『10代で読んでいないと恥ずかしい必読書 その1』を読むために

10代で読んでいないと恥ずかしい必読書 - その1 -PictorialConnect-

元記事の一覧を軽く眺めて、正直10代にこれを読むのは苦しいだろうと感じたので副読本的なものでもいくつか紹介してみることにします。

もういちど読む山川世界史

もういちど読む山川世界史

実際に10代の方は別にこの本を手に取らなくても手持ちの教科書で構いません。そうでない方も手元に教科書があれば、そちらで構いません。倫理の教科書がある場合は、併せて読むと良いかと。

元記事のリストの書籍はどれも素晴らしい名作なのですが、歴史的経緯も知らずに読んでは価値を減ずるかと思います。読んだ本の題名を列挙して似非文人の真似をしたいのでなければ、まずは浅くても良いので世界史を学んで欲しいかと思います。

教科書も読まずに「教科書の内容は浅いし薄い」などと言うのも詰まらないものです。そのような批判は、どの点に不備があるか程度は指摘できるようになってからすべきでしょう。

特に高校生の皆さんは疑問点などあれば是非積極的に先生に質問していって下さい。文系学部の大学生であれば、歴史系の教授に質問するのもいいでしょう。

キリスト者の自由・聖書への序言 (岩波文庫)

キリスト者の自由・聖書への序言 (岩波文庫)

西洋の歴史において、キリスト教と聖書は切っても切れないものです。残念ながら教科書では中々掘り下げてフォローするのも難しいです。また、聖書を直接読んでも中々キリスト教を理解できるものではありません*1

アウグスティヌスの『告白』とどちらを推すべきかと考えましたが、宗教改革で何を争点にしていたのかを把握する一助としてプロテスタント側のルターをここでは取り上げることにします。

可能なら聖書も一度手にとってみると良いのではないかと思います。

西洋哲学史 (講談社学術文庫)

西洋哲学史 (講談社学術文庫)

いきなり有名な哲学書に挑んでも返り討ちに会う というのはよくある話かと思います。無論、内容が難解であるのも原因の一つではありますが、もう一つの原因に予備知識の不足があると思います。

そもそも哲学書はそれなりに(あるいは豊富に)予備知識を備えた人間を想定読者にしていることが多いのです*2。そんな訳で、まずは本の想定読者層に入ることから始めてみては と思います。

余談ですが、アリストテレスプラトンなら予備知識はそんなに要らないだろうと思って手に取ったことがあったのですが、残念なことに想定読者層が当時のギリシャ人だったためか、今一つ実感が掴めないまま終わったことがあります。

哲学史も含めて歴史の勉強はしておくと、哲学書を読む上で助けになるのは確かだと思います。

虚数の情緒―中学生からの全方位独学法

虚数の情緒―中学生からの全方位独学法

最後に個人的な10代の方へのお勧めを紹介して、今回の記事は終わりにしたいと思います。

数学をベースに割と広範な分野を扱ってるので、教養書としてはかなり有用ではないかと考えます。「中学生からの」というタイトルですが20代で読んでも退屈なところはそうありません。ただし、一部思想的に偏ってるところもあるので、その辺は割引いて読むべきだと思います。そういう意味では10代後半で読んだ方が良いかもしれません。

■2010 09 30 09:19 の加筆修正■

記事タイトルを「『10代で読んでおかないと恥ずかしい必読書 その1』を読むために」から「『10代で読んでいないと恥ずかしい必読書 その1』を読むために」へ訂正。

*1:キリスト教徒であれば話は別なのだろうけれども

*2:元々論文であることも多い訳で、読者も知っているだろう基本的な用語を説明していては埒が明かない

Twitter大昔からはじめてます

Blogに書くべき内容をTwitterに垂れ流している状況が続いております。

正直私生活的な内容もかなり吐いているのでここで公開すべきか悩みますが、この際公開してしまうことにしましょう。ほぼプライベートで使ってるメッセのアドレスも公開してますしね。

http://twitter.com/E_Rubik

ジェンダーフリーとバックラッシュへの疑問

かなりどうでもいいのだが、先程のエントリを書いていて気になる点があった。書き捨て故議論への発展は避けたいのだが一応書いておく。

ジェンダーフリー論者の論は「ジェンダーへの意識は自由であるべきだ」という内容であるはずなのに、何故「旧来のジェンダーの感覚を守るべき」という主張の自由について「バックラッシュ」などと名付けて攻撃しているのだろうか? 「バイアスから自由になった結果、旧来の感覚が妥当だ」という結論に至ったと考えるべきではないのだろうか?

