閑人手帖

このブログは私が見に行った演劇作品、映画等の覚書です。 評価、満足度を☆の数で示しています。☆☆☆☆☆が満点です。★は☆の二分の一です。

2024/05/19 平原演劇祭 みんなのへいげん5月うまれ生誕祭@石神井公園駅Space BAHARA

 

  • 日時:2024/05/19(日)14時開場、18時半閉場
  • 料金:2000円+投げ銭
  • 出演:栗栖のあ、青木祥子、夏水
  • 会場:石神井公園駅 Space Bahara
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高野竜主催の平原演劇祭のスピンオフ、「みんなのへいげん」の公演、会場は西武池袋線石神井公園駅の近くの商業ビルの最上階にあるレンタルスペースであった。企画及び出演は平原演劇祭上演の三人の女優、栗栖のあ、青木祥子、夏水の三名で、高野竜は戯曲を提供しただけでこの公演の企画や演出には関わっていないようだ。

twitter上に掲示された「ちらし」では14時開場となっていた。チラシには「開演」時間を記すのが普通だと思うのだが、開演時間の記載はない。14時開演だと思い込んでいた私は13時半過ぎに会場に着くと、「まだ準備中です。開場は14時からですから」と追い出されてしまった。会場となるレンタルスペースは、商業ビルの5階にあった。入り口は鉄扉で、通常の居住者用のマンションと同様のものだ。屋上階に上る階段のところで会場まで時間を潰すことにする。14時の開場前に私以外に三人のおっさん観客が会場にやってきた。

14時になり会場に入ったが、準備はまだ終わってなかった。観客は平原演劇祭の常連観客おっさん4名と高野夫妻の計6名だった。

レンタルスペースの広さは30平米くらいあるだろうか。かなり広々としていて、天井も高い。眺めのいいテラスもある。まだ新しくてきれいだ。

広いキッチン付きで、四人用のテーブルが四台、そしてレンタルスペースのウェブページを見ると椅子が30脚あるらしい。石神井公園駅というロケーションが少々ネックであるが、この広さ、この設備、このきれいさで、丸一日借りて2万円は安いと思った。

高野竜の旧作と新作の上演があるらしいが、観客が入場後もテーブルのセッティングが続けられている。上演そのものよりも、「誕生会」というイベントの枠組みがどうやらメインプログラムであることに気づく。平原演劇祭主宰の高野竜の誕生日は数日前だったが、今日の出演者三名もみな5月生まれということで、今日のイベントが企画されたのだ。誕生日プレゼントっぽいものを持ってこようかと行く前にちらっと思ったのだが、私は結局何も持って来なかった。おっさん観客のうちの一人はお酒を持ってきていた。えらい。
出演者三名はメイドカフェのコスプレをしていた。平原演劇祭では飯が出ることが度々あるが、軽いスナック程度のものが多い。今回の飯はボリュームたっぷりで、本格的な飯である。豚汁、ハンバーグ、サラダ、鯛飯など、いずれも出演者三名がこのレンタルスペースのキッチンで作ったものらしい。大量のポテトチップスも。

食卓の準備が終わったあと、「本番」が始まった。まずメイド・コスプレ三人娘によるアニメの主題歌に合わせたダンス。これはかなり刺激的だった。。すごくはじけていて楽しそうに踊っている三人の可愛さの圧力が強烈だった。「これはすごいものを私は見てしまっているのでは」。私は言葉を失ってしまった。


www.youtube.com

オープニングのダンスのあとは、一本目の演目がはじまった。チラシ上では「オバハンクラブの無法者」となっていたが、実際に上演・朗読されたのは椋鳩十の「大造じいさんとガン」だったようだ。Wikipediaに概要がある。聞いているときに椋鳩十っぽい話だなと思っていたのだが、終演後に観客のひとりから「ああ、なつかしいですね、この話」という指摘があった。いくつかの小学生の国語教科書に掲載されていたそうだが、私は記憶がない。ご飯を食べながら見る。

一本目の上演が終わると休憩。進行はゆるゆるだ。カラオケ大会があったのはこの幕間だったと思う。人前で歌うのは照れくさくて、最初に誰が歌うのかは譲り合いになった。栗栖のあが最初にAmazing Graceを歌った。それに引き続き、夏水と青木が歌う。観客の一人も歌った。私は歌おうかどうしようか迷ったが、結局歌わず。二本目の演目『さすらいの姫君』の上演はカラオケの後だったように思う。『さすらいの姫君』は、高野によると2009年に上演された旧作だと言う。しかしその冒頭部で語られる、コノシロ(コハダのこと)を焼いた匂いが人を火葬した匂いと似ている、というエピソードは私は記憶があった。私が平原演劇祭に通うようになったのは2010年からだが、そのころに平原演劇祭で宮代町のコノシロ(身代)神社の縁起に関わる高野さんの芝居を見ているのだ。コノシロの伝説は日本各地にあるという話もそのときに高野さんの語りから聞いたことを思い出した。そのときの上演演目が今日、コスプレ三人娘によって上演された「さすらいの姫君」という題名だったかどうかは定かではない。
伝説の概要については以下のウェブページに記されていた。

adeac.jp

 

「さすらいの姫君」は、コノシロのおかげで命拾いした姫が時空をさすらう話だ(と思う)。平原演劇祭どうよう、「みんなのへいげん」も演じられる、語られる内容よりも、演じられる状況と空間、俳優の存在のほうに気を取られてしまって、テクストの中身はうやむやになってしまう。

会場の外の風景、聞こえてくる飛行機の音、西武池袋線の電車の走る音を背景に、メイドのコスプレの三人娘の口から発せられる古語の台詞が重なっていく。俳優の身体と声、空間のコンビネーションが作り出す空気のなかに、鯛飯を食べながら、身を委ねる不思議で心地良い時間。平原演劇祭、みんなのへいげんは、民俗学的でアヴァンギャルドだ。

二本目の演目が終わったあとはぐだぐだとゆるい時間が過ぎていった。生誕祭なのでケーキも食べた。三人娘のダンスで公演は締めくくられた。

観客数が少なかったこともあり、食べ物が大量に残った。残った食べ物は、ラップで包んだり、ビニール袋に入れて持ち帰ることに。私は豚汁を持ち帰った。後片付けが終わったのが午後6時前だった。
高野竜さんは今日は見ているだけだったが、体力を消耗したらしく、最後のほうは長椅子の上で気を失っていた。

 

 

 

 

2024/03/22 第50回赤門塾演劇祭

 

 

 




