デモクラシーとその歴史に関する思索と覚書

記録的なものを淡々と記していれば、その内また長い物を書く気力がわくと思っていたが、時間が経つのは早いもので、カレンダーの空白が長引いてしまった。書き掛けで放置された没エントリの山を築いては、それを崩すように書いてきたので、その内、まとめて更新できるはず。


さて、「デモクラシー」についてである。この不思議な言葉は他の多くの概念を貪欲に包摂してきたが、それ故にそれ自体がかえって捉え難いものになってしまった。「『タメグチ』的ガバナンスの歴史」(http://www.tez.com/blog/archives/001301.html)というエントリを、はてなブックマークのお気に入り経由で知ったので、これに関して歴史的な見地からのツッコミを入れつつ、叙述してみたい。


情報処理の話は無知故によく分からないのだが、歴史や政治に関しては、我輩のような読書家レベルの知識でも明らかにその間違いを指摘できる。まずは「ヨーロッパにおいては大昔から「最高権力者を『会議体』や『法』で縛る」という発想が、何度も繰り返し歴史に登場するのに対し、日本を含むアジアでは、そうした体制は社会の混乱期などの非常に「例外的」なケースに限られるのは間違いないのではないでしょうか」という疑問に対して。


日本はおろか、“専制的”と目されやすい前近代の支那などの大陸諸国においても、それは必ずしも例外的な事ではなかった。故坂本多加雄は『歴史教育を考える』(PHP新書)において、近代憲法だけを視野おさめた議論を批判して、憲法とは文章にされて制定されているか否かといった体裁の問題を問わず、国家の根本制度であり、国のあり方として人々に思い浮かべられている内容を指す」のであり、「この意味での近代国家でなくとも必ず存在し、国家の歴史を規定している。日本の歴史を眺めて、武家政治までの根本原理が何であったかを考えれば、やはり基本的には律令体制であったと言わざるをえない」と指摘している。要するに、この律令によって、少なくとも政治は法に則って行われるべしという規範が生じたのである。そして、言うまでもなく、日本の律令体制の大元を辿れば支那に行き着く。即ち、法家の思想である。再び日本史を顧みれば、こうした法治の思想はその後の武家政権においても、鎌倉時代の「御成敗式目」から、江戸時代の「武家諸法度」、さらには天皇の主務すら規定する事となった「禁中並公家諸法度」に至るまで、長い歴史を有するに至った。


ところで、そもそも「専制」とは何であるのか。思想史においては文脈に沿って理解されるべきものであるが、その文脈に沿えば、少なくとも近代政治思想史(I・カント前後)において、それは立法権と行政権が一体化した政体の事である。カントや彼の同時代人が「共和政」或は「共和主義」と言う時、それは単純な「反王政」の意ではなく、それは立法権と行政権が分離した政体の事を指している(――したがって、多くの共和主義者は「政党」に対して甚だ否定であるか、あるいはそれを無視していた。また、A・ハミルトンのように共和主義者であっても、終身の大統領制を支持するような例もある。なお、ハミルトンは大統領の終身制導入には失敗したが、最高裁判事の終身制を保持させ、憲法に大統領の多選禁止条項の導入するのを阻止している)。そういう意味において、為政者が自ら定めた法によって政治を行う事に、専制的な要素が皆無な訳ではない。しかしながら、日本史を紐解いた際、そこにあらわれるのは合議をよしとする規範文化である。貴族の時代においては、「参議」という言葉が表すように、政は朝議において行われ、また武家政権においても、鎌倉幕府評定衆から、江戸幕府の年寄衆に至るまで、合議制を中心にしていた(参照:佐藤進一「合議と専制」)。強権を恣にふるった為政者が居なかったわけではないが、少なくとも安定期においては合議を基本とし、そうした流れが、明治維新の「万機公論をもって決すべし」に結実している(――なお、本朝は平安末期から江戸期に至る数世紀間、小休止を挟んでは延々と内戦に続く内戦に明け暮れるという、世界的に見ても実に好戦的な民族であった)。


次にヨーロッパ史について考えてみる。「マグナ‐カルタ」は近代の憲政の思想によって美化されがちであるが(――それは国際法において「ウェストファリア条約」が誇大視されがちな事に似ている)、単純化して言えば、それは王権と貴族の抗争であり、結果である。そもそも、征服王朝に端を発する英国王権は極めて強大であり(――それまでの土着の勢力をほぼ一掃しているため)、その後の名誉革命に至るまでの英国史は、国王(国王大権)と貴族(議会特権)の権力争いを基調としていた。さらに言えば、名誉革命後もジャコバイトの乱などによって政権は不安定であり、一八世紀が終わりになろうという頃になっても、ジョージ三世のように国王親政を復活させようと企んだ国王も存在した。第二次大戦後においてすら、政治的混乱から国王が仲裁に入る格好で、明治憲法のように大命降下式に成立した内閣が存在する。


