『狂気の科学』を正気で読んでいる


狂気の科学 真面目な科学者たちの奇態な実験』を読んでいる。

というのも、翻訳者の一人が大学院時代の指導教員である石浦章一先生なのである。とはいえ、タイトル自体にも魅かれ、手にしたのだが。「狂気の科学」と聞いた時、なんとなく、池上高志先生を思い出し「読んでます」と伝えてしまった。彼は、石浦先生のことを「男気のある人」と慕う。

さておき、この本は、石浦先生が英国を旅行中に書店でみつけ、企画を出版社に持ち込んだそうだ(訳者 前書き による)。さすが、そのへんの嗅覚が鋭い。
ちなみに、この本にまつわる石浦先生のトークイベントが八重洲ブックセンター開催される #とのこと 。私は合わす顔がないので、いかないが、行ってみたい気もする。
2015年9/10(木) 八重洲ブックセンター
石浦章一先生講演会 〜本当にあった狂気の科学〜
東京化学同人刊『狂気の科学』刊行記念
http://www.yaesu-book.co.jp/events/talk/7187/

本書は、1600年から2002年までの「狂気の科学」実験を紹介しているもので(現在、1950年くらいまで読んだところ)、ある種、科学史上のエポックメイキングな実験を紹介していることになり、様々な分野のターニングポイントが描かれている格好になる。面白いのは、先の実験に触発されて行われた後の実験が違う章で登場し、裏話や科学者の為人までも、あの手この手で取材して書かれた本であるため、非常に臨場感がある。古い時代のものほど、時代背景として、人種差別的な社会風土なども描かれており、様々な形で科学が社会に影響されていることも、ジワっと伝わってくる。

ネタバレになるのであまり書かないが、一つ触れると、ドップラー効果の実証実験は、狂気というよりも「お疲れ様」としか言いようがなく、実験者たちに一杯おごってやりたくなる感じで面白かった。
恥ずかしながら、ドップラー効果が元々は「星の光が様々な色に見える理由」の説明として提唱されたということは知らなかった。詳細は省くが、簡単に言うと「高速運動をする天体から発せられる光は、地球に近づいてくるときと遠ざかるときでは違う色に見える」という仮説である。当時の技術では天体に関してこの仮説を実験的に調べることは難しかったのだが、光と同じく「波」である音でも、理論的には同様の現象(近づいたり遠ざかったりすれば違う音に感じる)が観察されるはずである。とすれば、移動する蒸気機関車からトランペットを吹き、それを線路脇から聞けば、機関車の移動に伴い一定であるはずの音が違う音に感じられるに違いない(救急車のサイレン音のアレである)。そう思い立ち、1845年、28歳の物理学者クリストフ・ボイス・バロットは実験を行ったのであった。しかし、現実には、機関車の音がうるさくてトランペットの音が聞こえづらい、奏者が一定の音を上手に出せないなど、鈍臭い苦労が重なるのである。苦労の末、仮説は(なんとか?なんとなく?)定性的に実証されたのであった。のちにボイス・バロットは科学雑誌上で、実験を再現したい人たちに対し「よく訓練された人」を使うように、とアドバイスした #とのこと 。
現在では、このドップラー効果は音に関しては上述の仮説通りであるとわかっているが、光に関しては間違えであったことも分かっている。間違えではあったのだが、その理論の発表によって触発された若き科学者が、これを見事実証したことになる。近年は、実験系が精緻化したので、あまり不用意で杜撰な発表を行うべきではないが、理論や仮説に関しては、現代でも、もうちょっと大胆なものがあった方が、いろいろ萌芽するのではないかと思った。実際、ドップラー効果はその後、様々な医療機器や航空システムに用いられているのであるし。
ただし、実験を成功させたボイス・バロット自身は「いつの日かより良い楽器を作るのに役立つかもしれない」としか言わなかったそうだが…(この章のオチ、各章にいちいち皮肉っぽいオチがあって面白い)。

わたし自身は、マウスを用いた性の研究、雌雄間コミュニケーションの脳科学的研究を行う生物学領域の人間なのだが、性に関するきわどい実験も数多く、読み進めるのが楽しみである。
行動神経科学や心理学を学んだ人なら誰でも知っているパブロフの犬やスキナー箱、アイアンマザー、チンパンジーと共に育てられた子供の話など、そこに関わった人たちのドラマも描かれており、教科書では味わえないリアルな姿を思い浮かべることができる。