 在野のヘーゲル研究者、哲学者の長谷川宏が所沢市の住宅街に地域の小中学生を対象とした学習塾、赤門塾を開設したのは1970年だった。赤門塾は2020年に50周年となったが、塾が開設された数年後からはじまった赤門塾演劇祭も今回で第50回目の開催となった。赤門塾の運営はもう大分前に長谷川宏から、その息子の長谷川優に移管している。個人経営の小さな私塾が半世紀以上にわたって存続しているのも稀有だと思うが、その私塾が毎年三月最終週の週末に行う演劇祭というイベントも半世紀にわたる長い期間、ずっと続いているというのは驚異的なことだ。そもそも演劇祭を定期的に開催している塾は赤門塾くらいだろう。

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2024/03/14 MODE『うちの子は』@上野ストアハウス

MODE『うちの子は』

作:ジョエル・ポムラ

翻訳:石井惠

演出:松本修

美術:松本修

音響:藤田赤目

照明:大野道乃

会場:上野ストアハウス

企画・制作:MODE

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久々に会心のフランス現代演劇作品の舞台を見た、という感じだった。ポムラの戯曲はこんな風にやるのか、こんな風にやって欲しかったんだな、という自分の頭のなかに漠然とあった舞台のイメージが具現化されたような上演だった。

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2023/11/18 空風ナギ生誕祭@チャンドラ・スーリヤ

  • 出演:のあんじー(栗栖のあ・アンジー)、猫道(猫道一家)、空風ナギ
  • 会場:チャンドラ・スーリヤ(南林間)
  • 2023年11月18日(土)18時〜20時45分

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空風ナギは平原演劇祭の常連だった女優で、特に2019年から2020年にかけては武田さやと二人で孤丘座というユニット名で、高野竜とともに8回の野外劇公演を行った。新型コロナの世界的流行がはじまり、多くの人々が自宅に蟄居することを強いられた2020年4月に孤丘座の解散公演が行われ、それ以来、平原演劇祭が企画する特異な野外劇に果敢に挑む特殊女優から、「普通の女子大生」に戻ったのだと私は思っていた。確か2020年度は彼女の大学卒業年度だったと思う。

otium.hateblo.jp

その孤丘座最終公演以来、平原演劇祭で彼女の姿を見ることはなかったのだけど、今年の二月に行われたのあんじーの栗栖のあの大失恋回復祈願公演(この公演後も長らくの間、のあは失恋の痛手をひきずり、ボロボロの状態だったようだが)のとき、久々に空風ナギに会った。そのときは彼女は出演者ではなく、観客として客席に座っていた。三年ぶりで、マスク姿だったため、最初は私は彼女に気づかなかった。大学の演劇科に学士入学し、演劇活動を再開するつもりだ、とそのとき、話してくれた。

大学時代にあまりにも特異で過酷だった平原演劇祭に深くコミットしてしまった彼女は、それゆえに私は演劇から離れてしまったのだと思っていた。実際、平原演劇祭に関わった女優でいなくなってしまった人は少なくない。一度大学を卒業した後、演劇科のある大学に学士入学したと聞いて、今度はいったいどんな演劇を彼女は目指すのだろうかと少し興味を持った。

演劇生活再出発企画として自分自身で「生誕祭」という公演をたちあげのには少し「おお」と驚いたし、そこにはのあんじーも参加するということだったので、告知が出ると私はすぐに予約を申し込んだ。

公演会場は小田急線の中央林間駅からさらに一駅行ったところにある南林間駅近くのネパール料理屋だった。下北沢で名取事務所の公演を見た後、南林間に向かったが、これが思っていたより遠くだった。町田、相模大野よりさらにかなたにある。

開演予定時刻の18時ちょっと前に会場についた。小さなネパール料理レストランに30人くらいの観客がいたのではないだろうか。観客の年齢層の幅は広くて、出演者と同世代の20代の人たちから、60過ぎのおっさん、おばさんまで。おすすめだというダルバード定食を注文したが、人が密集していてテーブルの上は他の人の注文で塞がっている。果たして食べられるのかどうかちょっと心配になる。

18時10分ぐらいにオープニング。ナギさんとパンダ、それから白布頭巾をかぶった人が出てきてグダグダと歌ったり、踊ったりして、強引に始めてしまうというかんじで。

オープニングのあと、最初にパフォーマンスを行ったのは、のあんじーである。ふたりで漫談風の自己紹介のようなことをやってから、岡本かの子の「」の上演にすっと移る。漫談から本編への移行のしかたは落語を思わせる。のあんじー目当ての観客もいたようだが、このひきこみかたは手慣れたものだ。あらかじめ用意してあった卵をガラスの容器にいれ、それを二人の上腕部に挟む。卵が落ちないように、二人は身体をくっつけたまま、「星」のテクストを交互に語り始めた。「星」は岡本かの子がエジプトを旅行した際に見た星空について書かれた短いエッセイだ。センチメンタルで美しい詩的な文章である。あんじーの髪型と化粧は、テクストに合わせクレオパトラ風(?)になっているようだ。

単にテクストを朗読するのではなく、卵を使って、不動の状態で交互に語るという発想がおもしろい。のあんじーは野外劇ユニットで動きながら語るのが基本だが、ここではあえて動かないように自らを縛っている。岡本かの子の詩的なテクストの朗読の途中で、栗栖のあがクリスチャンとして旧約聖書のエピソードを強引に入れ込んでいくという仕掛けもよかった。この聖書解説に熱が入り、のあは身体を動かしはじめ、卵が落ちそうになる。その対応にあわてふためくあんじーの様子を観客が笑う。
余韻をもたらす最後の朗読のためもうまい。のあんじーは観客の反応をコントロールする術を心得ている。上演時間は35分くらいだったように思う。終演後、茹で玉子が観客に配られた。

のあんじーにつづいて、猫道一家の猫道のパフォーマンスが行われた。反復されるBGMに乗せて語られるリズミカルで私的で詩的な語りだった。このスタイルのパフォーマンスを「スポークンワード」と本人は読んでいる。ラップよりは、語りの要素が強い。そして語りのことばは詩的であり、物語的だ。フランスのslamはこれに近いと思う。

私が猫道のパフォーマンスを見るのはこれが初めてだったが、とても気に入ってしまった。自らの体験を歌うものが3曲、そして「失恋電気」という過去の失恋の体験ゾーンに入るとそこに電力が生じ、当事者が感電してしまうというナンセンスが1曲。私小説的な曲は、体験をslam化して、再構成することで、客観的で自虐的な笑いと文学性を獲得している。そして朗唱のリズムや力強さも印象的だった。言葉も動きもキレがあってかっこいい。日本語でのこの主のパフォーマンスを見たのは初めてだったのでとても新鮮だった。彼の公演はまた見てみたい。

