from Tokyo Ⅱ

AYA AyA... AYA AYA... aya aya...


女が叫ぶ。歌うような、訴えるような、祈るような声で。
それは僕の記憶を刺激する、耳の奥の、鼓膜をつつくような繊細さで。
遠い、それはあまりにも遠くなってしまった言葉。あまりにも遠い
しかし、期限は切れていない。
それははじまり、すべての出会いと同じように。
そう、僕はふたたび出会う。かつて出会ったように。かつてとは違う仕方で。


「どう?」
ケータイの液晶画面を見せながら青年は言った。いや、言ったように思えた。言葉はわからないが、理解はできる。僕は興奮して言う。
「これがそうなの?」
青年はうなずく。
「そうだよ」
女が儀礼をささげ、兵士になっていく。男が儀礼をささげ、兵士になっていく。兵士は兵士にはならない。兵士は、兵士だからだ。
兵士は銃を撃ち放つ。兵士は車を爆破する。兵士は森を駆け抜ける。兵士は仮面をかぶる。兵士は女を愛する。兵士は男を愛する。兵士は森を愛する。兵士は、兵士は、兵士は……。


さあ、歩こう。青く彩られた、この地を。生命あふれる、この地を。寒さが過ぎ去り、訪れた春の暑い日差し。汗は、頬を伝い、不快。不快。不快。


  アヤ、アヤ、アヤ、アヤ、アヤ、アヤ、アヤ、、アヤ……


そう、猫が傷んだ。いたんだ。真っ白い猫だった。春先の暖かい日差しの中、僕のあとをずっとついてきて。僕と彼女はじゃれあった、おたがい、うんざりだったから。そうして、満たされない欲求を欲求して、慰めあった。お互い相手を恐れながら。僕らはキスをした。誰にもはばかりなく。誰にも、いなかったから。いなかったはずだから。いなかったはずだったから。いなかったら、いなかったのに、いないはずだったら、どうしよう?
でも、僕は旅の途中だったから。いなかったはずだから。彼女から、旅を続けた。


さあ、歩こう。青く彩られた、この地を。生命あふれる、この地を。
僕の旅は終わらない。世界がこんなに美しいから。世界がこんなに輝いているから。


  ハローーー。


男がそう叫んだ。遠い、東洋人に向かって。
僕は答えようとする


  ハロ……


男は抱えている。白い何かを。白い、しろい、白い、白い、白い、白、白い、猫を……。
男は手を振る。


  ハローーー。


それは始まりの言葉。そして、終わりの言葉。



  男は、手をはなした

from Tokyo

東京へ帰ってきてひと月と半。
身体の細胞は、どれだけMADE IN Japanになったんだろうかなんて思う。
そんななか、一通のメールを受け取った。この日記でも少し触れた、カザフスタンセミパラチンスクからのメール。娘のユーリャからだ。かの地を離れて一年が経っていた。
彼らの連絡先を記したノートはインドで紛失してしまっていたので、こちらから連絡を取ることはできなかった。そして、あれだけお世話になったのに何の連絡が取れないということに、心苦しさを感じていた。はからずも破ってしまった約束や、時が経つにつれて風化していくだろう記憶に、悲しさに似た感情を抱いていた。それは、旅の中で破り、今現在も破り続けている数多の約束への思いでもあった。だから、ローマ字で打たれたロシア語のメールを読んだとき、とてもうれしかった。そのメールは、どこか遠い星から流れ着いた手紙のようでもあった。