科学の進歩から、原始社会について得られた知見から民主主義を論じる向きがあるが、実のところ、これは科学が進歩する以前に存在した。名誉革命後の英国史における所謂「古来の国制」の議論である(――十九世紀以降には、悪しき優生学徒がチュートン民族なるものを思い付くに至る)。簡単に言うと、ノルマン・コンクェスト以前の古代アングロ・サクソンの時代に自由な国制が存在したという主張である。議会特権と国王大権が対立する中で強化された概念で、つまるところ、議会の権利が国王大権に対して先取であり、優先されるべき根拠とされたものだ(――「マグナ‐カルタ」が大いに称揚されたのもこの兼ね合いである)。これに対して批判的な見解を示したのが、幅広い分野で業績を残した哲学者D・ヒュームである(――ヒューム曰く“昔、国王に対する抑制は、庶民のうちにではなく、封建諸侯の手のうちにあった。国王がこれらの党派心の強い暴君を押さえつけ、その結果、法律の施行を強制し、臣民がすべて等しくたがいの権利、特権、および財産を尊重しなければならないようにするまでは、人民にはなにひとつ権力はなかったし、自由さえもほとんどあるいは全然なかったのである”「党派の歩みよりについて」『デイヴィッド・ヒューム研究』御茶の水書房から孫引き)。この辺の事情は「勝利したアナクロニズム(1)」(http://blog.goo.ne.jp/william1787/e/4d4a55cdb1e1554350f66edabe217e7b)「勝利したアナクロニズム(2)」(http://blog.goo.ne.jp/william1787/e/6fbae6f127c1e52854f04a3cad8ceeff)というエントリが詳しく面白い。なお、ヒュームはトーリー史観の歴史家と見られがちであるが、上記の『デイヴィッド・ヒューム研究』などを通して、彼の歴史観を見る(――残念ながらヒュームは邦訳書に恵まれておらず、未訳も多く、既存の訳本も古い)と、名誉革命自体には否定的な見解を示して居らず、近代(名誉革命前後)に入って「新しい自由」が獲得されるようになったという見方は、一種の発展史観となった十九世紀のホイッグ史観にむしろ近いように思われる。今日、保守主義者としてばかり良くも悪くも見られがちなE・バーク(党派的にはホイッグ)にしても、人民が緩やかにこの「新しい自由」を獲得していく事に肯定的だった。ただ、彼等は歴史的な経験に沿って広がっていくべきだと考えた(ヒュームと彼の友人であったアダム・スミスは、市民の自由を守り、促進していくのであれば、フランスは絶対王政で別段構わないじゃないかとすら言っている)のであり、特にバークにとっては名誉革命が旧き良き国制を回復するものであったの対し、フランス革命がそれを破壊するものに見えたのである。


我々は兎にも角にもヨーロッパの歴史と、それが生み出して来た価値に対して過大な評価を与え過ぎている。ここで何も「アジア」とか、「アジア的価値」などという、まったく根拠も実体も無い価値観を掲示しようとするのではない。しかし、同様に「ヨーロッパ」や「ヨーロッパ的価値」なるものも疑わしいと言いたいのである(――そのようなものは冒険家たちが原住民を狩の対象として遊ぶとか、頭蓋骨を計測してより猿に近い黒人は白人に比して劣等であるとか、そういう類の十九世紀的な傲慢と偏見、迷妄が見せた錯覚、裏返されたオリエンタリズムに過ぎない。せいぜい地理的な概念、即ち周辺国の関係の濃淡程度に過ぎないものであろう)。もちろん、ヨーロッパの諸国家、諸民族が歴史的に時間を掛けて形成してきた「自由」や「平等」、「デモクラシー」などの諸原理の普遍性を疑うのでもない。しかしながら、それらの諸概念は、極近代に至ってはじめて定着したのに過ぎない。普通選挙に限って言っても、定着したのはここ一、二世紀の出来事でしかない。つまるところ、これらは歴史の問題ではないのだ。必然や普遍性などといったものが歴史的にあるわけではない(――ヘーゲルやF・フクヤマは歴史に目的[End]があると考え、だからこそ彼等は「歴史の終わり」を想定出来たのであるが、そのようなものは存在しない。「歴史の終わり」などというものがあるならば、それは歴史が定向的な発展を遂げるという歴史観の終わりに過ぎない。つまり、現代史は良くも悪くも「方向性」、ヒューム風に言えば「新しい自由の計画」を見失ってしまったのだ)。人間の制度もまた進化論のように試行錯誤発展してきた、その論理における普遍性に過ぎないのである。


少々疲れたので、本文として仕立てずに、散漫にいくつかツッコミをば。人口と民主主義の関係については昔から指摘があり、例えば、ジェファーソンの民主主義は農本主義と結び付いていた。しかしながら、ヨーロッパにおいて爆発的に人口が増加した十九世紀にかけて、民主主義(というよりは参政権の運動)は盛り上がりを見せ、一定の結果を生み出している。近代化によって爆発的に人口が増加し、近代化がある程度定着し、特に女子教育及び社会進出に伴って出生率は低くなる傾向がある。同様の事が日本や他の近代化にある程度成功した国についても言える。


