アレッハンドロさん宅の朝ごはん

今回アレッハンドロ&スーザン宅に2泊お邪魔させて頂いたのだが、スーザンの料理は本当に素晴らしかった。(前回のディナーはこちら)ただ・・・一品一品は極上なのだが息の休まる箸休め的なものがないのはいつものことである。ドッシリとボリュームのあるディナーの後には、更にドッシリした特大ベイクドチーズケーキが待っている、これはもう疑いようのない事実であり、前回のディナーで学んだこと。つまり、お腹とよく相談しながら食べないと、最後に歩くのもつらい状態になってしまう。まさにアメリカ料理である。とはいえわたくしのために半日かけて準備をしてくれるのだから、有り難いことなのだ。

さて、今回の朝ごはんでスーザンが作ってくれたのが「塩味のマフィン(写真)」。何と彼女はわたくしに焼きたてを食べさせるために、朝6時に起きて準備をしていた。わたくしは味噌汁の香りならぬ、マフィンの香りで目覚めたのである。

これまでマフィンと言えば甘いもの、と思っていたわたくしには目から鱗の朝ごはんだった。中の具はベーコン、ネギ、卵。ふわふわしていて本当に美味しい。そして付け合せに作ってくれたのが、ドライトマトの入ったスクランブルエッグ・・・・思わず苦笑してしまう。朝から卵祭りである。

マリコ、飲み物はどうする?コーヒー?それともティー?」とスーザン。「じゃあティーでお願い」アレッハンドロ宅の食生活はアメリカンであるから、コーヒーといってもそれはエスプレッソではない。いわゆるアメリカンコーヒーである。わたくしもはやエスプレッソ以外のコーヒーは飲めないので、こういうときは迷わず紅茶を選ぶのだ。

しかし。運ばれてきたティーを見て驚いた。それは紛れもない「緑茶」だったのだ。ニッポンジンのわたくしに良かれと思って緑茶を出してくれたのであろう。このマフィンとドライトマト入りスクランブルエッグを緑茶で食べることになろうとは。とはいえ彼女の好意を無にすることは出来ず「グラッツィエ」といってズルズル緑茶をすするわたくしであった。

チッタ・デッラ・ピエーヴェの友達〜その3

barmariko2006-09-08


その1その2も是非お読みください。

招待された彼らの家(写真右)というのは、つまりホテル・バンヌッチのリストランテ従業員が一緒に住んでいるパラッツォのことである。ダブルルームが2つ、シングルルームが2つ、バス・トイレは2箇所でキッチンは共有。決して広くはないが、ホテルから歩いて2分、閑静な小道にあり、ロケーションは最高だ。

友人アレッハンドロとわたくしが到着すると「遅いぞ!ニッポンジンのくせにすっかりイタリアジンになっちまったな!」とウンベルトがからかう。た、確かに。1時半に到着する予定が、もう2時前。イタリアにいると本当に「約束」ごとがルーズになって困る。ま、バカンスなので許して頂こう。

「さぁさぁ、マリコもアレッハンドロも座って座って!」とテーブルを仕切るクリスティアン。手にはワイングラスとアペリティーボの白ワイン。「まずは乾杯用の白から。つまみはこれ、オリーブと・・・あとこれ、近所のピザ屋で買ってきたフォカッチャ。美味いよ。でもあんまり食べ過ぎないで、まだ色々食べてもらわなくちゃいけないものがあるから。」「ひぇ〜そうなの?あれ?クリスティアンの後ろにあるのはチーズとハム?美味しそう!」「これはまだ駄目!赤ワインに合わせる用だからね。」

