内面の充実とは

 些細なことにこそ、その人の個性や品格そして人間性が表れると思うのです。言葉ひとつでも配慮や無関心を感じますし、センスや教養を感じることもあれば、その逆の場合もあります。また、些細な行動にも、その人の信念や情熱を見出すこともあれば、偽善的態度に落胆することもあります。言葉や行動は人間の内面を表す鏡のようなものなのです。


 些細なことであるほど誤魔化すことができないものです。一日中すべての言動に注意を払うことはできません。そのため疲れている時や忙しい時ほど本心が様々な形で外に出てしまうのです。気づいていないのは本人ばかりで、周囲が引いてしまうこともあります。やはり偽ろうとするのではなく、内面を磨き充実させていくしかありません。


 いきなり大きなことはできないものです。積小為大といいますが、日々の小さな積み重ねこそが大きな力となります。些細なことを疎かにすることなく、心を込めていくことです。内面の充実とは人や社会を想う気持ちを持つこと、知識ではなく智慧を求め学ぶことだと思うのです。相手へと向かう慈悲、自分へと向かう智慧のバランスによって、偽ることなき人間性が育まれるのではないでしょうか。

 

時は命なり

 時間だけは誰にでも平等に与えられているといいます。たしかに今日一日という短期的に見れば同じ時間を持っています。その時間の使い方によって大きな差が生まれるわけです。ですが、人生という長期的な視点で考えれば不平等なものであり、誰がどれだけの時間を与えられているのかも分かりません。

 

 私達は生まれた時、それぞれに人生の時間を与えられました。その時間をどんどん使っていくわけです。増えることはなく、減っていくばかりです。しかもお金とは違って時間は見えないため、どれだけ使ったのか、どのように使ったのかも分かりません。日々、自分が持つ時間を切り売りして生きているのですが、その実感がありません。

 

 時は金なりといいますが、時間は無料でも無限でもありません。だからこそ大切しなければならないのです。自分の持つ時間を命と考えることができれば、時間の使いかたも違ってくるかもしれません。時間を無駄にすることは、命を無駄にしているともいえるのです。小銭でもコツコツ貯めれば大金となります。時間も大切に使っていれば、それだけ人生が豊かになっていきます。新年度を迎えるにあたり、時間に追われる生活から、時間を楽しむ生活に切り替えていきたいものです。

 

中国の若者へ

 中国では漂流族と呼ばれる若者が増加しているそうです。経済の停滞と高い失業率にあえぐ若者達のなかで定職に就かず、好きな時に日雇いなどの仕事をしながら暮らす若者のことを指すそうです。将来のことを考えようとはせず、今が楽しければそれで良いと考え、親の世代の価値観には興味を示しません。そのため定職や結婚にも無関心であり、享楽と無気力が混雑しているようです。


 高い経済成長を示した中国も他国と変わらず、成長があれば停滞があり衰退があるものです。中国の場合には一部の富裕層は経済的な豊かさを満喫したのでしょうが、国内すべてを潤す前に景気は悪化してしまいました。豊かさにあこがれ、しかし豊かになる前に今まで以上に貧しくなれば享楽や無気力が蔓延するのはしかたのないことです。日本でもニートと呼ばれる同じような現象がありました。


 日本以上に不平等や格差を見せつけられる国だと思います。また、社会や未来を信じることも難しいと思います。ですが、現実逃避の生活は若いうちは楽しく思えるのかもしれませんが、どこかで卒業しなければなりません。新しい扉を開くのは中国政府でも国連でもなく自分自身なのです。世の中は成長・停滞・衰退を繰り返しますが、同じ状態が続くことはありません。次の波に乗れるよう力を養うべき時なのかもしれません。

 

自分をアップデート

 漠然とした不満や不安では、何を変えればよいのか、何をすればよいのか、なかなか見えてこないものです。具体的な道が見えてこなければ、心にある不満や不安はくすぶり続けるとになります。それは自分のなかにある不満や不安を棚上げにしている状態でもあります。本気になればすぐに解決できることであっても、面倒なためそのまま放置していることがあります。ですが、急激に増殖して大きな問題になることもあります。


