Y先生のこと

半世紀近く生きてくると、これまでの来し方を振り返る事も自然と多くなる。

そして稀にだが、幼かった頃や若かった頃の自分と今の自分を重ねて眺めてみると、あの時のあれはこういう事だったんだな、と「人生の答え合わせ」みたいな考えに至る時がある。

 

高校時代にY先生という方と知り合った。担当は国語(と古文)で、高校の時に3年間教えを受けた。

その当時は明確にそう思った事はなかったが、Y先生は僕が自分の適性に気が付く機会を与えてくれた人だった。

先生自身も確か新任だったのだが、先生の授業は今で言うアウトプット重視の傾向があり、僕には楽しい内容が多かった。

例えば、鴎外の「舞姫」の単元が終わった後に「舞姫の続きのストーリーを考えてみる」という作文の課題が出た。

僕は生来お調子者なので、こういうお題が出ると一も二もなく「ふざけた面白い事を書こう」と考えてしまう性質だった。

この時は、「予ならば、」という書き出しで、雅文体で文章を書いた。多分この課題でこれをする人は居ないだろうと思ったからだ。

ストーリー自体はあまり覚えていない。「実はこれは我が妹なり」と苦し紛れの嘘で逃げ切ろうとしたがダメだったというしょうもない内容だった気がする。が、僕にとってストーリーはどうでもよくて、雅文体を選ぶという発想は当たり、後に授業で読み上げられてクラスではそれなりにウケた。僕にはそれで満足だった。

高校生の頃は僕も若さゆえの根拠のない自信と思い上がりがあり、「自分にはそういう才能がある」と思っていた。

だが「そういう」が「何」の才能なのかまでは深く考えた事がなかった。

ちゃんと言葉に出来たのは高校を卒業して何年も経ってからの事だった。

 

僕は子供の頃から作家など文章で身を立てたいと考えていた。

だが、色々試行錯誤してみた結果、自分には「物語を創造する」才能が無いという致命的な欠点に気が付いて諦めた。

その過程で、僕は「お題を与えられると強い」だけだったんだなと気が付いた。

高校生の時にクラスでウケたのは、「いいお題」があったからだった。僕自身が「お題」を考える才能は無かった。

さらに言うと僕には「才能」と呼べる程のものはなく、せいぜい「適性」があるという程度のものだった。

ビジネスでも「0を1にする人」「1を10にする人」みたいな適性の区別をしたりする。僕は高校生の頃から「0を1にする(出来る)人」では無かったのだろう。

 

今も仕事柄、WEBサイトの記事を書いたり、他人の書いた文章を推敲する事がある。他人の書いた文章を推敲するのは割合得意だ。だが、1から文章を書くのは大変だ。文字通り「ひねり出す」くらいの苦しみを伴う。

だが今は自分がそういうタイプだと気が付けたので昔よりは気は楽である。

 

Y先生に、大学進学で地元を離れる時に本を頂いた(僕が本好きだったので高校時代にも何度か頂いた事があった)。

サローヤンの「ロック・ワグラム」という本だ。

面白く読めたのだが、おそらく若過ぎて真の良さに気が付けていなかった気もする。

今読んだらまた違う感想が生まれるんだろうなと思う。

 

 

「好き」という業を背負った者たち

横浜BLITZでもらった小冊子

横浜BLITZでもらった小冊子


※最近起きたあるアーティストの事件から感じた事と自分の経験談を書いています。下記の内容に関してはいかなる違法行為も容認、助長する意図はない事を、念のため先に述べておきたいと思います。

