ビシアジ

釣りの誘いがあり、二人で日程を決め、その後、日本語教育学会の会場で見かけた人数人に声をかけて釣り仲間募集!(私はいったい"なにしてるんじゃ!?")
で、釣り場を決める際に、ホームページで情報集め。
で、言葉の壁にぶつかりました。
「仕立て船」「乗合船」
 値段は同じくらい。よくわからず意味を検索したら「仕立て船」は貸切の船のことだそうです。
アジがつりたいなあと、探したらアジ釣りという文言のかわりに、
見慣れない
「ビシアジ」
という言葉。
 釣りが好きなので魚の名前はそれなりに知っているつもりだけど、ビシアジ…?

船釣りで使われるオモリと撒餌をするかごがセットになっているものを「ビシ」というらしい。ビシを使ってアジをすることで、アジの種類でなく釣り方を含めた言い方、「ビシアジ」。

こんなのは日本語教育の教科書にも国語の教科書にも出てこない言葉ですよね。
いや、せめて国語の授業で扱うべきなんじゃないかな?

どう思いますか?

【かわっち】

日本語教育の「ちから」

今日、日本語教育学会の評議員会と臨時総会と「日本語教育の未来を拓く」というテーマのシンポジウムがあって、行ってきました。

その席で、報告がありました。

国立国語研究所日本語教育のセクションと人を残すという、法律の修正案と付帯決議というのが衆議院の委員会、衆議院本会議で可決され、今、参議院に回っているのだそうです。今月末には、参議院でも可決されて修正された付帯決議付の法案が成立する見通しとのこと。衆議院でも全党の議員が賛成したそうです。

詳細は↓へ。
http://seigan5000.web.fc2.com/amend.html

これは異例なことらしく、異例なことが実現したのは、短期間に1万2千超の署名が集まったこと、400を超えるパブリックコメントが寄せられたことが大きかったのだろう、とのことです。

そんなこともあって、今日の学会の理事の皆さんはとても元気な感じがしました。日本語教育が今の日本社会に、これからの日本社会に必要だと認識されていること、多くの議員がそう考えて、極めて短い期間に修正法案をまとめてくれたこと、その議員を動かすことができた学会をはじめとした日本語教育関係者のアクションを非常に心強く思うと。

日本語教育の「ちから」、みたいなのがあるのだ、という感じでした。

でも実は、この先が勝負だったりしますね。国研を国の機関にするという案も含めた見直しのために2年の期間が設けられているのですね。この2年でどこまでその必要性、「国策」としての重要性が示せるか。今日の話には「日本語教育は国策だ」ということが国会で言われた、という点も極めて重要だというのもありました。

ま、2年というのは、国研のことだけですが、今後、日本語教育がプレゼンスを高めることができるのか、という点については、なんとなく楽観的な空気があったような気もします。

しかし。個人的には、なんだかもやもやした感じでした。

これから、日本の社会に対して、国会議員に対して、行政機関や企業、広くは「お金を出してる人」に対して、日本語教育アカウンタビリティを構築していけるのか。形式的な「説明責任」でなく、本当の意味でのアカウンタビリティ(「いつでも納得できる説明が可能なシステムを構築・維持していること」的な意味)です。日本語教育をやっている機関やプログラムの存在意義が説明できるのか。目指していること、実際にやっていること、そこにかけているコスト(人的、時間的、金銭的など)の関係を、人々が納得できるように説明ができるのか。コストを増やすことはあっても減らすことはできないのだという説得ができるか。

これ、これからやってみたいと思っていることです。まさにチャレンジ。


以下は午後のシンポジウムのときの話です。

意外だなあと思ったのは、とある研究所(だったかな)の人(若手の女性)が、日本語教育にボランティアでかかわってみたいと思って踏み込んでみたら、これでは生活していけない、なんとか生きていけるようにできないでしょうか、してください、という訴えをした(この他にも2つ、全然別のご意見もあったのですが割愛)ことです。そう思っている人って、たくさんいるのですね。我々はすでに日本語教育の世界の人ですが、その世界に入りたいのに入れない、という立場の人の訴えだったので、新鮮な感じがしました。