「原始キリスト教が「西向き」(ヨーロッパ方面)の布教では圧倒的な成功を収めたのに、「東向き」(アジア方面)の布教では、(ネストリウス派キリスト教景教)の時代から、コンタクトはあったにも関わらず、)成功しなかったのか、ということも、すんなり納得できる気がします」に関しては、価値観というよりは地政学上の理由の方が大きいと考えられる。三世紀以降はササン朝ペルシア、七世紀以降はイスラム帝国が成立しており、これらの地域での布教は難しかったからだ。それ以前に関しても、元来、原始キリスト教は必ずしもユダヤ教から分離しておらず、ローマ帝国内のユダヤ・コミュニティを介して広がっていった点が大きい(参照:田川建三『書物としての新約聖書』)。アレクサンドロスの帝国の影響で、ギリシア人コミュニティは現在のアフガニスタン周辺にまで存在していたようだが、アレクサンドリアの虐殺事件(――ギリシア人によるユダヤ人虐殺事件。この事件によって、ユダヤ人コミュニティはかなりの打撃を被っており、キリスト教の南伝の記録がほとんど残って居ないのも、この事件の影響が強いのではないだろうか)にあらわれたように、ギリシア系とユダヤ系は帝国内においても対立しており、ササン朝ペルシアの進展以前においても、布教の幅は限られていたと考えてよいだろう。なお、あまり知られていないのだが、今日の韓国で最も信仰されている宗教はキリスト教である。


「『もし、アメリカ大陸が日本の近くにあったら』で、『仮に新大陸がアジアに近かったとしても、新大陸に自由を旗頭にするアジア人の国家が建国されることになったとは思えない。』」という点に関しては、「インディアン」と呼ばれたいわゆるネイティヴ・アメリカンの諸部族を思い出してあげて欲しい。チェロキー族のように積極的に欧化する事で、アメリカ合衆国の中で生きようとしながら拒絶された悲劇だけではなく、コロンブス来航以前から一種の連邦制をつくり上げ、独自の政体を営んでいたイロコイ族(――必ずしも支持している訳ではないのだが、近年、アメリカの連邦制の元ネタなのではないかという研究も出ている。参照:ドナルド・A・グリンデ・Jr./ブルース・E・ジョハンセン『アメリカ建国とイロコイ民主制』)のような例もあり、確かに今日のような合衆国にはならなかっただろうが、別の発展を遂げていただろう(――ちょうど、本朝において黒船が来なければ、江戸幕府が良くも悪くも未だに続いていたかもしれないように)。

血盟団事件

やら何やらと抜かす連中がわんさか湧いて来るんだろうなあ。或は、一件目の段階、はたまたそれ以前に、こうなるのではないかと危惧してました、などとほざく破廉恥な占い屋の類など。まあ、確かに、一件目だけなら単なる「ものとり」の可能性も否定できないが、もう一件あるとなるとそういうのを疑いたくなるのも無理は無い。


テロと自殺の類は最悪にして最高の自己主張であり、多くは遺書や犯行声明のかたちで表される。果たして、今度の事件はどうなのだろう。単なる怨嗟、逆上の犯行って可能性も否定出来ないと思うが(――要するに良くも悪くも“思想性”が無い、つまりは「確信犯」では無いという可能性の事だが) 。


何にせよ、殺されたものには何の関係も無い。我々とて同じだ。「確信犯」をその思想で捉える事ほど、テロを肯定してしまうものはあるまい。我々にとっては単なる一つの事件であり、一つの犯罪でしかないそれは、ただ粛々と法によって裁かれる対象に過ぎない。それ以上を求める事は、時に狂気じみた倫理を人々に強制する。そうした倫理は、諸個人の良心を無視し、踏み躙る。(時に「空気」などとも呼ばれる)それは、たとえ“倫理的”であったとしても、自由な社会には相応しいものとは思えない。


先の秋葉原の通り魔事件のように、“深読み”合戦にならなければよいのだが……

思索のための断片として


●書く事と考える事


どうにも体調が優れぬせいか、ほったらかしになってしまった。文章とは不思議なもので書き続けていないと、しばらく使われてなかったエンジンのように上手く動いてくれない。書く事はエンジン・オイルのようなものかもしれない。書かないで居れば、読む量が増えるかと言えばそうでもなく、やはり書いた方が遠回りではあっても書物への理解が捗るようだ。まめな整備が耐久寿命を延ばすように、書く事で構想が先走るのを休め、即興で狂った音程を調律し、迷子にならぬように里標を定める。


どうでもいい事だが、プロであれ、アマチュアのブロガーであれ、書いている事にはまったく賛同出来ないし、時として軽蔑すら抱かせる書き手が、馬車馬の如く文章を量産しているのを見ると、内容の是非はともかくとして畏敬の如き念を我輩に抱かせる。自分には到底出来ない事に対して、良くも悪くも驚異を覚える事を隠せないのである。だが、この種の心理が信じ難い犯罪行為等にも向けられる時、それを口にする事を憚るくらいの自制心は持ちたい。この種の誘惑は自発的意志に対する欺瞞でしかないのであるが、またそうであるが故にしばしば好んで自ら嵌まり込んでしまう。結局のところ、善悪は意志の問題ではなく、その行為においてのみ当て嵌まる。したがって、意志が自由であるか、否かはさして重要な事ではない。