僕は、30年来岡村靖幸さんのファンだ。
高校3年間という、おそらく人生で最も多感な時期を、岡村さんの音楽と共に過ごした(当時最も好きだったのは「yellow」に収録されている「Young oh! oh!」という曲である)。
ただ、80年代後半の高校生(しかも僕は田舎の高校生だったのだ)には岡村さんの曲の世界観や歌詞はちょっと性的要素が強すぎて、ファンはどちらかというと「異端」だった。
また、岡村さんと言えば今話題の「シティーハンター」2ndシーズンのED「SUPER GIRL」が有名だが、残念ながら当時僕の住んでいた地域では放映されていなかった(※ここはちょっと記憶が怪しい。もしかしたら僕が観ていなかっただけかもしれない)。なのでみんなが知っているヒット曲といえばCMで使われていた「だいすき」しかなかった(しかしCMソングなので大体サビしか知られていなかった)。だからクラスの友達と好きな曲の話で盛り上がる、みたいな経験はした事がない。
岡村さんは1stアルバム「yellow」から4thアルバム「家庭教師」までは毎年アルバムをリリースしてきた。これは個人的には僕が中学~高校卒業までの期間である。そこから少し時間が空いて(5年後)「禁じられた生きがい」をリリースした。
しかしそこから次のアルバム「Me-imi」までは9年間時間が空くことになる。この期間は川本真琴等、他のアーティストのプロデュースで名前を聞くことが多かった。また、この期間の最後の方で石野卓球とのコラボレーション「come baby」が発表された(「松本紳助」のED曲だったので知っている人も多いと思う)。当時は「久しぶりに公に名前を聞いたな」という感想を持った。(※長年のファンと言いながら、僕はファンクラブには入った事が無い)

アルバム「Me-imi」リリースの翌年(2005年)に岡村さんは薬物で逮捕された。それから2007年まで公で名前を聞くことはなかった。

2007年3月に「AP BANG! 東京環境会議 vol.1」に岡村さんが出演するという事を、mixi岡村靖幸コミュで知った。友達の岡村さんファン(masha君という)にその事を伝えたところチケットを取ってくれて、二人で新木場のagehaに観に行った。
主催の小林武史が「僕が最も呼びたかった人」と紹介し、僕達「往年のファン」が感涙するようなリストで岡村さんは復帰した。岡村さんは、パフォーマンス後にひと言も話さずに風のように舞台を後にして、皆ちょっと呆然としていた。
(当時mixiに書いた日記はこちら)

同年の9月に今度は「Music Complex 2007」というフェスに岡村さんが出演すると知り、またmasha君と参加した。このイベントの直前には新曲「はっきり もっと 勇敢になって」がリリースされ、ジャケの岡村さんは(往年とまではさすがにいかないが)痩せて、さっぱりと髪を切ってカッコ良くなっていた。
岡村さんのパフォーマンスの後(次はスカパラだった)に、晩御飯を兼ねて何だったかは忘れたが、屋台で食べ物を買った。屋台のお兄さんに「スカパラはいいんすか?」と訊かれ、「岡村さん目当てだったんで」と笑って答えたら、「天才ですよね。早すぎたんですかねー?」とよく分からない事を言われ、適当に相槌を打って芝生に座って「何か」を食べた。
ふと目をやると、男女4人のグループが居た。4人とも同じ黒いTシャツを着ていて、胸に見覚えのあるハートのロゴがあった。4人は岡村さんファンだった。声を掛けてみると、青森から遠征で来たとのことだった。
ちょっと感動した。フェスのパフォーマンスなので、やったのは5曲ぐらいだ。数百円の交通費で会場に来られる僕とは違い、この時間だとおそらく今日は宿泊だろうし、もっと参加は大変だった筈だ。
ファンは飢えていて「復活」を心待ちにしていたのだ。
(当時mixiに書いた日記はこちら)

そして同年10月、ついに全国ツアー TOUR'07 「告白」が開催された。
今回もmasha君と一緒に、僕達は横浜BLITZの2日目に参加した。
当時のmixi日記に、僕はこう書いていた。