「ボランティア(無償)ではいかんのです。専門性を持った人がやらねばならず、そのときには当然お金をもらわなければならんのです。『誰でもできる』というものではないのです。専門性とは何か。それは、ちゃんと教えられるということです。ちゃんと教えるということがどういうことなのかは、皆さん考えてください。(まだまだ続く)」というお答があり、「プロの条件」とは何だろうか、ということをまたまた考えたのでした。「ちゃんと教える」については、また別の機会に書きたいです。授業が始まってから。

今日のところのポイントは、社会に対する働きかけを、具体的な提言やアクションを、本当にするかどうか、ということですね。


【うぞ】

プロの条件とは?

「プロの日本語教師」とは何なのか、備えてなければならない専門性とはどのようなものか、そして、どの程度のものか、考える機会がありました。

このブログを書いている「つぼみの会」の有志がやっている勉強会に参加したときに、ボランティアと「プロ」が話に出てきたのですね。また、「つぼみ」と別の人にも「プロ」について考えを聞いてみたりしました。

そんな中で、「プロ」というのはとても不思議なことになっているのだなと思いました。

日本語教師もそうだと思われてるでしょうが、「誰でもできる」仕事のプロ多いのではないでしょうか。

たとえば、料理人。「料理ができる」人はものすごく多い。しかも、作ったものを自分以外の人に食べさせたことがある人。日本の人口の半分以上が該当するのではないでしょうか。

そしてその中には、下手な料理人よりずっとおいしいものを作る「ただの人」は少なくないはず。だから、腕前の質的なレベルでの区別はなかなか難しい。無理かもしれない。変ですね。プロの料理はすばらしくおいしいはずなのに。だからプロと言えるのだと思うんですが。

じゃあ、「料理が上手なただの人」と「プロの料理人」は何が違うのでしょう。想像するに、免許の有無だけではないはず。

まずは、免許をとるための勉強の過程で衛生やら栄養やらの知識を得るのではないか。それが実際の現場でどの程度生かされるのかわかりませんが。

それから、修行時代に材料を見る目、さばく技術などが鍛えられる。大量の材料を適切に仕入れることができ、下ごしらえが素早く無駄なく美しくできる。もちろん、肝心の調理も。

もしかしたら、この「一度に大量のものを扱える」というのが大事なのでしょうか。プロは「多くの人を相手にできる(そして満足させることができる)」というのが一つのポイントなのかもしれませんね。

しかし、料理は1回食べに行っただけで大満足もできますが、言語教育は1日だけのサービスで満足を与えられません(その都度の満足はありますが、語学学習の満足は別のように思います)。もっと長い時間がかかる。それから、多くの人といっても、それほど多くを相手にできない。実は、10人ぐらいが限界なのではないでしょうか。中学、高校で35人とか40人とかの教室で語学の授業をして効果をあげようというのは無理で、「6年、10年やっても話せない」という極めて明確な結果が出ていますね、ずーっと何十年も(もっとも、文献を読むことはかなりできたりしますが)。

そんなことを考えると、プロの条件として「何人以上を相手に、これだけの期間と時間を使って、このぐらいの成果が出せること」というのが数字で出せるかもしれない。

問題は、そういうふうに書いたとしても、それを検証する方法がなかなか用意できないということですね。だいたい、一人の教師だけが教えているクラスはそれほど多くはないように思う(海外の現場はまた事情が違っていると思いますが)ので、一人の教師が担当した教育の成果を切り取ることは無理というか無意味でしょうか。担当を技能科目で分担するなどで教育を切り分けることができたとして、学習を同じように切り分けて見ることができるかというと、よくわかりません。できるかな。

プロとして必要な条件を、一人の教師の授業の成果から考えるというアプローチはちょっとおいておきますが、この視点は大事かなと思います。

「言語教育には時間がかかる」という点にもどってみます。

そうすると、学習者を前にしたときに、どの程度の期間と時間でどの程度の内容を与えると、どの程度になるかなという「見通しがきく」ことが要件かもしれません。そして、その見通しに基づいて、学習内容を準備できることでしょうか。診断と手当ができる。

