気にしてくれること

 をいいことに人に甘えて、構ってもらって、でもそれは果たしていいことなのだろうか。


 別に相手が構わないならばいいのかもしれない。問題は構ってくれる人が多少はいるにも関わらず、それでも満足していない自分の贅沢さ、自分が恵まれていることをすぐ忘れてしまう麻痺した感覚だ。


 人間なんてものは、気づけば地球を中心に世界が回っているなんてことを考えるのもおかしいことでもなく案外自然なことなのかもしれないと感じてきた。究極のご都合主義。


 あの人が夕飯を誘ってくれたのも、実は話を聞いてくれるということなのではと、また自分本位に考えてしまう。そうでもそうでなくても、自分をまだ見ててくれている人がいるというのが幸せなことだということぐらいはまだわかる。ここは何も考えずに甘えさせてもらおう。


 やっぱり日本人はラーメンだよ。ラーメンを食べよう。

ある成人のお話

成人式の後同窓会でした


小学校の同窓会にも誘われたのですが、先に約束があった中高のに行きました


心配事がありました


心配事というのは元カノと元々カノのことなのでした


お互いに険悪なので、どうしようもないのです


もし何か起きたらと考えると胃が変でした


結果、来たのは元カノのみでした


実はボクは元カノのことがいまだに好きなのです


元カノと少し話し、他の人とも適当にしゃべっていると同窓会は終わりました


どうやら、元カノは彼氏と、なんと今日別れたと言っていて


絶対に精神的に危ういと思ったのと、自分が話したいという気持ちもあったので、同窓会が終わったあとに誘いました


二次会にいかず、どこかでお茶でもしようという話になったのですが


彼女はツンデレです。そして気分やです。猫かぶりです。


途中で寒くなったのか機嫌が途端に悪くなりだし、もう帰っていいよとか、送らなくても自分で帰れるからなどと言い出しました


ひどいことも結構ズバズバと言ってくるのですが、自分にはそれが素直なだけだとわかっているので我慢できました


なんとか彼女をなだめ、帰る途中の有楽町で降りて適当にお茶することになりました


どうやら彼女の機嫌がわるかったのはタバコがなかったせいのようです


タバコを買ってあげ、お店に入って少し話すと彼女の機嫌は割と直りました


送らなくていいとまた言いだす彼女についていって、家まで送りました


二人で歩いているとなんだか昔のような気がしてとても懐かしく、少しだけ幸せでした。隣にいる彼女は前よりもずっときれいになっていて、マンションの下まで着くと、やっと彼女が笑ってくれました


たぶん、僕は何かを期待していたのだと思います。不謹慎なことです。カバンに入らなくて彼女の代わりに持っていた、彼女の分の同窓会のお土産を自分のカバンから出すときに、色々な考えが頭をよぎりました


頭を撫でてあげようとか、少しだけ抱きしめてあげようとか、頬にキスくらいなら許されるのではないかとか


知ってか知らずか彼女は手をこちらに伸ばしました。たぶん自分の気持ちが顔にでも出ていたのでしょう。ボクは伸ばした手に元同級生が作ったクッキーを載せました


微妙な距離はそれ以上縮むことなく、彼女は後ろを向いて歩きだします


「じゃ、わざわざ送ってくれてありがとう。……ちゃんとレポートやるんだぞ? じゃあね」


離れていくにつれて胸が苦しくなって思わず声が洩れます


「――――ちょっと!」


「なんだよ」


「……なんでもない……」


「ん? ちゃんと帰りなよ? バイバイ」


僕はそこに少しの間立ち尽くしました


久しぶりに胸が痛くなったことに驚き、頭が変になったボクは帰りの電車に揺られながらメールを打っていました


途中、メールが来て、それは彼女からでした


少し優しい調子のメールに、思わず別れてから少ししか時間が経っていないというのに電話をかけてしまいました


喋っている途中で、また彼女の気分を悪くさせてしまったようで、彼女は電話を切りました


ボクは途中だったメールを書き終わらせて送りました


それでもう終わりだと思っていました


苦しいのはボクだって嫌なので、全て忘れようと思ったのです


謝罪と説明をして、少しだけ自分の気持ちを綴った最後のメールには少し経った後、返信が来ました


彼女はメールが嫌いな人です。返してくれたというだけでまた少し嬉しくなっている自分がいます


内容には「私はあなたのことをマジで大事な友達だと思ってるから、そういう風に思ってくれると嬉しい」とありました


ボクはまたどん底に突き落とされました


報われない恋というのはどうすればいいのでしょうね。


終わりです

 

