想像すること
今は麻酔科を回っていている。うちの病院は電子化には程遠く麻酔チャートなるものを手書きしている。
5分ごとに麻酔チャートなる血圧と心拍数を記録しなくてはならず,甚だ面倒なのである。5分ごとに人間はコンピュータを未だかつてtoolにしたことがない,という誰かの迷言を思い出す。
というわけでヒマなわけではないのだが,5分の隙間の仕事とといえば,
- 血圧を2.5分ごとに計測しているので間の数字を見ている
- 早く終わらないかなあとうだうだと術野を覗く
- 出血していないかなあとうだうだと術野を覗く
- 点滴のボトルが空になりかけていないかなあとチェックする(よく怠るので看護師さんにマジギレされる)
- 重たくなる瞼と格闘する
- 今日のお昼ごはん た☆の☆し☆み とキラキラ期待する(午前中のみ)
- 飲みに行きたいなあ と期待する(普通は午後のみ)
などと忙しいのである。
最近は論文や本を読むといった高度テクニックも追加されている。
ちなみに正直こんなことをやっているとたいそう不真面目に聞こえるかもしれないが,真面目であるとは言わないがそこそこ普通にやっているほうである。
さて,麻酔科を回り始めた当初は人間観察で精一杯だった。それは,マスクの下がどんな顔なのだろうということである。
人間目(と眉毛と鼻の根元)だけではイマイチ表情は想像しにくい。
手術室では髪の毛(帽子で)と鼻毛(マスクで;都市伝説かと思ったら本気だった)が落ちないようにケアをしている(これはこれでまためいめい好みがあって面白いのだが,ひとまず置いておいて)。これは没個性なのだ。あごのラインを隠すようにマスクをするのが正しい装着法なので顔の輪郭すら想像にお任せされてしまう。つまり,この段階で愛の告白なんかできない。人は往々にして目は美しくても全体的にはいまいちというひとが多いのだということがよくわかった。
顔と性格が一致しないのだというのはあまり納得したくないのだが,これだけ反例があるとなると,女性が男性を選ぶときに顔なんか二の次というのは理解できる気がする。男性の言い分としては「いつまでも初恋のように」が続くためにはまずは顔,なのだけれど。
隅田川花火大会
今週のお題「2011年,夏の思い出」
隅田川花火大会といえば,年に一度だけテレビ東京が本気になるという例のイベント。
大学1年生のときだった。
いまから考えればたいして好きでもなんでもないのに,一夏の恋的なものへの憧れと,駒場のイチョウが散ってしまうまで伝説とで,「すきなひと」をでっち上げたかったのだろう。クラスでの花火鑑賞大会にその子が参加するというので,家庭教師のバイトをやってからわざわざえっちらおっちら両国駅に出かけたわけである。
正直駅についたときにはすでに帰りたい気分でいっぱいだった。
あれは大人数で行っても楽しくない。猥雑で乱雑な人生の無駄な時間。
贅沢な人間だと思われると思うが,花火をきちんといわゆる最前列的な場所で見ることが出来なければ家のテレビで冷房のなか見れば良いわけで,安っぽい酒と,結局独占も何も出来ない,着慣れない安物の浴衣に四苦八苦しているかはたまた着崩したいだけ崩した下品な女性たちのサポートとで肝心の花火は携帯のカメラでは点にも満たないサイズにしか映らないなんてウンザリした。
結局花火は音が聞こえるか,息遣いが聞こえるか,そういう状況じゃないと楽しめないのだ。