言論の自由とそれに付帯する権利とは、何処かの誰かが「お前の言うことは気に入らないが、お前が言いたいことを言う権利は命懸けでも守る」と言っていたような物であるのが本義であるのだが、性に関する言論の自由を唱えているはずのジェンダーフリーな皆様は、バックラッシュ的な発言をしている人間の発言権を守ろうと言う感覚がないように思える。

なんとも不思議な話である。

議論と人間関係にまつわるエトセトラ

暗号ゲームと拡大解釈 -wHite caKe-

元エントリはお題はレイプ関連(と言うかセカンドレイプがメインと言うべきか)の男女間の意見対立。元エントリの筆者さんは「何で二元対立してしまうんだろう?」と疑問視されてるようですが、それは当然のことなのです。元エントリのような議論展開をしたら10のうち8か9は揉めるでしょう。

という訳で、男女間ではない問題で同じような揉め方をする議論を見てみましょう。私見は一応ありますが、それは後回しにします。多分そのほうが判りやすいと思いますし。

では、例を見ていきます。

後輩と雑談中に、後輩がふとこんな話をしてきました。
「先輩後輩間のパワーハラスメントって、問題だと思いません、先輩?

さて、貴方が先輩だとして、そんな話題を振られたら困るのではないでしょうか? ともすれば「先輩」側を擁護して話がヒートアップ なんて展開もありうるかと思います。少なくとも私は「何かあった?」と返すでしょう。

何故そうなるのでしょう? 「うん、先輩としては十分注意して気を配っていかないと駄目だよね、ホント」と何も感じないまま返すことが何故困難なのでしょう?

私なりの答えなのですが、それは発言の政治的な機能にあると判断しています。

ここで言う「政治的な機能」と言うのは、丁度お昼時に「お腹空いてない?」と聞くのが昼食の誘いの枕であるように、文脈から発言に何か相手に要求をしていることを暗示する用法のことを指すとします*1

さて、そこで先程の先輩後輩間のパワーハラスメントの問題提起では、普段そんな問題提起がなされない場で唐突に「先輩後輩間のパワーハラスメント」が「後輩から先輩に」問題提起された訳です。
しかも、この問題提起は一見公平に見えて実のところ一切公平ではありません。「パワーハラスメントは由々しき問題だ」という題目は、題目に沿って議論するなら回答は「Yes」以外ほぼあり得ません。これは政治的な機能として、「当然それは同意してくれるよね?」という意味合いが暗示的に含まれているからに他なりません。

再び些か脱線しますが、このような偏った問題提起は、ディベートとかでは禁じ手にされる事も多いのです。例えば、「死者の尊厳を踏みにじる臓器移植は許されるか?」等のように、議題そのものに価値判断を含むものは公平性のある議論が成立しにくいのです*2。というのも、この議題自体が政治的な機能として「臓器移植は死者の尊厳を踏みにじる行為であることは周知に違いないし、それは了解すべきだ」という発言を含んでいるからに他なりません。

そんな議題で議論やれば感情的な非本質的な対立をするか、中立性のない一方をひたすら賛美する議論になりがちなのです。

さて、話を戻しましょう。ここで先程の議題*3を悪意のある見方をすれば、私たち*4先輩側は、政治的な機能を考えれば「問題の加害者側として」「偏った議題を元に」議論に参加しろと言われているのです。好意的な反応は難しいでしょう。

何しろそんな内容をもし仮にそのまま言ったとすれば「お前を犯罪者と見なして尋問するから、それに相応しい回答をするように」と受け取るか、「酷い話だよな。この内容に黙って同意してくれ」と受け取るか、ではないでしょうか? 私ならそう判断します。もし語調がきつければ、更に悪意のある解釈として「いいからお前は犯罪者として自己批判をさっさと開始しろ」とか、「私はお前を断罪しに来たのだ。さあ許しを請え」という意図の下発言しているのだと判断してしまうでしょう。

