Jean-Patrick MANCHETTE, Ô dingos, ô châteaux !, Gallimard, coll. Folio/policier, 2002(ジャン-パトリック・マンシェット『狼が来た、城へ逃げろ』)


ちょっと前の話だが読了。1973年のフランス推理小説大賞受賞作。これで受賞作を3冊読んだことになる。こちらによればマンシェットはウェルベックのおじ筋にあたり、エシュノーズの父親みたいなものらしい。まあそれはともかく、ジャン-ユグ・オペルの『アンベルナーヴ』(オリジナルは:Ambernave)を読んだあとだったので、なんというか、読みやすっ。そして単純過去が懐かしい。フランス語には話し言葉にはほとんど出てこない時制である単純過去というものがあるのだが、オペルの作品ではそれが全く出てこなかった。そういうこともあってか格調高い感じすらしてしまった。んなこたあない。比べるのもなんだが、『アンベルナーヴ』では語りそのものが場末の港町の終わってる感じの雰囲気を示す背景になるように主人公たちの言葉に寄り添ったかたちの文体になっているのに対し、こちらはかなり突き放している。これは勘なのだが、マンシェットはノワールとサスペンスの区別を意識していて、語り手が危機に陥る、あるいは危機に陥った主人公に対する読者の距離を語りによって縮めてしまうということをさけたかったのではないだろうか。しかしそのことによって何か記述の場が特権的というか安全な位置に追いやられてしまっているように感じられる。以前引用した文章にもあるように、マンシェットにとって重要なのは記述である。言い換えれば記述の場がなんとしても護られていなければならない。こちらなどではこの作品の狂いっぷりが強調されているが、僕はあまりそんな狂ってる感じはしなかった。あらすじをいうと、精神病院で長らく暮らしていた女性が、障害者ばかりを雇っている大金持ちの人に買われて、その人の甥の子守りをするようになる。するといきなり誘拐されて…。という話なのだが、まあ確かに殺しまくり、死にまくりなのだが、それでも「記述する」という正常さは確保されている。あと気になったのは、この作品ではほとんど性に関する記述がないということだ。まあそういうことをかかずらっていられないほど切迫しているので、ただ単にそういう理由かもしれないが、『森の死神』の身体障害者である主人公の性も、『アンベルナーヴ』のじじいの性も何らかのかたちで描かれていた。何かちょっと奇妙に感じた。彼のほかの作品ではそうではないようだが。

まあいずれにしてもノワールの親玉ですからまだ何冊か読まなければいけないでしょう。さしあたり小説というよりも彼のミステリー論というかノワール論があるようなので、それを読みたい。とりあえず注文した。

Frédérique MOLAY, La 7e femme, Fayard, 2006(フレデリック・モレ『第七の女』)
Thomas NARCEJAC, Une machine à lire : Le roman policier, Denoël/Gonthier, 1975(『トマ・ナルスジャック読ませる機械=推理小説』)
BOILEAU-NARCEJAC, Le roman policier, PUF, coll. Quadrige, 1994(ボワロー=ナルスジャック推理小説』)
Yves REUTER, Le roman policier, Armand Colin, 2005(イヴ・ルテール『推理小説』)
Daniel FONDANÈCHE, Le roman policier, Ellipses, coll. Thèmes et études, 2000(ダニエル・フォンダネシュ『推理小説』)


入荷が終わったと思ったらまた続々とはいってきた。まあいつものことだが読むスピードが全然追いついていない。今回はちょっと趣向を変えてみた。最初のやつを除いて全部小説というより小説論のようなもの。最初はそういうのも読んでおかないといかんでしょう。固有名詞が増えてよい。


で、最初のモレという人の作品だが、今年のオルフェーヴル河岸賞、なんて訳したらいいのかわからないけど、前にも書いたようにオルフェーヴル河岸というのは日本の桜田門みたいなもので、パリの警察のあるところ、この賞は警察関係者が捜査や警察組織の記述の正確さを鑑みて与える賞の2007年の受賞作だ。匿名で送られてきた原稿を審査する。歴代の受賞者についてはこちらを。結構分厚いと思ったら1ページあたりの分量が結構少ない気がする。構成が月曜日から日曜日までの7章立てになっている。警察の調査とか組織のあり方についての表象とかってのには興味があるので、近いうちに読んでみたいな。そういえばいままで読んだ3冊の中にはそういう記述ってほとんどなかった。いま読んでいるティリエスの本の中には出てくるが、これからもうちょっといわゆる探偵とか刑事とかが出てくるやつを読んでみたいな。


次がナルスジャックという人の。この人はピエール・ボワローという人と組んで「ボワロー=ナルスジャック」名義でいろいろ書いている。邦訳も結構あるみたいだ。アングロサクソン系の「問題小説」(roman-problème)からサスペンスに至る流れを説明し、なぜ推理小説が社会を映し出す鏡になっていったのか解き明かす、と裏表紙の説明にある。もしかしてこの「社会を映し出す鏡」という認識がフランスでは強いのかもしれない。まさにマンシェットはその観点から謎解き小説としての推理小説を批判したのだった。こういう考えのもとでは本格推理小説というのは発展しづらいのではないだろうか。日本とか英米ではどうなのだろうか。…と思ってぱらぱらと読んでみたら、こんな記述が。

ロマン・ノワール−−−簡単にいってしまえば冒険小説−−−は、出来事の単なる語りでしかない。これらの出来事は作者によって恣意的に緩く結びつけられている。それは純粋な想像力の産物でしかなく、現実の安売りにすぎない。それに対して、推理小説は、推論のおかげで現実的であり、真の問題を扱っている。(186頁)

つまりマンシェットと逆にノワールなんて戯言にすぎんよな、的なことを言っているのかもしれない。まあ確かにマンシェットの書いているものが現実にありうるかどうかというのは問題だと思うけど、多分二人で何をもって現実というかにかなりの差があるのだろう。この点に関しては僕はマンシェットの方が正しいと思うが。もしナルスジャックのいっている推理小説というものがマンシェットのいう謎解きの小説だとしたら、それが真の問題を扱っているとは考えにくい。まあここで即断してもしょうがない。全部読んでから考えましょう。