半分くらいは、マジで狂気でしかないものもあるのだが、少なからず、これら実験は、証明するための妥当な方法を論理的に考えたらこうなった、と感じられるものも多い。倫理的にも感情面での生理的にも、現代ではやりたくないものも多いのではあるが。
ところで、ふと、思う。今のアカデミア、もしくは社会にこのような「狂気」を受け入れる寛容さと自由、クリエイティビティみたいなものは、どれくらいあるのだろうか。
二十歳になる直前だった私が研究の世界に足を踏み入れることを後押しし、駆り立てるように知的好奇心を刺激した、そんな研究があったことを、いま思い出している。そんな研究が詰まった本。

母マウスの音声受容とLaterality

マウスの声(超音波)の文法性に関しては懐疑的なあたしだが、他の部分ではヒトにも共通な機構がある気はしていて、こんなのが出ましたね。元の論文はリンク中のリンクにある nature 誌。ScienceのNews記事中ではEmory大学のLarry YoungさんとRobert Liuさんもコメントしてる。
'Love hormone' turns mothers into moms

母になるとマウスも仔どもの声への感受性が高まるが、その一つの要因として、聴覚野にオキシトシン受容体があり(この発見、初らしい)、しかも左脳側の方が多いと。母になるとオキシトシン分泌が高まるので(これは既知)、オキシトシン受容体を介して仔の声への聴覚野の反応性が高まるのではないか、と。

マウス超音波発声の受容が左脳優位だというのは昔から知られていて
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/3808021

最近でも外科的処置(結索による虚血?)は左側の方が発声を減弱させるという報告があり、
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/25644653

発声も受容も左優位であると思われる。

今回は受容が左脳優位であることの理由として、オキシトシンによる促進効果の局在(受容体の局在)が左側だからだ、と提唱したことになる。
まぁ、こんなにもオキシトシンで何でも説明できるのか?という気もするし、"Love Hormone"としてのオキシトシン信仰は安易にしたくないが、現在はマウス超音波のemotionalな側面を研究してる僕も、任期も今年で終りだし、次のステージとして言語とまでは言わないまでも、「音声コミュニケーションにおける哺乳類一般の共通性」みたいなことには関心を広げてみたいと思う。

アルスエレクトロニカ博報堂とアルスエレクトロニカによる共同プロジェクト、FUTURE CATALYSTS主宰のイベント、

Future Catalysts PLATZ Vol.1
CREATIVE QUESTIONS to design your CITY
〜みんなのクエスチョンが描く、「まち」の未来〜
http://future-catalysts.com/project/2015/02/27/FCPLATZVol1/
にパネラとして参加します。菅野はA Lab. です。

日時:2015年3月22日(日) 10:00〜21:00
場所:東京都港区虎ノ門エリア (2会場)
   Good Morning Café & Grill

裏テーマが「まち と大学」ということで、思うところを話してみたいと思います。現在、アイデアを整理中です。他のゲストの方々がとても面白そうで、楽しみにしています。

世界との接点とも言える色の情報は、どちらも確かに残されてはいるようだ

話題になった「ドレスが白金に見えるか、青黒に見えるか」問題は、僕には結構重要な問題だった。
色は、僕にとって非常に大事な、世界との接点だからだ。


ことの次第がよくまとまっているかなぁと思える記事はこちら。リンクも豊富。
http://www.softantenna.com/wp/unknown/dress-color/

SNSで知人の反応をみてみると、「白金に見える人」と「青黒に見える人」の両方が、それぞれ結構な割合でいるようだ。はじめはどちらかに見えていたけど後で見たら別の色にも見えた、という人も多い印象。
ちなみに、僕にはどうあがいても白金にしか見えていない。
色調情報としては、薄い青というか、うすい紫に分類されるであろうとは理解しているが、経験的には光沢のある白いシルクのようなものに影かかったときの見え方のように思う(と僕の脳が処理しているのか)。