   もちもーち、こちら地球星日本国シロ隊員。
   

   応答どーじょー。


   この星はとっても平和です。どーじょー。


セミパラチンスクでの日々は、僕の旅の中でも特別の記憶として残っている。アルマティから20時間ほど電車に乗ってたどりついたセミパラチンスクの町は、まだ10月だというのに、もう冬だった。彼らがいなかったら、僕はあの町に対してどんな印象を抱いていただろう。相当わびしいものになっていたんじゃないだろうか。簡素というよりはさびしいホテルの一室、寒空の下でひとり食べるシャシリクドストエフスキー博物館、クルチャートフの人気のないビルディングス、秋枯れた広大な草原、目に見えない放射能……。しかし、彼ら家族が色彩を塗り替えてくれた。毎日のぼせるまで入ったサウナ、ウォッカの晩酌、それとともに盛り上がるヴァロージャの昔話、古きよきソ連時代の思い出、垣間見えるユーリャの白い太もも、息子との猥談、彼らが抱える不満、そして……分かれる日に起こったあの事件。
その日、目を覚ますと家にはユーリャしかいなかった。違和感を感じながらも、前日の晩にヴァロージャが作ってくれたナスの料理で朝食をとりながら、最後の別れを惜しみつつ、猫なんぞをなでていた。すると、外でガタガタと騒々しい音をたてながら、他の面々が家へと入ってくる。彼らの様子は異様だった。皆一様に厳しい表情をし、息子はなにやら壊れた機材を抱え、知らない女性も一人いた。お母さんは突然声を上げて泣き出し、何事かをうめいた。誰かが「行ってしまった」と、そう聞き取れた。ユーリャの目にも涙が浮かぶ。尋常ではないことが起こっているのは明らかだった。僕は居心地の悪さを感じ、手に持っていた食べかけのナスの料理をお皿に戻してしまう。ゆっくりと、隠れるように外に出て、タバコを吸った。そうしながら僕にすることができたのは、400回以上の核実験が行なわれたその地で、生まれては死んでいく人々の生活に思いをはせることぐらいだった。それが僕の取れたぎりぎりの距離だった。僕とヴァロージャとユーリャを残して、みんなはふたたび車で去っていった。当たり前だけれど、僕にかまっている暇などなかった。そして、彼らと会ったのはそれが最後となる。重い空気が流れる中で、ヴァロージャが僕に教えてくれた。その日の早朝、息子が経営する電化製品取り付け会社の社員三人の乗った車が事故にあったのだと。踏切を渡る時、大きな看板が影となって、走ってきた列車にぶつかったのだと。一人即死、二人重傷。「社員」とはいえ小さな会社のこと、三人は社員というより家族ぐるみで付き合う友達だった。息子が抱えてきたのは、大破した車の残骸の一部だった。どんな感情を持てばいいのか、僕にはそれさえもわからず、存在していることしかできなかった。
その出来事は僕にとって「謎」であった。それは、いかなる都合のいい解釈も拒む。端的に、僕には何も理解できなかったのだ。そして、本質的には、他の数多の出会いもまったく同じだ。そのような出会いと出会いながら、旅人は流れ続ける。流れるから、風は風なのだろう。
駅までヴァロージャが見送りに着てくれた。その詳しい内容はよくわからないのだが、彼は駅で働いていたので、電車が出るまで彼の仕事場で待たしてくれることになった。それは、むき出しの古臭い機械が並ぶ、不思議な部屋だった。そこで、彼と彼の仕事仲間と、最後の乾杯をした。上司に内緒で隠しているウォッカだ。初めて会う彼の仕事仲間を、ヴァロージャは「ドイツ人」と「ウクライナ人」と紹介した。彼らは僕に対して親密な態度をとってくれたが、やはりその日の朝にあった悲劇によって、どこか重々しい空気が流れていた。やがて時間は過ぎ去り、みんなは僕の載る列車まで見送りに来てくれる。いよいよ最後の別れの際に、ヴァロージャは手を差し伸べた。僕も手を出すと、彼は痛いくらい握り締め、わずかの間僕を強く抱きしめた。そして身体を離し、もう行けと言う。僕にしてはめずらしいけれど、そのしぐさには感動してしまって、目頭が熱くなった。列車は時刻通り出発した。そして、僕らの距離を見る見るうちに離していった。


それから一年。届いたメール。それは僕に希望にも似た何かを呼び起こす。なぜかはわからない。けれど、僕は手紙を書こうと思う。ただ、手紙を書こうと思うのだ。それは、どこか遠くの星へ手紙を投げ出すのに似ている。「言葉」は知っているのだ。