次のがボワロー=ナルスジャック。どうやらもとはクセジュで出ていたものらしいので、邦訳があるかなと思い白水社のサイトを見てみたが、見つからなかった。もっとよく探せばあるのかもしれない。目次を見てみると最初に推理小説の起源を説明し、そのあとはジャンルごとに章を区切っているようだ。裏の著書紹介には次のようにある。

想像力の領域、それは小説の領域なのだが、それは無限である。しかし、推理小説は、それが論理によって想像力の世界から合理的な世界へたどり着くことを目指すが故に、自ら超えることのできない限界を課すのだ。

これはボワロー=ナルスジャック自身の文章からの引用。ということは、この人(たち)にとっては合理的な世界というのが現実的なものなのだろうか。多分マンシェットはこういう「現実性」について批判的だったのだろうと思うので、これは両者の言い分は完全に対立するのかなあとか思う。


次の2冊はなんだか教科書っぽい感じのもの。最初のものはこれまた目次によればまず例によって歴史をさらって、そのあと、「謎解き小説」「ノワール」「サスペンス」の三つのジャンルにわけて解説している。以前読んだ『森の死神』ってのはサスペンスになるのかな。これまたぱらぱら見てみると、サスペンスというのはジャンルとしてはほかの二つと比べるとマイナーで、たとえばボワロー=ナルスジャックとかにとっては謎解き小説のサブジャンルになっているらしい。確かにこのボワロにしてもマンシェットにしても、ノワールvs謎解き小説という感じだったと思う。まあここら辺もおいおい。


最後が連続で同じタイトルなのだが、フォンダネシュとかいう人の。パリの大学の助教授のようだが、教科書みたいなものを多く書いている人みたいだ。いままでのやつは比較的新しいのを扱っていなかったみたいだけど、これはベナキスタとか前回買ったダンテクとかが扱われていて、固有名詞を集めるにはいい感じだ。しかも各作家の説明が短くて楽っぽい。なんか広く浅くという感じのようで、全体像をつかむにはどうかという感じだが、まあこういうのもあっていいかなと。

Jean AMILA, La lune d'Omaha, Gallimard, coll. Folio/policier, 1964(ジャン・アミラ『オマハ・ビーチの月』)
Maurice G. DANTEC, La sirène rouge, Gallimard, coll. Folio/policier, 1993(モーリス・G・ダンテク『赤いサイレン』)
Charles EXBRAYAT, Chianti et coca-cola, Champs-Élysées, coll. Club des masques, 1965(シャルル・エクスブラヤ『キャンティとコカコーラ』)
Jean-Christophe GRANGÉ, Les rivières pourpres, Albin Michel, 1998(ジャン-クリストフ・グランジェ『クリムゾン・リバー』)
Jean-Christophe GRANGÉ, L'empire des loups, Albin Michel, 2003(ジャン-クリストフ・グランジェ『狼の帝国』)
Gaston LEROUX, Le fantôme de l'opéra, LGF, 1975(ガストン・ルルーオペラ座の怪人』)
Georges SIMENON, Le chien jaune, Presses pocket, 1976(ジョルジュ・シムノン男の首、黄色の犬』)
Georges SIMENON, Les fiançailles de M. Hire, Presses pocket, 1960(ジョジュル・シムノン仕立て屋の恋』)
Maud TABACHNIK, Un été pourri, Viviane Hamy, 1994(モド・タバクニク『雨の多い夏』)
Jean VAUTRIN, Billy-ze-Kick, Gallimard, coll. Folio, 1974(ジャン・ヴォートラン『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』)


前回で終わりとか書いたと思うが、そのすぐ直後に今度はネットではなくて川のほとりで何冊か買った。僕が住んでいるリヨンでは毎週末に川のほとりにずらっと古本が並ぶ。いわゆる古本市だ。ちょっと驚いたのは毎週毎週どこかから古本をもってくるのではなく、川のほとりに点々と鍵のかけられる本棚のようなものがあり(蓋を閉めると外からは見えない)、そこに本をおいてあるらしい。多分市が管理していて市と業者が契約していてそこに本を置かせてもらっているのだろう。先日初めていってみたら店の人にいろいろ紹介してもらって比較的まとめて買った。こっちはフランスのミステリーがいいっていってるのに翻訳物をどんどん紹介してきて、あげくの果てにはオースターの本をもってきて強烈にプッシュしだした。もはやミステリーですらない。まあでも新刊で買うよりもだいぶ安かったしまあよかったかなと。自宅から遠いのであまり頻繁に通うというのは難しいが今後も行こうかなと思う。


ジャン・アミラ『オマハ・ビーチの月』。この作家の作品は以前『暴力組織』というものを買ったが、しかし今は同じ作家の本をたくさん買うよりいろんな作家の本をつまみ食い的に買った方がよかったかもしれない。だけどこのフォリオ/ポリシエというシリーズはなんか装丁がいいので買ってしまった。このシリーズ自体は新しいものだと思うが、『オマハ・ビーチの月』は1964年の作品。もともとは例のノワール・シリーズから出たものだ。アメリカの軍人たちが眠っている墓地のあるオマハ・ビーチの警備をしている軍曹が主人公らしい。フォリオ/ポリシエのサイトによると、この作品は彼の最も有名な作品らしい。セリーヌの後継者、ジム・トンプソンの遠縁を思わせる文体、らしい。ぱらぱらと見たところセリーヌほどきつそうな文体ではないような気がする。多分フランス人にとってと外国人にとっては「セリーヌ的な文体」のイメージが違うんだろうな。僕にとってはなんといっても語彙だ。仏和辞典じゃ足りない語彙を想像させる。アミラはそんな感じではないと思う。ちなみに巻末にアミラのほかの作品の紹介があって、30冊ぐらいの小説のタイトルが列挙されていたが、その中にSans attendre Godot(『ゴドーを待つことなく』)というタイトルがあった。非常にそそるタイトルだが、残念ながら絶版らしい。