このようなことがなぜ起きるのか、その認知科学的考察としてはこちらが丁寧で分かりやすく面白かった。
なぜドレスの色の錯覚はおきたか?-色の恒常性-

上記考察にも載っているが、AとBの色が実は同じ、という色の恒常性を示す有名なこの絵は、何度見ても面白い。

この考察でも示されているように「ドレスと光源の位置関係をどのように認識しているか」がこの色の認知問題のポイントだということで、ドレスの部分だけを自分でトリミングした画像を見てみたのだが、どうも、白金にしか見えない。色調を冷静に判断しても「薄い紫と黄土色」が良いところだろう。。。
経験上、色の認識の錯視問題は、周辺情報を切り落とすと納得が出来る(例えば、上記のタイルと柱の絵でAとBの色が同じであると感じる)のだが、どうも、このドレスの問題は納得出来ない。どうして、青黒に見える人がいるのだろう。。。

web上のツールで、トリミングした画像を解析した結果がこちら。


やはり「薄い紫と黄土色」である。
しかし、友人はtwitter上で僕が紫と言うこの色を「青だ」というので、この時点で既に個人差があるのかもしれない。

僕は色の心理学的・認知神経科学的理論については詳しくないのだが、日頃、色は意識しているつもりで、エクセルなんかにデータを打ち込むときもカテゴリごとに色分けしたりしているので、毎日カラーパレットを何度も見てる。ので、やはり、紫系に思う。今、カラーパレットで色を確かめてみてもなお... 。 顕微鏡も頻繁に使うので波長のことも普段から考えているし。
むかしやってみたこちらのテストでもかなり成績がよかったので、僕の色の弁別域があいまい、ということはないように思う。寧ろ、良い方だろう。暖色系の弁別は少し弱いように思う。

Online Color Challenge


昔、母とした口論を思い出した。
母に「そこの黄色い湯呑みとって」と言われ「そんなものは無いが」と答え、「そこにあれでしょう!それ!!」と指を指され「コレはどう見ても緑じゃないか。百歩譲っても黄緑...」、「黄色でしょ!!」

これは、認知の個人差ではなく、どの色を黄色と命名するかの経験(学習)の違いによるかもしれないが、色以外のことでも、僕の人生には結構この手の口論は耐えなくて、しばしば「強情だ」「頑固だ」「神経質だ」「融通がきかない」などと罵られるのだが、しょうがないだろう。色調は青と黒を示していないし、僕には白金(もしくは湯呑みなら緑から黄緑)にしか見えないし、色調としても薄紫と黄土色なのだから。
しかし「どちらにも見える」という人が結構いるので、そういう「認知機構の柔軟性」みたいなものがあるのだろうなぁと思うし、主観的な色というのは客観的に定義されえないものなのだから、そう見えることを否定するつもりもなく、ただ、やはり僕は認知のシモのレベルから「強情」で「頑固」で「神経質」で「融通がきかない」のかもしれないなと、色々諦めみたいなものがついた気もするし、話し合いとかの以前のレベルでの断絶があることを受け入れて、やはりひっそり生きていった方が良いのかもしれないな、と、自分について思うのである。


自分についての戯言はともかく、世界をどのように認識しているか、というのは非常に重要な問題で、実は我々SYNAPSEでも何度か取り上げて来た。
SYNAPSE Vol.2 のテーマは「光」で、「ニュートンゲーテの色彩論」およびその神経科学的解釈を飯島さんが、動物やヒトにおける色覚の違いの生物学的解釈を僕が書いた。

*中央見開きに見える図の、上段が色弱の人とそうでない人の色の見え方の違い。下段が人間が見てる世界(普通の写真)と紫外線撮影(昆虫とかには「こう見える?」的な写真)。昆虫が見ているであろう世界の撮影については福岡教育大学の福原達人先生のHPに詳しい。SYNAPSE vol.2でも福原先生から写真をご提供頂きました。

もう残部がないし、web公開もしてないので、残念である。アートディレクションを担当してくれたNOSIGNERさんが、コチラで少し内容に言及してくれいる。

神経科学的背景は、こちらのブログに
「色は眼ではなく脳が見ている?」- スウィングしなけりゃ脳がない!
10年も前からこういうことを書いてらして、偉いなぁ。


とあるイベントに参加した際に共感覚の写真家さんと話したのも、他人とジブンの認識世界の差異を考える上で、非常に大事な経験だった。
誰かの視点を想うこと
共感覚関連本のレビュー