   もちもーち、こちら地球星日本国シロ隊員。
   

   応答どーじょー。


   この星はとっても平和です。どーじょー。

from Vilnius

二ヶ月ぶりの更新。日記というのは続いたためしがないですが、インターネットでも変わらないもんですな。むしろパソコンを持って移動しているわけではないので余計に書かなくなります。さらにヨーロッパに入ってからはネットが高すぎるので敬遠、そうして二ヶ月も経っていたわけです。ちなみに現在は宿泊しているユースホテルのパソコンを使って書いているわけですが、ユースホテルなんかではネット無料のところが多いらしく、ヨーロッパに入ってからキャンプ生活を余儀なくされていた僕としてはちょっと驚き、でも他の物価考えると宿泊に10ユーロ払うのは高いから、パソコン売っぱらってもっと安くしてくれ、と思う。どうでもいいことですが。
さて、二ヶ月ぶりの更新とはいえ何から書き始めていいのやら、まあ、現在はリトアニアの首都のヴィルニュスというところにいるわけですが、実は今日でリトアニア11日目になるわけです。とはいえ、これはバックパッカー用語で言うところの「沈没」しかかっているということではなく、全てはヴラジーミル・コック・プーチンのせいなのです。ヴラジーミル・コック・プーチンというのは言うまでもなくロシアの大統領であり、喪失したロシアン・ファルスの象徴のような顔をしたあいつのことです。つまり、ビザ待ちです。まあ、なぜここまで長くかかってしまっているのかというのは書くのが面倒くさいので省きますが、そしてそれこそが旅する人間には最も重要なことなのですが、こんな日記を見ているバックパッカーはいないと勝手に想像することにして、じゃあ何を書きたいのかと言われるとそんなことは特になく、ああ、でもマジ、プーチンどうにかしろよ、とか思う。っていうか、このご時世に旅行者への窓口を狭くするあのプーチンをどうにかしろよ、とか思う。俺の100ユーロ+滞在費を返せ、とか思う。誰もやらないんなら、俺が殺っちまうぞ、とか思う。でもあいつから噴き出すのは真っ赤な鮮血などではなく白いネバネバの不快さだ。そうしてこう言う。100ユーロありがとうございましゅた、これは明るいボクらの未来の為に有効に使わせていただきましゅ、ニヤニヤ。そうして俺の100ユーロは官僚とか悪徳警官とか、なんかわかんないけどそういう悪そうなやつらのポケットに入っていくに違いなーい。っていうか、俺なんかプーチンへの殺意を抱いた段階で元KGBのやつらにつかまって亡き者にされてしまうんだろう、もちろんやつらは俺だけではなく俺という存在を知る全ての人間を消し、そうして俺はまったくのなかった人間になるんだ。
と、書いてきましたが、もうそろそろビザを取りに行く時間なので、今回はここまで。あー、ビザがちゃんと取れていればいいなあ。

She played the pineapple and I sang purple.

旅を始めて一年が経ち、僕はイスタンブールにたどり着いた。
あの時、ボスボラス海峡を渡る時に感じたのは、予感にも似た何かだったのか。
あの時、春の潮風を頬に受けながら感じたのは、郷愁にも似た何かだったのか。
この一年間で僕の体重は12キロ減り、髪はうしろで結ぶほど長くなった。
重くなったザックを背負いながら船から降り立ったときに感じたのは、なんだったのだろう。
大きなカモメたちが振り子のように空に弧を描き、釣り人たちの垂れる糸がまっすぐな軌跡を海に突っ込んでいた。朝の青い光があふれた人間たちを照らし出し、1500万人が住むこのねじれた町に光を当てていた。石畳の道と路面電車、巨大なモスクとスターバックス。空と雲と新緑と海。鯖の臭い。
僕は、「アジア」を越えたのだった。


キューバから来たグループが奏でる音楽の中を、僕とカリナは踊った。たどたどしいステップ。なんとなく感じる気まずさを持て余して横を見ると、ドレッドヘアーをした美しい体躯の黒人が金髪のトルコ人と踊っていた。うしろではイギリス人の老カップルが楽しそうに飛び跳ねていた。音楽がとまって、僕らは笑いあってお辞儀をし、僕は空いていた椅子に腰を下ろした。カリナはつづけてケマルと踊っている。彼女はインドで会った時よりも5キロほど太ったと言っていた。確かに太ったように思われた。僕は目をつぶる。僕は酔っ払った意識をほったらかしにしておく。これまでの旅の出来事があふれては、記憶の排水溝に流れていった。そうして湿り気が意識に残り、キューバの音楽がそれを温める。黒い色をした老人が僕の分からない言葉で、きっと人生の悲哀か何かそんなものを歌っていた。この旅で多くの人間と出会い、響きあうようにして、そしてまた離れていった。おそらくもう二度と会わない人間たち。会えない人間たち。そうした人間たちと、これからまた何人出会っていくことだろう。眠っているのか、と二人が訊いた。いや、眠ってないよ、と僕は答えた。