●統治と自由


統治について色々考えている。毎日新聞をめぐる諸問題が、ネット界隈では喧しいようであるが、問題としてはまったく新しいものではなく、むしろ古典的命題に帰するように思われる。つまり、「何人も自らの裁判官足りえぬ」という契約論者たちの命題である。ロックの調停者としての国家にも言える事であるし、或は冷徹なホッブズの裁定者としての「リヴァイアサン」にも言える事であろう。皮肉な事に彼等は自由主義者であるが故に、諸個人の徳には期待しなかったのである。自己保存の本能を持つ個人が互いの所有権(property財産権と権利)を侵さぬための権力であり、奇異に聞こえるかもしれないが、権力はそうした自由(所有権)を“相互に配慮させる”事を強制させているのである。少なくともロックやホッブズらにとって「自由」は、古代ギリシア的な「自立」の意味(――この点、哲学は反政治的色彩が強かった。故に古代のローマ人たちはこの多くを拒絶したのである)ではなかったし、また今日の我々が抱く様な抽象的な(――であるが故にほとんど意味を成さない)「自由」とも異なり、結局のところ財産や所有権の類に帰する性格のものに思われる。


近代的共和主義者マキアヴェッリ(――彼はルネサンスが生んだ近代人であり、最大の政治的ヒューマニストである。彼は批判的にキケロなどの古典に向かったという点で、同時代の共和主義者と大きく異なる)も財の増加と自由を結びつけて論じている。I・バーリンは「自由」を積極的自由と消極的自由とに分けたが、自由主義者(契約論者)や近代共和主義者(マキアヴェッリ)らの「自由」を政治(思想)的自由、古代ギリシアの哲人やナザレのイエスといった人々が考えた自由は、良心や信仰の部類に入るものではなかろうか。良心への自由は、一方で倫理的な担保を求める事が出来ない。つまるところ、自由は原理足りうるのだろうかという疑念が生じる。


●国家、経済、民主主義


20世紀は不幸な時代と振り返られる事が多いが、少なくとも政治と経済との関係においては蜜月の時代であった。福祉国家とは要するに政治経済体制の事であったし、国民国家は国家と民主主義を固く結び付けていた。この点、マルクスレーニンは政治と経済との一体化への洞察が乏しく、彼等は19世紀を超える存在ではまったくありえない。むしろ、ヒトラースターリンこそが20世紀の政治思想においては重要な存在であり、“革命的存在”であったと言えよう(――我輩はレーニンこそが“反動”であったと考える。即ち19世紀的な自由主義に対する……マルクスにおいては果敢な挑戦であり、レーニンにおいては甚だ時代錯誤的な試み、繰り返される歴史とやらの二度目の喜劇として……)。今日、ファシズムに怯える人間は少ないが、マルクス(とその思想)が19世紀を超えるものではないように、良かれ悪しかれファシズムもまた20世紀を超えるものではありえない。グローバル化は国家を相対化し、国民経済を過去のものとし、そして、復権した自由主義者は政治と経済を分離し、福祉国家を破壊した。今日、圧倒的な印象を与えているのは“不在”の存在である。


資本主義の精神が私欲の肯定に過ぎない以上は、その精神は端的に言って反倫理である。資本主義は自由な個人の欲望を充足はしてくれるが、倫理的な希求に対しては何ら与えてくれない。だからこそ、勃興期から今日至るまで、反資本主義は絶えないのであり、奇異に聞こえるかもしれないがそれは倫理的な形をとってあらわれる。労働者の、国民の、信仰者の平等と楽園。ナショナリズムが最悪の形態をとるのはこうした反自由、反資本主義においてである。何故なら必然的に排外的に振舞わざるをえないからである。戦前の日本然り、ドイツ然り(――ナチス・ドイツというある意味では正しいが、結局のところそれは“意図された”断絶しか意味をなさないであろう。つまり、“われわれ”の内でしか通じない。それはかえって“われわれ”と“かれら”との間にある暗い淵を強調する事になろう)。こうした現実において「人権」は何ら意味をなさない。何故ならヒットラーとその使徒たちにとってユダヤ人は人間ではなかったからだ。「人間ではない」というマニフェストに対して、人権の宣言に一体如何なる意味がありうるだろうか。だからこそ、H・アーレントは「人権」の名のもとにプロテストしたのではなかった。彼女は「ユダヤ人」として、「ユダヤ人の権利」を高らかに主張し、そして、自らの権利を守るべく闘ったのである。


我々は権利の普遍性についてばかりを考えているが、それは所詮絵に描いた餅にもならないだろう。権利や原理の問題よりも、如何にして抗議はなされるべきかについて考えるべきではないだろうか。何故なら普遍的原理が共有されていないのであれば、必然的に原理や権利よりも闘争が先に現れる事は避け難いからである。少なくとも自由主義的な憲法(法)において重要な事は、闘争が如何になされるべきかについて書かれている事である。自由な社会において、ある考え方が斬新であるとか、優れているとか、劣っているとか、そうした判断の問題は二次的な問題に過ぎない。党派は避け難いのであり、党派そのものを否定し、無視したような制度は永きに亘って機能する事は難しい。党派性を一次的に捉えれば、必ずや正統と異端の問題を取り扱う羽目に陥る。然しながら、一方で、統治はなされなければならない。良心と倫理と、自由と統治との間には埋め難い溝が存在する。しかし、前者を否定すれば個人としての彼の死を、後者を否定すれば社会に生きる彼の死を意味する。元来対立しあうものを両立させねばならない。我々は揺らぎの中に生き、両者の間に空に何かを見出そうとしている。