その上で議論を進めたとして、実りのある議論が得られるとは私には思えないのです。寧ろ人間関係を容易に破壊してしまうことは想像に難くないでしょう。

では、大枠に戻しまして男女間の交際とレイプについて語ることにしましょう。

当該記事の問題点は「誰もが被害者になりうる」と言いつつ、「自分の側が被害に遭うこと」しか殆ど語ってないのです。例えば確かに、レイプ等では女性は殆ど被害者です。加害者になることはほぼないでしょう。だからと言って、悪意のある誇張をしてしまえば「お前らは潜在的な犯罪者なんだ、自己批判して慙愧の涙を流して自己批判しやがれ」と言わんばかりのスタイルで「誰もが加害者になりうるのです」なんて言っても説得力は皆無なのです。

適切な例かは不明ですが、例えば痴漢の冤罪などは女性側が加害者になることもあるでしょう。私はそんな欲に駆られたことはしない? 男性側も同じことを主張しました。

また、他人事だという証左として挙げられたアメリカの陪審員制度については、アメリカはキリスト教に基づいたやや保守的な価値観が根強いことも忘れてはなりません。私の記憶にある範囲では、レイプされようが姦通と見なす という価値観だったかと思います。もっと酷い*5例だと、イスラム圏ではレイプされようと姦通罪が適用されます。それは女性が他人事だと思う例と言うよりは、女性に不利な価値観が蔓延している例なのです。そんな価値観に立ち向かわないなんて…やはり他人事だと思ってるんだ! と言うのであれば別ですが。

今何処かで泣いている女性のことを考えなくてはいけない。確かにそれはそうです。でもそれを今そこにいる男性に向かって考えろと言うのは困ったものです。詳しい説明なしには、きっと今そこにいる男性は身に覚えのない罪で潜在的な犯罪者として糾弾されていると思ってしまうことでしょう。

他方、恋愛ごとというのは難しいもので、恋仲と言えば聞こえは良いのですが相手に勝手に要求を請い合う仲であることも否めません。勝手に要求して勝手に幻滅したりすることも多いですし、直接的に言えば「そんなこと恥ずかしいから一々言うな空気で察しろ」ということもあるでしょう。

今回の話題に合わせるなら、男性側が女性側に性交渉を勝手に期待していたり、女性側が男性側が性交渉を持ちかけてこないことを勝手に期待していたりします。そしてその期待が裏切られると、相手が悪いと非難したり関係を解消したりする訳です。

勿論悪いのは、要求を一方的に相手を踏みにじる形で達成することです。それは確かです。

ただ、恋愛なんて綺麗なお題目並べてすらも、人間相手のことを何一つ考えてない瞬間は確かにあるなぁ…などと思ってしまうのです。議論だってそうです。相手と対等に議論しようとしている風が、よくよく考えてみたら相手を論破したいだけだった なんてことだってあるかと思います。もしかしたらこのエントリもそうなのかもしれません。

笑ってはいけない! 今死のうとしている人が居るんだ! いつだって涙流して悲んでなくちゃいけない!! とか言われても困りませんか? 私は困ります。私の見知らぬ人のために、私は涙できるほど親切でもないし、目先の幸福であったり愉快な出来事のほうに目が行ってしまう近視眼的で愚かな人間なのです。

少なくとも私はそんな悪徳に塗れて生きてます。見知らぬ誰かの不幸なんて知ったことかと人知れず嘯いて、今日も適当に見たことない誰かの不幸のを踏み台に、それより些細な不幸に躓いて「まったく今日も不幸だったらありゃしない」と口からおぞましい何かを垂れ流しながら生きているのです。

*1:言語論的とか意味論的に正しい用語なのかは知らないので、この場ではこう使う と了解してもらいたい。

*2:無論、一例であって私の臓器移植に関する価値判断とは無関係であることを念のため申し添えておきます。

*3:パワーハラスメントは問題ですよね という議題

*4:今回はそういう設定だと思ってください。貴方/貴女が実際に先輩かどうかは関係ありません。

*5:勿論、私たちの価値観から見て「酷い」と言っているのを忘れてはならない

もしも時間が巻き戻せたら

例えば今の私が1年前に中味だけ戻ったとします。

更に、このとき私の肉体には今の私と一年前の私が混在しているとします。つまり、上書きによる消去や融合は考えずに、純粋に1年前の私の肉体に二人分の精神が同居している状態を考えてみます。