ていうかアンタ、わたくしの知っているクリスティアンではない。以前の彼は、ワインは好きだがお金もないし質より量を優先して、家で飲むときは紙パックの料理用ワインまで飲んでしまうような奴だった。飲食業に携わるイタリアジンとしてもちろん最低限のワイン知識はあったが、薀蓄などを語る姿など見たこともない。「ちょっとちょっと!アンタすっごい成長したじゃないの!いい仕事してんのね〜」「いや本当にそうだよ。最初はカメリエレとして必要最低限の勉強をしようと思ってたにすぎないんだけどさ、今じゃすっかりはまってるよ。」素晴らしい。招待された甲斐があるというものである。

「さぁ、次はサラミとチーズね。こっちから、イノシシのサラミ、ウンブリア豚のサラミ、サルデーニャのペコリーノチーズ・・・」どんどん続くクリスティアンの説明。「このイノシシのサラミには是非ランブルスコ・ロッソ(微発泡の赤ワイン)を合わせてみて。絶品だから!」ほ、本当だ、美味しすぎる。ランブルスコ・ロッソは甘めのものが多いし、イノシシに合わせるなんて発想はこれまで持ったことがなかったが、いやいやどうして美味しいではないか。「偶然の産物だよ、この発見は。たまたま一緒に味わってみたらさ、結構いけるんだよね。」と涼しい顔のクリスティアン

と、そこにクリスティアンから更なる突込みが入る。「あ、ワインを変えるときはグラスを水で一度すすいでくれよ。味が混ざっちゃうからね。」「・・・。」ちょっとアンタ、本当にクリスティアンですか?ふと気づけばテーブルにはテラコッタ製の水差しと、水を捨てるためのボウルが置かれている。なるほど、わざわざシンクでグラスを洗うのではなく、スマートに全て食卓でやれということですね。はいはい。

続いてセコンド・ピアット(第2の皿)が始まる。「今日はせっかく皆で集まったからさ、奮発してビステッカ(ステーキ)にしたよ。」といって冷蔵庫から出してきたのは1枚200gはあろうかというビーフステーキ肉・・・イタリアのステーキというのはえてして固い。肉の質が和牛とは違うのである。1枚食べるのに苦労することが容易に予想されるため、わたくしは外で決してステーキを食べなかった。しかし今。この温かい友人たちの前で、ステーキを拒否することはできない。「あ、有難う。」が精一杯であった。

「ステーキにはこれ。ブルネッロ・ディ・モンタルチーノね。うちの店でも使ってる、最上級品だよ。」といってボトルにキスをするクリスティアン。「あ、グラス、すすいでくれよ。」はいはい。それがどれほど美味しいワインだったかは・・・表現できるものではない。「これを飲めただけでもイタリアに帰ってきた意味があるよ〜」とわたくしが恍惚の表情でいると、「まあね。イタリアのワインは世界一だからね。何とどう合わせて飲むか、つまり食とのマリアージュでその良さは如何様にも引き出せるんだ。」とクリスティアン

するとウンベルトがこう言い出す。「しかし大事なのは、ブルネッロは毎日飲むワインではないということだ。確かに美味しい。しかしブルネッロやバローロ、サグランティーノを毎日飲みたいと思うか?思わないね。本物の味を知ることは大切だが、これらは大切な日、特別な日に味わうべきものであって、常飲すべきものではない。こんなワインを毎日飲んでいたら体が疲れてしまう。極上だが、体が喜ぶほっとする味ではないんだ。酸化防止剤や防腐剤だって入ってるしね。だから僕はデイリー用としては、地元の農家が作るフレッシュで添加物ゼロの体に優しいワインを飲むんだよ。」最もである。更にクリスティアンも賛同する。「そもそもワインを飲んで酔っ払うってさ、別にアルコールに酔ってるわけじゃないんだよ。酸化防止剤に悪酔いするわけ。だから農家が作るフレッシュな奴はさ、幾ら飲んでも酔わないし次の日に残らないんだ。」