おりからの台風接近のため、新曲ではないが、まさに嵐の中での決行だった。で、横浜BLITZの周囲は年齢層の高い(僕もそうだ)一団が濡れ鼠になって列を作っていた。 
昨日は初日で45分押しだったらしいが、今日は二日目ということもあり入場は結構スムーズに行ってたみたい。

当時の僕は「35の中年(!)」だった(この年齢は岡村ファンにとって特別な意味を持つ数字なのだ!)。
冒頭の写真は、当時BLITZでもらった小冊子の1ページである。


ライブの内容はもちろん素晴らしかったし、興奮した。
でも今回なぜ僕がこうやって長々とアーティストへの個人的な思いと、10年以上前のライブの事を、2019年の今になって書こうと思ったかというと、以下の事を思い出したからだ。

今回のセットリストには「友人のふり」という曲が入っていた。
これは、ライブの中盤にバンドやダンサーが一旦下がり、岡村さんの弾き語りで歌われた。1989年リリースの、僕達古くからのファンにとってはまさに「往年の名曲」である。バラードなので、自然と静かにオーディエンスの僕等も歌い始めた。
この曲は僕ももちろんそらで歌える。歌詞を書き出せるかは分からないが、イントロから通して歌えば次のフレーズが自然と口をついて出てくる、という類に聴きなれた曲だ。
なので多分僕達は少し前のフレーズで、次の歌詞の存在に気が付いた。そしてみんなで声を揃えて歌ったのだ。

でも いつでも僕 君の味方さ ほら

おそらく色々な思いが今BLITZにいるみんなの胸に去来していただろう。僕もそうだった。なんて事を言わせるんだ、という思いと、これが今、岡村さん本人に向かって直接言えるという幸運と、ずっとファンでいて良かった、こんな時間を共有できた、という思いと、今改めて言葉にするとそんな感情だろうか。
(当時mixiに書いた日記はこちら)

今回、ピエール瀧の薬物事件により、電気グルーヴの楽曲配信の停止がレーベルから発表された。つい先日の新井浩文の暴行事件の際も、出演映画公開の延期や過去作品の配信停止の処置が取られTwitter等で物議を醸したが、その直後の事という事もあってか、今回はさらに「作品に罪はない」という意見が広く大きく叫ばれている。
レーベルの処置ついての是非や、「作品と作者の切り分け」については本論とは趣旨がずれるので述べる気はない。

ただ、BLITZで岡村さんに「いつでも僕君の味方さ」と歌った僕達ファンは、作品と作者の切り分けどころか、作者の人生と負っている「物語」も含めて(全肯定はもちろんしないが)好きになってしまった人達なんだよな、と思ったのだ。

何かを「好き」でいること、ファンでいる心理というのは、一つの業みたいなものなのかもしれない。そんな事をここ数日考え、この文章を書きたくなった。

※できるだけ正確に書いたつもりですが、時系列等間違っている個所があるかもしれません。また、上記はあくまで僕の感じた事であり、全ての岡村靖幸さんファンが同じ思いを抱いている(過去に抱いていた)とも考えてはいません。念のため記載しておきます(多分僕は熱狂的なファンの方たちから見れば「ニワカ」と呼ばれる部類に入るとも思っています)。
※2007年の3回のライブ参加についてmasha君の尽力に感謝します。

卒業

3/16は小学校の卒業式だった。
その日は有休を取り、朝から早起きしてスーツを着込み、まだ春の到来には程遠い寒空と雨の中、学校に出かけた。

自分の小学校の卒業式のことは何しろもう30年以上前のことなのでまったく覚えていない。家内は自分が卒業した母校ということもあり(校歌も一緒に歌っていた)別の感慨があるのかもしれないが、僕の目にはひたすら全てが新鮮だった。我々団塊ジュニアと比べると子供の数は半分程度で、全ての子供にスポットライトが当たるような式だった。

