のんびりしてたらすっかり日付がずれてしまった。よ。

bunq2005-08-26

あれこれ考えてみた結果、これまでの記述については一気に削除することにしました。とはいえせっかく参加させていただいたクラブ等については、「たのしい企画をありがと!」といった感謝の気持ちはもちろん、「自分で立ち上げたものだってあるじゃん?」とゆーそれなりの責任を感じていることもあり「ちゃんと(リンク先の)着地点であり続けたい、あるべきではないか」とも思っています。思いました。

また、「調べもの」もしくは調べもの要素の強い「書き抜き」カテゴリについても、自分と同じような「調べもの好きさん」に向けて残しておこう。と思っています。思いました。リンク元をざっと見た感じで判断するに、それなりに人様のお役に立っているようだったからです。

とはいえ、そもそも「書き抜き」については「もしかして著作権がうんたら的にまずいのかも?」と不安を感じていたこともあり、「調べものとして扱ってもよいよね?」と判断したもの以外はほぼ消してあります。

「映画など」については、いつか本家のほうに移すかも、そうできればよいな、といったところです。

また、最後になりますが、いただいたコメントも(記述内容の削除に準じて)ほぼすべて消させていただきました。細かく判断すれば「別に消さずとも」といった内容のものももっと多くあったのでしょうが、その線引きはあまりに難しく、ぶっちゃけ「無理!」でした。どうもすみません&今までどうもありがとうございました。

bunq2005-02-03


長崎の知人(最近になってわかってきたことなのだが、どうやら親戚ではないようだ)から送られてきた大量の真珠貝を下処理してちょっとずつ冷凍したり佃煮にしてみたり。といった作業に没頭していた時に気になったのだが、そもそも真珠貝というのは食べても平気なものなのだろうか?  とゆーことでザッと調べてみたところ、この真珠の雑学というページにこんなことが記されていた。

(1)食用になる真珠貝


 貝柱・・・・真珠養殖に従事する人や近辺の住人の冬の味覚。 真珠漬。
 身全部を食するのは、 大村湾を中心とした地域の住民だけ。

…確かに送り主は大村湾そばの住民だものなぁ、と納得。そして続く以下の記述にウキウキ。

・エピソード1 [シーボルトも真珠を食べた!]


 驚くことに、シーボルトも大村で真珠を食べている。その時の模様を「江戸参府紀行」に次のように記している。
 「藩侯の真珠採取場の一監視人はデザートに新鮮な貝の皿を出してわれわれをびっくりさせた。われわれはそれを生で食べたり焼いて食べたりしたが、 おいしいことがわかった。ビュルガー君は、 食べた時キビ粒大の真珠をかんで痛い目にあったが、真珠を得たのは仕合わせだった。」

シーボルト先生だ!オランダとつながった!なんだかいきなりこの小憎らしい貝(だって量が多すぎて全部のぬめりをとるだけで1時間以上もかかったんだぜ。みたいな)が、愛おしく思えてきた。よ。ありがとう、ありがとう。電話で聞いたはずなのに名をすっかり忘れてしまったという謎の白身魚についても、今度ちゃんと調べてみようと思います。よ。

bunq2005-01-31


検索してみたらロシア菓子の専門店がけっこう近所にあったので、URLを記しておこうと思う。てゆーか、今度ぜひ様子を見に行こう。と思う。ここならロシアクッキーもありそうな気がするし、ロシアクッキーというものの特徴も教えてもらえるかもしれない。あと、関西圏育ちの方で「パルナス」という菓子屋チェーンをご存じで、かつ、そこでロシアクッキーを扱っていたかどうかの記憶がある方がいらっしゃるなら、そのロシアクッキーはどのようなものだったのか、ということをぜひぜひ教えてほしい。です。よ。

ロシア菓子 ヴォルガ屋
http://www.manta.co.jp/home/volga/index.htm

追記:

さらに調べてみてようやくわかった。ロシアクッキーはロシアクッキーというよりもロシアケーキと呼ばれることの方が多いようだ。てゆーか、由来から考えるにそっちの方がより正確なのかもしれない。とゆーわけでロシアケーキで検索してみたところ、(たいていは箱詰め等のセット売りだが)まだまだ取り扱っている店もある、ということがわかった。 ちなみにロシアケーキの由来説明は以下のページ(池袋にあるロシア雑貨屋「マリンカ」のページ内にあるコーナー)にあった。きっと他にも説はあるのだろうが。