次もフォリオ/ポリシエの作品だが、なんとこのシリーズ第一作目。普通のフォリオシリーズの第一作目は確かカミュの『異邦人』(L'étranger)だったと思うが、まあそれはよい。この人は結構フランスでは有名な気がする。今読んでいるフランク・ティリエスの『死者たちの部屋』(La chambre des morts)ではこの作品をして「グランジェとダンテクはうかうかしてられない」という評があったぐらいだから、まあグランジェは当然としてもダンテクも有名な人なんでしょう。で、例によってwikiによると、フルネームはモーリス・ジョルジュ・ダンテク、1959年6月13日グルノーブル生まれ、若い頃ニーチェドゥルーズの熱心な読者だった。大学で現代文学を学ぶが、すぐどうでもよくなってアルテファクト(Artefact)というロックグループを結成する。当初はEtat d'urgence(緊急状態、の意)という名前だった。これが70年代後半。で80年代は音楽活動を続けて、作家活動に入るのは90年代はじめからだ。今回買った『赤いサイレン』は彼のデビュー作。そのあとユーゴスラヴィアでの戦争で国連の態度に反対する。90年代前半はデビュー作を発表したあとは政治活動をしていたようだ。このときイスラムに改宗しようかと本気で考えていたらしい。1995年に実質上の第2作目を発表『悪の根源』(Les racines du mal)というタイトル。サイバーバンク的なノワールだと。どうやらこの人はポラールとSFを融合させた人らしい。完全にサイバーパンクの作品も出しているらしい。1997年には家族と一緒にケベックに移り住む。そこで第3作目、『バビロン・ベイビーズ』(Babylon Babies)を発表。どうやら完全にSFらしい。wikiの記述によると、この作品は非常に論争的、端的にいうと多くの読者ががっかりしたらしい。そのあとも作品を数多く発表するが、なんかこのwikiの筆者は気に入らないらしい。ぼろくそにいっている。まあミステリーとはあまり関係なくなってきているので、いいでしょう。だけどちょっとだけ付け加えると、彼は政治的な発言を数多くしていて、とりわけカナダの死刑制度の復活、ブッシュ大統領外交政策を評価していたりする。そういうこともあって一時期極右と見なされたことがあったらしい。まあこんなにぼろくそにいわれるのも、多分デビュー作の『赤いサイレン』が素晴らしかったからなのだろう、と思うことにする。しかしかなり長い。600ページぐらいあるな。ちなみにオフィシャルサイトがあるのだが、確かに今まで見たフランスのミステリー作家のオフィシャルサイトとは様子が違う。


エクスブラヤ。カタカナ表記は臨機応変に。『キャンティとコカコーラ』、これは邦訳もあるようだ。だが絶版になっているようだ。とはいえ翻訳があるから書評もある。こちらにはいくつかエクスブラヤの作品の書評があるが、それによるとロメオ・タルキニーニ警部が主人公の作品の3作目らしい。推理を楽しむというよりもトタバタ劇で笑わせるというタイプのものらしいな。テンポ良く物語が進んでゆく。僕のフランス語の能力でこのテンポがつかめるだろうか…。うう。まあ分厚くてごつい作品を読んだあとに読むのもいいかもしれない。


次の2冊がグランジェなのだが、多分グランジェぐらいになると古本屋とかでは投げ売りするぐらいあるのだろう。ちなみに両方とも3ユーロだった。500円しないぐらいかな? 両方とも邦訳がある。やっぱり人気作家なのだろう、3月1日に新刊が発表されるが、これもすぐ翻訳されるのだろうか。僕ももう既に3冊買ってしまったので早いところ読んでしまいたい。しかしみんな厚いんだよな…。まあそれはいいとして、この人の作品というのはいわゆるミステリーということにはなるのかもしれないが、たとえばフランスでポラール好きを自認している人が読むのだろうか。まあものすごく売れたらしいから、そういう限定なしに読者を集めているのだろう。しかし多分これはいえると思うのだが、彼の作品について語る語られ方は、ほかの「ポラール」に緩くではあれカテゴライズされる作家たちと比べて、ジャンルとの関係で語られることがあまりないような気がする。まあ読む前にごちゃごちゃ考えてもしょうがないのだが。


オペラ座の怪人』はまあいいでしょう。ちなみに著作権が切れているからどこかに原文がアップされているかなあと思って探してみたけどFauteuil hanté(『呪われた肘掛け椅子』)しかなかった。


次二つはシムノン。メグレものとそうでないもの一冊ずつ。なんか古本屋のおじさんはものすごくプッシュしていた。「『仕立て屋の恋』は映画になったんだよ! 見たことある?」みたいな感じだった。確かルコントのやつは見たことがあったような気がするが、全然覚えていない。ちなみに表紙に主人公の俳優さんの写真が写っている。まあとにかく最初は古典を読め、ということなのだろう。1903年2月13日ベルギーはリエージュ生まれ。1989年9月4日にローザンヌで亡くなる。うまいことフランスをさけている。2月13日生まれなのだが、金曜日だったので縁起が悪いってんで12日生まれということで役所に届け出たらしい。ものすごい多産な作家ということだ。エクスブライヤが100作ぐらいだったらしいがシムノンは小説だけで200作品近く書いている。ベルギーで最も外国語への翻訳が多い作家らしい。wikiの記述が長いので読む気しないのだが、作品についてちょっと書いてあるところで、現在の作家たちの違いについて触れていた。まあ簡単にいうと現在の作家たちと比べてなぞが結構単純だということらしい。謎そのものよりも、犯罪が生まれては解決されてゆく無限の連鎖、業のようなものだろうか、そういうものに焦点を合わせているとのこと。これを広げて考えると、要するに謎、ってものは単独ではあり得ない、それを成立させるような場、人間の業だったり社会だったり、そういうものにより興味があったということだろう。もしかしたらこういった社会や心理的な条件に対する依存から、謎が解き放たれていうという過程が推理小説の歴史の中で読み取れるのかもしれない。