さて、この状態で1年と1日経過させ、1年前に戻るとします。そうすると、当然ながら最初に戻った時点の1日後に戻ってくることになります。このとき、二人分の私の精神が混在してるところに、二人分の私が書き足されると考えます。

この時点で私は4人分の精神を抱えることになります。つまり、下記の4パターンが考えられます。

  1. 現在から2回戻ってきた私
  2. 1.の私と1年と1日同居して1回戻ってきた私
  3. 現在から1年前に戻ってきて1日経過した私
  4. 3.の私と1日同居した私

さて、こんな風に私が「個人」から「集団」になってしまったとしたら、私はどうなってしまうのでしょうか?

2人なら、まだ「1年前の私」「1年後の私」と区別すれば良いかもしれません。4人でも何とかなるかもしれません。しかし、10回繰り返せば1024人、20回繰り返せば100万人ちょっと、30回も繰り返せば10億人ちょっとの私が一つの肉体に同居してしまいます。

…どうにも、「それが私だ」と言うには抵抗があるような気がします。恐らく私が「それが私だ」と認識できる限界というのは、私自身が随意に直接制御可能だと思っている範囲に限られるのでしょう。そういう意味では、今直接的に操作している筈の両手は私の範囲内ですし、間接的に操作するしかない(ように思える)キーボードは私ではありません。

とすれば、例えば仮に1024人の同居する私が居たとしても、私は無数の他人を抱えているだけなのでしょう。信じたいもの、都合の良いものを信じてるといえばそれまでかもしれませんが、素直な感覚ではこれが限界のようです。

「自分の頭で考える」を考える

なんで皆、安易に普遍や絶対を求めるのかという
そんな話になったおり、取りあえず保留を覚え
心に棚を作るって事は重要な話ですわなぁ・・・などと

私的・林檎もぎれビーム解題 -坊主めくり-

引用をひいときながら、まずは恐らく本題と違うことを語ってみます。

「普遍や絶対を求めること」に保留を挟む、と言うのは非常に難しいものです。そもそも「普遍や絶対を求めるのは危険」という判断でさえ、普遍やら絶対やらを含んでるのです。

また、「真理なんて無い」という言説が仮に真理だとしたら、「真理なんて無い」という言説そのものも真理でないことになり… と、自己言及のパラドクスに陥ってしまいます。

私たちは思考を言語ベースでやってる時点で意味の絶対性を暗黙のうちに求めていますし、解釈の普遍性を当然のように求めています。丁度数学で、「今回はこんな公理を前提に話を進めるよ。今回の話の中では公理は絶対 という前提だよ」と話をするようなものです。もしそうしなければ、言葉の意味とか解釈といったものが二転三転してしまい訳がわからなくなるので、取り敢えず絶対のものとして進めざるを得ない訳です。

既にこの時点で、普遍や絶対を求めることは根本的には無理だということが判ります。なので各自都合の良いように足場を構築して、都合の良いようにロジックを展開する訳です。

さて、こんな話は科学やら宗教やらの限界が顕わになってしまった昨今では哲学界隈やら宗教界隈やらでは割と有り触れた話題で、概ね三つの論理展開があるように思います。

一つ目は、「皆そんなことも気付いてないんだぜ? 気付ける俺って凄いだろ」というロジック。聞いてて頭悪い発言に聞こえるかもしれませんが、70-80年代の私小説なんかでは割と多い論理展開だったのです。要するにそれが知性の最前線だと嘯かれていた時代もあった と。正直良い歳こいてその論理展開はお寒いので控えたいところです。

二つ目は、「何が正しいか判らなくなったとき最後に頼りになるのは自分の知性である。よって普段より備えとして…」というロジック。どちらかと言えばロジックと言うより精神論ですが、それなりに支持層が居るのも確かです。