式次第には卒業生の一覧が記載されていた。半数の名前が読めない。読めないというか、知らない漢字ではないのだが、確信が持てない。僕が子どもの頃からあった名前の子が少ないせいである。読みとしても漢字の組み合わせとしても、僕が知っている日本人の名前のパターンには存在していないものだ。
僕は地名などで読めない漢字があるとワクワクする性質なので、楽しくてしょうがなかった。

うちの子は両親に似たのか体格がいい。
身長は小6にして168cmある。
体重は……ここでは書けない。が、そこそこある。

家内は入学前には2月末生まれの我が子のことを、他の子より遅生まれだから勉強や成長でハンデがあるのではないかと不安におもっていたようである。僕は3月末(あと数日で一学年下だった)生まれで、それでも発育(少なくとも体格面では)同級生の誰にも引けを取ったことはないので、まあ問題ないだろうと思っていたのだが、我が子の発育は両親の想像を遥かに超えていた(両親の小6の時より大きい)。

我々両親もそうだったが、幼いころから発育のいい子供には、それに関しての逸話がある。我が子の逸話の中には我々両親が経験したものもあるが、こちらも両親のものよりスケールが大きかった。

小学校入学してすぐに、三年生の知らない男の子から、「きみ、四年何組?」と訊かれた。

六年生の時体操服を着て校内を歩いていたら、一年生から「えっ、生徒だったの?」という目で見られた。

昨年、小学生にはお菓子を無料であげます、というイベントに参加した。
受付に行くと係の人が我が子をじっと見て、「ま、いっか」と言ったそうだ。


式が終わり、クラスに戻った。
ランドセルに寄せ書きを書いている子たちがいた。
色々書いたが体格に似合わずおとなしく引っ込み思案の性格なので、クラスの子たちとどんな関係を築けているのだろうかとはいつも気になっていた。
さすがにグループの中心ということはなかったが、隣の男の子(6年間一緒のクラスの子だそうだ)と楽しそうに話していた。
ああ…よかったなぁと思った。

先生からの最後の言葉が終わり、サプライズで今度は子供達から先生に花が送られた。
この子たちはほぼ中学で一緒だ。ただ一人残される先生はどんな思いで教え子たちを見送るのだろうか。
そんなことを考えた。

家に帰り、もらった卒業アルバムを見た。
式同様、おそらくどの親がみても「我が子がいい顔で写っている」と思える写真ばかりだった。

アルバムの最後は白紙になっていて、寄せ書きが書けるようになっていた。
何人かの子が我が子にもメッセージを書いてくれていた。
一番最後のメッセージが僕の目を惹いた。
かな釘流の文字でこう書かれていた。

そうか、君はやさしい人に育ったんだね。
ここでの時間は僕には見えないが、きっといい六年間だったんだろう。

いい式だった、本当に。

やさしさ

日々のあれこれにかまけてずっと書けずにいたが、8月に実家に帰省した。
いつものように親戚に挨拶に行き、友達と会い、父と末の妹の墓参りをし、上の妹や母と話した。

実家を出て、10年ぐらいたった頃からぼんやりと考えていたことがあった。
「僕はあと何日母と過ごせるのだろう」ということだ。
帰省のたびに、この時間は僕と母に残された大切な時間なのだと思うようになった。

そして、ここ数年来のことだが、母に会うたびに時間の別な(残酷な)面を感じるようになっていた。

だんだん、会話の中で僕の言葉を聞き返すことが増えてきた。動くことがゆっくりになってきた。同じことを二度三度と話すようになった。子供との遊びに付いてくることが減ってきた。
こういったこと一つ一つに気が付くたびに、母がもう70を超えているのだ、ということを改めて突き付けられる。
母と会うたびに、時間の経過がせつなく感じる。
誰にでも平等に流れているはずの時間が、時に残酷に思える。