季節が過ぎても鬱。

 結局、忙しさのあまり片付けないで放っておいた自分の部屋の机の掃除をしないまま新年を迎えることになった。すっかり年が明けてから気が付いた荷物が積み上げられたままの机は、自分の去年を表しているようで少し残念な気持ちになった。あんなに片付けようと決めていた自分の決心はどこへやら。

 思えば、去年は心の整理が付かないままに年の瀬を迎えるのを許してしまった。今の自分の状況はまさに机の上といった感じで後悔する。今年からは絶対に年が変わるときはゆったりのんびり構えていようと決めた。身辺整理なども終わらせてという意味で。

 身辺整理などという言葉を使うとどこか自殺願望者のようなシチュエーションを想像してしまう自分がいるが、更に自分から一歩下がって見てみれば、思いつめた様子は両者は大差ないのかもしれない。

 人間、思い詰めることでは何もいいことがないと自分で思っているのに、そうなって抜け出せない自分がとても嫌になる。人に話しても、お酒を飲んでも、大声で歌っても自分のどこかに引っかかっている大きなしこりは一体何なのか。気にしないで何かに没頭しても、それが終わった途端に押し寄せてくる。結局避けられないならばむしろずっと考えていたのではいいのではと自虐的な考えも浮かぶ。この冬休みで、朝、目が覚めて一番初めに頭をよぎったのが嫌なことだったときは、この慢性は肩こりと一緒だと思わず力なく笑ってしまった。

 人に迷惑をかけたくないと思う一方で構って欲しいとも思うこの人煩わせな性格は良くないと、我慢をして人になるべく人に頼らずやってきたけれど、少し力を抜きたくもある。こういう時はどうすれば上手く行くのだろう。

 今の自分の下向き思考のスパイラルでは何もいい結果が出ない。

何が怒涛なんだ!

 やっぱり占いは信じないことにした。
 別に信じてるから救われるとか、信じてないから幸せが訪れないとかそういうことではないのはもちろんだけれど、如何せん今日の占いの内容に強い疑問を抱いたのだ。



 水瓶座であるオレは、メッセンジャーのアラートで自分の星座の今日の運勢が出るように設定していた。もし前向きなお告げが出れば信じよう、といった軽い気持ちで。忠告などがでれば少しだけ気にして、恐らく狂信的な信者ではない人たちのほとんどがそうであろう、自分に都合のいい占いの信じ方をしていた。



 そんな今日。昨日遅くまで起きていてしまったオレは、案の定朝起きることができず、昼過ぎまで完全に熟睡してしまった。疲れが取れず節々が痛む体を起こして、つけっぱのPCの画面に見入る。点滅するメッセウィンドウの画面に視線をやってから少しして、メッセンジャーのアラートが配信された。





「今日の水瓶座の運勢:目が回るほど多忙を極める暗示。気楽に構えること」





 この言葉に、相手の状況がわかるはずのない一方的な配信というものは、どうとでも取れるような内容なのだと気づかされた。我ながらなんて遅いのだ。
 頭の中で一瞬にして、暗示だから場合によってはそうはならないのか、とか、気楽に構えて果たして多忙を乗り切ることができるのか、とか、気楽なのはいつものことだ、とか、もう半日終わったオレに多忙なんてあるのか、とか、むしろ多忙を見せてくれよ、とか、もはやそのような程度ではなくて空から女の子が降ってくるぐらいのことを書いてくれ、なんてことが浮かんでは消え、占いをどうとればいいのか悩んだ。
 確かに目は回ってきた。



