菅改造内閣

broadmindはこの内閣の存在をきっぱりと否定します。
安倍内閣以来の驚愕すべきクソ組閣。岡田の幹事長就任は他にできる人間がいないので仕方ないとしても、空いた外相に前原?対露和平を諦め、沖縄を怒りの渦に巻き込むことは確実(八ッ場見れば、正論は吐けても調整能力ゼロなの明らかっしょ)。鳩山政権からの留任者が皆無な中で、唯一留任するのが北沢だ?ネット的用語はあまり使いたくないけど、前原=北沢なんて、これを「対米ポチ」と呼ばずにどう呼べばいいの?馬淵はまあいいとしても、民社・社会系の労組出身議員なんて大臣に据えても役に立たないのに・・・で、小沢に投票した組から選ぶのが海江田と大畠?いやー、冗談キツイよマジで。いくら民主党でも400人議員いたらもうちょっとマシなのがいるでしょう?片山も「改革派知事」としての片山は高く評価してるけど、あくまでも一民間人である自治省出身の片山を出身母体の大臣にするのは感心しないなー。
最初の菅政権が基本的に鳩山政権を引き継いだものだったのに対し、代表選で圧勝した今回は自由に采配できた「これが菅内閣」とも言うべき組閣。それがこれだけクソなわけだから、菅という人間が結局は首相の器でなかったことの証左に他ならない。一瞬でも「まあ菅でもいいか」とか思ってしまった俺がバカだったな。3ヶ月前にはここまで自分が批判的になるとは思わなかったけど、これはビックリの亡国内閣。ほんと、安倍内閣を上回るポテンシャルのある内閣をこんなにすぐに見たくはなかったな−。

カンプチア

なんかしばらくカンボジア専門家への道を歩みそうです。
興味ある国だから望むところではあるんだけど、中途半端にやる気出して変なことに首突っ込んで、カンプチアの密林でくさったしたいにならないように気をつけないとね。
こうなってくると、早く中国案件を何とかして自分の仕事に注力したいところだ。但しラオスは別格なので自分の案件でなくても全力で手伝う。
さよう、私は全面的に国で差別するつもりだ。

2幼児放置死事件について思うこと(後編)