勝手な言い分だとは分かっている。世界には個々の事象の営みがあるだけで、「時間」なんて人間が考えた概念に過ぎない。残酷なんて勝手な考えだ。

僕は毎朝、父と妹の写真に手を合わせ、行ってきますを言う。
仕事が終わって家に帰ると、手を合わせただいまを言い、今日の報告をする。
もう意識せずにそれができるようになった。
(うまくいかなかった日の報告では、弱音を話すこともあるが)
何かの折に胸がずきりと痛むことはまだあるが、少なくとも毎朝夕の挨拶は穏やかな気持ちでできるようになった。
これも時間の経過がもたらしたことだ。

帰省の折に母と娘で写した写真を観た。
母と娘は笑っていた。
僕は母によく似ている。そして娘は僕にそっくりだ。
まるで母の来してきた時間を再現するように、写真の中の母と娘の笑顔は瓜二つだった。

そして5年前、母の肩までしかなかった娘が、今では母の背を追い越していた。
母と僕、そして僕と娘。親子三代の歴史を描く、やさしい時間がそこには流れていた。

帰省の最終日、駅まで母が送ってくれた。母は車を運転しながら、「まあ、なんとかやってるから。年金ももらってるし、少しは仕事もしてるし。心配しなくていいから」と言った。心配かけどおしの子供だった僕が、今では母に心配はいらないと言われている。こういうところが親子だな、と思う。

篤子、また一年が過ぎた。
僕らはこんなふうに生きているよ。
迷うことも、悩むこともあるけど、毎日笑っているよ。

命日に

子供時代の兄妹の写真を観ていたら、ふと思い出したことがあった。
あの子は今、どうしてるだろうなと考えた。

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その場にいた喪服の人たちの中で、地味だが色つきのワンピースを着ているその子の姿は目を惹いた。
年の頃は3〜4歳だろうか。おそらく妹の友達の子供だろう。手を引いている女性の顔に見覚えはある。しかし名前は知らない。

僕たち遺族は棺への献花を先に済ませ、参列の方々が献花をするのを観ていた。
その時僕は、先ほどの自分の言動に恥じ入っていた。
自分が献花をした後、色とりどりの花をまとった妹の姿に、思わず「奇麗だよ」とつぶやいてしまったからだ。
馬鹿か、俺は。これほど不穏当な言葉があるだろうか。そうだ。馬鹿だ、俺は。
そんなぐるぐると渦巻く自己嫌悪の中、献花の列は続いていた。

女の子の手を引いた女性が来た。
棺に花を手向けると、僕の傍らにいた妹たち(長女と次女)の肩に手をやり、泣き崩れた。
なんでこんなことになっちゃったの?と言うのが聞こえた。
妹たちと友達は抱き合って肩を震わせていた。横にいた母も娘たちの姿を正視できず、うつむいてハンカチで口元を覆っている。


いたたまれなくなり目を逸らすと、傍らにいた女の子が目に入った。
ハッとした。
彼女の目に、仄暗い式場内の灯りでもはっきり分かるほど、大粒の涙が溢れてきたのが分かったからだ。
先にも書いたが、その子はまだ3〜4歳だ。
どれだけお母さんが妹と仲が良かったとしても、妹と過ごした時間はそれほど長くはないだろう。
いや、それ以前に、まだ死の意味も残酷さもよく知らないだろう。
そんな子が、こんな涙を流している。
彼女は今、自分が今なぜ泣いているのかもよく分かっていないのだろう。
みんな泣いている。お母さんも我を忘れて泣いている。
なぜだろう、なぜみんなこんなに泣いているんだろう。

人は、目の前の事象に対して自分が無力だから泣く。泣くことしかできないから泣くのだ。「悲しい」は感情の呼び名であって原因ではない。

父の葬儀の時にそう考えたことを思い出した。
今のこの子は、まさにそうだった。

そのうち彼女は右の手のひらで右目をぐい、と拭った。
次に左の手のひらで左目を拭った。
その間にも右目からは涙があふれ、また彼女は右手で右目を拭う。そして次に左目を拭った。
拭った涙はどんどん彼女の顔や髪を汚していった。