 そう、自分もよく、なんとかなる、なんとかする、とか、相手を選ばずに使えるような、そんな曖昧な言葉を使ってしまう傾向にあるので気をつけなければ、という結論。いや、割と意識して曖昧な言葉を使っているかもしれない。もしそうだとしたらやはり人間性が疑われるのだろうか。占いと同程度のアドバイスなんてしたくはないのだけれど。
 そして、不特定多数向けの占い配信などという陳腐なものに少なからず影響されていた自分が悲しい。これからは『幸せが待っていそうな予感』などという文句を見ても、にやけないようにしようと思う。オレはそんなに単純ではないのだ。
 まぁ、とりあえず気楽に構えよう。


つまらない日常があるから時々楽しい。

 と思う。毎日焼肉だったなら流石に飽きるでしょう。とはいえ焼肉はおいしい。お腹一杯に食べられる機会なんてそうそうあるものじゃない、寧ろ食べられる機会がないということで、人のことなどお構いなしに食べた。人の家で。



 その時にテレビに映っていたのはplanet earthだったのだけれど、洞窟の地面に蠢く一面のコックローチがそこにはいた。よくみんな平気な様子で食べられたと少し思った。自分は全く平気だったがなぜだろう。



 食べ終えてから「時をかける少女」を観た。神アニメだった。前々から観たいとは思っていたのだが機会がなく今までずるずると来ていた。なんせ友人が映画に誘ってくれなかったのだ。オレが一人で行動するのは嫌いと知っていながら。これはイジメだ、なんてのは置いておいて、彼らは映画館で二回も観たらしい。羨ましい限りだ。二回目の時は本当に都合が合わなくて行けなかった。話を戻すと、時かけは本当に最高で、素敵で楽しかった。



 きちんと説明するならば、脚本の出来、映像美、音声・音楽、それぞれがとても仕上がっていて非の付け所がないのではないか、という具合だった。原作は短編で、とても短いらしい。友人曰く、よくここまで広げたとのこと。年を取るごとにどこかに忘れていく青春がそこにはあるのだと思った。この自分でさえ、青春がしたいと思ってしまったのだから。オレは一体何歳だ。



 キャッチボールとか、少人数で野球をするだとか、土手で夕日を眺めるとか、そんな些細なことがまたしてみたいと思ったけれど、青春を取り戻すなんてことはそんなに簡単なことではない気もする。いや、そもそも取り戻せることではないかもしれない。でも、そんな風に思えることが素敵なことではないだろうか。



 気持ちだけでも若くいたい。そんな気持ちを共有したい。

時間の切り売り

 適当な評価による時給で自分の単位労働時間を売るのは効率が悪い。そんなこと言うまでもなく知ってる。



 アニメ観る。ニコニコする。単位視聴時間の消費。きっちり時間分生活時間を失う。



 こうクリエイティブな何か。むしろ自分の時間を競りにかける。やっぱプライスレス。





 バイト面倒になったな。

ボイトレ

 少し前にカラオケに行った際、自分の発声が衰えてきていることに気づいた。何でもスポーツ競技と一緒で少しでも休むと衰えてしまうらしい。そして取り戻すには倍の時間がかかるという、よく言われそうなあれだ。



 発声というのは本当に奥が深いもので、全身の筋肉を使うらしい。とは言ってもマッチョだから声がいいとかそういうわけではなく、体の内層の筋肉を主に使う。これがまた鍛えるのが大変で、運動に使う筋肉の他にこちらも鍛えなければならないからなお更だ。更に体の柔軟性も求められる。今日から俺は、なんて前屈をしてみたらなんと恥ずかしながら手が下につかなかった。これから続けることでそんな悲しい現状を打破できればいいが。



 内腹筋と息継ぎの練習を毎日やると常に三日坊主な自分に誓いつつ、ボイトレをやるにしても声出しが基本であるから、昔みたいに習慣的にカラオケなどに行かなきゃいけないななどと思ったのはいいのだが、またオレは重大なことに気がついた。



 お金がない。財布に100円もない。銀行の口座にはあるが、色々諸々大人の事情ってヤツで引き落としが出来ないトラップに引っかかってしまっていたのだ。やっと重い腰を上げて、今手続きの書類を書いているわけだ。昨日のカラオケでみっくるんるん♪なんて歌っている場合じゃなかったのである。