前編より続く
さて、この事件が示しているがもう一つある。
それは、「大変遺憾ながら子供は放っておくと死ぬ」ということである。「放っておくとDQNになる」くらいだと価値観の問題として片付けようと思えば片付けられるのだが、非常に残念なことに子供というのは放っておくと死んでしまう。すなわち、「子供は放っておいても育つ」、というのは全くの嘘である。こういう厳然たる事実を如実に示した事件でもある。
こういう言い方は極論だ、と思うかもしれない。さよう、いかにも極論だ。
しかし、こういう話はあまりにもグレーゾーンが大きすぎて議論のしようがないのである。
だって、子供を置いてホストクラブに行くのがダメなら、「放っておく」って何だ?
件の母親は「食事をさせたり風呂に入れたりするのが面倒になった」と供述しているそうで、それを知って私ははたと膝を打った。
習い事をさせる、お受験をさせる、その他細々と子供の世話をする。
恐らく、「放っておく」というのは、そういうことに自分の生活や人生を犠牲にしてまで時間や費用をかけすぎるべきではない。そんなことしなくても往々にして子供は育っていくものだ。そういう意図があるのだろう。それはその通りだろう。そこには賛成だ。
しかし、実は子育てにおいてはそういうのは最初からマージナルな部分であり、その結果、どれほどの自由な時間が親にもたらされるのかというと、そんなに大したことはない。つまり、食事をさせる、とか、風呂に入れる、とか、通常は「放っておく」の範疇に入らない、最低限の部分が子育てにおける負担の大部分を占めているというのが現実である。たとえフルタイムの保育園に入れたって、送り迎えに行かなきゃならんし、帰ってきてから風呂にも入れれば寝かしつけも必要だ。
子供がおもちゃを散らかしていたらどうするのか?
片付けるという行為を自発的に覚えるまで散らかすままにしておくのか?私は決して几帳面な方ではないが、子供が自分で片付けるようになる、少なくとも6年とかそれくらいの間そんな家に住むのはイヤだ。じゃあ、親が片付けるのか、あるいは片付けるということを教えるのか。いずれにせよ手間がかかる。放っておく、というのには遠い。
子供が手づかみで食べていたらどうするのか?
子供が小学校にでも行って恥ずかしいから自分で箸を練習しようと思うようになるまで手で食べさせておくのか?それはそれで一つの方針だとして、その汚れた手でテーブルや壁を汚したらどうするのか?拭くのか、叱るのか、それすらも汚れたまま放置する(!)のか?
ことほどさように、子育ては、はっきり言って手間と時間のかかる面倒なものであり、現実には「放っておく」というわけにはいかないのである。
しかし、と人は言うかもしれない。かつては子だくさんの家庭も多くあり、しかも親がべったりと子育てをしていたわけではなかったではないか。それでも子供は育ってきたではないか。やはり今の親は不必要に子育てに時間を割いているのではないか、と。
私はそこの因果関係は逆だと思う。かつては親が今ほど子育てに時間と費用をかけていなかったのだとしたら、それは他の家族や親戚やご近所等々が実質的に子育ての一部を負担していたからである。核家族化が進み、共同体の解体が進み、そのようなインフォーマルな支援を失った結果、子育ての負担は親の肩に、日本の場合は事実上母親のみにのし掛かるようになった。
結果として母親は子育てへの専従を余儀なくされる。子育てにも「規模の経済」は存在するから、子供が二人になったからといって子育ての負担が2倍になるわけではないが、それでも外部のサポートがなければ専業主婦の家庭であっても全体として子供の人数は減るだろう。女性の社会進出が進み働く女性が増えればなおのこと、子供を複数産めばそれだけ外で仕事ができない時期が増えるから子供の数が減るのは言うまでもない。加えて、サポートが減って子育てのあれこれを自分(だけ)で判断するようになると、いきおい、それが自分の生活の中心となる。どうせ他のことが思うようにできないなら、せめて子育て「だけ」は自分の思うように、子供にはできるだけのことをしてやりたいと思うようになる。すると、数少ない子供のためにあれやこれやのマージナルなことにまで時間や費用を割くようになる。しかし、これはあくまでも「結果」であって、本来は子育てにとってマージナルな余分なことの「せい」で彼女らの生活が圧迫されている度合いというのは実は大したことはないのだ。
結局、子育てに費やされる資源の合計というのは実は概ね決まっていて、最近になって急に変わったというような事実はなく、親がどの程度育児をするべきか、どの程度の負担があるか、というのは必要な資源の「量」の問題ではなく、「分配」の問題に帰着する。よって、「子供は本当は放っておけば育つんだから、子育てに時間はかけすぎずに働きに出たり、もっと子供を産んだりするべきだ」というのはこうした因果関係を無視した無責任な考え方である。

何が言いたいのかというと、「少子化を改善するためには親が育児から解放される必要があるが、『誰かは』子育てをしないと子供は育たない」という単純なことである。
さて、ではどうすれば良いのか。
「絆の回復」とか呑気なことを言っている公共放送もあるようだが、今更、イエ制度とかご近所なんていうカビの生えた物をゴミ箱から拾ってきたって人間は幸せにはなれない。そもそも、そんなもの拾ってきたってどのみちもう使い物にはならないだろう。
現実には、働く女性の多くは子育てを親(つまり子供にとっては祖父母)に依存している。もちろん、それ自体がダメということは全くなく、得られる支援は自由に使えばよい。しかし、そういう親がいない人間はどうするのか(そもそも、祖父母の方だって孫育てができるほど元気であればあるほど、世の中に他にまだまだ楽しいことがあるにも関わらず、孫育てをさせられる謂われはない)。より一般的に、そういうインフォーマルな支援に依存すると、必ずそれを受けられない人間――例えば離婚して、そもそも自分の親も片親で、風俗で働いている今回のDQN女性がまさにそれだ――が出てきて同じような悲劇が繰り返される。


ネグレクトの話からスタートして少子化全体の背景に飛んだのには、理由がある。
この子供達はいかようにして救われるべきだったのか?この問いは児相が早く立ち入れていれば、というような技術的な話ではなくて、「我々の社会はこの少子化の中でどうやって子供を産み、育てていくつもりなのか」というもっと大きな問いにつながっているからだ。
「いや、そんなデカい話をする必要はない。こんな親はそもそも子供を産むべきではなかった」という反論もあるだろう。しかし、結果的にここまでする親はごく少数であるにせよ、そういうポテンシャルがある親というのはいくらでもいる、何も異常なことではない、というのが前編での私の主張であり、そういう親に子供を産むなというのなら、今よりもっと少子化になって日本なんていう国は早晩なくなりますがよろしいでしょうか?というのが私の反問だった。
そして、大きな状況として、子育ての負担が昔よりも親の肩にかかるようになっているにも関わらず、「子育てを放棄する」というオプションが現実にあまり用意されていないことがこの事件と少子化一般の共通の背景としてあるのではないか、というのがこの後編にとつながる私の主張だ。