次。モド・タバクニクってカナ表記したが、こういう発音するかどうかはわからない。モド(モード)という名前は確か女性の名前だったと思う。僕の知り合いにもそういう名前の女の子がいた。確かアジア系のフランス人だった。1938年11月12日パリ生まれ。こんな顔してる。学生時代は運動療法について学んで学位をとり、卒業後17年にわたってオステオパシー、つまり骨の障害についての専門家として活動する。まあ要は医療関係者だったということかな。で作家として本格的に活動し始めるのは90年代に入ってからだ。今回買った『雨の多い夏』は、ボストンで男の人が何人も喉を切られ性器を切り取られて殺されるという連続殺人事件が起きるという話。グッドマンという刑事が捜査をする。フランス語なのにアメリカが舞台なのか。そこら辺の違和感は読者にはないのだろうか。翻訳とフランス語原文をあまり区別しないということも関係しているのだろうか。ついでなので出版社について。ヴィヴィアンヌ・アミ。まあ多分ヴィヴィアンヌ・アミさんがつくったのだろう。1990年にできた出版社だからかなり新しい。結構ミステリーにも力を入れているらしいが、中でも一番有名な作家はフレッド・ヴァルガスだろう。この人の作品は多分ほとんどがこの出版社から出ていると思う。こんな人。かなり美人だと思う。この人の本は注文したのでまあそのときにちょっといろいろ調べようと思う。この人はどこの本屋にいってもかなりの量置いてあるので、もう相当な人気作家だろう。なんかタバクニクの話じゃなくなってしまった。


最後はヴォートラン。確か前に「ヴォトラン」と表記したが、ヴォートラン名義で翻訳が出ていたので今後こちらで。1933年5月17日にナンシーの近くで生まれる*1。学生時代映画を学んでいて、1955年にボンベイでフランス文学を教えることになるが、そこでカイエ・デュ・シネマに文章を書いたりしている。1957年にフランスに戻ってきてしばらくは映画の仕事を続ける。ヴィンセント・ミネリジャック・リヴェットとかといっしょに仕事をする傍ら、自らも短編映画を撮影したりする。長編も5つ撮った。ここら辺の映画の仕事をするときは彼はジャン・エルマンという本名を使っていた。で70年代に入って作家活動を始めるが、なんかいろんな賞を獲ることになる。ゴンクール賞とかミステリー批評賞とかから、よく知らん賞まで獲っている。映画の分野でマリリン・モンロー賞というのも獲っている。どんな賞かは知らん。こちらにいろいろ賞が列挙されている。ミステリーの分野においても70年代にマンシェットとともにロマン・ノワールを発展させたという業績がある。とはいえヴォートランをノワールの作家、というにはあまりにもいろいろなジャンルの作品を書いているようだ。とはいえ今回買った『パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない』はあらすじとかを見てもノワールっぽい。パリ郊外の団地で動機のない連続殺人事件が起こるという話。カスタマーレヴューを見てもどうやら結末もちゃんとしているようだ。結末がちゃんとしているという点でもしかしたらマンシェットとかにしてみたらノワール的じゃないのかもしれない。まあ結末が破綻してればいいということでもないだろうが。

*1:こちらでは1月1日生まれとある。

Gaston LEROUX, Le mystère de la chambre jaune, Livre de poche, 1960(ガストン・ルルー黄色い部屋の謎』)
Jean-Patrick MANCHETTE, Ô dingos, ô châteaux !, Gallimard, coll. Série noire, 1972(ジャン-パトリック・マンシェット『狼が来た、城へ逃げろ』)
Michel QUINT, La dernière récré, Fleuve noir, 1984(ミシェル・カン『最後の休み時間』)


ガストン・ルルーについては日本でも知れ渡っているだろう。僕も名前だけは知っていた。まあ古典も多いし邦訳も多いので当然といえば当然か。著作権が切れているので原文であればネットでも手に入るが、やはり本で欲しい。目も疲れるし。というわけで略歴。1868年5月6日生まれ1927年4月5日に亡くなる。文学者でいうとクローデルと同い年。歴史上の人物ですな。生まれはパリなのだが、育ったのはノルマンディ。また北部だ。もしかしたらフランス北部ってのはイギリスとかの影響でミステリーとかが盛んなのだろうか。まあそれはともかく、大学に入るために1886年にパリに移り住み、法学を学んだ。そのまま卒業後弁護士になるのが1890年。しかしそれほど長く弁護士活動をしているわけではなく、1893年には活動をやめている。で記念にと思ったのかなんか知らんが『エコー・ドゥ・パリ』という新聞に自分が扱った事件について、とりわけオギュスト・ヴァイヤンというアナーキストがやらかした議会襲撃の事件などについて寄稿したりした。それがモーリス・ビュノ-ヴァリヤという『ル・マタン』という新聞の編集長の目に留まり、ルルーは同新聞の司法担当者になる。こうして司法担当者になることによってネタの供給源を確保し、また新聞社に勤めることによって発表媒体をも確保した。事後的に見れば、彼が作家活動に入るのは20世紀に入ってからだが、前世紀のうちにその足場固めをしていたことになる。今回買った『黄色い部屋の謎』が発表されたのは1907年だが、後にシュルレアリストたちに影響を与えたらしい。ほんまかいな。まあそれはともかくこの作品はいわゆる密室殺人ものらしいがフランスではそれ以前にこういった類のものってあったのだろうか。また例によって推理小説の陰での中の推理小説の歴史の項目を見ると、とりあえずジャンルとしてのスタート地点を『モルグ街の殺人事件』とした上でエミル・ガボリオ(Emile Gaboriau)という人がポーの影響を受けて犯罪のもの小説を書いたらしい。日本語訳があるかどうかを探してみたら、『ルコック探偵』というのが見つかった。間違っているかもしれないが、Monsieur Lecoq(直訳すると『ルコック氏』)がもとの本だろう。ちなみにこれが原文。結構長そう。これは1868年、ルルーが生まれた翌年に書かれたものだが、いくつか文章を読む限り一番有名っぽいのは、L'affaire Lerouge(『ルルージュ事件』)のようだ。この作品は評判が良かったらしく直ちに英訳された。コナン・ドイルとかにも影響を与えたらしい。実際、フランスのアマゾンで調べるとフランス語の本よりも英語の本の方が多く引っかかる。英語圏でより受け入れられたのだろう。この本や彼のほかの作品がいわゆる密室犯罪を扱ったものかどうかはわからないが、ルルーがこういうの読んでないはずがないから、いろいろ参考になったろう。