日本の中の小さなロシア
http://homepage1.nifty.com/comari/colum.html

上記のページによると
…早速亀屋万年堂さんに電話で問い合わせたのでした。「昔ロシアにこのような焼き菓子があって、それを日本風にアレンジした・・・らしいです。」という明解な!?答えが戻ってきました。

これはロシアをよく知る友人に聞いたのですが、確かに「ペチェーニエ」と言う真ん中にくぼみがあるクッキーがあって、それに家でジャムや蜂蜜などを塗って食べていたそうです。おそらくこの「ロシアケーキ」もそれをお手本にして日本風アレンジを加えたのではないでしょうか・・・
とのことだ。

なお、こちらの個人ページにもロシアケーキについての説明が画像付きであった。新潟にあるロシア菓子の専門店マツヤのサイトでは、店で扱っているロシアケーキの一つ一つを丁寧に紹介していた。ながめているといかにもゴツゴツしていて、なかなか楽しい気持ちになった。いつかまた新潟を訪れる機会があればぜひこちらに立ち寄りたいと思うので、そのためにもURLを記しておこう。と思う。

ロシアチョコレートの店マツヤ
http://www.choco-matsuya.com/index.html

bunq2005-01-29


駅の近くで夫と昼食。家でもこの容器で作って食べられればきっと嬉しいけど、わざわざ買うとなるとちょっとね…。などと話しつつ、ペタペタとしゃもじを動かす。これっていかにも日なたの味だよな、などと思いながら箸を口に運び「釜飯用のあのおままごとのようなセットなら家族全員分あるよ。我が家ではしょっちゅう使ってるよ」なんて人といつか出会ったら、私はきっとその人を好きになるだろうな。なんてこともふと思う。釜飯屋っていつ行っても若者率が異常に低いというかそれなりの年齢を重ねた人がやたら多いというか、極めて個人的な感傷としても老いてからの父親が好きだったよなぁというイメージが強かったりもするのだが、独特のテンションの低さとのんびり具合がなんともたまらないよな。と、どうにも愛おしく思えるときがある。てゆーか、そもそも炊き込みご飯との明確な違いって何なのだろうか。

…ということで調べてみたら、以下のようなことであるらしい。

きっかけは、実は関東大震災なのだという。大正12年9月1日、午前11時58分。関東一帯をマグニチュード7.9の地震が襲った。死者9万1000人。行方不明1万3000人。被害世帯は69万にも及んだ。浅草の被害も甚大で、上野の山には多くの被災者が避難していた。この時、焼け残った釜とあり合せの米や野菜を利用して、炊き出しが行なわれた。家財を一瞬で失った人々にとって、その炊き出しの味は空腹と傷心を満たす、細やかだが確かな希望だったことは想像に難しくない。それをヒントに釜飯を考案したのが、震災前には定食屋を営んでいた、初代女将の矢野テルだった。

斬新だったのは、一人前分ごとに小さな釜で提供するスタイルを確立したことだ。このアイデアで非常食生れの庶民的な炊き出しは、手軽だが洒落た一品へと生まれ変わった。こうして小さな釜を利用した炊き込みご飯=釜飯は、浅草から全国へと広まっていったのである。


釜飯物語より

そうだったのか。と、ちょっと複雑な気持ちにもなった。ともあれ近所なわけだしいつか行ってみよう。とも思った。そしてそのときは、これはたくさんの悲しみがあった後に、そのときの体験をもとに考案されたものなのだ、ということを忘れずに食べよう。と思った。子どもの頃のママレンジシリーズなどを思い出すよね、おままごとみたいで楽しいよね、といったことだけではなく。

bunq2005-01-11

「風景」


いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ


いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな


いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな


山村暮鳥


父への花を求めた際、花屋さんから菜の花は好きかと問われた。もちろん大好きだ、食べたっておいしいし。と応えると、笑いながら1本おまけで入れてくれた。家に向かって歩きつつ、頭の中でずっと「いちめんのなのはな」という言葉をくり返していた。「いちめんのなのはないちめんのなのはないちめんのなのはな暮鳥の名字はなんだったっけ?いちめんのなのはな」「いちめんのなのはないちめんのなのはないちめんのなのはなところでこの詩のタイトルは何だったっけ?いちめんのなのはな」。家に帰って検索をかけて、ようやく気持ちが落ち着いた。インターネットというのは、本当に便利なありがたいものだなぁ。