結論。もう、子育てなんか放棄してもいいでしょう。親が子育てを放棄してはいけない、などと命じるから今回のような悲劇が起き、少子化も進む。自立した個人が労働し、社会生活を全うしながら十分な数の子供も産んでもらうためには、子供は国が(「国」という言い方に差し障りがあれば、「社会の負担で」)育てるしかない。

報道によると、この母親もピザの宅配などを使っていたようだから、ピザ宅配の番号を調べて電話して注文するくらいの能力はあったわけだ。そこで、「育児放棄ダイヤル」のようなものを設置し、「育児放棄したいんですけど」という電話を受けたら、「はい、30分以内にお子様を引き取りにうかがいます。30分を過ぎたら地域振興券500円分差し上げます」といって施設に引き取るようにすればいい。
もちろん、子供を引き取る施設、里子を育てるシステムというのは、今だってないわけではない。しかし、多くは虐待を受けた子供が主な対象であったり、「できるだけ親が育てるべき」という建前で経済的困窮等の明確な事情がない限りなかなか引き取らない。スティグマもあるし、規模も全く足りない。
これに関連して、報道では「子供を見て外からわかる虐待よりも、わかりにくいネグレクトの方が対処が難しい」という見解をよく目にするが、ここにこそ私は矛盾を見出す。親が周囲や児総の意向に反して子供を自分の手許に置こうとし、かつ虐待を続けるならば子供を保護するために公権力の介入が必要となるわけだから、結構な手間とコストになる。しかし、「育児を放棄したい」という親がいたならば、放棄させればいいだけの話ではないか。放棄する方法がわからない、あるいは手間がかかるから放置死のような痛ましいことが起きるわけだから、簡単に放棄できるようにすればいいのである。この母親だって、積極的に子供を殺そうという意志があったというよりも、「放棄」の手頃な他のオプションがなかったからこそ非常に極端な形での「放棄」に至ったのだ。
「子供を産んでくれさえしたら、後は誰かが育てます。困ったらこのフリーダイヤルにすぐご連絡下さい」というシステムにしないと少子化なんか解消しない。「産む機械」発言というのがかつてあったが、そういう言葉を直截に使うことへの賛否はともかくも、政策自体はとにかく予算を積み上げて出産可能な女性に「機械」になってもらうのを奨励するような対策を打つ以外ないのである。
子供手当てや高速無料化なんかする前に、こういうことに少なくとも年間数兆の予算を投入するべきである。


長々とゴタクを述べたが、私の主張は単純だ。
子育てをしたい親は、すればいい。上記のようなシステムが完備されたとしても、自分自身の生活には(税率が上がること以外)さしたる影響はあるまい。私は子育てが大変であっても、自分で育てることに意義を見出しているし、できるだけ子供達と一緒に過ごしたい(今は不幸なことにそれがなかなかできない)。妻は間違いなく私以上に自分が育てるという以外のオプションに関心はないだろう(実際には大変幸せなことに、妻の両親には非常にお世話になっているけれども)。しかし、それはあくまでも選択肢の一つであり、他人にそれを強制しようとは思わない。風俗店で働きながらホストクラブに通いたい親は、子供を産んだらその時点で親としての責任はお終いで、あとは好きなようにすればいいじゃないか。財政の状況を考えると、現実にはすでに手遅れかもしれない。しかし、少なくとも子育ての放棄が「悪」と糾弾される限り少子化は解消しないのではないか。それが私の精一杯の問題提起だ。

2幼児放置死事件について思うこと(前編)