あなたは笑う(laugh)ことがあるの、とカリナが訊いた。言ったはじから枯れてくような、つまらなそうな響きが含まれていた。僕は驚き、本当はよく笑うんだけど、と曖昧に答えた。心外だった。自分で言うのもなんだけど、僕の笑顔はこれまで最高だったはずだし、これからも最高のはずだった。しばらくしてから、友人の一人が使ったという文句を思い出してこう言った。いや、静かであるということはサムライの美徳の一つなんだよ。カリナは笑い、そう、あなたはサムライなのね、といった。愛想笑いというものはドイツ人も使えるのだな、と思った。


トルコ人の生活水準というものについて、少し意見が食い違った。はじめに食いついたのは僕だ。僕は違うんだ、と思った。違うんだ、というよりも、くたばっちまえ、という方が近かったかもしれない。でも、英語で僕の考えを伝えることは不可能だった。日本語でも言えたのかどうかも分からない。そもそもそれは考えだったのだろうか。女はバスに乗り込み、僕らは手を振った。そうして、バスが去るのを待たずに、僕は歩き始めた。


最近は、だるい。疲れたんだろうか。行き先も決まらずに、この町をほっつき歩いて暮らしている。時には外に出ないときすらある。
イスタンブール――それはアジアの終わりであり、ヨーロッパのはじまりだといわれる。
それが、一体どうしたというのだろう?

Жизнь прожить не поле перерыть !

イランからアルメニアへ。国境を陸路で越えるのは今回の旅で何度目になるだろう。あるときは川に架かる橋を越え、あるときは山の峠を越え、あるときは荒涼とした砂漠をまたいだ。そうした境界を通過するたびに、いろいろと考えることがある。地理的状況に歴然と見える境界および国家というものの人為性、にもかかわらず存在するその力の大きさ。国境を越えるということはただ一歩を踏み出すことでもあり、何かが変わることでもある。2007年3月11日、とにかく僕はアルメニアに入国した。


