ワンダーランド

守られた、壁のある安全な国で、自分の信念、正しさを、孤独を、考えてから、そとにでるような仕組み。今はちょっと、生すぎて、危なすぎる。生きかたを知らないのに、自然に放りなげられたら、死んでしまう。インターネットにはそういう仕組みがないんじゃないか?

孤独、生きることをしない、忘れた人達

叩かれて死んでいく。人殺しをやっている自覚がないんだろう。ざまあ見ろとか思ってる。疲れる。そういう人が多い。小学生のいじめと同じレベルのことをやって、人を殺す人達がいる。今もどっかで生きている。ずっと続く。だから誰もがみんな、おっかなびっくりになって、同調して、へらへら笑っている。そういうのに慣れるとまた誰かを殺そうとする。独りで頭を使わなければならない。そして少ない人達と、適切に孤独の距離を計りながら、正しいことをやらなければならない。人間は集るとバカが目立ち、目立つものがあるとそれに合わせる。集まると危険になる。少なければ少ないほどいい。孤独を保つことが生きることだ。

人間ごっこ

人間ごっこ、みんな頭が悪くなって、忘れているゲームだ。生きていることの一切の意味はないから、好きなようにやればいい。でも「人間」っていう型を、みんな律儀に守って生きていて、そのうちに、不幸になることをよしとし、あるいは役割として与えられた人がいる。

もともと、人間ごっこは、僕らがはじめたことだから、それはいつだって、やめることができる。やめればまた、全部に、退屈かもしれないけれど、安心できるようになる。

無意識に孤独を

パブリックドメインなものの一部をひっぱって、孤独にすると個と意識ができると思う。生きることはそのまま、個をとぎすまして、孤独をつよくしていくことだと思う。死ぬときにはそれはまたパブリックドメインに還る。孤独のみが、生きているものに所有を許されている唯一のもので、引き換え不可能な命そのものであると感じる。

生まれて、死ぬまでに、一切の (人間が考えるような) 意味はないと思う。死にたいことは無への衝動というよりも、全体的なものへの回帰で、もっと直接的に、情報として捉えたら自然に還ることっていう、あたりまえの衝動な感じがする。生の衝動は、それでは飽きるから、孤独を作って、つよくするゲームをする、人間ごっこ、そのもの。だから、人間ごっこをやめるなら、死ぬ以外にない。あたりまえだ。


無意識に、継続に今の値を渡し続けている。与える値を変えることがどこかでできるはずだ。内なる世界が、今外側に見えるものと同じならば、行為全てが、他との干渉を「見える」ように持ちながら、自分の望む方向に傾いていくのは、当然のはずだ。意識的なものは、物理的なものと全く別なところにあるわけじゃなくて、単にそこにあるようだ。

サトウ楓の凛、孤独、内なる宇宙

生きるうえで、自分に課すルールをもち、基準になる普通さを、答えを考え、流動的に、柔軟に、哀しいことを大切に、矛盾を許容し、孤独を強靭に、底から湧き上がる感情に素直に、正直に、