非常に不愉快な事件である。言うまでもない。
なんてひどい。どうしてこんなことができるのか。育児しないならどうして産んだ。家族や親戚は、周りは、近所はどうして気付かなかった。児童相談所は何をしていた。
かように不愉快な事件に人々は心を痛め、様々な反応を広く鋭く喚起する。自然なことだ。じじつ、自分も不愉快さのあまりこうしたエントリを思わず書き始めてしまったわけだ。
しかし、亡くなった子供たちの悲惨さに心を痛めつつも、こうした「お約束」の反応に食傷気味になっていることもまた、書き始めたもう一つの理由だ。
だって、「ひどい」とか「鬼母」とか言ったってしょうがないのである。母親がホストクラブ通いをしながら子供を放置していたことが世間の怒りに拍車をかけているようであるが、全くもって非建設的で意味がない。そもそも、「ホストクラブの方が育児より楽しい」と思うことがそんなに異常だろうか?世の中には育児以外にも楽しいことはたくさんあるのが現実であり(そして一般論としてはそれはむしろ幸せな現実であり)、それが少子化の理由の一つなんじゃないのか?
もちろん、育児から得られる、そして恐らくは育児からしか得られない、かけがえのない歓びというものは間違いなく、ある。むしろ、そういう歓びを感じるように我々の多くが「できている」からこそ、現在に至るまで我々は子孫をつないでこられたのであろう。しかし、その感じ方は人それぞれであろうし、育児が「無条件に」「常に」楽しいものかというと残念ながら私にはそうは思われない。育児から逃げたい、なんて思ったことがない親がいるのだろうか?妻の何分の一しか育児をしていない私でも、とても「ない」とは言えない。無論、ほめられたことではないし、当然だが実行したこともない。しかし、子供を愛していてもなお、育児から逃げたいと「思った」ことくらいはほとんどの親にあるのではないだろうか?
要は、「子供を放置したらかわいそうだ」とか「それで何かあったら取り返しがつかない」とか思うから思いとどまるのであって、単純に目の前の選択肢として比べたときに「育児」よりも「ホストクラブ」の方が楽しいと思う人間なんていくらでもいるだろう、という話なのである。自分(だけ)の効用を最大化する合理的個人であれば、特に割引率が高ければホストクラブや海に行く方を選ぶのがむしろ自然というものなのではないかとすら思う。
無論、「普通」(あえてこの言葉を使うならば)はホストクラブの方が楽しくても、かわいそうだ、とか何かあったらむしろその後が大変、というようなことを考えて結局放置死までは至らないわけで、この母親がどうしてそういう「多くの人は持っている」母性を失ったのか、またそこまで極端に目先の効用を優先するほど割引率が高い選好を持っているのか、この辺りをよく考え検証しなければならない。なぜ、子供達を死に至るまで「放置」しなければならなかったのか。
しかし、そういう不愉快だが冷静な作業を抜きに単に親を糾弾しても何の解決にもならない。
子供は親のものではなく、当たり前だが死んだ子供達はこんな仕打ちを受けるいわれは全くなかった。しかし一方で、子供が親のものでないのならば、なぜ親は自分の時間がほしい、と思ってはいけないのか?なぜ子供のことに親が責任を負わなければならないのか?
そんな風に思う/感じる人間はそもそも子供を産むべきでない、というのも一つの見識だとは思う。しかしそのように社会が命じることで出産をやめるのは、本当に育児放棄や虐待をする親だけではあるまい。
子育てを放棄すればネグレクトだという。自分で抱え込んで鬱自殺をすれば*1残された子供がかわいそうだという。
じゃあ、産まない方が楽ですねという話になる。実際、子供を持つ持たない、何人持つかということは、どだい当事者以外が外から強制できるような話ではない。
しかし、それだと国がとてももちませんね、というのが我々が今いる地点のはずである。ホストクラブ好きの風俗嬢にも、職場復帰したい局アナにもできるだけ子供を産んで頂きたい。すでにそういう状況なのではないのか?子を選り好みする以前に、親を選り好みする余裕が今の日本にあるのだろうか?
だとすれば、どれだけ育児の負担と責任から親を解放してやれるか、というのが少子化対策の肝であるはずだ。それなのに、ああそれなのに!!何か事件があれば親を責めるような言説ばかり出てくるというのは一体どういうことなのだろうか。そんなにみんな少子化を奨励して日本を滅ぼしたいのだろうか?
(この項続く)

*1:育児ノイローゼで自殺するなんてのは、究極の育児放棄ではないか

最高意志決定機関「元首相会議」

議長:中曽根康弘
海部俊樹
細川護煕
羽田孜
村山富市
森喜朗
小泉純一郎
安倍晋三
福田康夫
麻生太郎
鳩山由紀夫
準会員/オブザーバー:菅直人
なんか、笑えるほどバランス取れてるな。選挙や国会なんかもういらないから、向こう3年くらいここで全部決めちゃってくれれば間違った方向に行かなさそう。中曽根が高齢過ぎるので、安全保障の専門家がちょっと欲しいくらいか。書記官として石破茂あたり入れておけば完璧。小物と見せかけて、森元が意外な存在感を発揮しそうなメンツでもある。どのメンバーとも一対一でちゃんと話できるのって実は森くらいだろwww
役人出身が中曽根だけというのもミソだな。中曽根を「役人出身」というカテゴリーに入れていいのかもよくわからんが。宮沢喜一小渕恵三が存命だったらもっと強力だったなぁ・・・