それを見て僕は気が付いた。
そうか、この子はまだ、涙の拭き方も知らない歳なんだな。
僕はまたいたたまれなくなった。

君はまだわからないと思うけど、今日はお別れの日なんだよ。
君のお母さんの大切な人が、いなくなっちゃったんだ。
僕はいつしか歯をきつく食いしばっていた。
そうしないと僕も涙が流れてしまうと思ったからだ。


お母さんは「気を落とさないで」と妹たちに最後に告げ、また子供の手を引いて帰っていった。
僕は彼女の小さいワンピース姿を見送った。すぐに親子の姿は献花の列に紛れていった。
僕はまた次の参列者に目をやった。ようやく食いしばった歯の力を抜いた。

                                                  • -

これが今日思い出したことだ。あれから4年が経った。
あの日、涙の拭き方を知らなかったあの子は今、どうしているだろう。

成長とは、転んでも立ち上がれる力を養うことだと思う。しかし、転んだ痛さに涙が出ることもある。
だから人は、立ち上がり方と同じぐらい、涙の拭き方も覚えなければならない。自分ではどうしようもない事象に直面する時が、生きていればこれからも何度もあるのだから。
あの子は今、元気でいるだろうか。僕らは4年前より、涙の拭き方が上手になっただろうか。

大丈夫だよ


これは昔、幼稚園を不安がる子どものために家内が髪留めゴムに描いたお守りだ。
「だいじょうぶ」と書いてある。

「だいじょうぶ、こわくないよ」なのか。
「だいじょうぶ、あなたなら」なのか。
「だいじょうぶ。いざとなったら母が出るから」もあるかもしれない。
とにかく、母親の無限の愛情と信頼を感じさせる言葉である。

子供がまだ小さい頃に、走っていて転んだりとか、痛い思いをする瞬間に何度か遭遇した。そんなに無茶や無分別なことをする性格の子ではなかったので、それも数えるほどのことだが。

僕はいつも同じことをした。いずれの場合でもすかさず高く抱き上げて笑った。笑って「いたかったねー、でもだいじょうぶだよ。だいじょうぶだいじょうぶ」と言うようにしていた。
深い考えがあるわけではないが、親が笑ってたら、「あれ?ワタシ今派手に転んだけど、メッチャ痛いけど、なんなら膝から血が出てるけど、なんか父ちゃん笑ってるわ…。父ちゃんがこんなに笑ってるってことは、さっき転んだけど、まだメッチャ痛いけど、これってワタシが思ってるほど大したことじゃないってこと?そういうこと?」と子供が考えるかどうかは分からないが、とにかく、なんとなく大げさにノリで誤魔化して子供を「深刻」にさせないようにした。
もちろん親だから、子供が痛い思いをしたら可哀想だとも思うし、心配する気持ちもある。
だが、逆に親が心配すればするほど、「自分には今大変なことが起こっているのだ」と子供は考えてしまうのではないかと思い、いつもそうしてきた。
もちろん、「だいじょうぶ」と言う根拠なんて持ってない。それを「親が言っている」ということが肝要なのだと思い、そう言っているだけである。

大人になると、これは通用しなくなる。「だいじょうぶ」の根拠を考えられるようになるからだ。今、小学生になった子供に「大丈夫だよ」と言っても、昔のようには安心感は与えられないかもしれない。

でも、機会があれば僕は言うだろう。「だいじょうぶだよ」と。
人間には、そうやって傍にいて根拠もなく「大丈夫だよ」と言ってくれるような人が必要だと思うからである。

最期の笑顔

突然の訃報で、急遽葬儀に参列した。
あまり縁の深い間柄の方ではなかったが、生前の話はよく聞いていた。

一言で言えば、「生き尽くした」人生だったと思う。
最期も、そんな風に思える笑顔だった。

どうか安らかに。
そしてどうか、あちらでも旅を続けてください。