元気になって!
まだ年若い友人が脳内出血で入院したことを知らされた。
とにかく祈る。祈ることしかできないから、とにかく今は祈るだけ。
(彼女のご近所の方に思い切って様子を聞いたところ、とりあえず「今日、明日に何か、という状況ではなさそう」だと教えていただけた。心配なことに変わりはないが、とりあえず安堵。――26日追記)
岡崎朋美選手の発言に抗議!
日刊スポーツの報道によると、女子500メートルが16位で終わったことを受けて、彼女、こんなことを言ったらしい。
高校卒業後から長田総監督とともに歩んできた。3年間を節目としたことに、恩師に対する感謝の思いがにじむ。五輪の結果で報いるつもりだった。それだけに「監督を男にしようと思っていたのに、女にしてしまった」とわびた。
「男にしようと思っていたのに」で終わるんであれば、ある種の慣用句なのだし目くじらを立てることでもないのだろうが、何なんだ「女にしてしまった」って。
見る者に不快感は抱かせたかもしれないけれど“特定の―性別、人種、国籍の―誰か”を誹謗したり侮辱したりしたわけではない國母選手よりも、この発言はよっぽど質(たち)が悪いんじゃないかと思うのだけれど。
というわけで、とりあえずスケート連盟に抗議のメールを送ってみた。
吠える亀
千葉法相、福島少子化担当相のコンビを見て、あと少しの辛抱だと思ったのだけれど、やっぱり出てきた。
あとちょっとの辛抱だと思っていたからこそ、仕事先へ提出した各種書類は――屈辱的な思いを抱きながらも――最小限の波風を立てるにとどめ(戸籍上の氏名での届出+通称使用願いですませた)、期限の切れたパスポートも(旧姓のままにしてあるクレジットカードと名義が違う状態になるのを避けるべく)とりあえず更新しないままにしてあるのだけれど(そのために、この冬・春は海外への渡航を断念)。ペーパー離婚という、いちど埒外に置いた選択肢のことをもういちど真剣に考えなければならないのだろうか。
国民新党代表の亀井金融相は7日、広島県尾道市で講演し、永住外国人に地方選挙権を付与する法案と選択的夫婦別姓制度の導入を柱とする民法改正案について、「国民新党は2つとも反対だ。2つとも(今国会では)絶対に成立しない。私が『ノー』と言ったら、法案として国会に提出できないからだ」と強調した。
亀井氏は、選択的夫婦別姓制度について、「夫婦が名前を別にして、子供も違えば、(同じ)家の表札がアパートみたいに違う。これがあるべき姿なのか」と批判した。
「あるべき姿」はひとつだけなのか。「選択の自由」があったっていいではないか。こういう発言を見ると、「別にあなたの奥さんまで別姓にしろとは言ってないでしょ!」と言いたくなってしまう。(ついでに言うと、地方参政権までなら認めてもいいとも思う。)
お墓
新聞を読んでいて、ああ、私と同じ感覚の人ってやっぱりいるのだ、と思った。日経の特集記事「老いを生きる」の最終回(第7回、2010年1月5日朝刊)。63歳の女性が、墓標がわりに樹木が植わる樹木葬墓地で、「夫とは別に、家族同然だったペットと眠る道を選んだ」という記述。
商社マンだった夫(63)との夫婦仲は悪くない。だが夫の郷里の墓で、つきあいの薄い夫の親族らと“同居”すると思うと気がめいった。
のだそうだ。
私も、まだ具体性は欠くけれど、じつは同じようなことを密かに考えている。
何年か前、春のお彼岸の墓参の運転手として、オットの郷里の秋田へ行ったときのこと*1。秋田市内から車でずいぶん走った山深いところにある墓地へ行き、まだ存命だった認知症の義父の手を引き*2、お参りの妨げになる墓前の雪を踏み固めながら、「あー、ここに入るのかー」と憂鬱な気持ちになった。
中に入っているのは、私の知らない人ばっかりなんだよな。ここに閉じ込められて、どこへも行けず(←当たり前だ)、私の知り合いは誰も訪ねて来てくれないんだよな、なんて思ったのだ。
私たち夫婦には子はおらず、私の実家は名古屋。最初の仕事で関東に出てきて、多分これからずっと東京住まい。もちろん、東京に自分の墓を作ったとて、誰が墓参りをしてくれるわけでもなかろうという意味では、秋田の山奥の先祖代々の墓でも同じなのだろうけれど、平均余命通りであれば、私はオットを見送ってから十数年ひとりで生活することになる。中年の現在でさえ、毎年のお盆の墓参はしんどい。ましてや、高齢になってから、オットの郷里である以外に自分とは何の関係もない土地に自分でひとりで行くのはかなり難しいんじゃないか。