個性的で印象的なパフォーマンスが二つ続いたあとに、生誕祭の主役の空風ナギの演目である。すでに行われた二つのパフォーマンスの強さに果たして彼女が対抗できるのかどうか、実はちょっと心配になった。主役の彼女がしょぼいものをやるわけにはいかない。彼女も自ら、自らのためのイベントを企画し、そしてこの二組の強烈なゲストを呼んだからには、相当な覚悟で挑んだはずである。私の心配は杞憂だった。空風ナギのパフォーマンスは、前の二つのパフォーマンスに対抗できる力強さを持っていた。いやむしろ、前の二つの演目との相乗効果で、さらにパワーアップしていたかもしれない。

それは数百枚の紙に書かれた彼女の自分史のエピソードの赤裸々な断章的告白だった。そこで告白されたのは、他人との関係性の構築で常に傷つき続けた自分のすがたである。自己愛に流されることなく、欺瞞に逃げる誘惑を退け、彼女は自意識と徹底的に向き合う。30分以上にわたってその告白は続いた。彼女はこの誕生日で新たに自分を産むと宣言する。その宣言は彼女の痛切な叫びであり、願いであるように思えた。

 

2023/11/18 名取事務所『慈善家-フィランスロピスト』@下北沢『劇』小劇場

  • 2023年11月17日(金)~12月3日(日)

  • 劇場:下北沢「劇」小劇場

  • 作:ニコラス・ビヨン

  • 翻訳:吉原豊司

  • 美術:杉山至

  • 照明:桜井真澄

  • 演出:小笠原響

  • 出演:藤田宗久、鬼頭典子、加藤頼、荒木真有美、谷芙柚

  • 評価:☆☆☆☆☆

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芝居がはじまって数分で、おもしろい作品であることが確信できた。

感嘆し、唸らざるを得ない見事な戯曲、そしてその戯曲をテンポよく明瞭に提示する俳優の演技も素晴らしい。アメリカの製薬会社のスキャンダル事件の現実から敷衍された美術館を舞台とする台詞劇だった。

舞台はとある美術館の事務室である。背景の壁に横長の抽象画がかかっている。白地のキャンバスに粗い霧吹きで原色をちりばめたようなこの抽象画は、舞台の重心のような存在感があり、独立した美術作品としてもかなりいいものだと思う。三方の壁は二重になったむき出しの鉄筋で、密室であるはずの美術館事務所は視覚的には素通しになっている。

開演前、および劇中の暗転の「間」には、抽象画がスクリーンとなり、戯曲の題材となったサックラー一家の製薬スキャンダル事件についての解説が映し出される。製薬会社の成功で巨額の富を築いたサックラー一族は、オピオイドという極めて中毒性の高い麻薬性鎮痛剤の製造・販売によって告発され、非難されるが、その一方で世界中の美術館や学術機関に多大な寄付を行ってきたフィランソロピスト、慈善家でもあった。フィランソロピーはアメリカ社会では、企業のさまざまな社会的貢献活動や慈善的寄付行為などを指す。

カナダの劇作家ニコラス・ビヨンが名取事務所のために書き下ろしたこの新作戯曲では、美術界をゆるがしたこの大スキャンダルで、当事者たちがどのようなやりとりを行ったのかを再現する。

記号的ではあるが、しっかりとその細部まで構築された人物像を演じる俳優たちのメリハリのある台詞のやりとりによって、登場人物の個性や舞台の状況は明瞭に提示され、テンポ良くリズミカルに劇は進行していく。有機的に台詞が反応し合う俳優たちの演技のアンサンブルは緊密だ。優れた新劇の芝居のあの快ちよさによって、劇の展開にすっと引き込まれる。緊迫感がある重要なポイントではハンドパンのBGMが流れる。そのBGMによってぐっとその場面の緊張度が高まり、クローズアップされたような効果があった。

開演前および幕間の暗転中に、背景の抽象画をスクリーンにして映し出されるサックラー一家の製剤スキャンダルとフィランソピーについての事実が、その前面で俳優たちによって演劇的虚構として敷衍される対比の仕掛けがおもしろい。美に対する純粋な芸術的動機と造形芸術を通した真摯な社会的アクションと超金持ちブルジョワたちの虚栄と金銭のやりとりの道具である世俗的欲望の両面を抱えざるをえない美術館、美術界の欺瞞についての問いかけが劇中で行われる。

美術館の館長、顧問弁護士、そして若いインターン、美術館の理念に従い、正しく振る舞おうとするのは女性たちだ。美術館の理事長そして自分の製薬会社のスキャンダルから一族を守ろうとするフィランスロピストは、世の悪徳に流されるしたたかな悪人である。しかし実は社会や人間はそんな善悪の二項対立でなりたつような単純なものではないことが示される。一人の同じ人間が美しいこともすれば、醜いこともする。あるとき、ある面は善人であるものが、別のとき、別の機会にはおぞましい振る舞いをすることは普通にあることなのだ。たいていの人は、状況によって、悪いこともすれば、いいこともするのだ。

登場人物のなかで一番若い、女性のインターンの正義感には清々しい気持ちになるのだけど、彼女とてこの世の善悪のあいまいさからは自由ではない。一人の人間が、矛盾無く、一貫して正しく生きることの困難が提示される。

最後の最後まで劇作的仕掛けが効いている。

戯曲の見事さという点では今年見た演劇の中では随一の作品だった。

 

 

2023/09/24 平原演劇祭 #茄子演劇

#茄子演劇

  • 2024年9月24日(日〕18:00-20:00
  • 調布駅前たづくり 301号室
  • 出演:角智恵子、高野竜
  • 料金:1000円+投げ銭

久々に参加する平原演劇祭である。今回の公演の告知はいつも以上にひっそりと行われていたような感じがあった。このところ、〆切のある仕事に追われ立て込んでいたため、日付と開始時間、場所、そして#茄子 というキーワードだけ頭に入れて、会場に向かった。

会場となる調布駅前たづくりとは、正式名称が調布文化会館たづくりで、調布市立の立派な文化施設だった。平原演劇祭らしからぬ近代的な高層ビルだ。この場所を会場に平原演劇祭が行われるのは今回がはじめてのはずだ。調布市在住の平原演劇祭常連俳優がいて、そのつてで文化会館にある会議室を借りたとのこと。