bunq2004-12-31


今年はなんのかんのあったのと、美術館博物館熱がいつもより少し高かったのとであまり映画を見に行かなかった。見に行ったとしても旧作の方が多かった*1。家を出られない日が多かったのとエノケン熱が続いているのとで、劇場に足を運ばずビデオやDVDばかり見ていたから、というのもあるかもしれない。ともあれ自己内(自己愛とも言う)イヴェントとして定着させたくもあるので、去年ひそかに存在していたクラブ名を勝手にしらっと引き継いだまま「2004年に発表されたなかで忘れられない映画」を、やはり勝手に記しておこうと思う。



1、ベルヴィル・ランデブー(仏=ベルギー=カナダ=英)シルヴァン・ショメ
これを見なかったら「アニメーションの歴史」等にまでは興味を持たなかったと思う。新たに「ひどく興味深きもの」を得たというシアワセ。誘ってくれたKさんにはとっても感謝している。よ。

2、クリビアにおまかせ!(オランダ)ピーター・クラマー
実際に見たのは2003 年の暮れだったのだが、いま思えば「2004年の大オランダブーム(自己内)」の豪華な前ふりだったのかも。とも。Yよ、本当にどうもありがとう。

3、カーサ・エスペランサ 赤ちゃんたちの家(米=メキシコ)ジョン・セイルズ
セイルズには(この作品の興行が失敗ぎみだったことなどは気にせずに)今後もどうにかがんばってほしい。と切に思う。なんて言いつつ私もすっかり見逃すところだったので、おKちゃん、教えてくれてありがとね。

4、下妻物語(日)中島哲也
個性の異なる人物同士が出会ったところで、極端に感化されあうということなんてないよ。そもそもそんな必要もないよ。でもとっても仲良くはなれるよ。なぜなら女だから、ね。乙女だから、ね。みたいな。

5、ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還(米=ニュージーランドピーター・ジャクソン
最後までよく頑張りました。と思う。作り手に対しても、そして一緒に旅をし続けてきた<私たち>に対しても。毎年チケットを送ってくれたOへの感謝も、きっと忘れずにいようと思う。


以下は更にの自己満足。今年初めて見た旧作もの。作品本体のみでと言うよりも「見た場所など」に対する思い入れがプラスされていたりする作品もあるので、それも忘れないよう記しておきたい。


1、極楽第一座 アチャラカ誕生(1956/日)@浅草ゴロゴロ会館
2、死ぬまでにしたい10のこと(2003/カナダ=スペイン)@新宿東映パラス3
3、ブギーナイツ(1997/米)@早稲田松竹
4、ジョゼと虎と魚たち(2003/日)@飯田橋ギンレイホール
5、三月のライオン(1991/日)@中野武蔵野ホール


ビデオやDVDなど。エノケンものを度外視すれば、再見を含め、妙に80年代の作品にはまった気がする。


1、ポリス・ストーリー 香港国際警察(1985/香港)ジャッキー・チェン
2、男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け(1976/日) 山田洋次
3、アイスクリーム・コネクション(1984/英)ビル・フォーサイス
4、ロミュアルドとジュリエット(1989/仏)コリーヌ・セロー 
5、フェーム(1980/米)アラン・パーカー


んでもって、「印象深かったなぁ」な美術展など。これに関しては完全に順不同。かつ『アラビアンナイト大博覧会』『モリーさんの世界へようこそ!展』は特別枠。

*1:メモを見てみたら新作は31本、旧作は36本だった。

*2:まだ半分までしか見てないけど!