結局この日のランチは4時には終了した。イタリアでは珍しい。人が集まっているのに2時間で終わるなんて。というのもクリスティアンは夕方6時には仕事に戻らねばならなかったからだ。休みだっていうからてっきり丸々一日休みなのかと思っていた。そんなたった数時間の休憩時間、本当ならゆっくり体を休めたかっただろうにわたくしたちの為に時間を割いてくれた彼に大感謝だ。

しかしあんなにワインを飲んでよく仕事に戻れるものである。やっぱりイタリアである。

チッタ・デッラ・ピエーヴェの友達2

barmariko2006-09-04


さて、写真左がウンベルト氏、右がかの有名な(?)わたくしの大切なお友達アレッハンドロさん(登場人物参照)である。今回、ペルージャから車で40分のチッタ・デッラ・ピエーヴェまで喜んで車を出してくれたのが、彼なのだ。というのもアレッハンドロさんはチッタ・デッラ・ピエーヴェの「ホテル・バンヌッチ」のアメリカ人オーナーと知り合いであり、その流れでウンベルトとも仲良くなり、さらにはチッタ・デッラ・ピエーヴェのテアトロ(劇場)のカメラマンとしても活躍し・・・とこの街に住んでいないにも関らずいつもの人懐っこさでもって、わたくしの知らない間にすっかりこの地に溶け込んでいたのである。

それにしても、おじさん2人とその娘くらいの年頃であるわたくしの3人で、顔を寄せ合ってワインを飲む姿はちょっと奇異である。しかもアレッハンドロさんは顔だけ見れば100%ニッポンジン(でもロンゲ)、わたくしも当然ながらニッポンジン。チッタ・デッラ・ピエーヴェにニッポンジンは住んでいない為、明らかによそ者である。まあ大抵は私たちのことを親子だと思うのだが。

ウンベルトに聞いてみる。「何でホテル・バンヌッチを辞めたの?」「そりゃあね、あんな頭の悪い我侭なアメリカ人オーナーと一緒に仕事はできないさ。堪忍袋の緒が切れたってやつだよ。今さら何を言われたとか何をされたとかグチグチ言うつもりはないけどね、もう二度と彼女(このオーナーは女性のようだ)とは関りたくないね。アレッハンドロ、すまない。君が彼女の友達だってことは知ってるんだが、それと仕事とは別だからね。」「これからどうするの?」「今はちょっと休養。娘もようやく結婚したし・・・」「ええ!?アレッシアのこと?結婚したの?いつ!?」「10日前に結婚したばかりだよ。今は新婚旅行で世界一周旅行中だ。いつ帰ってくるんだろうねぇ。」

ま、まじですか。ちなみにアレッシアはわたくしと同い年である。「相手はどんな人?わたしの知ってる人?」「いや、絶対知らない。まだ付き合って数ヶ月の相手だからね。マリコもよく分かってると思うけど、アレッシアはいつもフラフラしていて彼氏もとっかえひっかえで全然長続きしないし、こりゃ晩婚だなと思ってたんだが・・・ある日突然”パパ、わたし結婚する”って言い出したんだ。驚いたのは僕らさ。”お前、妊娠でもしたのか!?”って聞いたらひどく怒られたよ。”彼を愛してるから結婚するのよ!子供なんてできてないわよ!”ってね(笑)」

そこにやってきたのはクリスティアン(写真下)、ウンベルトがまだペルージャスペイン料理屋をやっていた頃から一緒に働いている、ミラノ出身の男の子だ。ウンベルトはホテル・バンヌッチの共同経営者に就任した際、カメリエレとしてもバリスタとしても優秀だったクリスティアンを、ホテル併設リストランテのマネージャーとして引っ張ってきたのだ。ウンベルトはさっさと辞めてしまったが、クリスティアンはまだ元気に働いている。