調布は高野竜の居住地の埼玉県宮代町からかなり遠い。私の住む練馬区からもけっこう遠い。上演の場が上演される作品としばしば緊密なつながりを持っている平原演劇祭だが、今回、調布市にあるこの会場が上演会場になったのは特にそういう理由はなさそうだ。この建物の三階にある25平米ほどの会議室が上演会場だった。18時開演で、私が到着したのは17時50分頃。到着したときには観客は5名だったが、最終的には9名の観客が集まった。告知がごくささやかであったことを思うとよく集まったと思う。

ここしばらくは主宰の高野竜さんの衰弱が続いるため、公演回数こそ減ってはいないが、公演規模は縮小され、告知もtwitterの公式アカウントで気まぐれに行われるだけのことが多く、観客数は一桁のことが多い。高野竜さんとしては、出演者にできるだけギャラを出したいということである程度は観客は来て欲しいようだが、その一方で集客にはそれほど熱心ではなく、ごく少数の観客であっても誰か見に来る人がいればいいと思っているようでもある。今回の上演は敢えて告知は控えめにした、というようなことを言っていた。会場には今回の公演に関わる文献等が並べられていた。

正面の長机には鍋が置かれていて、このなかに入っている茄子を食べることになるのだろうなということは見当がつく。

前代未聞の #茄子演劇は、会議室内のモニタでスタジオジブリ作品で作画監督を努めていた高坂希太郎監督のアニメ映画、『茄子 アンダルシアの夏』(2003年)を全編見ることから始まった。47分の作品を最初から最後まで見た。映画公開時にはかなり大々的に宣伝されていたので、私はこの映画の存在は知っていたが、「茄子」を冒頭に置く奇妙なタイトルや、自転車競技という私がまったく関心を持っていないスポーツが題材の映画ということで、まったく関心が持てなかった。もちろん見たこともない。

とにかく47分最初から最後まで見る。アンダルシアの地を走る自転車レースの様子が、主人公である自転車レーサー、ぺぺを中心に丁寧に描かれてる。レースの展開と平行して、このレースを見守るぺぺの兄や親族、友人たちの様子も描かれる。綿密な自転車レースの描写とそのレースに出場している選手の家族や友人とのエピソードを平行して提示するスタイルは、昨年上映された映画『THE FIRST SLAM DUNK』を連想させた。「茄子」は、自転車レースが行われているアンダルシアの街道沿いでバル(酒場)のおやじが店で出すワインのつまみとして映画のなかに何度か登場するが、本筋とはからまない。「茄子」がこの映画のなかでどういう意味合いで出てくるのかはわからなかった。

映画の上映が終わると、竜さんのミニレクチャーがあり、この映画の原作が黒田硫黄のマンガ『茄子』であることを知る。ただし映画は『茄子』に収録されている一エピソードを敷衍したものとのこと。マンガ『茄子』は茄子をテーマとする連作短編集で、原作マンガでは「茄子」が主、自転車レースのエピソードのほうが従なのだ。映画自体は自転車競技に関心のない私もそこそこ楽しんで見ることができたのだが、#茄子演劇 だけにこの公演で重要なのは「茄子」である。映画のなかでバルのおやじが供する小ナスの漬物が、今回の平原演劇祭の出し物の核だった。ここで鍋に入っていた小ナスの漬物が、ぶどう酒と葡萄ジュースとともに観客たちに振る舞われた。

平原演劇祭で出される食べ物は常に美味しいが、パプリカも入っているこのスペインのナスの漬物も、ほどよい酸味と辛みがあって実に美味しかった。赤ちゃんのこぶしくらいの丸い小ナスは日本では流通していないもので、高野竜さんの奥さんが種をまいて育て、収穫したものなのだそうだ。茄子の種まきから今日の平原演劇祭は始まっていたのだ。二〇個ぐらい小ナス漬物が鍋のなかには入っていたが、9人の観客たちによって全部なくなってしまった。私は下戸なので葡萄ジュースと一緒に食べたが、この茄子の漬物はワインとよく合うらしい。

茄子を食べる時間が終わると、最近、何を思ったのか坊主頭にした角智恵子が、『ドン・キホーテ』にある食事場面の朗読を始めた。角は、ぬいぐるみを手に持ち、スパークリングワインを飲みながら、会場内をうろうろと移動し、立ったり、座ったり、寝転んだりしながら『ドン・キホーテ』を読んだ。

角の朗読のあいだに、高野竜の短いレクチャーが何回か挿入され、『茄子』と『ドン・キホーテ』のつながりの背景について語った。アニメ映画『茄子 アンダルシアの夏』の原作マンガ『茄子』のアンダルシアの茄子についてのエピソードにはネタ本があり、それはスペイン文学者の荻内勝之のエッセイ『ドン・キホーテの食卓』(新潮社、1987年)だと言う。なるほどそれで角は『ドン・キホーテ』の食卓場面を読んでいるのか。しかし『ドン・キホーテ』の食事場面には、実は茄子が食卓に上る場面はまったくないと言う。となるとなぜ「茄子」という話になる。

 

一昨年12月の崖転落による脳挫傷以来、ヘロヘロの状態が続く高野竜だが、この日の公演はときおり意識が遠のいているのではと思えるところはあったが、なんとか持ちこたえていた。この日の夜は調布市の花火大会が行われていて、上演中にたびたび、花火の音が聞こえてきた。

ドン・キホーテは作中では茄子を食べていない。にもかかわらず荻内勝之『ドン・キホーテの食卓』の第一章は「茄子から生まれた『ドン・キホーテ』」となっている。これは、いったいどういうことなのか?

古典的名作というのはおうおうにしてそういうものではあるが、『ドン・キホーテ』もその作品と主人公の知名度の高さにもかかわらず、その内容は実はほとんど知られてない物語のひとつだ。私は中学生ぐらいのときに、子供用にリライトされたものは読んだことがあるような気がする。大学生のときにちゃんと読んでみようと全訳版を手に取ったような気がするが、数十頁ぐらいしか読めなかったような気も。

『ドン・キホーテ』といえば中世の騎士道物語のパロディで、頭のおかしい老騎士ドン・キホーテが風車と戦う場面がある、くらいしか思い浮かばない。あとはあの雑然としたショッピング・センターのチェーンが、ドン・キホーテといえば一番なじみがある。バランシン版のバレエを大昔にパリ・オペラ座で見た経験もあったような気がする。いずれにせよ『ドン・キホーテ』についてのイメージは曖昧だ。

『ドン・キホーテ』の作者はセルバンテス(1547-1616、シェイクスピアの同時代人だったか)だが、『ドン・キホーテ』の設定では、この作品はラ・マンチャに住むアラビア人がアラビア語で書いたもので、それをセルバンテスが町の市場で買取り、アラビア語のできる青年の助けを借りて、スペイン語に翻訳したもの、となっているのだ。そして『ドン・キホーテ』の「真」の作者の名前も作中で言及され、それは「シデ・ハメテ・ベネンヘリ」、日本語に訳すと「茄子大好き先生」となると言う。