bunq2004-12-12


ここ何年か、上野動物園にぶらりと立ち寄ることがあってもいつも東園だけ(てゆーか慰霊碑とパンダとゴリラとトラのみ)で帰ってきてしまっていたので、今回は久々にイソップ橋を渡ってみることにする。道中にいる象たちを目にしたときは、エノケンの『「動物園物語」より 象』を思いだし妙に感慨深くなる。思えばニホンザルたちやヒヒ類たちをのんびりながめたのも、久しぶりだったのかもしれない。のんきそうなラマの愛くるしさになごんだり、それはそれは美しいフラミンゴたちにうっとりしたり、いっせいにガツガツとキャベツの玉をつっつきだすエミューたちに(筒井康隆のダチョウを思いだし)ぞっとしたり。せかせかと動き回るサイと、その様子を柵越しにながめているキリンたちという構図も実におかしかった。コビトカバがあれほど人気者だということも知らなかったし、ペンギンはあいかわらず抜群のアイドル性を誇っていた。園内のあちこちで芳香を漂わす濃い赤紫と白のストックも、思わず立ち止まってはくんくんとかがみ込んでしまうほど嬉しかった。でも何よりも心を動かされたのは、オランウータンの「モリーさん」に関することだった。彼女はゴリラの森に隣接したところ(今は確かクモザルがいるような)にいたこともあったが長いこと見かけなかったので、チンプとともに多摩に移されたのだろうと勝手に思いこんでいた。ところがそれは間違いで、彼女はまだ上野で暮らしていて、かつ、いつのまにか画伯にまでなっていた。モノレール脇のズーポケットで催されていた『モリーさんの世界へようこそ!』展の入口には、こう書かれてあった。

モリーさんの絵画展によせて

上野動物園長 小宮 輝之


 オランウータンのモリーさんは上野動物園でも一、二を争う長寿動物で、今年52歳になります。モリーさんは3歳のときに上野にやって来て、もう49年も上野で暮らしています。戦後はじめて日本の動物園で飼われたオランウータンであり、上野動物園ではじめて長期飼育に成功したオランウータンでもあるのです。モリーさんは翌年やって来たタローとつがいになり、昭和36年に初子を産み、日本ではじめてのお母さんオランウータンになったのです。モリーさんは日本の動物園のオランウータン史を塗り変えてきた輝かしい存在なのです。
 すでにタローも初子も亡くなり、モリーさんは一人ぼっちの余生をおくっています。こんなモリーさんに少しでも豊かな老後をおくってもらおうと、いろいろな遊び道具を考えてきました。ある日、飼育係の深谷さんはモリーさんに画用紙とクレヨンを渡しました。深谷さんが絵を描いてみせると、モリーさんも見様見真似で絵を描くようになりました。モリーさんの創作意欲はますます旺盛で、今モリーさんを世話している土屋さんと廣瀬さんは、今日はどんな作品を渡されるのかと、楽しみな毎日です。


平成16年10月8日

ちなみにモリーさんの左目はほとんど見えないそうで、右目も指でまぶたを押し上げないことにはものを見ることができないらしい。また、子どもは「初子」以外にも、「さぶ」、「敬太」、「つくも」と他に3頭いるとあった。彼女の作品や描いている様子を撮影したビデオ、彼女のお気に入りの日用品などとともに、来園当時の幼き日の写真パネルやズーストック計画に関する説明なども飾られていて、なかなか充実した展示となっていた。

絵を描きだしたきっかけ等については以下のような説明書きもあったが、帰宅してから見たこちらの方がより詳しかった。また、肝心の作品そのものに関しては、たとえばタイで活躍する象などと比べるとちょっと稚拙に見えなくもないが、「人間の手は加わっていません」といった雰囲気は濃厚でそれは素晴らしいことだと思った。作品ごとにつけられたタイトルや解説*1も凝っていて(まー、これは人間による後付けでしかないわけだが)、なかなか洒落ごころがあってたのしかった。

モリー画伯誕生!!


 類人猿は人間が想像するより遙かに高い知能を持っていると言われています。道具を使うチンパンジーや簡単な言語を理解するゴリラが紹介される例がありますが、それはオランウータンにもあてはまります。
 ここ上野動物園のオランウータン「モリーさん」も「知恵者」と言ってもいいかもしれません。すでに半生記近くを動物園で暮らし、その間に何人もの飼育担当者から数々の「技(業)」を盗んできたようです。それは、タオルや雑巾を水に浸して絞ったり、顔や手足、果ては床まで拭いたりする仕草から想像することができます。新聞や雑誌を見るそぶりなどは、きっと休憩中の「相棒」を横目で見ていたのでしょう。
 そんな「モリーさん」の行動をヒントに、2年前、飼育係が絵を描く姿を見せてみました。そして、紙と赤い色鉛筆を渡してみました。すると、3日目には色鉛筆を取り、4日目には紙に描き始めました。「モリー画伯誕生」の瞬間です。
 現在の画材は、食べても無害な子ども用クレヨンです。5,6色渡すとそのときの気分で色を選びます。初めのうちは力強いタッチが多かったのですが、最近は繊細な筆使いになってきました。
 いよいよ芸術の秋、「モリーさん」の創作意欲もかき立てられるでしょうか。
 ただしなにぶんにも高齢、現在は気ままな余生を「なすがまま」にしています。アトリエの「モリーさん」会えなくても彼女に免じて許してくださいね。