つぎ、マンシェットだが、これはもう読んだ。一息ついたら読んだ感想などを書いてみようと思う。というわけで『狼が来た、城へ逃げろ』の内容はおいておくとして、この辺りのいわゆるネオ・ポラールの作品は結構日本語に翻訳されているのだが、絶版になっているものが多いらしい。ざっと見た感じだと、だいたい70年代後半にどばっと翻訳されてそれっきりといった感じだ。書評のサイトとかを見ると今復刊するにはちょっとヤバい表現があるらしい。フランス語を読んでみてもそのような感じはする。A.D.Gもそういう感じなのだろうか。それはともかくマンシェットについてちょっと調べた。どこの紹介を見ても、まず書いてあるのが「ネオ・ポラールの父」という表現だ。推理小説の陰でによると1968年のいわゆる五月革命以降、より社会を反映した推理小説を目指す動きがあって、その運動の中で発表された作品をそう呼ぶらしい。嚆矢となるのはフランシス・リック(Francis Ryck)、とあるが、エポックメイキングだったのは70年代初頭に発表されたマンシェットの『ンギュストロ事件』と『病める巨犬たちの夜』らしい。この2作品はともにガリマールのノワール・シリーズから出たものであるが、70年代後半に入るとこういったネオ・ポラールを扱った他の出版者のシリーズがたくさん出てくる。こういった出版社からエルヴェ・ジャウアン(Hervé Jaouen)、ユグ・パガン(Hugues Pagan)、フレデリック・ファジャルディ、ティエリ・ジョンケ、マルク・ヴィヤール(Marc Villard)などが登場する。ガリマール社がそれを迎え撃つかたちになるが、こっちからはディディエ・デナンクス、ジャン-ユグ・オペル、トニーノ・ベナキスタなどが出てくる。まあいってみればマンシェットはこれらの作家の親玉といった感じなのだろうか。で、このマンシェットは1942年12月19日生まれ、1995年6月3日に亡くなる。マルセイユ生まれ。何となく南はノワールで北は本格系なのだろうか。根拠はないが。意外と作品は多くない。ミステリー関係でいえば(もちろん何をもってミステリーというかによって変わるが)、二桁いくかいかないかだ。これは短命だったということよりも、1982年に断筆してしまったからだ。前述の『ンギュスト事件』をデビュー作とするなら、それが発表されたのが1971年だから、ミステリー作家としての実働は10年ぐらいしかない。wikiによるとアゴラフォビを患ったとある。広場が怖いってことだろうか。そんなわけで文字通り引きこもってしまい、1995年に肺がんで亡くなる。もう亡くなって10年以上もたつが、さすが親玉だけあって、彼のついての評論とかが出たり、いまだに影響があるみたいだ。ところでこのサイトではマンシェットのいろいろな面を見ることができて面白い。特に面白かったのは評論家というか理論家の顔もあったということだ。どうやらミステリーというかノワールを書いているということにかなり自覚的だったらしく、「ノワールとは何か」などという問いをつねに問うてきたらしい。特に「謎解きの小説(romans à énigme)」といかに差異化するかということは重要だったようだ。このサイト内の「ロマン・ノワールの美学」と題されたところにある文章を引用する。これはミシェル・ルブランらが著わした『犯罪小説』(Le roman criminel)の序文として書かれた文章の一説だ。

謎解きの小説の文体が混淆的、用途の広い、その対象にほとんど依存することのない文体であるのに対し(…)、偉大なロマン・ノワールはある特殊な文体をもっている。それは外在的な文体であり、非道徳的、反心理学的、そして何よりも記述的、映画的、行動主義的な文体である(…)。このようなロマン・ノワールの特異な文体に、私は反動的な作家の振る舞いを見るのである。


なんかポンジュみたいなことをいってるな。まあ大雑把にいってしまうと話の辻褄よりも文体重視といった感じだろうか。実際『狼が来た、城へ逃げろ』を読んだときはそんな感じはした。たとえば同じサイトの「ロマン・ノワールの定義」というところでは次のような引用がある。

ポラールを暴力的なロマン・ノワールとするアメリカ的な厳密な定義にしたがうなら、その定義の中にフランスの推理小説、サスペンス小説、さらにはスリラー小説をそこに含めてはならないだろう。なぜならそれはポラールに影響を受けてはいるものの、シナリオの構造を中心にすえており、それゆえに時代の認識に至ることができず、その絵画的な特殊性しか捉えることができないからだ。


ちょっと面倒くさいのだが、マンシェットはポラール(polar)という言葉と推理小説(roman policier)という言葉を区別して使っている。それも引用にあるのでちょっと紹介。

私はポラール推理小説とは全く関係がないと宣言する。ポラールの意味するところは暴力的なロマン・ノワールである。イギリス流の謎解きを主とする推理小説が邪悪な人間の本性の中に悪を見出すのに対して、ポラールは移ろう社会機構の中に悪を見出す。ポラールは不均衡で不安定、そして崩壊し過ぎ去ってゆくことになる世界から生まれる。ポラールとは危機の文学なのだ。


つまり、きちっとした物語があるとき、その物語を成立させている均衡とか安定ってなんだよ、という突っ込みを入れるわけだ。そんな世界に俺たちゃ生きてないだろ、と。まあそれはそれでリアルな感じはするが、その特殊な記述的な文体を可能にしている場はなんだよ、という気にもなってくる。まあそうなるとベケットとかになっちゃうわけだが。まあとにかく、僕の興味としてはもしかしたら彼の作品よりも評論の方が重要かも。