こういったことを高野さんは、角の朗読のあいまの短いレクチャー時間に、語った。高野が公演の中で語った内容や、騎士道物語の架空の「原典」作者としてモーロ人(アラビア人)を設定し、その名が「茄子」先生となった理由などについては、『ドン・キホーテの食卓』に記されていて、これらは意外性があって非常におもしろい。公演を見た翌日に派萩内勝之『ドン・キホーテの食卓』を呼んで、平原演劇祭の #茄子演劇の狙いがはっきり見えてきて、昨日の演劇体験はさらに興味深いものとなった。

最初に見たアニメ映画『茄子 アンダルシアの夏』で登場人物たちが食べる茄子は、マンガ『茄子』を経て、『ドン・キホーテ』の世界、茄子をイベリア半島にもたらしたアフリカを出自とする人たちにまでつながるのである。

 

otium.hateblo.jp

平原演劇祭ではしばしば上演される作品に登場する食べ物が観客に供される。食を出発点に、上演プログラムが組まれているように感じられることが多いが、今回の# 茄子演劇 も、着想の原点となったのはおそらく『ドン・キホーテの食卓』だろう。2017年のロシア革命一〇〇年祭として上演された『亡命ロシアナイト』は、平原の食事演劇のなかでも最も印象的なもの一つだが、そのときは1977年にソ連からアメリカ合衆国に亡命した2名の批評家によって書かれた『亡命ロシア料理』が上演の核となるテクストだった。平原では食卓を俳優が演じるだけでなく、その料理を作り、観客が食べるところまでプロデュースすることで、彼方にある別の土地、演劇的時空を出現させ、それを演者と観客が共有するのである。

スパークリング・ワインを飲みながら、『ドン・キホーテ』の食卓場面の朗読を続けていた角は、だんだん酔いが回って、ぐでぐでの状態になってしまった。もともと角は下戸とはいえないものの、酒はあまり飲めないのだと、twitterでつぶやいていた(もっともこの角のつぶやきも「演出」されたものである可能性もある)。最後は酔い潰れてしまうような形で、唐突に角は意識を失い、平原演劇祭の#茄子演劇は終演した。

 

 

 

2023/09/18 復活!演芸祭@東村山カフェブレッソン

  • 出演:お芝居デリバリーまりまり、出張お芝居ぷちまり、アイリッシュ・ラディッシュ
  • 場所:カフェブレッソン(東村山市久米川町4-34-15)
    日時:9月18日(月曜祝日)13時-14時40分
  • 演目:アイルランド・トラッド音楽、『北風と太陽』、『パパ、お月様取って!』、『ハーメルンの笛吹き隊』、『オレオレ詐欺撲滅演劇』

お芝居デリバリーまりまりを主宰する萩原ほたかとは知り合って10年ぐらいで、私が大衆演劇を見るようになったのは彼女のツィートがきっかけだった。彼女は当時、一見劇団の熱狂的な伝道師で、twitterでとかくいろんな人に、手当たり次第というかんじで、この劇団の公演を勧め、引き込もうとしていた。ほたかはかつては、演知る人ぞ知る著名な劇団のメンバーだった。その劇団を退団したあとは色々と紆余曲折を経たようだが、ここしばらくは亀山空という若者と「お芝居デリバリーまりまり」というユニットでさまざまな場所で演劇活動を行っている。
私は彼女のパートナーである亀山空の戯曲の公演には、これまで何回か見に行ったことはあったけれど、二人でやる「お芝居デリバリーまりまり」の公演を見に行ったことはなかった(ような気がする)。人付き合いや他者との距離のとりかたという点では極端といっていいほど不器用であるが、そうであるがゆえの純粋さや真摯さを持っているように思えるこの二人の演劇活動には、前から興味があっていつかその上演に立ち会いたいと思っていたのだが、昨日ようやくその機会を得た。

今回の公演は、お芝居デリバリーまりまりのほか、まりまりに触発された浜松の静岡文化芸術大学の学生たちによる移動劇ユニット《出張お芝居ぷちまり》、そしてこれも大学生ぐらいの若者たちによるアイルランド音楽のバンド、アイリッシュ・ラディッシュが共演し、東村山市のカフェで開催された。1時間40分ほどの時間に上演されたのは子供向けの短い芝居が三本、亀井空が書いた大人向けの短編戯曲『オレオレ詐欺撲滅演劇』で、これに加えアイリッシュ・ラビッシュによるミニライブがあった

観客は15名ほどで、その多くは若いお母さんと小さな子供たちだった。東村山駅から15分ほど歩いた場所にあるカフェでの、親密でアットホームな雰囲気のたのしい時間を過ごすことができた。

子供向け芝居はいずれも5分程度の短いもの。出張お芝居ぷちまりの二人はまだ学生というが、その動きはのびやかで美しく、小さな子供たちはすぐに彼女たちの作り出す世界に引き込まれていくのが見て取れた。アイリッシュ・ラビッシュを「笛吹き隊」とした『ハーメルンの笛吹き隊』は、会場にいる子供たちやその母親たちもその劇世界に引き込む楽しい演出があった。

亀山空の短編戯曲『オレオレ詐欺撲滅演劇』は、その余興じみたタイトルとは裏腹に、ユーモラスなやりとりのなかに、自分の存在のありかたへのとまどいと真面目な問いかけが浮かび上がる、亀山空を知っている人ならいかにも彼らしいと思えるような繊細で美しい作品だった。おちゃらけたタイトルで損をしているような感じもするけれど、見終わってみるとやはりこのタイトルがふさわしいような気もしてくる。

アイリッシュ・トラッドを演奏する若者たちは明朗で爽やかで、かつ今時の若者らしい繊細さも感じさせる爽やかな人たちだった。演奏も軽やかで、彼ら自身が音楽を楽しんでいることがよく伝わってきた。その雰囲気は観客の小さな子供たちにも伝わっているようにみえた。上演の最後は、彼らの演奏に会わせて大人も子供も踊った。

ささやかで、親密で、そして優しさに満ちた牧歌的な時間だった。互いへの慈しみが感じられるような心安らぐ時間であり、あるいは弱くて優しい人たちが世の中の荒々しさから一時の間避難するための小さな聖域のような公演だった。