 定期的に自分と向き合って、変えるべきところは変える、直すべきところは直すという習慣が大事になります。つねに自分をアップデートしていくことです。不満や不安の原因が自分以外にあると思ってはいけません。問題を放棄することなく、自分の責任として引き受けることで、より素晴らしい自分と出会うことができるのです。じっくりと自分について考えてみること、また素直に周囲の助言を聞いてみることで、新しい可能性が生まれてきます。

 

敵をつくらず

 ケーブルテレビで大河ドラマ西郷どん」の再放送を見ています。明治維新後の舞台になったのですが、西郷隆盛は情を大切にするあまり反乱の首謀者へと担がれてしまいます。対する大久保利通は情が分からないため暗殺されてしまいます。どちらも新しい国づくりに命をかけたのですが、その想いが正しく理解されなかったのかもしれません。この二人がいなければ明治維新はなかっただけに惜しいと思うのです。


 夏目漱石草枕の冒頭に「智に働けば角が立つ情に棹させば流される」とあります。理智で割り切っていると周囲と衝突しますし、他人の情に囚われると自分の足元をすくわれるといった意味でしょうか。さらに漱石はだから人の世は住みにくいといっています。人は感情の生き物であり、人間関係とは感情と感情の交流といえます。理性や道理も人にとっては大事なものですが、優先されるのは感情なのではないかと思うのです。


 相田みつをさんの作品に「あの人がゆくんじゃ わたしはゆかない あの人がゆくなら わたしもゆく・・・」とあります。これが人の本性なのでしょう。ですから、敵を作らないということが求められます。苦手な人や嫌いな人は誰にでもいますが、あえて敵にする必要はないのです。これだけで日々のストレスは半減します。そして親しき人々との良好な関係を維持することができれば幸福が約束されるようなものです。もちろん良好な関係維持も簡単ではありませんが、甘えることなく謙虚な気持ちでいるならば、良縁を磨いていくことができるのではないでしょうか。

 

 

短文の価値

 テレビでラインの返信について若者と中高年を比較していました。もちろん私はオヤジの部類に属しているようです。今まで考えもしなかった句読点に若者独自の意味がありました。また最も違うのは文字数でした。私はどうしても長文になってしまいます。スマホよりもパソコンのメールが先だった私は相手への説明を意識し不足や不明がないようどうしても長文になってしまいます。若者は短文です。要点を一言で伝えるというよりも、単純な返答や自分の気持ちの表現に見えてしまいます。そのため無限のやり取りが続いてしまうように思うのですが、世代間のギャップを感じてしまいます。


 ですが、この短文から学ぶこともあります。すべてを言葉にするのではなく、相手を信頼して判断を任せるということです。長くなるほど伝わらないということもあります。親子の会話などは、どうしても長くなってしまい子供が嫌々になってしまいます。名文ほど短いということがあります。不要なものを削り落としているからです。それは自分を良く見せたいという自己アピール、相手への不満や憶測、そして押しつけなど不要なものがなく、本当に必要な真理だけを表現しているからなのかもしれません。日々の会話もトークも長くならないよう気をつけたいものです。

 

この世は鏡なり

 この世界とは自分の心を映しているものです。明るい心で暮らしている人にとって、この世界は光り輝いています。暗い心で暮らしている人にとっては、この世界は暗くつまらないものになります。たとえ同じような状況や環境であっても、心の状態によって見え方が大きく違ってくるのです。

 すべては心からはじまります。想ったことが言葉や行動となり発信され、それがこの世界をめぐり自分のところに返ってきます。相手の善意や社会の可能性は、自分の心にある善意や可能性を信じることから生まれます。マイナスの感情に翻弄されることなく、自らの心を整え安定させることで、この世界も同じように素晴らしいものになるのです。