だから、オットを見送るときに、こっそり分骨してもらい、自分はそれをお墓のかわりにして、自分が旅立つときには、それと一緒にどこかに埋まりたい……。でも、それはオットを引き裂くことになるのだろうか。いずれにしても、オットにはこんなこと言えないのだけれど。どんな顔をされるかわからないから*3。
子どもなオトナ
自分の精神年齢の低さというか、大人になり切れてなさ具合がコンプレックスになっているのだが、何となくインターネットをしていたら、こんな記事があった。(→AllAbout:精神年齢をアップさせる5つのレッスン)
曰く、以下のリストの大半に該当すると、子どもなオトナに該当する危険性が大きいのだそうで、
- 気がつけば、何かにつけ親や夫(妻)、上司、会社などのせいにしている
- 理想の異性の第一条件は、自分を包み込んでくれる包容力や癒し
- 見返りもないのに、他人に施しをするのはイヤ
- 気がつけば、自分のペースで話しているか、逆に聞き役に徹していることが多い
- 遊びや仕事の計画を、自分主導で進めたことはほとんどない
- 挨拶やお礼、おわびをいうのは苦手
私もけっこう該当しちゃったりするのだが、私の身近には、これすべてに該当する人間がいる(パーフェクト!)。何を隠そう私の実母だ。このところその兆しはあるが、これからさらに高齢になっていくと、ますます「お子ちゃま化」が進んでいくのだろうなあ。ある意味、義母よりもずっと質が悪い。
このブログでは、義母の悪口を書き散らしたりもしているのだが、ブログを開設した本当の理由は、実母の存在。数十年抱えてきてここ数年とくに明確に意識するようになった母に対するわだかまりを整理しようと思っていたのだが、でも、書いてしまうと、そこに書かれたことが確定して問題を深刻化させるような気がして、恐くて書けない。若い頃にはそれを認められなかったけれど、母が私にしたことは虐待だと確信するようになってしまったから。外から一見すると、「良妻賢母」の典型のような顔をしている私の母であるけれど。母自身も多分自分の父親(生みの母とは4歳の時に死別)や祖母などから精神的、肉体的に虐待されていたのであろうことは容易に推測されるのだが、話を傾聴する気にはとてもなれない。衣食住と教育については十分なものを与えてもらったわけで、そのことを指して私は母に感謝をするべきなのだと説く人もあるが、親子の間で何よりも重要な愛情というものを私は母からは受け取らなかったような気がする。母は自分のなかにある何かを愛情だと思っていていたのかもしれないが。
……という言説も、上の「気がつけば、何かにつけ親のせいにしている」に該当するわけで、このあたりが私が大人になり切れない所以かも知れぬ。
義母の悪口というのは、――読み手の気持ちを楽しくさせるものとは対極に位置するものであるけれど――ただのうっぷん晴らしですんでいるだけ他愛のないものなのかもしれない。まあ、何と言っても他人だからな。
布ナプキン・その後
布ナプキンを使い始めて、最初の生理が終わった。気づいたことをいくつかメモ。
機能・使い心地
心配だったモレもなく、生理用ナプキンとしての使い心地もなかなかよかった。こまめにパッドを交換すれば、ホルダー本体もあまり汚れない程度。多い日は、パッドの代わりに、厚手・薄手の三つ折りのものを使用。今回は紙ナプキンを併用したが、外出もこなせそう。
ムレることもないので、かぶれたりしてかゆくなることもなく。子どもの紙おむつはいったいどうなんだろうと思ってしまった。
使い終わったときの不快な臭いもなく、快適。
洗濯は楽
すぐに洗えば落ちやすいのは当然として、落ちにくい汚れも、石けん水にひたしておけば簡単に落ちる。毎回、入浴時にちょいちょいと手洗いして、終わったときなどにまとめて洗濯機で洗濯した。必要最低限の数だけしか持たないほうが、かえってこまめな洗濯につながって、よいのかも。
生理が早く来た
28〜30日周期だったのが、今回、少し早めに来た。関連は不明だが。(翌月は、ぴったり30日できた。普段、判で押したようにきっちりくるので驚いたが、関係ないのかも。――後日追記)
月経前緊張等が軽い
いつもは、始まる直前に、悪寒、頭痛があるのだが、今回は、悪寒は記憶になく、頭痛も軽め。また、生理中にあごのライン周辺に出ることが多い吹き出物もほとんどなし。どちらも関連は不明。
というわけで、だいたいのペースがつかめたので、もう少し買い足すことにした。(作れば安いのだけれど、そこまではちょっと手が回らない。)