色弱の人なんて、特に男性だととても沢山いて(たぶん全国の「鈴木さん」と同じくらい)、社会的に考慮すべき課題。実際、色んな機械の電源が「充電中→完了」に変わったかどうか色では弁別出来なかったり、地下鉄の路線図の色分けが分からなかったりという問題があって、それらは結構改善された。そのへんは、伊藤啓先生のHPに詳しい。
色覚バリアフリー
SYNAPSE vol.2でも写真を使わせてもらいました。


色のシミュレータというアプリがあって、コレを使うとモノが色弱の人にどう見えるかを画像化してくれる。プレゼン資料をつくっているときなど、僕もよく使う。


Photoshopにも、色弱の人にどのように見えるかをチェックする機能が、実は付いている。色覚バリアフリー・カラーユニバーサルデザインは是非広まって欲しい。10年くらい前に、プレゼン用のポインターに緑が登場したのも、そういう経緯なはず。



科学的な考え方というのは、無味乾燥としていて冷たいものと、とらえられることもあるけれど、科学的であるために必要なものとして客観性があり、客観的に考えるということは、自分以外の何ものかの視点から考えるということなので、感情的なエモい共感とかよりも、案外(いや、絶対)「他者」に対して優しい。共感はともすれば自分と似たものにばかりしてしまうので。
その辺は、この辺を読んでもらいたい。結構現代に必要な考え方だと想う。

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)




だいぶ話がそれたが、やはり、青黒に感じられない自分が気持ち悪い。一番最初に紹介した記事で、このドレスがAmazonに載っているとのことだったので、見てみた。


見える!見えるぞ!!!青黒に!!!!(良かった)

確かに、ドレスの色は青黒らしい。だとしたら、認知的な問題の他に、もう一つの謎が立ち上る。この、明らかに(めっちゃ濃い)青と黒が、なぜ、画像解析からしてもかけ離れた白と金になったのだろうか???
これはこれで、信号処理の問題として、なかなか面白いように思う。直感的に、めっちゃつよい白熱灯の近くだと、黒も黄色みがかって黄土色っぽくなるだろうか。周辺環境と、スマホカメラのある種の質の低さによって可能になった写真では無いだろうか。かなり、特殊な撮影で、普通の状況ではありえなそうにも、未だに思えてしまうのだが。

「ありえなそうなことだけど、ありえること」として、飯島さんからペンローズの三角形について、昨夜教えてもらった。



ともかく、だ。
今後、神経科学・認知科学の授業や講演でこの写真を題材に多くの先生達が色覚についての話しをするだろうし、今回のことで自分と他者の違い、とくに言語で語り合う以前の知覚・認識世界の違いについて、人々が語り合ったのは良いことだと思う。SNSによってそのための題材がつくられたのも面白い。この思考を拡大解釈していくと、少し世界の平和に近付くと思う(とても希望的アレだが)。



さて、個人的に最後に残された問題は「なぜ僕には白金にしか見えないのか」だ。この個人差はどこからくるのだろうか。強情なまでのロジカルさが、認知までも変えてしまっているのか。どうなのかしら。
Photoshopのポスタリゼイションの機能を使って、しかも諧調を「2」にして、色調をexaggerateな感じにしてみた。



確かに、画像の情報としては、黒も青も、白も金も、水色も紫も黄土色も、なにがしかの連続したグラデーションとして含まれているようだ。思ったほど、断絶は無いのかもしれない。もしくは、断絶の壁は越えられるのかもしれない。



ところで、勝手に言及してごめんなさい、ですが、SNSで知人が件のドレスについて「絶対買わないからどっちでも良い」と言ってたのが、なんだか救われるなぁ。

今、空前の孤独ブーム

たいした実験ではなかった筈なのに、今日はなんだか疲れた。
実験の合間もほとんど、この先の仕込み作業をしていたせいかもしれないが。

データを足したところ、僕の神経データは概ねホンモノらしくて安心してるんだが、亜核レベルでの細かい解剖になると、チト自信がない。個体差なのかもしれないし、僕の「眼」が洗練されてないのかもしれない。なんらかのマーカー遺伝子と一緒に染めないと不安。
奥深いなぁ。局所and/or機能解剖学。
貼り付けて割と直ぐ顕微鏡覗いたから、封入したらまた違うランドスケープが見えるかもしれない。
今日は、特に夜になってから、21時過ぎくらいからだろうか、没頭した感じがあるのは、振り返ってみると気持ちが良い。