言わずもがなのこと


舌禍というものがある。言わずもがなのことをもったいぶって書いた挙句、文章の下品さから蝿を寄せ集めてしまう。読まれて困ることを書く方が悪いのか、言わずもがなのことを重ねる愚か者どもが悪いのか。そうしたものを相対化すれば、客観的に物事を見ることができるという思い込みは一層性質が悪い。


世情騒がしいようであるが、人格が破綻した男の過去など振り返って、一体何になろうか。どうして動機などという曖昧なものを深刻に受け止めるのか。破綻した人格に一貫した悪意などありはしない。あるとすれば逃避だけだ。手に持つものだけが凶器なのではない。その身を凶器として投げ捨てる人間こそが真に危険なのだ。自らを尊く保たないものを慮ったところで何になろう。愚者の理由を見出し、意味付けることに何の意味があるというのだろう。


記憶と記録との距離が狭まっている。個人的な記憶を共有する道具を得たためである。多くの視聴者画像とやらが提供されているようで、そのことに対して批判する声も少なくない。なるほど、確かに品の良い行為ではない。しかしながら、我々はどこで線引きをすべきなのか。プロのカメラマンと素人のカメラを隔てる道理などあるのだろうか。さらに言えば、我々は語るべき、伝えるべき事柄というのは、一体、何を、どこまで指すのか。


何事も自制心というものが必要であるが、自制も行動も恣意的要素を免れえない。行為することも、しないことも、主観的判断には変わりない。行為に人格は付きまとう。しかし、制度に人格は必要なのだろうか。制度に人格を認めることは、制度内に恣意を認めるのに等しい。我々はあくまでも人間的なものとして制度を作るのか。それもまた一つの選択肢ではあろう。しかしながら、善意であれ悪意であれ、そのような恣意的要素に振り回される制度が、果たして良い制度と言えるのだろうか。行為から人格を剥奪しない限りにおいて、制度は非人間的であるべきではないだろうか。


理由や動機はあくまでも内在的、内発的なものであって、それ自体は他や全体と結びつくことが無い。行為のみが我と他を、個と全体を結びつける。良心はどこまで行っても良心に過ぎず、倫理はどこまで行っても良心にたどりつくことはない。元来両立せねば成り立たぬ性質のものを切り離し、倫理的に語るべきものを良心に、良心が語るべき問題を倫理に語らせる。しかし、全体を配慮しない良心がどうして道徳的足りえるだろう。個の良心を顧みない倫理がどうして人間的でありうるだろうか。人間は良くも悪くも人間なのである。人間が人間であることを忘れる。これほど傲慢な考えはありはしない。

秋葉原っていう街そのものが、色々な意味で単なる消費の場ではなくなっていて、そこが一種の”劇場”になっている。やっぱり、いま若者たちにとって文化の中心といえば秋葉原であり、社会に復讐するとしたら秋葉原で事件を起こすのがいい、とたぶん彼は考えたんでしょう。そう思います。


やっぱり、僕たちの社会の中に、こういう不満を持っている人たちが一杯いると。で、そういう不満を持っている人たちを、どうやって救っていくかということを考えるべきなのであって、秋葉原の治安を強化しても、たぶん問題の解決にはならない。自分がこの世界に居てもいいと思えなかった、そういう屈辱感を与える社会になっている。僕たちの社会は。で、そのことを、僕は、もっと真剣に考えた方がいいと思います


このようなことをNHKのニュースで哲学者と紹介された人が言っている。自暴自棄になった人間の行動に意味などない。神に定められた生を全うすることを拒絶して自殺した人間のことを“自由な”人間というようなものだ。劇場などというようなものでどうしてありえるだろうか。彼だけの劇場に何の意味が我々にあろう。我々がそれに付き合う道理がどこにあろう。ただ自らが知っている一番賑やかな場所、対象を見つけやすい歩行者天国、あるのはそういう“条件”と“状況”だけだ。死者の存在と殺人を同一視してはならぬ。不条理と愚行とを一緒くたにしてはならぬのだ。


神仏を信じぬ時代にあって、世界は存在する場所などではない。意識が放り出される場に過ぎない。劇場などというものがあるとするならば、それは世界そのものであろう。我々はそれを自ら設える訳にはいかない、ただ演じるだけだ。意識する彼は世界と一体化しえないのである。どうして救いなどというものがありえよう。救いは神の仕事だ。社会も哲学も救いを与えるような性質では断じてない。そういう真似事はそれをする人間にとって居心地の良い場所を与えるだけの意味しかあるまい。

見聞読考


見る、聞く、読む、考える。そして、徒然なるままに筆を走らす。


●民主と専制


「司法とは、具体的な争訟について、法を適用し、宣言することにより、これを裁定する国家作用」と定義されている。法学入門書ぐらいしか読んだことのない素人の我輩でもウィキペディアから引いてくる以前に、聞いたことくらいはある定義である。本館で契約説について書くために色々読み直していると、少なくともロックからカントに至るまでは、立法権と行政権が一体化しているものを専制と呼ぶことでほぼ一致している。ロックの権力分立論において司法はどちらに入るかはっきりしない面があるのだが、これは我輩の読んだ感じでの話でしかないが、法の執行という意味で行政権と司法権を区別する必要を感じなかっただけの話なのではないか。