今回の移動に関して、僕はあまり情報を入手できていなかった。テヘランからイェレバン(アルメニアの首都)までの直通バスが出ているのは知っていたが、30ドル以上という(イランでは)あほみたいな金額を出すつもりは毛頭なく(ちなみにイスタンブール行きよりも高い)、自力で国境を越える場合は交通手段を探すのに苦労する、という「旅行人」の頼りない情報がほとんど唯一のものだったと言っていいだろうか。
とりあえず僕はタブリーズを出てアゼルバイジャンとの国境に面するジョルファーという町へ向かった。ここまでは公共のバス。そこからはアルメニアとの国境ノウデーズまでどうするかと悩んでいたのだが、運良く乗り合いタクシーを見つけて安く済ますことができた。まだ緑の見えない荒涼とした山道を、車は快調に飛ばす。ノウデーズは国境ポストがあるだけで、町ではない。そそくさとイランを出国。フォダハフェース、イラン! さて、次はアルメニア旧ソ連圏の国にありがちな賄賂要求を受けることもなく、幅の狭い川に架かる橋をズンズン渡り、無事アルメニアに入国。ズドラストゥヴィチェ、アルメニア! 
アルメニア側の名称はアガラックという。こちら側は少し離れたところに町があるようなのだが、イミグレーションを出たところには何台かのタクシーがとまっているだけ。タクシーの運ちゃんに最寄の町までの値段を聞くと20ドルといってきた。アホか! 一晩バスに乗っても4ドル以下の国からきた人間に払う気があるわけないだろ! ニタニタ笑っているアホ面がむかついたので、無視してヒッチハイクを試みる。すぐにイラン人の車が止まった。後部座席に乗ると、さっきの運ちゃんたちが集まってきてなにやらドライバーに猛抗議。俺たちの客をとるな、ってところだろうか。若いドライバーはイライラしながらやっぱり降りてくれと僕に告げる。普段温厚な僕もこれには久しぶりに頭にきた。知っているロシア語の悪態をドライバーたちに叫んで(英語だと「マザーファッカー!」ってところ)、歩き始めた。
気温は低いが日差しが強く、すぐに暖かくなってきたので、着ていたウインドブレーカーを脱いで歩き続ける。そんなことは想定されていないからか、歩道は用意されていない。誰もいない砂利道を歩き続ける。時たま通る車に手を上げるがなかなかとまってくれない。いや、一台のジープがとまった。急いでかけていってみると兵隊。貴様は何者だ。パスポートを見せ、事情を説明。がんばれよと、ジープは僕を乗せずに走り去っていく。また歩く。しばらくして今度は三菱のパジェロがとまってくれる。パイプライン施設のために働いているイラン人。快く乗せてもらえた。やっぱりイラン人はやさしいなあ、などと思っているとすぐに最寄の町メグリに到着。このとき時間は3時30分くらいだったろうか。
メグリまで乗せてもらったイラン人たちに、今日はテヘランからのバスが通るよ、と教えてもらっていたので、気が向いた車に手を上げたりしながらそのバスを気長に待つ。が、来ない。日がだんだん傾いてきた。近くにあった商店のおっさんが、バスは今日来ないと思うけどなあ、もし来なかったらどうするんだよ、などと聞いてくる。どうしようか、と僕も考える。
「ホテルはいくらなの?」 
「しらんなあ。」
「この町にホテルは何軒くらいあるの?」
「2軒くらいじゃないかなあ」
「それはどこ?」
「あっち(右手)とあっち(左手)」
僕のロシア語がへたくそだからか、どうもあやしい。あやしいというか、おっさん、しらんだろ。まだバスが来ることに望みをかけていた僕は、「まあ、もし来なかったらこのテント(テヘランで買った)で朝まで待つよ」なんて言っといた。おっさんは「まあ、そん時はこの店の裏庭でも使えや。夜はここ誰もいないから」と言ってくれた。また、翌朝7時ごろにイェレバンまでの直行マルシュルートカ(ミニバス)があると教えてくれたのも彼だ。
とにかく、僕は待ち続けた。途中、何人も興味を持った人間が話しかけてきたが、僕は適当に応答していただけだった。残念だけど、興味がもてないんだよ、疲れているし、ほんと言っちゃえば、お前らうざいんだよ。そんな中に一人、少し奇妙な男がいた。やたらと親しげに僕に話しかけてくる。僕は少ししかしゃべれないって言ったのに、やたらとロシア語でまくし立ててくる。一緒に友達の家でビール飲もうぜ、ストリップを見に行こう、今日髪を切ったんだけどどう? キまってるかい? キまってるのはお前の頭の中身だ、などと意地悪く思いながら、僕は適当に受け流しておいた。これが旅行中の処世術だ。何語であろうとやたらと媚を売るような輩は無視。もし底意がないとしても大体そんな人間はつまらない人間がほとんどだ、と僕は決め付けてしまっている。その男は何度か姿を消し、また現れては話しかけ、姿を消しては現れた。いい加減うざったかった。うざったいという以上に、あやしかった。彼がまっていろと言って消えた隙に、僕は件の商店の裏庭へいってテントを張り、休息についた。もう9時に近かった。あいつがここまで来なければいいがと思いながら、いざと言うときのためにテントの入り口に南京錠を掛け、スイスアーミーをポケットに入れて寝袋にくるまった。
夢の始まるばらばらのイメージの中で、男の声がした。男の声はだんだんと大きくなり、細かいその他のイメージを破壊し、僕を現実へと連れ戻した。「アイツ」だった。男は何事かを怒鳴りながら、僕のテントの入り口を開けようとした。が、二枚目のメッシュが開かない。南京錠を掛けといてよかった。
「何で俺を待ってなかったんだ!」
男がまくし立てる中で僕が理解できたのはこれだけだった。まだ僕は状況が理解できていない。
「僕はロシア語が少ししか理解できないって言っただろ」
「そんなことは知っている!ストリップバーにいくって言っただろ!何で待ってなかったんだ!ここを開けろ!開けろ!!」
寝ぼけていたので危うく開けかけたが、さすがにそれはしなかった。男がまくし立てる間に、だんだんと状況が理解できて来た。と同時に、自分の足が小刻みに震えているのに気がついた。なんだ、情けないな、なんてそれを見る。多少おびえてはいたのだろうが、恐慌には陥っていない。念のためポケットからスイスアーミーを取り出すが、それを目の前の人間に突きつけることはできなかった。人に凶器を向けるなんてことは僕の人生では一度もなかったし、もしそれを向けて相手が逆上したりしたら大変だ。なにしろ僕は小さなテントの中にいて、相手は外にいる。いくら小さいナイフを持っていてもテントごとボコボコにされてしまうだろう。
「おい、ここを開けろ!聞いてるのか!警察を呼ぶぞ!」
警察?何を言ってるんだこいつは?
「オーケー。警察を呼んでくれ」
「ここを開けろ!ぶっ壊すぞ!」
「おまえはなにがしたいんだ?いい加減にしてくれ。俺はどこにも行かないよ。眠たいんだ。明日早いし。どっかへいってくれよ!」
と、ここら辺で相手の声のトーンが変わり、こんなことを言い始めた。
「金をよこしたらここを去ってもいいぞ」
始まったか、と僕は思った。少しの金でいなくなるんならくれてやる。とりあえず1000ドラム(3ドル弱)を入り口の隙間から渡してみた。
「ふざけんな!足りると思ってるのか!」
じゃあ2000でどうか。
「お前はアホか!この入り口をぶっ壊すぞ!」
そんなことを続けて4000ドラムまで渡したところで相手が僕の腕時計に気がついた。
「それを渡せ」
「いやだ。これは親父からもらったものなんだ。もう1000ドラム上げるから勘弁……」
ここで男が入り口を壊して体を半分中に入れてきた。僕は相手の勢いに飲まれていたんだろうと思う。言われたまま時計と財布を渡した。
「何だ、これっきゃ入ってないのか、ドルはないのか?」
「カードを使ってるからないよ」
と僕は嘘をつく。男はカードには興味はなさそうだった。この町にATMなんてないのだ。
男が財布を物色している隙に僕は迷いながらもスイスアーミーに手を伸ばした。男がそれに気がつく。
「何だそれは?見せろ」
もう迷っている暇はない。急いで僕は男の鼻先にナイフを見せつけた。それからは一瞬だ。今でも僕は何が起こったんだか良く思い出せない。男はちょっと奪おうというそぶりを見せたが、そんなことはさせない。男は身を翻して逃げていった。僕は裸足のまま考えもなく男を追いかけた。興奮していたのだ。今思えば、どこか少し楽しんでもいたのだと思う。が、道まで出たところで我に返った。通行人と車を呼び止め、急いでテントを片付け、警察署へ向かった。それまで気がつかなかったのだけれど、男は逃げ出すドサクサの際に僕のザックも持っていっていた。中には隠してあった200ドルと、生活用品がほとんどすべて入っていた。