ところで、
「研究に没頭する」という言葉、よく聞くのだが、研究にも色々な作業があるし、1日の中でも色々あるから、皆んなが何をさして没頭すると言ってるのか、実はよく分からない。
脳の切片貼り付けてるときと、顕微鏡覗いてるときと、統計ソフトでデータ掘ってるときと、調べ物の読み物は、没頭してると思える。切片は、筆を使ってるのが職人ぽくて好きなのかも。ウェスタンブロットも、染物職人みたいで好き。あと、あんまり疲れない

なんだか、実験大好きな人みたいな感じのこと言ってるが、基本的には疲れるからキライで、最近では超音波解析とかちょーキライ。はやく機械がやって欲しい。


没頭しているとき、これは没入感を伴った作業をしているとき、ということだと思っているのだが、後から振り返るとそう思えるが、ただ中にいるときには気付かない。没頭しているときは、感性や感覚が研ぎ澄まされるし、頭の回転が異様に速い感じがする。視力すら良くなったような気がする(もちろん、没頭しているときはだいたい凝視しているので、我に返ると視力は明らかに落ちているように感じるが)。
この感じを持てるとき、もしくは、持つことが多いときに僕は「あぁ、研究してるなぁ」と思える。

じゃあ、没頭していれば良いじゃないかという話しだが、没頭という言葉に僕が違和感を持ってしまうのは、人から「没頭しなさい」と言われることがあるからだ。おそらく、若い人がより年上から言われることが多いのではないだろうか。
そう言う場合の「研究に没頭しなさい」に含意されるものは、おそらく、「研究だけしなさい」「余計なことはするな(博士のキャリアパスとかサイエンスコミュニケーションとか考えるな)」「自分の言うことをきけ」「私生活を犠牲にしろ」等だと感じている。ときおり、現代では研究者の活動のうちとして推奨、あるいは認められていることをしている場合でも、ジェネレーションギャップが主な原因で「あいつはよそ見をしている、気が多い、研究に身が入っていない」と見なされることがある。


そもそも、没頭する、ということは、しようと思って出来るものでは無い気がする。繰り返しになるが、後から振り返ったとき、ふと気付くとそういう時間帯が存在したということだと思う。では、どういうときに没頭していたかを振り返ると、僕の場合は圧倒的に夜が多い。人が皆帰った後の、静かなラボ。この光景を圧倒的に思い出す。早稲田、東大、麻布。これまで所属したどの場所でも鮮明に思い出せる。
つまるところ、没頭することの前提条件には「孤独」が必要なのではないだろうか。
だから、僕は夜が好きなのかもしれない。何かが「降ってくる」のは、圧倒的に夜だ。
没頭することで、クリエイティブなものは生まれると思うが、その没頭に必要なのは「孤独」であり、それによって生まれるものが「個の創発」だろう。

だから、他人に対して、クリエイティブな何かに没頭して欲しければ「放っておけば?」「 放っておいて下さい」と思う。


*最近は、繋がりの時代、ソーシャルな時代なわけだが、そもそも「個」がなければ、何も生まれないわけで、その辺のことも考えてみたい。

【越境する理科教育がくるのか!?】おじいちゃん達はこれからの理科教育をマジで考えていた

今日は、(財)理数教育研究所主宰の
シンポジウム 小・中・高の理科カリキュラムを考える」(PDF)に行ってきました。

というのも、この団体が次期学習指導要領の改訂に向けて、かなり具体的な理科教育に関する提言をまとめており、その委員会の委員長が僕の博士課程の指導教員だった石浦章一先生(東京大学大学院総合文化研究科)だったからです。残暑伺いを送った折りに、その返事に「これからの理科教育に一石を投じたい」旨、仰って、興味がありました。最近関わってることが、理科教育と無縁ではないため、勉強の意味も兼ねて。
*ちなみに、大学が法人化されてからは 指導"教官" ではなく 指導"教員" と呼ぶべきであるというのは、石浦先生のがよく仰ってることでした。