萩原ほたかにとって、演劇表現とは、ギラギラとした自己顕示の場ではない。それはあまりに傷つきやすい自分を守るためのアジールだ。そして彼女は自分と同じように傷つきやすい人たちとこの小さなユートピアを共有しようとしている。彼女は演劇を通じて安住の地にたどり着いた。そして自分がたどり着いた安住の地は、彼女の周りにいる彼女と同じように不器用で繊細な人たちにも捧げられている。こんな場所を作り出すことができた彼女は演劇人としてなんて幸せな人なのだろう!そんなことを思った公演だった。

 

2023/09/18 のあんじー デス・ガイド演劇『変身』

出演:のあんじー(栗栖のあ&アンジー)@noangie0804

日時:2023/9/17(日)13時〜14時40分

場所:新世界まちなか案内所(スタート地点)〜SPACE★HOUSEのビル屋上(ゴール地点)
料金:2000円+投げ銭

4年前から活動している20代前半の同い年の女性二人のユニット、のあんじーの公演は2019年8月の第2回公演から追いかけているのだが、とりわけ昨年の「路地裏の舞台にようこそ2022」での移動劇『夜を旅した女』が私にとってはあまりにも衝撃的な演劇体験で、私は一気に彼女たちの演劇活動に引き込まれてしまった。釜ヶ崎を舞台とする黒岩重吾の初期風俗推理小説をベースとする移動劇『夜を旅した女』は、2022年に私が見た演劇作品のなかで圧倒的に印象的なもので、この公演についてはブログにレポートを記している。

平原演劇祭の高野竜の影響のもと、非劇場空間での上演活動をはじめたのあんじーだが、文学作品と個人的体験をベースにした作品を野外移動劇で行う彼女たちは、キッチュで粗っぽくいエネルギーに満ちた独自のスタイルを確立しつつある。

 

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今年の5月28日に六本木の喫茶「文喫」が、六本木アートナイトの深夜開催に合わせて行ったイベントで上演された、移動徘徊劇 #四象演劇『踊羅木偶』は、カフカの短編小説で言及されるなぞの生物「オドラテク」を探し求め、深夜1時から2時半にかけて六本木の街を疾走する痛快な野外移動演劇だった。これは2月に激しい失恋をした栗栖のあとこの3月に美大を卒業し、某大企業で働きはじめたアンジーが抱える苦しみと違和感が無防備に表明された優れた私演劇でもあった。スカした夜の六本木の町に、強引に割り込んで、場所を切り拓き、自分たちの居場所にしてしまう痛快な演劇だったが、この作品については時間がなくてレポートを残せていない。

昨年の『夜を旅した女』に引き続き、#路地裏の舞台にようこそ2023でも、のあんじーは野外劇の上演を行った。昨年は国道43号線、JR環状線の南側の通称「釜ヶ崎」一帯が野外移動劇の舞台となったが、今回の移動劇『変身』では釜ヶ崎から環状線を挟んで向こう側、新世界の繁華街の真ん中にある《新世界まちなか案内所》が出発点となった。彼女たちの出で立ちの姿は写真のとおり。栗栖のあはおばQのような唇メイクに黒帽子に黒上下の男装。アンジーは髪の毛を突っ立ていて、衣装は銀の「宇宙人」風(?)。
開演前に熱心なクリスチャンである栗栖のあが、この扮装で観客に生き生きと聖書の話をしている。

五月の六本木深夜徘徊劇ではカフカの短編小説「家のあるじとして気になること』をベースとしていたが、今回はカフカの『変身』がとりあげられていた。カフカ『変身』のおそらく全編が街中を移動しながら読み上げられた。『変身』に加え、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』も上演に組み込まれていた。この2作品のからみには当然何らかの意図があるはずなのだが、今のところ私にはそれがどういうからみなのかわからない。上演時間は1時間40分ほどだったが、晴天で33度の高温のなかを歩き回るのは体力的にかなりしんどかった。ずっと喋りっぱなしののあんじーの二人も、若いとはいえ相当きつかったようで、途中ポカリスエットで水分を補給しながらの炎天下移動演劇となった。暑さと人混みゆえか、幸い、昨年の『夜を旅した女』や5月の六本木での『踊羅木偶』のように全力疾走する場面がなかったのが助かった。失踪していたら私は倒れていたかもしれない。

観客は途中増減があったが、おおむね20名程度。#路地裏の舞台にようこそのスタッフ数名が上演中は常につきそい、一般の通行者たちの通路の確保などを行っていた。

《新世界まちなか案内所》からはじまり、最初のうちは新世界の通天閣近辺を回った。このあたりは繁華街で人が多い。大声でカフカのテクストを読みながら、徘徊する異装の若い女性二人とそれに付き従う20名ほどの集団は、通りがかりの人たちの注目をそれなりに集めはしたが、毒々しい新世界の賑わいのなかではあまり違和感がなく、意外に風景の溶け込んでしまったような感じもあった。

セルフ祭が開催中だった新世界市場のなかものあんじー移動野外劇は突っ切っていったが、セルフ祭の参加者自体がきてれつな格好をしている人ばかりなので、のあんじーの二人はそれにまぎれてしまった感があった。今回は炎天下での体力的にかなり過酷な行軍演劇ではあり、観光客で一杯の新世界の繁華街に切り込むという冒険はあったが、率直に述べれば、カフカの『変身』というテクストの選定、上演のなかで立ち寄った場所の意外性、そして街中演劇の「絵」としての面白さは、釜ヶ崎一帯を歩き回った昨年の『夜を旅した女』と比べると弱い。町自体のエネルギーが強烈で、のあんじーの二人が町の日常風景をむりやり切り崩していくというハプニング性が弱まっていた。新世界という場のどぎつさのなかでは、のあんじーの特異性が発揮し切れていないような気が私にはした

カフカの「変身」を選択した理由はあるはずだが、今回の上演の場やのあんじーとこのテクストの関わりというのが見えにくかったというのも、今回の公演に今ひとつ私が乗れなかった理由だ。さらに暑さによる体力消耗が大きかったというのもあるだろう。

環状線の線路と国道43号線を超え、賑わいのない釜ヶ崎の散文的な風景のなかでのほうがのあんじーの芝居が冴えていた。

空き地でのミュージカル場面、そしてハーメルンの笛吹きさながら、リコーダーを演奏しながら20名ほどの集団を狭い釜ヶ崎の路地裏へと先導していくルートの選択が秀逸だった。

エンディングは#路地裏の舞台にようこそ2023の会場のひとつであるSPACE★HOUSEのビルの屋上だった。この屋上からは釜ヶ崎一帯の風景を見下ろすことができる。エンディングでは赤い風船が空に向かって放たれた。地上の釜ヶ崎の風景と青空のなかに浮かぶ赤い風船の絵は詩的で美しかったが、のあんじー野外劇のエンディングとしては若干甘すぎるような気も私にはした。