「チャオ、マリコ!久しぶりだなぁ。」「久しぶりで、早速驚いちゃったよ。アレッシアが結婚したんだって!?」「そうなんだよ!本当に僕ら驚いたよ、あのアレッシアがねぇ。相手を見てまたびっくりさ。剥げで恰幅がよくてエリートの40歳!周りの皆は”絶対妊娠したか、もしくは金目当てだ”って。いや、彼がアレッシアの金を狙ったんじゃないよ、逆だよ。アレッシアが金目当てで意図的に妊娠したんじゃないかって(笑)。いやぁ、でもピュアな愛だそうで。まあね、温厚でいい奴だったよ。我侭で奔放なアレッシアを全部受け止めてくれそうな、ね。よく考えたらお似合いだよ。」

そこまで周りに騒がれる結婚もすごい。結婚の報告を聞いて実の父親がまず「妊娠」を考えたというのだから、アレッシアが憤慨するのも無理はないが・・・。こういう何気ない日常の出来事を一つ一つ皆に報告してもらい、説明してもらうたびに忘れていたイタリアを思い出し、癒される。

「そうだ、マリコはまだこっちにいるんだろ?明日のランチに招待するからアレッハンドロと一緒に是非きてくれよ。今日はこれからまた仕事に戻らなくちゃいけないんだけど、明日の昼なら時間があるから。場所は僕の家。昔からは想像できないくらい、僕はワインおたくになっているからね(笑)。びっくりすると思うよ。楽しみにしてて。美味しいもの揃えて待ってるから。」

ありがとうございます。伺います。

チッタ・デッラ・ピエーヴェの友達1

barmariko2006-08-27


ペルージャから車で40分ほど行ったところに、チッタ・デッラ・ピエーヴェというとても美しい街がある。その素晴らしい景観、建造物、自然に惚れ込んだ欧米の富豪たちが、いつの間にかこぞって別荘を建て、夏のシーズン中、実は街のあちこちで英語が飛び交う。また余談であるが、イタリアのTV番組「カラビニエーリ(警察)」というドラマがここで撮影されていたため(イタリア版西部警察)、イタリア内でも殆ど知られていなかったこの小さな街は、いつの間にか非常に有名なエリアとなった。

わたくしの知人で、ウンベルトというイタリア人男性(56歳)がいる。昔ペルージャのモルラッキ広場近くで、スペイン料理屋を営んでいた彼は、毎日午前2時まで働く生活に体力的な限界を感じ、店を閉じて自身の別荘のあるチッタ・デッラ・ピエーヴェへと引っ込んだ。しかし活動的な彼がそんな隠居生活に満足するわけもなく、いつの間にかチッタ・デッラ・ピエーヴェで最も有名で中心地にある「バンヌッチ」というホテル(写真下)の経堂経営者として再出発したのである。昔ペルージャの店で働いていたスタッフを数人引き連れて。このホテル、中心地にあるだけでなく、併設したリストランテの味が素晴らしいことでも知られている。正確にはZAFFERANO(ザッフェラーノ)というウンブリア料理&トスカーナ料理の正統派リストランテと、PIEVESE(ピエヴェーゼ)というピッツェリア、さらにホテル内にはバーまであって、田舎ながらそのセンスの良さ、味の良さは無視することができない。いつかわたくしも機会があったら泊ってみたいと思うホテルの1つだ。(興味のある方はHPをどうぞ

わたくしがペルージャに住んでいた頃何かと可愛がってくれ、当時まだ営業していた彼のスペイン料理屋で、わたくしは殆どお金を払ったことがない。サングリアもワインもおつまみも、しょっちゅうタダで頂いていた。彼の息子や娘とも親しくなり、誕生会や昼食会にも呼ばれることが多かった。今回せっかくペルージャに来たのだから、チッタ・デッラ・ピエーヴェで働くウンベルトとそのスタッフたちにに挨拶したい、そう思って今回何の連絡もなしに突然驚かせるつもりで訪れてみたのである。