……これ以上くどくどと説明するのはやめよう。結論から言えば、翌日の夕方までに男は逮捕された。住人全員が顔見知りであるような小さな町だったのと、男がご丁寧にも僕に説明していたその日散髪に言ったというのが決め手になったみたいだった。男が警察に伴われて再び僕の目の前に姿を現したとき、僕はなんともいえない漠然とした嫌悪感を覚えた。男はふてくされた子供のような顔をして、僕に目を合わせようとしない。弱いやつだな、と僕は思った。
とにかく、奇妙な二日間だった。警察署で明かした長い夜、私服警官に同伴した現場検証、住人たちの排他的な視線、無関心を装った身内をかばうそぶり、警察たちの気遣い、犯人の妻の涙の訴え、私たちにはまだ幼い子供が二人いるのよ、首に掛けていた十字架を僕にくれようとした。冗談じゃない、僕に十字架を背負えと言うのか?僕は断った。夫は禁固五年になるだろう、と続けて訴える。僕は彼らを哀れみもしたが、そして何とか罪を軽くしてやりたいとも切に思ったが(いろんな点から考えて、要するに衝動犯なのだ)、もうそんなことはどうでもいいことでもあった。僕は疲れていたのだ。清潔なベッドの上でぐっすり眠りたかった。しかし、調書作成のために、さらに三日間滞在してくれと言われていたのだ。うんざりだ。山肌にこびりつくような陰気で小さな村。僕を話で聞いて知っている住人たちの視線。
しばらくして警察署長が僕を呼び出してこういった。
「明日のうちにここを出たいか?」
「できるならばそうしたい」
「犯人の罪を軽くしたいと思うか?」
「彼がもうこんなことをしないなら」
「当たり前だ。やつは小心者の貧乏人に過ぎない。家族四人で友達の家に居候しているようなな。今はすすり泣いているよ」
「もし僕が彼の罪を問わないならどうなるんだ?」
「殴られて、そう遠くないうちに釈放だろう」
僕は翌日の早朝に、逃げるように町を離れた。あとは警察たちがうまく処理してくれるだろう。被害者および原告人は失踪したのだ。
さて、今頃「アイツ」はしらない誰かに殴られてでもいるのだろうか?