ウィキペディアの行政の定義などを見ても、かなり消極的な、立法的作用と司法的作用を除いたものとあるのだが、実際には拡大する行政権から、職能的に限られているが故に次第に独立していったと見るのが妥当ではなかろうか(――そもそもロック自体の国家観が、諸個人が契約した諸共同体の紛争を調停するものであって、行政権が肥大化する以前の社会において、司法の占める位置というものは大きかった。それは日本の町奉行などにも言えることだろう)。


つまり、ロック系統の権力分立論というのは、「命令(執行)」と「法律(立法)」の分離を“厳格に”行ったものであり、これらにいわゆる民主的統制というものはそもそも必要とされるのであろうか。仮に立法が優先されるのであれば、もとよりそのようなものは必要としないだろう。少なくとも制度としてのデモクラシーにおいて、我輩は自治的要素のみを強調する。即ち、自らを治むる法を作るにあたっては、万人がそれに参加する権限を有すると。つまり、双方向性のない法は命令に過ぎず、(少なくともデモクラシーの国においては)法の名に値しない。


憲法とデモクラシーの関係もややこしいが、もっとややこしいのが「主権」という概念の存在である。立憲主義以上に、この「主権」なる王権の残滓は、デモクラシーと相性が悪い。対外的な意味はともかく、「主権」などというものが果たして必要なのであろうか。我輩はこの概念に王権神授説的いかがわしさ、胡散臭さを覚える。


ブログ界


何事も揉め事というのは付き物だが、ブログの揉め事を巡って、何やら騒がしいようである。道徳(原理)と技術的な話(システム)は分けて考えるべきだと思うが、その点、今回のコメント承認制をめぐる論説はあまり説得的ではないように思う。人気のあるブログは外野として眺められる部分だけでも、いわれのない言い掛かりや罵倒を受けているのが分かるのだが、それでも道徳的に物事を語る際には慎重にならねばならない。批判と品位を保つことは両立が難しく、また、他人の批判に対して応えるのもまた難しい。我々はよく真意だとか、動機などというものを重要だと考えるのだが、そういう考え方は本質主義の泥沼に嵌る。行為において「人格」が要請されるのは、自らに返る時、つまりは責任においてのみ可能であろう。動機は行為の誘発性、即ち未成の時点、可能性の段階においてのみ有意義でありえる。動機は契機的なものではありえても、想起的なものではありえない。


「人間は独りで部屋に居続けることが出来ない悲惨な動物だ」という風なことをのたまったのは、パスカルだったか、それともモンテーニュだったか。ブッタ式に「犀の角のように独り歩め」だと、ブログ云々以前に社会的営為が不可能になる。純粋な個人というものは存在しないし、同様に純粋な集団意識というものもまた存在しない。にもかかわらず、我々はそれを両立させねばならないのだが、土台そのような試みはもとより不可能なのであろう。要するに、個人も、集団意識も現実として存在しない。それらはあるべきものとして、継起を促す理想としてのみ存する。自己意識は「自己」を客体化し、対象としてのみ把握する。意識においては「自己」も「他者」の範疇におさまる。

「ユダヤ」と「人種」


「イスラエルで『建国根拠なし』本、ベストセラーに」


なにやらブクマで話題になっているようなのだが、今更何を騒いでいるのだろうというような話である。この程度のことならベストセラーになった田川建三先生の『書物としての新約聖書』に書いてあることだ。


この種の問題は、「ユダヤ人」の改宗ハザール人説起源云々以前に、「ディアスポラ」に対する誤解からきているのではないかと思われる。「ディアスポラ」は「離散した」だけでなく、「離散している」、つまり、イスラエルを離れて海外居住しているユダヤ人を指す場合もあり、ローマ帝国によってエルサレムから追放される以前に、多くのユダヤ人が交易商人として帝国各地に「離散していた」。


当時の商人コミュニティの二大勢力となっていたのが、海洋民族ギリシア人と信仰を媒介としたユダヤ人のコミュニティである。前者がいわゆるヘレネスバルバロイという差別的な人種観によって閉鎖されたコミュニティであったのに対し、ユダヤ人とは信仰の問題であって、少なからぬ非ギリシアローマ帝国居住民族がコミュニティへの参加のために改宗しており、その数は出生による自然増加数より多かった時期すらあるようだ。


実はキリスト以後も、しばらくの間、改宗人口が多かったのはユダヤ教なのである(と言うより、初期キリスト教ディアスポラユダヤ教コミュニティを媒介として勢力を拡大させていったと見た方が自然であろう)。旺盛に拡大し、しかも交易という点で利害が重なるギリシア系コミュニティとユダヤ系コミュニティは帝国内で対立し、殊に有名なのがアレクサンドリアでのギリシア系住民によるユダヤ系住民の虐殺である。キリスト教においてトルコからローマに至る北伝が中心になっているのも、この事件の影響があるのではないかと我輩は考えている。