連絡などしなくても、ホテル・バンヌッチへ行けば会えるだろう、そう思って訪れたのが甘かった。彼は5ヶ月も前にまたその仕事を辞めていたのだ。どうやら経堂経営者のアメリカ人オーナーと馬が合わなかったらしい。そんなわけで急遽ウンベルトに電話をし、「一体どうしたんだ!?君は今東京にいるんじゃなかったのか!?」と驚かれながらも、1時間後に街のエノテカ(ワイン居酒屋:写真下)のテラスで会う約束をした。

barmariko2006-08-26


ガリバルディ通りにあるバール・アルベルトは8月いっぱい夏休みに決まっている。がしかし、一応わたくしのペルージャ時代を象徴する数少ないものの1つとして、帰郷した際には絶対訪れなければならない。ということで、今回アルベルトに会うことはできないが、店の様子だけでも見に行ってみた。

店の前に広がるのは、教会広場(写真)。わたくしが働いていた頃は、教会の修復工事が2年半にも渡って行われていた為、常にこの広場は閉鎖され、ダンプカーやらショベルカーやらで踏み込む余地もなかった。ようやくその工事も終わり、今まさに広場が活気を取り戻す久々の夏、なのである。この広場はバール・アルベルトの営業が許可されていて、可能な限りテラス席を設けることができる。先月イタリア優勝で幕を閉じたサッカーワールドカップのときは、アルベルトがTVを外に設置したため、広場は連日連夜大賑わいだったという。(←まれにみるバール・アルベルトの成功事例)

その日の夕方、もと同居人のロセッラ、その彼氏のステファノ(わたくしが働いていたパブ「ダウンタウン」のオーナーでもある)の3人で、食前酒を飲みにチェントロへ行った。
「今日バール・アルベルト見てきたよ。あれ、本当にいいね、広場のテラス席。チェントロと違って静かだし、アルベルトの足りない脳みそを補うのにピッタリな広場だよね!」「足りない脳みそ・・・いやまあその天然ボケっぷりがアルベルトのいいところなんだよ。憎めないっていうかさ。」とステファノ。

「面白いことがあったんだよ。僕とアルベルトがホンダのバイクを愛してるってことは、マリコも当然知ってるだろ?今年の春にさ、ギリシャまでアルベルトとツーリングに行ったんだよ。勿論フェリーでバイクを運んだわけだけど。毎日毎日来る日も来る日もバイクに乗ってさ、紺碧の海ときれいな空気と・・・僕ら2人とも大満足して最高だった。それが、ペルージャへ帰ってきたとたん、アルベルトがいつものように体の不調を訴え始めてさ!」「またぁ?ここが痛いとかおかしいとか、暑いとか寒いとか胃が痛いとか・・・それこそ病気だよ、どっか悪いって思いたいんだよ」とわたくし。

「そうそう。でも今回のは酷かった!”腰と背中の痛みが酷い。これは内臓から来てるんじゃないか?ステファノ、悪いがもう二度とお前とはツーリングに行かない”って言い出してさ(笑)。この年になって絶交されるとは思わなかったよ。医者に行けって行ったんだけど、どの医者行っても”筋肉痛がちょっと酷いだけだ”って言われるらしくて。それじゃ納得いかないもんだから最後には総合病院で2回も3回も検査してさ。それでも悪いところは一つも見つからないんだよ(笑)本当に大騒ぎだった。店でもくる客くる客に一日中愚痴ってたよ、体の痛みを。」あほだ。

「結局治ったの?」「うん、いつの間にかね。で、この前バールに立ち寄ったら、”チャオ、ステファノ。今度はどこにツーリング行く?”だってさ。さすがだよ、アルベルトは。」こういうボケぶりが懐かしい。アルベルトは一生変わらない。アルベルトのままである。