会場に行ってみると、休日のシンポジウムなのに8割5分の人がスーツだし、スタッフの人達もスゲー腰低いし、「え、政治色強いの??恐いの???」と思いながら席について、場違いだったかなぁと思いつつ開始を待ちました。始まってみると、やっぱり司会の人の喋りもお役所っぽいし、最初のお話は文科省の審議官の方で、スライド文字多いし、
「ああ、やっぱり教育系って、こういうことなのかしら」
と思ってしまいました。
しかし、実際にカリキュラム案の提言をつくった先生方のお話が始まると、先生達がマジで提言を作ったのだということが分かりました。

この委員会は、小中高の先生達と大学の先生達から構成され、あたらしい物理・化学・生物・地学のカリキュラムについて、かなりの回数の会合を開いて策定が進められたようです。
まずは石浦先生から全体の説明がありました。

よく言われることですが、小学生くらいでは理科は割と「好きな科目」に分類されるですが、学年が上がるにつれて児童・学生から重要視されなくなっていきます。その理由は、学年が上がると抽象概念が増え、自分の生活や社会との結びつき、繋がりを感じにくくなること。難しくてとりあえず点を取るために暗記科目になり、つまらなくなること。そして、理系に進むことが就職に有利ではないこと、が挙げられます。ここ、かなり僕の言葉で言い換えてます。実際には様々なアンケート結果をもとに議論してました。
地学のパートの先生が仰っていたのですが、化石燃料などの資源が豊富な国では、地学を専攻していると給料の良い省庁のポジションや企業に就職しやすいことも多いそうで、このへんは日本特有の事情もありそうです。

そういうことがあり、全ての先生が強調していたのは、自分や社会、人間との繋がりを感じられるカリキュラムにしようということでした。

具体的にどの項目を教え、どれを削るか、というのは非常に複雑なので、ここでは割愛します。写真のような資料にまとめられ、かなり具体的に提言が作られていることが分かります。作成過程では、大学側から一方的に押し付けるのではなく、現場の小中高の教員の方々も委員に入って作られた、というのが好感が持てます。

*配られた資料の一部。かなり作り込まれている。


さて、その「繋がり」を感じるカリキュラム、先生方の言葉から印象的だったものをいくつか。
例えば、生物であれば、もうちょっと医学領域のものも入れたり、物理であれば放射線についても項目を増やそうということらしいです。
さらに、地学は、高校になるとかなり軽んじられているのはご承知の通りかと思いますが、よくよく考えてみると、科学を最初に考える上では、非常に良い題材であるといえます。
とくに、日本では、地震津波、火山、台風など、自然災害との関係が強いですし、宇宙からミクロの物質まで、物理・化学・生物との繋がりを、大きなスケールで俯瞰することが出来ます。
20世紀の科学は要素還元主義により成功をおさめたわけですが、これからの科学はそれだけではいけないことは、全ての科学者が感じているところです。複雑系、システム論、それらのシミュレーション、こういったものは、気候変動や環境問題、もしくは人の移動や通信など、都市の動態とも関わる現代的な問題です。
地学を通して、なぜこれら理科の科目を学ぶ必要があるのか、それぞれの学問は何を解き明かそうとしているのかが良くわかります。地学担当の先生のスライドで
「我々はどこから来て、どこへ行くのか」
とありました。
なんだか、イームズのPowers of Tenを思い出しました。


物理担当の先生は、実は高校の教科書にもグラショウのウロボロスが載っているのだが、このことは、どれくらい伝えられているのだろうか、と心配していました。
http://legacy.kek.jp/newskek/2006/novdec/Satointerview.html
KEKのHPから)

最後に、月の地平線上に見える小さな地球の写真を出して、
この一つの小さな星の中で、人々が争うことのナンセンスさ、そういったことも、科学を俯瞰することで感じられる筈であると。


各論では、色々な意見が出されたのですが、色んな科目に共通して重要なことがあります。
たとえばDNAやタンパク質は生物で習いますが、これらは化学の対象でもある、物質です。
実際、最近のノーベル化学賞には生命科学に貢献したものも増えている印象もありますね。
こういった、領域を横断して教えた方が良いものを、各科目が有機的に結びつくようなカリキュラムにすることで教えていきたいとのことで、とても好感が持てました。
今回の提言では見送ったが、国語と科学の領域横断だってありえると。