とゆーわけでこれらの展示だけでも十分に満足できたのだが、中でも涙がでそうになったのは以下の手紙を拡大したパネルだった。客からの「なぜモリーさんだけがズーストック計画から外され、あのような狭い檻に一人でいるのか?」という質問への回答なのだが、満足げに絵を描くモリーさんの映像やその作品群を見た直後だったということもあり、たまらなくしんみりとした気持ちになった。

前略
 
 貴重なご意見をお寄せいただき、誠にありがとうございます。
 なぜ、このオランウータンは1頭で、しかも狭い檻に入れられているのかというご質問ですが、その前にこの「モリーさん」について少し説明する必要があると思います。
 モリーさんは1952年にインドネシアで生まれ、1955年11月に上野動物園に来ました。その後、これまでに4頭の子宝に恵まれました。本来なら東京都が推進する「ズーストック計画」に基づいて、オランウータンの飼育担当園である多摩動物公園に移動することを考えなければいけないのですが、なにぶんにも、人間でいえば70歳(注:1982年当時)を越える高齢であり、到底子供を生める年齢ではありません。また、他のオランウータンのいる新しい環境や輸送に伴うストレスも高齢のモリーさんには計り知れない負担となります。
 私たちはいろいろと悩み、検討した結果、モリーさんだけは上野動物園に残ってもらうことにしました。モリーさんは一時、多くのゴリラがいる新しいゴリラ舎の一角に住んだこともあるのですが、野生では密林で単独で暮らしているオランウータンにとっては肉体的、精神的な負担を与える結果となってしまいました。
 私たちは再度、モリーさんにとってどのような環境が望ましいのか検討した結果、狭いけれども落ち着いて暮らせる現在の場所が良いだろうとの結論に達し、1996年に引っ越してきました。私たち飼育担当の職員が最大限にモリーさんのケアにあたることが前提ですが・・・
 ここに住まいを移して年月も経過しましたが、幸いにも病気らしい病気もせずに元気に暮らしています。確かに現在の場所は、他の新しい施設とは比べものにならないほど狭いところです。
けれども大切なのは、どれだけ立派なところに住んでいるかではなく、そこに生活している動物がどれだけ幸せかということではないかと思います。
 現在のモリーさんは、他のどこで暮らすよりも幸せであると私は確信しています。冬の間はさすがに寒さがこたえるようで室内にいることが多いのですが、その(ママ)以外の季節には外にいる時間も多いようです。
 モリーさんを見かけましたら「モリーさん」と声をかけて励ましてください。機嫌の良いときはムックリと起きて近くに寄ってくるかもしれません。
 モリーさんが1年でもいや1日でも長く生きてくれるよう精一杯努力するつもりです。
 長々と手紙を書いてしまいましたが、私たちとモリーさんの立場をご理解いただけたでしょうか。
 どうぞ、かわいそうという目ではなく、温かい目でこれからもモリーさんを見守っていてください。


1998年5月3日

上野動物園 飼育課西園飼育係 飼育担当


結局モリーさんそのものには(あまりの寒さゆえ引きこもっていたようで)お目にかかれはしなかったわけだが、正直それはたいして残念なこととは思えなかった。飼育係の気持ちがすっかり乗りうつってきてしまっていたとでもいうのか、「オランウータンは見れないの?」とダダをこねる周囲の子どもたちの憔悴感などもう心の底からどうでもよく思え、「私たちのことなんてまったく気にする必要はないから、とにかくあったかくしてのびのびやっててください」と思った。そして、いつまでもいつまでも長生きしてください。と思った。

*1:たとえば『空白の寓意』と名付けられた絵には「モリーの芸術は、心の赴くままに色をおいているように思えますね。でも、それを実証することはできません。ですから、この絵に見られる大きな空白も、実はモリーの真実が隠されているのかもしれません。」という解説が付されている。