人種や民族という概念は曖昧な部分も多くて、血と土地をベースにはしているものの、厳格に区別されているわけではない。件の記事にあるパレスチナ人が古代ユダヤ人の子孫というのは、要するにエルサレム郊外の土着のユダヤ人(特に農民)が、時代を経て、イスラム化し、アラブ化していったという程度の意味に過ぎない(したがって、パレスチナ人に対してあいつらだって外から来たという批判は妥当ではない)。昨今、ギリシアが隣のマケドニアに対して、マケドニアギリシアの一地方の名前であるから、国名を変更せよ、といちゃもんをつけているが、混血を重ねスラブ化したギリシア人と古代ギリシア人は、イコールで結び付けられるようなものでは到底ない。同様に血をベースにした民族観では、古代ユダヤ人と現代ユダヤ人、パレスチナ人は結び付けて考えることができない。大体、あれほど民族を称揚したドイツ人とて、彼らが戴いた偉大なオーストリア生れのチョビヒゲ総統殿は、金髪でも碧眼でも、長身でもなかったではないか。


植民地解放後の我々は、良くも悪くも「民族自決」という概念に批判的に向かい合わない。チベット独立?よろしい、では、ズデーテンや東プロイセンにドイツ人は帰還すべきであろうか?東シベリアに散って行った自称ルーシの子孫たちは、土地をアジア人に返すべきであろうか?難問ばかりである。ある種の純粋性への志向がかえって混乱を招き、同質性を求めることがかえって人々をバラバラにするように思えてならない。イスラエル建国は道理に反するものであったとしても、もはやそれは時効のように思われる。問題はむしろ現在イスラエルが布いている圧制の方にあろう。かつてゲットーの厚い壁に阻まれた人々が、今や壁を囲む側に立っている。これは歴史の皮肉などというよりも、むしろ現実の困難さそのものであろう。道徳には根拠が必要である。しかしながら、神は論外とされ、世俗的発想は拒絶される。それではこういう非常時において、我々はどこにその根拠を求めるべきであろうか。

走り書き


今日中にあげられそうにないので、とりあえず書いたところまであげておくことにした。後日消す予定なのでコメント等は控えて欲しいが、消されてもよいならご随意に。三分割くらいにしようかと考えているが、どうなるかは分からない。とりあえずあげておけば、本館みたいに二週間もほったらかしみたいな事態にはなるまい。契約説につい色々自分なりにまとめていたのだが、思っていたより難物で、仕方が無いから色々関係なさそうなことまで、あとでネタになるだろうと覚書として残している。デモクラシーについて色々調べたり考えたりしていると、たまたまシャンタル・ムフのインタビューをネット上で見かけて、それから以前読んだブログを思い出して読み返すと、アゴニスティック・デモクラシーに対して間違った理解をしているので、これにもツッコミを入れておきたいなどと取り留めなく。そう言えば、カール・シュミットの『パルチザンの理論』(ちくま学芸文庫)が復刊されていたが、思ったより評判にはなっていないようだ。これと絡めて一本書けたら面白そうだなあ。ただ、直観的なものとして、あるいは現時点での読みとして、ムフのそれは熟議的デモクラシーのバリエーションの違いに過ぎないんじゃないか、或いは友‐敵論の批判的継承にはなっているけれども、克服にはなっていないような気がする。ハーバーマス批判にもなっているけど、基本ベースは「戦う民主主義」と憲法愛国主義だよなあとか、面白い割に笊な気がしてならない。ホッブズとシュミットの亡霊未だ祓えず。


我輩は国家理性というものを復権させたいと考えているし、慎重さは要するものの、ハイエクが「設計主義的〜」と批判するような制度設計についても、是とする考え方をしている。「自生的秩序」という理論についても、文化や経済については当てはまる面が多いかもしれないが、固定化しないと制度として機能しないのではないかという疑義がある。さらに慣習は固定化されてきた諸制度の積み重ねであって、我々にはそれが自生的であったかどうか分からない。問題は我々にそれが“先行”しているということである。自然法にしても、「法は発見されるもの」として看做すコモン・ローにしても、「発見されたもの」は議会の制定法なり、判例法なりの“実定法”としてしか明示されえない以上、そのようなものの実在性というのは大変疑わしい。この種の観念は契約説と同じく主体たる神を要請する羽目になるのではないか。


アメリカが憲法によって作られ、営まれている国だということに異論はない。合衆国憲法は連合規約から飛躍した存在としてある。しかし、問題なのは、立法にせよ、司法にせよ、行政にせよ、そこで主体となっているのは憲法上には存在しない、「政党」という非制度的主体なのであって、そうしたものに関しては「自生的な秩序」として看做す方がむしろ納得のいくものなのではないか。我輩が「天皇制」という言葉をあまり用いないのは、そこに非制度的要素を認めるからである(が、我輩自身は機関説的である)。つまり、制度として見る時には、それは単なる君主制の一つでしかない。そして、明治憲法は非制度的主体として機能しえた天皇を“制度化”することによって、天皇親政を否定したのである。


アメリカについて


アメリカの建国者たちは実業家であり、政治家であり、教養人でもあった。E・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』(1776〜88)を待たずとも、古典時代について相当の知識を有していたと考えてよいだろう。当初はイギリス臣民の自由の回復を求めて戦った彼らにとって、一から新しく共和政体を形成することが如何に困難な事業であったか想像に難くない。ヴェネチアにせよ、オランダにせよ、同時代の共和政体と呼ばれていた国々は彼らにとって模範足り得なかった。だからこそ、彼らに古典時代へ眼を向けさせることになる。しかし、そこにあったのもまた失敗例であった。共和制ローマは独裁に墜ち、民主制アテナイも扇動の内に堕落した。建国者の内、特にジョン・アダムズなどは、明確に今日我々がデモクラシーとよぶものに対して警戒している。