三つ目は、「何が正しいか判らないから、自分の頭で考えることは大事だよね」というロジック。絶対的な真理なんて無いんだから、自分の足で立って自分の頭で考えないと といった論旨になるでしょうか。昨今の感覚だと一番スタンダードな見解なのではないかと思います。

さて、上記三つの見解、どれも全て暗黙の前提として「私たちは自ら考えることが出来る」と主張していることには変わりません。「私たちは考えなくても良い」とロジックを説くことも普通ありません。同様に、「私たちはそもそも自ら考えることなど到底出来はしない」というロジックを説くことも、同様に普通はありません。

と言うのも、それはある意味仕方の無いことなのです。

何せ良識があるなら、そう言わないといけないことになってるのですから。倫理を語るに際して、自殺や殺人を積極的に肯定できないのと同じようなものです。仮に良識がなかったとしても、「お前の言うに勧められて殺人をしたのだ」などとやられては下手をすれば身が危うくなってしまいかねません。近代社会は自由意志を前提にした要素をクリティカルな部分に含む社会制度ですから、思考するな、丸呑みで良いのだ 或いは、そもそも自分自身で思考することなど土台出来ないのだ などとは土台言えないし言ってはいけないのです。

「いや、そもそも私たちは自分で考えることをしているのだろうか? 請売りではあるまいか?」といった議論で疑義を挟むことはあったとしても、それは「私たちは本来的には自分で考えることが出来るに違いない」という暗黙の了解があればこそなのです。そうでなければ、「自分で考えることが本質的に無理なのに、何故そのような疑義を挟まなくてはならないのか?」という反論が成立してしまい議論が破綻してしまいます。

では実際のところはどうなのか、というのは私には判りかねます。私個人としては自由意志なんてありはしないんじゃないか と勝手に信じてるのですが、割とどうでも良いことです。そのうち自由意志の存在が科学的に示されるかもしれませんし、そうでないかもしれません。

話題の一貫性を考えれば自由意志の存在云々は言い出しても仕方ないので、自由意志はあるものとして話を元に戻しましょう。

まーでも、良いじゃないですか。「満足した豚よりは、満足しない人間である方がよい。満足した馬鹿より、満足しないソクラテスである方がよい」等と何方か言っておりましたが、満足した愚か者で居ることが幸福であるならそれも良いではないですか。

踊る阿呆に見る阿呆と言いますが、踊りもせずに難癖つけるだけに精を出しても仕方なく、祭りの終わりはもう迫っているのです。


君が想うそのままのこと歌うだれか見つけても
すぐに恋に落ちては駄目さ
お仕事でやってるだけかもよ

君の孤独分かってるよな凄い話に出会っても
すぐに神と思っちゃ駄目さ
マニュアルで嵌めてるだけかもよ
*1


これは本当に大事な部分でして
16の年から、仏教に足を突っ込んで20年
宗教関係の良かれ悪しかれ
そろそろ口に出来るかなという位には
業界を見聞きし、馬齢を重ねたワケでございます

私的・林檎もぎれビーム解題 -坊主めくり-

程度問題ですが、結構じゃないですか。

歌う誰かが何考えていようが、マニュアル語る誰かが何考えて手薬煉引いてようが、知ったことではないではないですか。そもそも飛びつくときを考えて下さい。実際飛びつく相手のことなんて知ったことではなくはありませんか?

歌う誰かや語る誰かに一番重要なのは、「彼が何物か」でも「彼が何を意図しているか」でもなく「彼がどれだけ私に奉仕してくれるかどうか」ではなかったでしょうか? 彼は私のために歌ってくれるから素晴らしい、彼は私の為に語ってくれるから素晴らしい と。

私たちは望んで騙されましたし、望んで騙され続けていたい訳です。だからこそ、それが崩壊したとき「騙された!」と言って憤慨してしまうのです。それ程に都合の良いことを信じていたいのです。

無理に自由であろうとしようとして、外し方も分からないのに見えもしない操り糸を探すのは疲れるものです。無為自然 と言う訳でもないですが、繰られる糸に任せてるにしてもどう踊るか、それこそ重要ではないのかと私は考えてしまうのです。

*1:斜体部分は元記事による引用。引用元:大槻ケンヂと絶望少女達『リンゴもぎれビーム!』