天上のクズ、底辺のクズ、そしてフィリピンに(また)負けたボク

喜実子のビザを更新するためにフィリピン大使館に行って来た。
妻と幹浩はまだ当分フィリピンに来られない(ことに加え、妻のパスポートはもうすぐ期限切れ、幹浩はまずパスポート取らないといかん)が、喜実子は遊びにくるかもしれないのでとりあえず一人分だけ更新しておこうと。
で、フィリピン政府から東京の大使館にレターを出してもらった上で大使館に申請へ。朝の六本木駅からフィリピン大使館に行くというイベント自体が素晴らしい。
金融危機前の勢いは衰えたとはいえ、依然としてヒルズのバブリーなオフィスでマネーゲーム(藁)に興じる天上のクズの皆様*1
これを横目に鳥居坂方面の出口を出て、フィリピン大使館に向かう底辺のクズの皆様の列に加わる。誤解のないように言っておくが、断じて「フィリピン人がクズ」だなどと言っているのではない。日本に出稼ぎに来るようなフィリピン人はそれなりの意欲なり教育なりがある人たちだから、フィリピン的基準ではごくフツーである。ポイントはそこではなく、「フィリピン大使館に用事がある日本人の多くに底辺感が漂う」という観察事実を述べているだけである。その中に東洋英和の制服を着たお嬢さん方も混じる。向こうからすれば自分も平日の朝っぱらから薄汚れた服装でフィリピン大使館に向かう立派なクズの一員だ、という事実は棚に上げきった上で少々浮き浮きとした気分になる。ただ、東洋英和、とか聞いて思わず浮き足立ってしまうのはあくまでも自分の過去がそうさせている郷愁の産物にすぎないということを押さえておかないと、「東洋英和と聞いて思わずにやけてしまう、平日の朝からイケてない服装で一人で六本木をうろつく33歳男」というのはただの犯罪者予備軍にしか思えないので注意が必要だ。警ら中の警官二人にその辺の差異を説明したい衝動にも駆られるが、職質されているわけでもないのでやめておこう。
目的地に近付く。通り一本隔てているだけなのにこの格差はなんなのか。東洋英和とフィリピン大使館。ともあれ、東洋英和のお嬢さん方がフィリピン(人)に対してビミョーな意識を持っているとしたら、それはそれなりの理由があるというものなのだろう。東大あるいは慶應をご卒業後、外資のバンカーになるか、あるいは女子大でお茶を濁した後、バックオフィスやアシスタントを経由して億円プレーヤーの奥方に無事おさまったあかつきには、是非勝手知ったるフィリピン人メイドを雇用して家事は彼女達に任せて、自分は威勢良く子供をこさえて少子化解消に貢献して頂きたいものだ。
いつも入口付近にたむろしているフィリピン人の集団が意外に少ない。お、今日は空いてるのか?ラッキーラッキー、などと思いながら入口に到達する。
休館。
休館・・・だと・・・?
いや、6月30日に祝日なんてなかったはず。今日は水曜日だ。休みのはずがない。9時からかと思ったが、実は10時からでまだ開いていないだけか?
「アキノ新大統領就任式のため、6月30日は臨時休館日と致します」との貼り紙が目に入る。
あ、アキノぉー・・・お前か・・・お前のせいなのか・・・許さねぇぞ秋野太作めぇ・・・。
いやこれは違った。秋野太作はtakkunのお父上だ。とんだアキノ違いだ。
ノイノイ・アキノが大統領になるっつうので臨時休館かよあーそうかい。
冷静に。俺はこんな状況でもあくまでも冷静な人間だ。「フィリピンではよくあること」というムルアカの名言が頭の中でリフレインされる。いや、あれはアフリカだな。フィリピン人はムルアカみたいに背が高くないからな。まあコンゴ人も大概はムルアカより背が低いんだろうがそれは気にしないでおこう。というかなんでこんな5年くらい昔のネタが急に頭に浮かんだのかもツッコミどころだろうがそれも気にしないでおこう。いずれにせよフィリピンでは休日なんて大統領令で設定できるので、大統領就任式ともなれば休日になることもある。フィリピンではよくあること。