最後。ミシェル・カン。今度は北方の人だ。1949年生まれ。パ-ドゥ-カレの出身。学生時代は演劇の研究をしており、卒業後も戯曲を書く仕事をしていた。ラジオ局でラジオドラマのシナリオも書いたりしていた。で、1989年に『階上のビリヤード』(Billard à l'étage)でフランス推理小説大賞を受賞。しかし彼がミステリー作家として名を売ったのは2000年に発表された『恐るべき庭園』(Effroyables jardins)においてであるらしい。映画化されたようだ。そして現在、彼はルベというこれまた北部にあるボードレール高校で演劇を教えている。で、今回買った『最後の休み時間』に関してだが、なんかあんまりネット上での言及がない。出版社のサイトにいってみても絶版になっているのかデータがない。ううむ。なんか読むのも後回しになってしまいそう…


とりあえずネット中古文庫屋で買った分はこれで終わり。

Jean-Claude IZZO, Vivre fatigue, EJL, 1998(ジャン-クロード・イゾ『辛酸をなめる』)
Sébastien JAPRISOT, Compartiment tueurs, Denoël, 1962(セバスチアン・ジャプリゾ『寝台車の殺人者』)
Thierry JONQUET, Le pauvre nouveau est arrivé !, Manya, 1990(ティエリ・ジョンケ『哀れな新入りがやってきた!』)


ジャン-クロード・イゾ。彼の公式サイトがある。とりあえずそこからプロフィールを。1945年6月20日マルセイユ生まれで2000年1月26日に亡くなる。あ、僕と同じ誕生日だ。まあそれはどうでもよい。名前が想像させるように父親がイタリアで生まれて1920年マルセイユに移り住む。母親はマルセイユの人ということだ。1964年に軍隊にはいってトゥーロン、次いでジブチに赴任。そこでハンストをやったりして15キロぐらい体重が減ったらしい。1966年に除隊するのだが、そのあとは政治活動を始める。1968年にマルセイユの選挙区で統一社会党PSU)の推薦で国会議員選挙に立候補その直後にフランス共産党に入党。選挙後にすぐ党を移るということは落選したのだろうか。そのあたりのことは書いていない。ということは落ちたんだろうな。でそのあと、70年代は詩人としての活動が主だった。で、いくつか詩集を出すのだが、ミステリーを出すのは1995年、だいぶあとだ。それで出たのが『完全なるクフ王』。売れたらしい。これは『マルセイユ三部作』の第一作目で、マルセイユに縁のある人だ。この公式サイトにはジャン-クロード・イゾ中学校の紹介もある。フランスでは小学校とか中学校とかまあもっといえば道路とかに有名な人の名前を冠するが、まあその一種だ。だが葉山だか逗子だかの加山雄三通りとかとはちょっと意味が違うと思う。それはともかくこの学校もマルセイユにあるのかなと思ったらダンケルクにあった。マルセイユとは真逆のほとんど最北端の都市だ。ちょうど設立されて一周年。というわけで、この人はミステリーとしても有名な作品を残しているようだが、キャリアとしては詩人としての方が長く、作品も多い。で、今回買ったのは短編集。「この世には謎などありはしない、あるのは数々の悲劇だけだ。」というジャン・ジオノの言葉がエピグラフになっている。後ろの作品の紹介を見ると人種差別のことが扱われていたりする。ミステリーと思って読まない方がいいのだろうか。ちなみに書き下ろしではなくいろいろな雑誌などに掲載されたものを加筆修正などしてまとめたもの。


セバスチアン・ジャプリゾ。本名はジャン-バティスト・ロッシ、このアナグラムがセバスチアン・ジャプリゾというペンネームになっているらしい。1931年7月4日にマルセイユに生まれる。またマルセイユだ。そして2003年3月4日に亡くなる。18歳で出版社に投稿した小説がいきなり成功し、サルトルアラゴン、アダモフなどが審査員をする文学賞を獲得する。そのあといくつか小説を出すのだが、20代半ばで広告関係の仕事をするようになる。だがその間も書く仕事は続けており、『ライ麦畑で捕まえて』などを仏訳。ルノワール作品の脚本とかも手がけたようだ。1962年に文筆業に本格的に戻るのだが、その理由はどうやら借金らしい。そしてこの時期をもって彼のミステリーのキャリアが始まる。なぜミステリーかというと、トリックのアイディアが浮かんだからだそうだ。そうして生まれたのが今回買った『寝台車の殺人者』。このときにジャプリゾというペンネームを使ったのだが、それは成功するかどうか自信がなかったかららしい。こういうのは後々になってみるとかえってかっこわるかったりする。この翌年、彼はすぐに第に作目、『シンデレラの罠』を発表するが、それは1963年フランス推理小説大賞を受賞する。その後はどうやらいわゆる純文学や映画の仕事を中心に据えていったようだ。『寝台車の殺人者』についてだが、原題は『コンパートメントの殺人者』という感じだろうか。あれは日本の列車にあるのかどうか知らないが、こっちのコンパートメントというのは4人がけの椅子が向かい合いである8人用のボックスなのだが、まあ人がいないときはいいのだが、満員だと何時間も乗るのはかなりきつい。こういう鉄道ものの推理小説はフランスではポピュラーなのだろうか。日本ではそうだろう。だから翻訳も出ているのだろう。ちなみに、鉄道に関係したミステリーを専門にした出版社がある。鉄道生活という名前の出版社で、ここが出しているレール・ノワールというミステリーのシリーズがある。まだ13冊しか出ていないようだが、タイトルを見ると明らかに鉄道を思わせるものばかりだ。以前紹介したフランク・ティリエスもここから2冊出している。こういう出版社があるぐらいだからそれなりに支持されてはいるのだろう。