そんなの無理か。してないですね、普段。

だいたいが「初級」とか「中級」とかで分けてそのレベルの教科書を使っているクラスに入れるという処置をしておしまいですね。最初はそのぐらいざっくりでも、途中でちゃんと状況をモニターして適切な修正を学習者が納得のいくように提供できる、介入できるということが要件でしょうか。

でも、そういう見通しと診断と手当と修正ができる「ただの人」もいるような気がする。いや。これができたら、もう「ただの人」じゃないですね。

1回きりの授業のことを考えるのでなく、トータルで教育とか学習とかを考えるという仕事がプロっぽいのでしょうか?


【うぞ】

注意力って

について最近気になることがあるんです。

もともと注意力に乏しいわたしですから,どうしたら凡ミスしないで済むか真剣に(?)考えてきました。

将棋の羽生名人は,著書「決断力」(角川ONEテーマ21)で,「人間はミスをするものだ」といっています。物事が複雑になればなるほど,人は間違いを犯しやすくなるそうで,将棋でも劣勢のときは,状況を複雑にして相手のミスを誘うんだそうです。

だから間違いを犯さないようにするためには,できるだけ物事をシンプルにすることが大切。複雑な事柄なら,シンプルな事柄に分解することが必要なんですね。こういうのを分析っていうんだと思うんですけど。まずそれ。

それから,幅広い知識や経験が,人の「注意力」を高めるんじゃないかってこと。
「注意力」とは言葉をかえると「気づく力」ですよね。何かに気づくためには,思考が,ある「気づき」にたどりつくために頭の中でネットワークが形成されなければならないと思うんです。

だから,一見かかわりのなさそうなことがらでも,そういう情報や知識が「気づき」の経路形成に不可欠なんじゃないかと思うんです。

つまり「注意力」をたかめるためには,新しい情報や経験を積む時間的余裕が必要なんじゃないかってことです。

読んでてよくわかんないですよね。ごめんなさい。
続きはまたにします。


のかな?

カーネルサンダースについて

今日はカーネルサンダース一色ですね。

こういう話は大好きです。なんだかわからないことも信じてしまうし、それで妙に安心します。よかったですね。阪神ファンの人はたまらないでしょうね。かなりうらやましいです。

「発見」はネットの新聞の記事で知りました。その後下半身も見つかって、無事に合体してたりして。おもしろいなー、いい話だなーと思って読んでいました。昔、沈んだタイタニックを引き揚げる映画がありましたが、これをテーマに「レイズ・ザ・サンダース」とかいう映画を撮ってほしいです。

ただ、ひとつだけ気になったことがあります。これも、ものすごくおもしろいんですが。

どうして取材に答えた人の話が大阪弁で書かれているのでしょうか。


朝日新聞から引用)
 「人か?」。道頓堀川の遊歩道整備の現場監督の十川(そがわ)俊一さん(34)は、ヘドロの中から引き揚げられた上半身だけの像を見て一瞬ドキッとした。だが、次の瞬間、「カーネルや」と確信した。
*中略*
熱烈な阪神ファンの大阪学院大企業情報学部の国定浩一教授(68)も、仕事でテレビ局にいて発見を知り、駆けつけた。「おわびとお祈りとお礼を兼ねてきました。何回も捜して見つからないから、あかんと思ってた。仏のようなものすごいええ顔をしとる。全国の阪神ファンに報告したい」

産経新聞から引用)
阪神タイガース真弓明信監督の話「足あったんか? 日本シリーズで優勝できないのはそのせい(カーネルののろい)だけやないけど。これだけ話題になるなら甲子園にもってこなあかんな」


カーネルや」って。なんか臨場感がありますね。「カーネルだ」とは違った力があるような気がします。それから、「あかんと思ってた」という諦めた感じも、「だめだと思ってた」とはまた違った悲壮感の薄さみたいなのがあるような気がします。音が「ダ」にくらべて優しいからでしょうか。

真弓監督は本当に記者の取材に対して「足あったんか?」なんて言ったんでしょうか?定かではありませんが、そう言ってほしいような気もしますね。でも、「それだけやないけど。」って、やっぱり「のろい」を信じてたわけで、それがイイですね。