 

2023/06/18 平原演劇祭2023 #餃子学会@宮代町進修館食堂

 

2021年の年末の崖転落事故以来、平原演劇祭主宰の高野竜さんは一気に衰弱してしまった。年齢は私とほぼ同じ50代半ばなのだが。公演ペースは依然、月に2回ぐらいのハイペースは維持されているものの、2023年に入ってからは、とにかく高野さんの身体機能の低下が著しいようだ。

©コオリヤマ氏のデザインのTシャツを今日は着ていった。そのTシャツに書いてある文句を見て、高野さんの奥さんがそれをもじり、「落ちる体力、減る体重」とつぶやいた。高野さんの健康状態について言っているのだ。

今回の餃子学会については、開催日が近づいても、現在、平原演劇祭のほぼ唯一の広報告知ツールであるTwitterの投稿があまりなかった。5月前半に予定されていた平原演劇祭が高野竜さんの体調悪化、入院のため、開催中止となった。#餃子学会についても実施されるのかどうか不安になったので、6月15日にtwitterで問い合わせた。

すると「やりますよw 私が倒れててもやりますよww」という返事がすぐに返ってきた。#餃子学会の会場の宮代町進修館は、数年前までの平原演劇祭の本拠地の一つといっていい場所で、これまで何回も足を運んでいる。宮代町のコミュニティセンターである進修館は、回廊のある半円状の独創的な設計の建築物だ。この会場の食堂で催された平原演劇祭で私が忘れられないのは、当時小学生だった娘といった2011年秋の「鰤の会」だ。私が参加した数多くの平原演劇祭のなかでも最も印象深い公演で、今回久々に進修館食堂を会場とする食事演劇が行われるということで、2011年の「鰤の会」のことを思い出した。

 

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「鰤の会」では、高野竜が大きな鰤を会場でさばき、それをみんなで食べた。あの頃は平原演劇祭に通い始めたばかりだった。娘は今、大学生となり、私も12年分、年を取った。そして竜さんももちろん年をとったのだけれど、この2年ほどのあいだに急速に衰弱してしまった。今日の竜さんもゆらゆら不安定に動きながら、何とか気力をふりしぼって会場にやってきたという様子を見ると、2011年の元気だった高野竜を思い浮かべてしまい、余計寂しい気持ちになった。

正午から開始すると告知されていたので、正午ちょっと前に進修館に到着したのだが、食堂は暗く、人がいない。もしかすると開始時刻を勘違いして、早く到着してしまったのかと思い、twitterを確認するが、やはり正午開始になっている。どうしたものかと進修館の敷地内をうろうろしていると、今日の出演者の最中さんがやって来た。そして正午10分ごろに高野さんがようやく現れた。赤野さんは進修館の事務所にフラフラとした足どりで向かい、食堂使用の手続きを行った。

今回の#餃子学会はそもそもtwitterでの告知があまり活発に行われていなかった。この様子では下手すると観客は私ひとりだけなのかもしれないと思ったのだが、実際には今回はここ2年ぐらいの平原演劇祭では一番盛況で、25名ほどの観客が参加した。しかしその観客の大半は、小学校低学年以下の子供とその親(父親も3名ほどいた)という平原演劇祭とはこれまで縁がなかったであろう人たちだった。

今日の餃子作りのイベントの餃子マスターは、高野さんの妹さんだ。数年前まで平原演劇祭で何回かお会いしたことがある。今日の親子連れ観客(?)は、平原演劇祭目当てではなく、高野さんの妹さん企画の親子餃子イベントということで集まった人たちだろう。twitterを見ると、「みんなのはらっぱ」という表現集団のメンバーが参加するとあったので、高野竜の妹さんがこのグループのメンバ—なのかもしれない。子供は乳児から小学校2年生ぐらいまで6−7名いた。

餃子作りは高野妹が中心となって行った。高野竜さんは、最初に「皮を作る班と餡を作る班に分けます」と説明するのが精一杯で、参加者が餃子作りに励んでいる時間の大半は食堂外にあるベンチで昏睡状態だった。

私はなんとなく餡班へ。今回の観客のなかでは、数少ない平原演劇祭常連観客なのだけど、他はほとんど親子連れなので、得体の知れないおじさんとして孤立している。まず大量のキャベツの千切りを作り、それを大鍋で短時間煮て、しなしなにする。あとはネギやニラ、調味料、ミンチと一緒にこねてこねて餡を作る。

皮班は小麦粉を捏ねて皮のもととなる棒状の練り物を作る。包むのは全員でやった。一部の餃子は海老と大葉入り。子供の握りこぶしぐらいある巨大餃子が大量に作られた。形状はばらばらだ。餃子を大勢で作ると楽しい。全部でいったい何個ぐらい作っただろうか?餃子の制作時間は1時間ぐらいかかったと思う。

餃子が大きいので焼くのがちょっと大変だった。まず餃子の皮のすべての面に焼き焦げをつけ、ちゃんと餡が熱せられるように、10分ぐらい蒸し焼きする。

餃子は自分で手作りするのが一番美味しいように私は思う。人気店の餃子よりも、なぜか家で手作りした自家製の餃子のほうがおいしく感じる。平原演劇祭の#餃子学会の手作り餃子も、見た目はバラバラで不格好ではあるが、味は絶品だった。ラー油と醤油、酢のタレにお好みで刻みニンニクを添え、さらにグリーンハリッサが、個人的には餃子の薬味として秀逸だった。巨大餃子なので三個食べるとお腹いっぱいになる。私は5個ぐらい食べてしまったが。他の参加者の方々も一人あたり3、4個は食べていたようだ。

意識を取り戻した高野竜が、ちょっと誇らしげに、そして照れくさそうに「これこそが平原演劇祭なんです」と3回ほど繰り返し言っていた。確かに新型コロナ以前の平原演劇祭では、食べ物がよく出ていて、その食べ物自体が「演劇」のプログラムの一つとなっていた。

餃子を一通り食べ終わった後、#餃子学会の締めくくりとして、最中さんが、きむらよしお作の絵本『

www.fukuinkan.co.jp

』(福音館書店)を、子供たちに時折話をふりながら、読んだ。

この絵本に出てくる餃子は、ついさっき、自分たちが作って、食べた手作り餃子とよく似ている。

餃子はすべて食べきることができなかったが、余った餃子はいくつかの袋に入れて、希望者が持ち帰った。私も数個持ち帰った。

後片付けが終わったのが午後4時半過ぎ。4時間超えの長時間食事イベントだった。

 