冷静に。俺はあくまでも冷静に、次に何をするべきかを考えた。次、次・・・この状況で次になすべきこと・・・何だ?とりあえず、スレを立てればいいのか?この心象風景を的確に表現するスレを?あくまでも、あくまでも冷静に、自分の今の気持ちをスレタイに置き換える作業を開始する。「【臨時休館】犯行予告!新大統領ノイノイを暗殺します【粉砕】」あたりがまず思い浮かぶ。いや、どう考えてもネタの書き込みでも威力業務妨害でしょっ引かれるご時世だ。ノイノイはオヤジが本当に暗殺されてるからシャレになってねーし実際。そんなことをしたら数日後には「まにら新聞」の一面を飾ることになるだろう。いくらなんでもそれはまずい。じゃ、じゃあ、ツイートか?ツイートなら大丈夫なのか?「ビザ申請に来たフィリピン大使館臨時休館がムカつくので大使館爆破なう」いやー、これもどう考えてもアウトだろうな。
無念だ。無念だが、自分のごとき人間がノイノイの大統領就任にケチをつけようという発想がそもそもあまりにも向こう見ず、ドンキホーテみたいなもんだった。素直にノイノイおめでとう、フィリピン国民おめでとう、今日は休館日で当然で、下調べしておかなかった俺が悪かった、なすべきは自己批判であって犯行予告ではない、ここで犯行予告ではなく自己批判をできるかどうかが、きっと社会に戻っていった全共闘崩れと過激派になった連中との分かれ目になったに違いない・・・。
・・・ん?今なんつった?全共闘?・・・じゃなくて、その前。ドン・・・キホーテ?ドンキホーテ!おぉ、ここは六本木。底辺の殿堂、じゃなかった安売りの殿堂、ドンキホーテがあるじゃないか!せっかくここまで来たから、ドンキ寄って買い物していくか。ということで、朝イチからドンキに乱入。安っちいネクタイを数本と財布を購入してやや溜飲を下ろす。と、ふと隣を見ると、同じく休館を知らずにやってきた帰りと思われるフィリピン人カップル(タガログ語しゃべってたので間違いない)が楽しそうにブランド時計などを買い漁っている。
・・・。ドンキにて更なる敗北感に打ちのめされる。
ドンキを出て、帰途につく。手に提げているドンキの黄色いビニール袋・・・これは、しまうべき・・・か?平日の朝っぱらからドンキの袋を提げて六本木の街を歩く33歳男(かつ東洋英和嬢を見てニヤける特性あり)、あまりにもみっともない?恥ずかしい?
いや、ドンキの袋を提げてたって、いいじゃないか。堂々としろよ。胸を張れ。フィリピン大使館に行ったけどたまたま休館だったからドンキに寄って買い物だけして帰るところです。それが事実だ。厳然たる事実。世間に恥じるところは何もない。駒野だって胸を張って帰ってきたじゃないか。恥ずかしくなんかないぞ。
・・・しかし俺は結局ドンキの買い物をビニール袋ごとカバンにしまってそれを封印した。そうして、臨時休館日にフィリピン大使館に間違って来てしまったことも、仕方なく帰りにドンキに寄ってしまったことも記憶から、歴史から抹殺しようとした。何という欺瞞!なんという小さい人間!ヒューマンがスモール!!ロシア文学的に絶叫してしまいたくなるような自分の小物ぶりに苛まれていると、自分の頭の中で声がする。「結局、また・・・負けたんだね・・・フィリピンに・・・」そうだ、また負けた。六本木に、フィリピンに、そしてドンキに負けた。天上も底辺も我を見捨てたもうた。俺は朝10時に敗北感を抱えて涙をのんで帰宅する。
てか、申請と受け取りで少なくともあと2回は大使館来ないといけないんですが・・・

*1:但し大概の連中は徒歩圏に住んでるかタクシー通勤だろうから、駅で見かける外資風情の多くはただの帰国子女ねーちゃんや二流のバンカーであろう。言うまでもないことだが、自分も外資勤務当時はフツーに電車通勤してましたが何か?

業務連絡

1日木曜日(ってもう明後日か)に大井行きます。恒例となりつつある夏の意味不明行事。
真っ当な勤め人には難しいかと思いますが、脈絡不明の人間で集まって楽しむだけなので、興味があったら是非連絡下さい。