バール・チェントラーレで食前酒

barmariko2006-08-22


GLI APERITIVI AL BAR CENTRALE

まだ夕方の4時だが、チェントロを歩いていると友人アンドレアがこう切り出す。「食前酒でもどう?」以前にも何度となく書いたことだが、夏のイタリアは夕方も4時5時を過ぎると、一気に食前酒タイムへと突入する。勿論外のテラスで、お日様を浴びながら。(日焼け止め何時間前に塗ったっけ・・・?)と不安なわたくしをよそに、テラス席へと袖を引っ張るアンドレア。東京で夕方の4時に、外でお酒を飲むなど、汗をかきにいくようなものであるが、ペルージャでは(←しつこい)大きなパラソルさえ1本あれば外のテラス席など怖くもなんともない。日陰が作る心地よい涼しさ。

何だか今回の旅は、出発直前まで仕事に追われていたせいかどうも体がシャキッとしない。というわけで、今回の食前酒はアルコールをやめて微発泡のシュウェップス・トニカ(=トニック・ウォーター)に。一方アンドレアはイタリア食前酒の超定番「マルティニ・ビアンコ」を。このマルティニ・ビアンコの一般的な飲み方は、写真の通り氷とレモンスライスのみ。水や炭酸は絶対入れてはならない。

わたくしたちが立ち寄ったバール・チェントラーレは、11月4日広場に面した、いわゆる誰でも知っているバールである。このバールへ入ってすぐ右の壁に、20歳前後の男の子が映った白黒写真が飾られている。そう、彼は昔このバールでバリスタとして毎日元気に働いていたのだが、今から2年半前の冬、バイクの交通事故で即死したのだ。仕事帰りにわたくしが働いていたダウンタウンへも時折飲みにきていたし、とにもかくにもチェントロ(中心地)のバリスタということで、この小さい街ではみんなにその顔を知られていた。

日本へ帰ってそんなこともすっかり忘れてしまっていたのだが、今日ふと思い出した。

さ、さむい!?ペルージャの8月

barmariko2006-08-21

CHE FRESCO A PERUGIA!
ペルージャに着いて驚いた。真昼だというのにカラッとした空気、日陰に一歩入れば凛とした涼しさが心地よい。東京では考えられない、山間都市の気候である。7月はペルージャも暑く日中はさすがに30度を越える毎日だったのだが、8月に入り突然気温が下がったのだとか。夜散歩に出ると、チェントロの温度計が15度をさしていた。これじゃ寒いはず、カーデガンなしでは外出できない。

ペルージャに着いてまず向かうのは昔の我が家(写真上)。何も変わっていない。ま、当たり前である。16世紀の絵画にひっそりと描かれていたこのパラッツォ(建物)は、何百年もこの姿で頑張ってきたのだから、わたくしが去ってわずか1年の間にそうそう変化があるものではない。


写真上はわたくしが大好きなペルージャでのビューポイント。チェントロ(中心地)から外国人大学の裏手へと続くVIA APPIA(アッピア街道)のスタート地点である。そこから見下ろす眺めは、現在と過去が交錯しているようで一瞬我を忘れる。このVIA APPIAの途中から遊歩道が枝分かれしているのだが(写真中央で人が歩いている歩道橋のようなところ)、実はこの道、中世の水道(ACQUEDOTTO=アクエドット)の名残である。いつの間にか水は消え、修復を繰り返して人間用の道へと変化を遂げたのだ。そしてこの遊歩道へと進まずにVIA APPIAをそのまま下りきると、そこに現れるのが我が家である。つまり逆から考えると、我が家の窓からは、このVIA APPIAとアクエドットが見渡す限り広がり、古の時を眺めることができるのだ。

この日の夜、飛行機フライトによる疲れと、時差ボケもあってわたくしは寒くて寒くて眠れなかった。8月なのに、である。とはいえ東京の気候を十分知っているわたくしには、もはやペルージャの寒さを愚痴ることなどできない。(わたくしは幸せものである。)最終的には「貼るカイロ」を背中にピタッと1枚貼り、毛布をかぶって寝ることに。

8月のカイロ。信じられません。