ティエリ・ジョンケは1954年生まれの現役の作家で、公式サイトをもっている。このサイトにはステファニ・ラニという人が書いた彼の略歴があるので、それをかいつまんで。若い頃は政治にものすごく関心があって(もしかしたらある種のフランス人にとっては普通なのかもしれないが)、本でショアーの事実を知ってナチに対して憤り、左翼系の政治運動に参加したり、1972年にルノーの工場である労働者が殺されたことに対して労組が何もしなかったことに対して憤ったり。そのことと関係あるのかわからないけど、20歳前に哲学についての研究を諦め例によって職を転々とする。主な職はどうやら福祉や医療関係らしい。それが10年間続く。本格的に作家活動に入ったのは1984年頃だ。この頃にノワール・シリーズから『野獣と美女』が1985年に出版されて彼のミステリーにおける地位を確固たるものとする。今回買ったものは、エチエンヌというパリの教会関係者が主人公で、そこで何人かの浮浪者が殺されるという話らしい。


まだまだ終わらん。

Paul HALTER, Le brouillard rouge, Champs-Élysées, coll. Le masque, 1988(ポール・アルテ赤い霧』)


前回と同じ文庫のサイトで買ったもの。基本的に作家で検索してその中で一番安いものを買っているので、作品の選択についてさして理由はない。まだ全くの初心者なので、いろいろ吟味して選ぶよりとにかく量だと思う。お金が続く限りこんな感じで集めていこう。集めるのは楽しい。


ポール・アルテというのはいま日本で最も有名な作家ではないだろうか。『本格ミステリ・ベスト10』にも毎年ランクインしているらしい。前にも書いたけどフランス語版のwikiでは狭義の推理小説(=本格)とノワールが対比されて定義づけられていたけど、この対比を用いていうならば、アルテは前者の作家に当てはまるということなのだろう。ただ、僕の印象ではアルテの名前はフランスではそれほど有名ではないような気がする。もちろん印象なので確固とした根拠があるわけではないが、たとえば町の比較的大きな書店にいくと、棚でアルテの作品が占めているスペースは本当に小さい。前回紹介したデナンクスが10冊ぐらい並んでいるところにアルテは2冊という感じ。ここら辺は日本のミステリーのファンとの嗜好の違いなのだろうか。フランス語の作品があんまり邦訳されていない理由なのかもしれない。『赤い霧』自体についてはどうやら日本でもかなり有名らしい。この作品は1988年に発表されていて、その年の冒険小説賞を受賞している。この人の作品はほとんどがシャン-ゼリゼという出版社のマスクというシリーズから出ているが、このシリーズをつくったアルベール・ピガスという人が冒険小説賞を設立した。ちなみにこのシリーズはちょっと特徴的だ。例によって推理小説の陰でにこのピガスのインタヴューがあるのでそれを翻訳してみる。非常にラフな訳で。

推理小説のシリーズを監修するにあたって重要なことは、読者を楽しませることであって、邪な考えを起こさせることではありません。「マスク」のすべての作品において、今も昔も、そしてこれからもそのことを心がけています。これらの作品には決して、決して正当化されるような犯罪は現れません。どんなシチュエーションであれ、非行少年であろうが殺し屋であろうが泥棒であろうがどんなものでもかまわないのですが、みな犯罪者は罰せられます。彼らがどんなうまい手を使ったとしても、彼らよりも優れた刑事や探偵が現れて、彼らを捕えてしまうのです。


また、同じサイトのマスクシリーズの説明では、「流血、性的表現は避ける、モラルを保つ、子供を殺してはいけない、近親相姦や同性愛もダメ、つまり普通の殺人のみ」というのが基本的な方針らしい。まあ「普通の」ってなんだとか思うが、要は犯罪の猟奇性とか派手さとかで読者を惹くのではなく、手口の鮮やかさ、そしてそれをめぐる追う者と追われる者との対決で読者を惹きつけるべきだ、と考えているのだろう。この方針のもとではちょっとノワールは出しにくいだろう。事実、ナルスジャックは次のようにいっている。「マスクシリーズはアガサ・クリスティに似ている。このシリーズの大きな功績は、つねに謎を最も重要なものとして捉えてきたということだ」。この方針はノワールシリーズをつくったマルセル・デュアメルとは全く逆らしい。つまり彼は謎を解くタイプの小説よりもノワールに力を入れた。ここでもノワールと本格の対立が利いている。まあ出版社の規模もあるだろうが(多分ノワールシリーズのガリマール社は日本の講談社みたいなものだと思う)やはりノワールの方が優勢のようだ。そういう意味では何も情報がなくても本格ものを探すならこのシリーズからがよいということになると思う。現在出ているこのシリーズはすべて表紙が黄色くてほかのシリーズと区別しやすいので、本屋でいわゆるジャケ買いをするのにはいいと思う。ただ残念なのはざっと見た感じこのシリーズはどちらかというと翻訳ものに力を入れているみたいだ。ネットで検索しても翻訳物が大半で、フランス語オリジナルのものはそれほど多くない。だから逆にいえばアルテのように若くて(1956年生まれ)本格に取り組んでいる作家は珍しくてとりわけ日本で注目されるのだろう。

なんかまた長くなったので続く。

Jean AMILA, La bonne tisane, Gallimard, coll. Carré noir, 1955(ジャン・アミラ『暴力組織』)
Didier DAENINCKX, meurtres pour mémoire, Gallimard, coll. Folio/policier, 1984(ディディエ・デナンクス『記憶のための殺人』)
Didier DAENINCKX, Les figurants, Verdier, 1995(ディディエ・デナンクス『端役たち』)
Charles EXBRAYAT, Les messieurs de Delft, Champs-Élysées, 1964(シャルル・エクスブラヤ『デルフトの紳士たち』)


フランス語の古本を文庫本専門で扱っているサイトを見つけてしまったのでそこで何冊か買ってしまった。日本のマンガのフランス語版も売っていた。アマゾンで買うよりずいぶん安いし、もう絶版になっているものが比較的安価で手に入るのでこういうサイトは重宝しそうだ。というわけでミステリー関係のサイトや実際の本屋などでよく目に入る名前を検索して安い本を見繕ってみた。