偉いおじいちゃん先生が多かったので、カタくて保守的な提言になるのでは、と、数パーセント懸念をしていましたが、大変失礼しました。とてもチャレンジグで魅力的。近年のキーワードである領域横断や越境、繋がりということがキーワードに。
社会活動の分野では、もはや使い古された感もありつつ、まだまだ実現していない越境性。
これらが、理科教育、教科書で実現されるとしたら、それは素晴らしいことだなぁと思います。


質問タイムでは、これらの理念を実現するための教材はどのようなものを考えているか、聞いてみたかったのですが、会場のおじいちゃん達が元気過ぎて、僕があてられることはなく終りました。
それに気を使った財団関係の方が、わざわざ僕のとこまで来て話しを聞いて下さって、ありがとうございました。

個人的には、教科書や資料集がもっと楽しくなれば良いなぁと思います。
インフォグラフィックでデータや抽象概念を分かりやすくするとか、物質の動態や、数学や物理に関わる関数も、3Dのムービーにする、気候変動のシミュレーションをするアプリを使って、社会のどの要素が環境に負荷を与えるのか、グループディスカッションして仮説を立て、それをアプリの変数を変えて、出力される結果を確かめるとか、色々やれることがあると思います。想定される100年後の地球が自分たちの思ったように改善されているかなど、インタラクティブな電子教材を使うことで、児童・学生が主体的に学ぶ姿勢が身に付くかなと。
このへんの話しになると、最近我々がやっていた連続レクチャー
写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現−

の企画主旨とも繋がってくるなぁと、思っています。
こういった教材造りに関しては、プログラマーやデザイナー達が参画して行く必要性があるように思います。その辺のことも、考えてもらえたら良いなーと思いました。


最近、お年を召されて定年が近くなり、ちょっと元気がなくなったかなぁと思っていた元ボスですが、今日は昔と変わらずなお話ぶりでした。是非、こういったカリキュラムを実現して欲しいと、心から思います。


*色々な政治的な動き、やはり、2020年の東京オリンピックに照準を合わせている印象を受けました。どんな風に変わっていくでしょうか。

第3回を終えて:写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現−

昨日の「写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現−」第3回、超次元編「11次元空間は可視化できるか?」 お越し下さったみなさま、ゲストのみなさま、ありがとうございました!

第1回と第2回は、宇宙や細胞という対象を観察、観測、計測し、そのデータを如何に可視化し、何を理解するかというお話でした。

昨日の第3回は、理論物理学の世界において、数式で語られる次元を如何に可視化するかという試みで、過去の2回とは少し異なります。
まずは、橋本さんから超ひも理論の解説をしていただき、その後、我々の視界(2次元もしくは3次元)に通常は落とし込めないもの(多次元)を、橋本さんと山口さんが共同して画像化する現在進行形のプロジェクトの一部を見せて頂きました(6次元の可視化など)。
鳴川さんからは、かつて作製した全方位カメラで撮影した写真のお話、立体を平面(地図など)に落とし込むお話、2次元(設計図)からは立体を想像しづらい構造物のお話をしていただき、2次元と3次元を行ったり来たりした心地がしました。
直感的には理解出来ない、容易にはイメージ出来ないものを、会場全体が頭をひねりながら想像していたように思います。とても抽象度の高い回でした。




しかし、1-3回全てを通して感じる共通点もあります。それは、いずれも人間の認識論に深く関わるということです。
何かを観察しようとするとき、そもそもヒトはそこに何があると想定しているのか。何を観ようとしているのか。逆に、何をみないままでいるのか。観ていないことに気付いているのか、いないのか。

次回はいよいよ最終回。人間の認識そのものに迫る回になると思います。よろしくお願いします!

第4回:11月6日(木)20:00〜22:00
SR(代替現実)編「現実と虚構が交わるイメージ」
ゲスト: 藤井直敬 (脳科学者)、 湯浅政明 (アニメ―ション監督)、 森本晃司 (アニメーション監督)
http://imaonline.jp/ud/event/54117ee6b31ac94368000001