しかしながら、王制も、貴族制も、建国の父たちには論外であった。そこで彼らが発明したのが連邦制であり、抑制均衡の理論であった。そして、これらを強調するのが自由主義者であり、これに対する修正的な見解として、マキアヴェッリ、ハリントンら16,7世紀イギリス共和主義者、モンテスキューの影響を見る共和主義的な見方が存する。後者の見方にのっとれば、アリストテレス以来の混合政体論という実に前近代的な要素を見出すことができよう。すなわち大統領(独)―元老院(少)―庶民院(多)であるが、これもまた権力分立、抑制均衡の内に理解することもできるかもしれない。


ただ、初期のアメリカにおいて混合政体論(マキアヴェッリも実は混合政体論である)の影響など、古典的政治思想の要素が多いのもまた事実である。ただし、古典的な共和主義に政党(党派)は存在しないか、悪しきものでしかなかった。だからこそ、この新旧のあいまった時代において、決闘などというものが流行っている。ウィキペディアの「連邦党」の項目で、初代大統領・ジョージ・ワシントンの「我々には政党はいらない。なぜなら、我々は全て共和主義者(フェデラリスト)だからだ」という発言を引いて、フェデラリスト一党優位体制を説明しているのであるが、これは間違いである。一個の独立した人格として行動するという共和主義精神を体現した理想主義者のワシントンには、党派というものが現に形成され、それが良かれ悪しかれ実際に機能しているという現実が見えなかったのである。彼にフェデラリストとの一員として、あるいは党主としての自覚など存在しなかった。それでも上手くいったのは、彼の人格的な面、何より独立戦争の英雄としての側面が合わさった幸運に過ぎない。


しかしながら、その幸運は長続きしなかった。次代のジョン・アダムズの時代に党派抗争は激化した。なお、悪いことに両党派が対外政策の違いに結びつき、外国からの干渉を受けかねない情勢となっていた。ワシントンの「訣別の辞」に表れている孤立主義というのは、単なる理想主義ではなく、人口数百万に過ぎない“農業国”アメリカが、ヨーロッパ情勢に巻き込まれることを憂慮したリアリスティックな判断でもあった。ワシントンを継いだ第二代大統領ジョン・アダムズは、ジェファソンの影に隠れるか、あるいは悪名高い「外人法」及び「治安法」のイメージもあいまってかあまり評判がよくない。我輩自身『研究生活の覚書』の諸エントリを読むまで、A・ハミルトンを間接的に死に追いやった狭量な人というイメージが強かったのだが、どうやら中々の辣腕政治家だったらしい。「ジェファソンはアダムズに勝つべきだったのか」を読むと、ワシントンが「ジェイ条約」によって対英和平実現し、切り返す刀でアダムズが対仏和平を実現させ、体外的緊張を解決した(≒孤立主義を可能にした)ことがわかる。このせいで、親英派フェデラリスツは瓦解し、ハミルトンの死の遠因となり、ひいてはアダムズ自身の再選をも阻むことになってしまったのだが、この過程を見るに、アダムズはワシントンの忠実な後継者であったというのが、妥当な評価であるように思われる。彼もまた政党政治以前の政治家だったのである。


●民主制と共和制


政治制度としての民主制と共和制の違いはどこにあるのだろうか。カントによれば立法権と行政権の区別にある。日本の穂積八束は美濃部の機関説によって斥けられた保守反動のイデオローグ的な理解をされているのだが、実際には正しい面もあるのではないか。


●民会→代議制→政党性


少々進化論的発想かもしれないが、民会への参加(Present)から議会への代議(Represent)へ、代議から政党政治へ。マニフェストに対する嫌悪感。議会外の政策決定の是非。


●デモクラシーとは何であろうか


デモクラシーとはそもそも何であろうか。オルテガのようにそれは選挙制のことであり、「選挙さえ上手くいけば全てが上手くいく」、そういう政治制度的なものとしてデモクラシーを理解する見方がある。一方で、ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で示した、社会状態としてのデモクラシーという見方も、あながち見当違いではないように思われる。たとえば、デモクラシーを支える諸原理を踏み躙ったナチスヒトラー政権は、皮肉なことにワイマール共和国末期において唯一議会に基礎を置いた政権であった(――それ以前に四代にわたって超然内閣が成立した)。公正な選挙が行われるということが、途上国ではなお難しい現状にあって、オルテガの言は確かに説得力があるのだが、やはりそれだけではないのだろう。今日の逆説的なナチ神話(――つまり、その思想性に対して過剰な意味を読みとってしまうこと)にあって、直のこと強調すべきであるように思われるのは、ナチスが最盛期に議会の第一党を確かに占めたのではあるが、それでも過半数には及ばなかったという事実である。思うに、熱狂と同程度に無関心もまた、政治やデモクラシーを腐敗させるのではないだろうか。統治者と被治者の双方に無責任を教え込むという点では、ほとんど大差がないからだ。権力というものは“真空”に対して走性を持っている。権力そのものが問題なのではない。権力が統御しえなくなることが問題なのである。同様に腐敗もそのものではなく、それを抑制しきれなくなったときに真の問題となって現れる。