろうが、全く動かない。
呼吸をしているのか心配になるくらい、凍りついたように動きが停まっている。
ねえちょっと、と彼の腕に触れようとしたところで、後ろから誰かがGさんの肩を叩いた。
振り向くと、彼が心配そうな顔でGさんの肩に手を掛けている。
彼が二人いる?
驚いて隣に目を向けると、じっとそこで手を合わせていたはずの彼は消えていた。
Gさんの肩を叩いてきた彼氏の話によると、手を合わせたままじっと動かなくなっていたのはGさんのほうだったという。
彼の話はGさんの認識とは全く違っていた。
もう行こう、と促す彼の後頭部にはポニーテールなど影も形もなかった。

*1:ヘアーエクステンションの略。付け毛のこと。

瞬間移動

四十年ほど前のこと、Jさんの祖母は体を壊して家で寝たきりになっていた。
半年ほどその生活を続けてから更に容態が悪化し帰らぬ人となったが、その半年間に祖母は何度も瞬間移動していたという。
当時中学生だったJさんに対して、布団の上の祖母がこんなことを言った。
あれ、海を見ていたのに。いつの間に帰ってきたのかねえ。驚いた。
このときは祖母が夢の話でもしているのだと思っていた。
ところが別の日、Jさんがふと祖母の寝ている八畳間を覗くと、掛布団がぺったりつぶれている。よく見ても祖母の姿は布団にない。
部屋を見回しても誰もいない。無人の部屋に布団が敷いてあるだけだ。
いつもの祖母の部屋のにおいだけがあって、部屋の主がいない。
病院かなにかに行ったのだろうか、と思ったがそういう話は聞いていないし、両親は家にいるようだ。祖母は一人で歩くことはできない。
どうしよう、おばあちゃんがいなくなってしまった。母に報告しようとして、もう一度祖母の部屋の前を通ったJさんは開いた戸の向こうで布団が膨らんでいるのを見て足を止めた。
いつものように祖母が寝ている。
広い家ではない。祖母が部屋を出ていたとしても、誰かに介助されて床に戻ったのなら気付いたはずだ。
いつ祖母が部屋に出入りしたのか全くわからなかった。母に一応尋ねてみたが、祖母はどこにも行っていないという。
祖母の布団の傍に行くと、目を瞑っていた祖母はJさんに笑いかけて言った。
今日はね、神社の紫陽花を見たよ。懐かしいね。久しぶりに見られてよかった。
確かにその頃は紫陽花の季節だった。
だが一人で立てない祖母が外出できるはずがない。やはり祖母は夢の話をしているのか。
しかし祖母が布団から消えているところをJさんは確かに見た。夢ではなく、祖母は実際に外出して紫陽花を見てきたのだろうか。
そうだとすれば、祖母は瞬間移動でもしているとしか思えない。
以後もたびたび、Jさんは祖母が部屋からいなくなっているのを目撃した。祖母が消えていることに気づいていたのはJさんだけだった。
毎回、いつの間にか姿を消していた祖母は知らないうちに布団に戻っていた。
だから最終的に祖母の容態が悪化し、病院へ担ぎ込まれてそのまま息を引き取り、葬儀が終わった後でも。
知らないうちに祖母が戻ってきているような気がして、Jさんはしばらくの間、祖母の部屋を覗く癖がついていたという。

松と月

Rさんが小学生の頃、お父さんが知人から一幅の掛軸を貰ってきた。
古い土蔵に仕舞われているガラクタを処分する手伝いに行き、そのお礼として蔵の中にあったものを貰ったのだという。
松林の上に月が出ている風景が淡い墨で描かれている。
なかなかいい絵だろうと言ってお父さんはその日から床の間にこの絵を飾った。絵師の名前を聞いたかどうか、Rさんは覚えていない。


この絵を飾るようになってから、その部屋が妙にじめじめするようになった。
真夏でも他の部屋にくらべて空気がじっとり冷たい。涼めるような気持ちの良い冷たさではなく、嫌に重苦しい湿気が張り詰めていた。
日中に戸や窓を開け放っても、閉めている夜中のうちにすっかり元通りに湿ってしまう。妙なことに、開けておいたはずのガラス戸が誰も知らない間に閉じられていることもあった。
畳を踏むとべたべたするようになり、十日も経たないうちに床の間の隅には真っ白に黴が生えた。
変なものを貰ってくるから変なことになるんでしょ、とお母さんが文句を言った。
当初は換気の問題と思っていたお父さんも流石におかしいと思ったようで、掛軸を箱に仕舞ってみると部屋の空気はすぐに良くなった。
やはりどうも掛軸に問題があるらしい。
陰干ししておいたら湿気が抜けないだろうか、とお父さんが言い出して、晴れた日に裏庭の日陰に掛軸を吊るしておくことになった。
掛軸そのものは別段湿っていたわけではないから、この解決策もなんだか変だなあとRさんは思ったが、干すことで掛軸に何か変化が生じるか興味はあった。そこでRさんも裏庭でしばらく様子を見ていたのだが、見てわかるような変化がないので飽きて家の中に戻った。
それから一時間ほど後のこと、お父さんが玄関から呼んでいる声が聞こえる。行ってみるとお父さんは裏庭から回収した掛軸を手に困った顔をしている。
月が、とお父さんは言った。
絵を見ると、松林の上に出ていたはずの月がどこにもない。下に描かれた松林はそのままなのに、空に描かれていたはずの月が消えてしまっている。
塗りつぶしたり削ったりした跡もない。かき消すようになくなっている。墨で描いた月が消えることがあるのだろうか。


それ以来はどういうわけかその絵を飾っても部屋に湿気が籠もることはなくなった。
月が出ていたのが気に入っていたのになあ、とお父さんは残念がっていた。
のちに両親が亡くなってからこの掛軸のことを思い出したRさんは実家を探したものの、見つからなかったという。