from Yelevan

sakiototoi ni narimasukane, Iran tono kokkyou ni tikai Meghri toiu mati de goutou ni aimasita. karu-kune, hahaha. maa, aredesuyo, nantoka hannin ha tukamarimasita. higai ha nanimoarimasen. toiuka, musiro okane ga sukosi huete kaettekimasita. karada mo kenkou desu. syousai ha mata kondo. konkai ha buji datte koto dake wo tutaete owarinisimasu.

from Bushehr

青みがかった灰色のペルシャ湾の風に打たれながら水パイプをふかす今日この頃、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
と、書き出してみましたが、親からのメールにあった「17日にクエッタの裁判所で、自爆テロがあって、何人か亡くなり、そして昨日19日デリーからパキスタンへの列車が爆発炎上で今のところ死亡者67人だそうです。」という文章に度肝を抜かれ、っていうか、あれじゃん、17日にクエッタで自爆テロって、俺が出た二日後じゃん、などとしばし呆然とし、その事故に出くわさなかったことに胸をなでおろしつつ、その文章に続く「テロを掻い潜って旅行している様」という文章に首肯せざるをえない今日この頃でもあるのです。


思えばこの旅もそろそろ十ヶ月を迎え、その締めくくり方、日常への接続の仕方を考えることが多くなってきたわけですが、そんなときによく考えるのは、旅と日常が同一であるような生き方であり、それは海外旅行をちょくちょくするなどということではなく、日常を旅化するような、自らの軌跡に責任を追いながらそれに縛られないで生きるような、自らの暮らす環境に違和感と好奇心を同時に持ち続けるような、そんなものだったりするのです。抽象的でよくわかんないだろうけど。俺もよくわかんないし。でも、この旅を僕の日常であった生活に接続するために、飛行機でぴょーんって飛んで帰るんじゃなくて、陸路と回路だけを使って帰ろうかな、って思うことが多くなった。たとえヨーロッパ圏青息吐息で切り抜けることになっても。移動続きになったって、人間がぶつかってくるものなんだよね、旅をしていると。
で、今日もぶつかりました、元柔道イラン代表の床屋さんに。まだ僕と変わらない年だけど、ひざを故障して引退したとか。お昼ごはんにお家へ招かれ、近所のお友達(というか、同じ家に住んでるんですが、ルームメートとご近所さんの間って感じ、うまく説明できないけど)とともに有意義な時間がすごせました。特に興味深かったのは、彼らはクルド人でイラン人は不親切な人間も多いと忠告するような面も見せながら、そのことと因果関係があるとはいわなかったけど、彼ら自身は経験していないイスラーム革命のあと生活が厳しくなったといい、とはいえ今のイラン政府は支持し、イランの核エネルギーの平和利用を妨げるアメリカを非難するという、その立ち位置だった。彼の主張から何かを性急に引き出そうとはまったく思わない。けれど、「外」から情報を得ているだけではなかなかイメージに入らない人間たちというのがいるということ、対面という関係を築くならばそういう人間しかいないのじゃないか、という予感、そんなものを改めて感じた。会話の中で一般論でしかものを言わない自分にむずがゆさも感じた。


そんな感じ。旅は続いているのです。