 

2023/03/27 第49回赤門塾演劇祭

 

毎年三月第四週の週末に、埼玉県所沢市の学習塾、赤門塾で行われる赤門塾演劇祭に行ってきた。今回でなんと49回目の開催となる。第47回、48回のレポートは以下に記している。

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今年は10名の小学生(小二から小六)による『山火事のとき』(瀬田隆三郎作)、中学生11名と小学生1名による『八十八話』(山本太郎作)、そして小学生、高校生、大学生、社会人による『ゴドーを待ちながら』(ベケット作)の三作品が上演された。

三作品すべて見に行くつもりだったが、開演時間を勘違いしていたため、小学生の部は見ることができなかったのは残念だった。

会場は塾の教室で広さは、学校の教室の半分ほどの広さ。客席は50席ほどで、小学生の部と中学生の部は予約制になっていた。客席は超満員の状態。通常、赤門塾OB・OGの部が最後に上演されるのだけれど、今年は取りの演目は中学生が主体の「八十八ばなし」になっていた。おそらく舞台装置の入替や片付けの都合があったためだろう。

OB・OG+小学生の部の『ゴドーを待ちながら』は意外な選択だった。サミュエル・ベケットの不条理劇というのはこれまでの赤門塾演劇祭にはなかった趣味であるし、またOB+OGの部は出演したい人も例年多いはずなので、登場人物が多い群像劇的な作品が選ばれることが多かったからだ。2020年は『どん底』の上演が予定されていたが新型コロナのため、公演中止となり、21年は感染対策のため、登場人物が二人の井上ひさし『父と暮らせば』が上演された。しかし昨年はアガサ・クリスティ『The Mousetrap』という登場人物がかなり多い芝居だった。しかし今年は新型コロナへの警戒は昨年より大幅に緩和されているにもかかわらず、登場人物5人の『ゴドーを待ちながら』である。

私が赤門塾演劇祭を見るようになった2018年が『ジョン・シルバー 愛の乞食』、19年がワイルダー『わが町』、20年『どん底』(試演会のみ)、21年『父と暮らせば』、22年『The Mousetrap』、そして23年が『ゴドーを待ちながら』ということで、毎年まったく異なる雰囲気の作品が選ばれている。作品選択の理由を、主宰・演出の長谷川優さんに聞いてみたいところだ。

これまで上演してきた作品とはかなり肌合いが異なる不条理演劇の傑作『ゴドーを待ちながら』は、赤門塾演劇祭にとっては大きな挑戦だったようで、開演前の前説で長谷川優さんが苦笑いしながら「一昨日、昨日と上演したのですが、『わけがわからない』という感想が多くて」と言っていた。私の目から見ても、俳優たちは苦戦しているなという感じはあった。かみ合わない台詞の連鎖をどう処理したものか模索しているように見えた。長谷川優さんの演出は、トリッキーな仕掛けは使わず、戯曲を丁寧に読み取って、その読解から立ち現れる世界をできるだけ、素直に、誠実に舞台化しようというものだ。『ゴドーを待ちながら』もある意味、非常に正統的でオーソドックスな『ゴドー』だったように思う。最初の場面から誰が見ても『ゴドー』の上演であることが一目瞭然だ。

ウラジーミルとエストラゴンの二人の人物の対比がよかった。ウラジーミルを演じたのは高校一年生の男の子、おそらく赤門塾演劇祭に出演するのは今回が初めてだ。それでいきなり主役なのだから大抜擢である。エストラゴンを演じた俳優は大学生の女性で、彼女はここ数年の赤門塾演劇祭で重要な役を演じている名優だ。ウラジーミルが不機嫌そうな無表情であるのに対し、エストラゴンは丸顔で愛嬌があり、くるくると表情が変わる饒舌な芝居だ。ゴツゴツとまるっこい感じのぺあになっていた。分厚い唇がめくれたウラジーミル役の俳優の、憮然とした表情が可愛らしかった。

俳優の衣装はいずれもよくできていた。ボロボロにほつれた具合などディテイルにも凝っている。ラッキー役の俳優のテクノ風の音楽に合わせたダンスは秀逸で、ダンスシーンでは、客席から大きな笑いがわき上がった。ダンスの動きもきっちり決まっていて、キレがあった。

ナンセンスな会話の連鎖の処理には苦労しているように見えた。『ゴドーを待ちながら』の登場人物はいずれも俳優・観客の感情移入を拒むような奇矯で非現実的な人物だ。意味ありげだが、意味不明でとりとめのない会話で、観客をひっぱっていくのは難しい。『ゴドーを待ちながら』はある種の詩劇であり、言葉の飛躍は詩として提示されなくてならない。全般的に会話のやりとりはギクシャクとした感じで、この作品にふさわしいリズムをつかみきれていない。単調に陥り、私は最後のほう、落ちてしまった。

ただゴドーの言葉をウラジーミルとエストラゴンに告げる少年の語りの場面は、この作品の詩情はしっかりと表現されていた。

11人の中学生と小学生1名による『八十八ばなし』(山本太郎)は思いのほか面白い舞台だった。実は今年の赤門塾演劇祭では、『ゴドーを待ちながら』より、この中学生による劇のほうが私は面白かった。

思春期前期の中学生に演劇を上演させるというのはかなりやっかいなことだと思う。赤門塾がそういう塾だということはわかって塾に来ているはずだけれど、とはいっても演劇をやりたくて赤門塾に入った子供は例外的だろうし、皆が皆、赤門塾演劇祭を通して演劇好きになるとも限らない。赤門塾演劇祭の中学生演劇は、演劇部の生徒による学校演劇とはまったく異なるものだ。

『八十八ばなし』は民話風の不条理劇だ。主要登場人物の名前が八十八で、この八十八どもは、みなろくでなしだ。それぞれ、ばくち八十八、分別八十八、外道八十八、百姓八十八、盗人八十八と呼ばれている。ばくち八十八の殺害の首謀者である分別八十八のしれっとした悪党ぶりはさまになっていた。その他の役者の大半は、棒立ちで棒読み台詞だったが、その不器用な演技が、かえって、この民話風劇の不条理な笑いを引き出していて、観客席からは何度も笑い声が聞こえた。私も何回も笑った。いまどきの中学生が、民話的虚構を演じるちぐはぐさが、笑いの仕掛けとして機能していた。なんとなくやる気のなさげな、恥ずかしそうにやってるところがいい。可愛らしい着物と舞台化粧は、彼らが異なる世界の人物となるためには、必要な道具立てであったことがわかる。