最初の本はジャン・アミラという人の『暴力組織』。このタイトルは原書のタイトルの直訳ではないのだが、この作品は映画化されていて、その映画のタイトルが日本では『暴力組織』となっていたので、このタイトルにした。ちなみに日本語訳がない本で、ここに示してある日本語のタイトルは僕が勝手に訳したもので、正確ではないのでご注意ください。内容を読む前にタイトルを訳そうとすると結構間違えたりすることは多い。ちなみにこの本の場合、タイトルにあるtisaneという言葉は普通はハーブティーを想像させるのだが、別の意味で殴打とか鉄拳とかいう意味もあり、そこから暴力組織というタイトルが出てきたのだと思う。goo映画での説明によると、原作者が「ジョン・アミラ」とあるけど、このジャン・アミラという人はジョン・アミラとか、ジャン・ムケールとかいうペンネームをもっている。というわけで、作者について説明すると、1910年11月24日生まれで1995年3月6日に亡くなっている。パリ生まれで、小さい頃に父親が外に女を作って蒸発、それで母親がおかしくなって病院に収容。そんなわけで孤児のように育つ。そしてほかの多くの作家と同じようにデビュー前にいろいろな職業についていたようだ。作家としての最初の作品はミステリーというよりいわゆる純文学で、アンドレ・ジッドやレイモン・クノーに注目されていたようだ。1950年に俳優でもありガリマールというフランスの大手出版社で出ているノワール・シリーズの監修をしているマルセル・デュアメルという人(この人はミステリ関係の記述でしばしば見かける。重要な人のようだ)のすすめでミステリーを書き始める。ジョン・アミラとかジャン・アミラというペンネームはどうやらミステリー用のペンネームのようだ。ちなみに彼はこのシリーズの二人目の作家らしい。政治的には無政府主義的で反軍国主義的らしい。ちなみに今回買ったものは2ユーロぐらいだったこともありぼろぼろだった。なんかいまマンシェットを読んでいるからかもしれないけど、フランスはどちらかというと本格推理ものよりもノワール、というかハードボイルドものの方が優勢なような気がする。ここら辺は日本の状況と違うのだろうか。ソースはwikiおよび推理小説の陰で


次はディディエ・デナンクスだが、この人については日本語の訳が結構あるので、日本でも結構知られているかもしれない。この人もジャン・アミラと同様にノワール・シリーズの作家として認知されているようだ。そして彼についてのどのサイトにも書いてあることだが、特徴的なのは彼の政治的活動だ。あまりにもその活動に入れあげているので、彼の書くミステリー自体も非常に政治色を帯びて、場合によっては「これミステリーか?」と読者が思ってしまうぐらいであると。とはいえ彼の名前はノワールの世界ではビッグネームではあるようだ。今回買った『記憶のための殺人』はどうやら彼のミステリーのデビュー作のようだが、この作品で1985年のフランス推理小説大賞を受賞している。ちなみにこの邦訳、『記憶のための殺人』というタイトルだが、どうなんでしょう。mémoireという語はもちろん記憶という意味もあるが、pour mémoireという熟語は「参考までに」とか「念のため」とかいう意味だ。だから素直に訳せば「念のための殺人」つまり本当は殺さなくてもいいんだけど、自分のみの安全を守るためには殺しておいた方がいいという感じの、いわばおまけの殺人という感じだと思う。もちろんまだ読んでないから、わざと「記憶のための」と訳す理由があったのかもしれないが、今回買った本の裏に書いてあるあらすじというか紹介によれば、1961年、ティロという歴史学の教授がたまたまアルジェリア戦争がらみのデモに出くわして殺されてしまう。ことの真相が明らかにされないままに20年後にその息子が撃たれることで徐々になんでその教授が殺されたかがわかるというストーリーらしいので、その教授が「たまたま」「念のために」殺されたのではないかなあとか思ってしまう。既に読んだ方は教えてください。まあそれはともかくこの話も政治的な問題が絡んでいそうだ。次の作品は1995年のものなので作者がもうだいぶ有名になってからのもののようだ。映画祭に参加するためにリールを訪れた映画好きの主人公が古道具市で変なフィルムを見つける。で、そのフィルムに魅了されてそれについていろいろ調べていくという話のようだ。リールというのはフランス北部の都市だが、以前紹介したティリエスの作品と同様に「北方」の推理小説にカテゴライズされるのだろうか。


次。エクスブラヤ。本当にこのように発音するか不明だが、この表記で既に邦訳が出版されているので便宜上こう表記する。と、思ったらwikiにはエクスブライヤ、と表記している。そしてアマゾンでもエクスブライヤで何冊か引っかかる。ううむ。じゃあエクスブライヤにしよう。こっちの方が発音として近そうだ。さて、この人は1906年に生まれて1989年に亡くなっているから、さっきのジャン・アミラと近い世代となるのかな。第一回のフランス推理小説大賞を獲ったレオ・マレも1909年生まれだからこの辺りの世代か。ちなみにシムノン1903年生まれ。干支でいうと江戸川乱歩の一回り下となる。この人はとにかく作品が多い。100冊ぐらい書いている。そしてwikiでの表現によれば「ユーモア推理小説」で有名だそうだ。実際、こちらにはいくつか彼の作品の書評があるが、ミステリー云々というよりも笑える、っていう感じだ。今回買った小説はそうではないが、イモジェーヌというキャラの冒険小説が有名らしい。全然関係ないけどジョージ・ジョーンズの歌にそういう名前の人が出てくるものがあったような…。まあよい。ちなみに彼はサンテチエンヌというところの出身なのだが、そこではシャルル・エクスブライヤ賞という推理小説の賞があるようだ。審査基準は「彼が読んだら喜ぶだろうなあと思われる小説」らしい。サンテチエンヌの一般読者の投票によって毎年決められる。なんかフランスってのは各地域にミステリー関係の賞があるような気がする。それだけ浸透しているということか。


まだまだ買った本はあるがとりあえずここらでひとまずしめる。