普通、新聞の記事には取材に答えた人の談話をかぎカッコに入れて掲載するときに方言を使わないと思うのですが、なぜか、大阪弁だけは、こういうニュースのときにそのままかどうかわかりませんが、大阪弁で掲載されますね。博多弁とか仙台弁とかもそのまま掲載してもいいんじゃないでしょうか。新聞の記事も不思議なコードの使い分けをしますね。

大阪の人は、こういう記事をどう思って読んでいるのでしょうか。いっそう心に染みるのでしょうか。なんとなくバカにされたように思ってるのでしょうか。

今日のところはカーネル見つかったし、そんなことどうでもいいかもしれません。


【うぞ】

4月からは・・・?

ここのところ「4月からの非常勤講師の募集はありませんか?」という電話がよくかかってきます。

世界的な不況と円高で日本留学を取りやめる人が激増し、来年の4月からはかなり日本語学校の学生数が少なくなりそうなのですね。非常勤で教えている先生はコマ数が減ったり、「待機」という形で授業がなくなったりしている方も結構いらっしゃるようです。

昨年の今頃はどこの学校も「先生がいない!」って言って、教師の確保に苦労していたのに。我々の労働環境もかなり変化が激しいですね。

今週末は、学生募集で台湾に行ってきます。台湾での状況などダイレクトに感じてこようと思っています。

【ねこし】

片思いかも

【ふじ】さんの記事、微笑ましいですね。わかるわかる。やっぱり、「あなたを知りたい!」「私を知って!」がコミュニケーションのスタート。何よりの「動機」はそりゃ、もちろんねえ…(*^^*)

ところで、高校生の初々しさとはほど遠いですが、私も最近、切ない「片思い」を経験しました。

私の職場では、ご多分に漏れず、「地域との連携」が最近のキーワードです。市民講座や教養交流では盛んなわが校も、多文化社会については残念ながらまだかなりの「オクテ」。そんなわが校に、ついに、地域の多文化共生グループからのラブコールが!

…と思ったら、ラブコールを受けたのは、「社会マネジメント」の部署(個人的にはその選択には大いに賛成ですが)。残念ながら、私たち「日本語」部署は見初めてもらえなかったのですね。理由は、「目指すのはコミュニティ作りで、文法とか漢字とかそういうのはあんまり…」
ああ、そうか、そう思われているのね…。

しかもですね、当の「社会マネジメント」部門は、例えて言えば、実はモテモテGALでして、「えー、あたしぃ?今、「食と農業」チーム、「少子化」チーム、「商店街活性化」チーム等々で手一杯。悪いけど、あなたとデートする時間ないしー」とあからさまに迷惑顔。ああ!悲しい三角関係。

私(日本語教育)は、ここでこうして熱い思いを抱いているのに気がつかれず、愛する人は、よそを向いている。そして、彼の愛する人は、そ知らぬ顔で彼を無視。ちょっと単純化しすぎていますが、この構図、うちの機関だけでなく、社会のあちこちで起こってませんでしょうか。EPA介護福祉士受け入れ現場でも、日本人の日本語力向上の件でも。

どの分野でも「連携」が叫ばれるようになって久しいですが、まだまだ分野間での片思いはいろいろなところで続いていますね。
私たち「日本語教育」もその可能性をもっと磨いて、もっと世間に知ってもらわなくちゃ損です。多文化共生社会でもコミュニケーション力育成でも、「その点ならあの人たちがけっこう頼れるみたいだぞ!」と。

というわけで、上記の件は、来週、ついに初デートに漕ぎ着けました。「社会」にフラれたから、しぶしぶ「日本語」とデートしてくれるみたいなんですが、その選択、ぜったい「よかった♪」と思ってもらえるようにします。もっと言えば、その「社会」さんとこそ、コラボしてユニット組んで歌います。ん?よくわからなくなってきましたが、ともかくも、よたよたしながらなんとかスタートを切ったわが校の「多文化共生コミュニティ作りプロジェクト(仮)」、まだまだこれからいろいろありそう。また、ブログで報告しますね。
【よよ】