今日は天皇誕生日

ccg2010-12-23

今日は天皇誕生日。休日になるのはありがたいのですが、でも、本当のところ日本人は天皇のことをどう思っているんでしょうか。実は天皇に対して抱いてる深層心理としての感情の一部にはたいへん恐ろしい部分があります。それは例えば天皇の埋葬の仕方に典型的に現れます。(以前書いたブログから)

─「天皇家の陵墓「多摩御稜」へ行くと背筋が凍る思いがする。特に近頃の皇位継承騒動を通して、愛子ちゃんや母親の雅子さんのことに想いを馳せると、その感を強くするばかりだ。その墓を実際に目の当たりにすると、天皇皇后の埋葬の仕方は無気味というか異常であると言うほかはない。遺体は火葬されることはなく、棺はけして朽ちることのない銅板で作られ、蓋は隙間なく溶接される。そしてその棺は地中深くに埋められ、小山ほどもある盛り土がされたあとその上に石を敷き詰めてしっかりと固められてしまうのだ。天皇の魂は永遠に地中に封じ込められる。 実はこれは典型的な古代の王の埋葬の仕方である。王は御世の時代の全ての「悪」を背負わされ地中深くに埋められるのだ。皇太子はもちろん、雅子さんも、場合によっては将来、愛子ちゃんも地中深くに閉じ込められ、天国に逝くことは許されない。」

 これは実際の、大正天皇昭和天皇の埋葬方法です。当時NHKのニュースで詳しく報じていました。つまり、日本人にとっての天皇は、畏怖する対象であると同時に、スケープゴード(被差別者)でもあるのです。じつに日本人は天皇を都合よく利用してきました。
 世の中には天皇を敬愛してやまないという人はたくさんいますが、こういう事実があることも承知しておかれたほうがいいと思います。以前、一水会鈴木邦夫さんにこの話をする機会があったのですが、少なからず驚かれていたように感じました。天皇に心酔している人は、意外と天皇に対してのマイナーな部分は見えてこないのかもしれません。天皇誕生日を機会に、自分にとって天皇とは何者なのかということを考えてみるのもいいのではないでしょか。

観てはいけない! 『坂の上の雲』

ccg2010-12-13

出版当時から、『坂の上の雲』が多くの読者を魅了してきたのにも関わらず、これまで日露戦争がほとんど議論の俎上に乗ることがなかったことは、日本人の心理を考える上で、重要なヒントを与えてくれます。簡単に言えば、戦後日本社会心理にとって、戦前日本社会はトラウマとなって、心の奥に「隠ぺい」されている、ということです。
 それは例えば、世界史的大勝利であったはずの日露戦争には戦勝記念日がないのに、屈辱的であったはずの終戦記念日はあたりまえのように存在しています。ちょっと考えれば「?」と思うはずなのですが、日本人の多くがそう感じてはいない。それひとつ診ても、日本人あるいは日本社会の深層心理は、かなり歪んでいると考えなければならないと思います。

 こういうことは、『坂の上の雲』の原作を読むと感じることができます。たとえばそれは、保守派が「司馬遼太郎史観」として批判していることなどでも証明できます。つまり第二次大戦と日露戦争を比較されることを深層心理で拒否(防衛機制)しているわけです。戦争の勝敗が完全に転倒していますね、そういう意味で、司馬遼太郎坂の上の雲』が、原作のまま存在することは重要なのです。

 ところがです。『坂の上の雲』は、テレビドラマ化されてしまいました。内容も恐れていた通り、俗悪(デカダンスロマン主義)なものです。これでは、トラウマが治癒されるどころか、さらに深層心理の奥深くに隠ぺいされ、もうその存在さえも分からなくなってしまうかもしれません。われわれ日本社会は、日本近代の問題を何一つ相対化できていないにも関わらずです。
坂の上の雲』はそこにヒントを与えてくれる数少ないテキストのひとつです。原作を読まずに、レンタルDVDで『坂の上の雲』を体験した気になってしまう人が確実に増えることを危惧しています。(M)

「死刑」と日本人ー3

ccg2010-12-07

また今日も、正義感の強い市民達によって、「死刑」が宣告されてしまいました。これで3例めですね。再掲載になりますが、70パーセントの人が死刑存続を求める中、死刑廃止を実現させた仏法務大臣、バダンテールによる死刑廃止法案審議時の演説の一部を紹介します。

─「司法の現実の中では、死刑とは何でしょうか。12人の男女の陪審員。2日間の審問。事件にまつわることがらの奥底まで触れることは不可能。そして、数十分、時には数分で罪悪性についての非常にむずかしい問題に断定的に判断をくだす。それ以上に、ほかの人の生死を決定するという恐ろしい権利もしくは義務。12人の人が、ある民主主義国で、次のようなことを言う権利があるというわけです。「こいつは生きていてよい、こいつは死ななければならない!」と。私ははっきり申します。この司法の構想は、自由の国のそれではありえません。まさに、そこに含まれる全体主義的な意味のゆえにそう言えるのです。」─

ある哲学者の言ですが、刑罰の極として「死刑」があるのではなく、あるのは、「刑罰」か「死」かです。これまで何度も触れてきましたが、人間が判断しても許されるのは、「刑罰」までであって、「死」はまた別の領域の問題だと思います。

 バダンテールのいう、全体主義的の意味は、自由な「個」を離れて、「全体」をイメージした時、踏み込んではならない領域に踏み込むことが許されるような、錯覚に陥る危険性があるということです。つまり、「世界に冠たるニッポン民族!」的なロマンティシズムに溺れ、己を過大評価してしまうようなことです。(国民こぞって「死」を要求するニホンは、現在、全体主義に近い、奇妙な共同幻想の中にあると考えられます)

 人が、「人の死」を取り扱うことは、永遠に棚上げするべきだと思います。「バベルの塔は天を目指し、神の領域に近づきすぎたが故に崩壊した」、などというのは大袈裟かもしれませんが、われわれは、どんな凶悪犯に対してであっても、生涯拘束し罰を与えることまでに留めるべきだと思います。「死」とは何なのか、誰にも解らないのです。

 「バベルの塔」の話しはもちろん神話ですが、神話というのは、もともと生活の知恵として語り継がれてきたものです。近代人のわれわれが思っているより遥かに、節度(リスクマネジメント)を持つことは重要なのではないかと思います。
 余談ですが、9:11テロとバベルの塔神話とは奇妙に一致する部分がありますね。(M)

「判検交流」という憲法違反

ccg2010-11-29

こんな冤罪事件があります。

http://blog.iwajilow.com/?eid=729166

信じられないようなねつ造冤罪事件ですね。そしてこの事件の裁判官はこの記事にもあるように、「判検交流」という制度によって一時的に判事に様変わりした検察官です。こんなでたらめがまかり通っているのが日本の司法制度なんですね。
 日本では三権分立はただの「絵に描いた餅」にすぎないんですよ。つまり後進国なんです。(M)

裁判員裁判初の死刑判決


 恐らく有史以来このような悪法(裁判員法)は無かったのではないかと思う。たった6人の素人裁判官が多数決によって人を「死」に追いやることのできる法律など聞いたことがない。

 被告の犯した罪の重さからみて、最も重い刑が科せられてもしかたがない。しかし、それは国家公務員である裁判官の任務なのであって、一般市民が関わることは避けるべきだ。
 しかし今回の裁判員達は最悪の選択をしてしまった。無期懲役に納得がゆかないのであれば、判断拒否という逃げを打ってもよかったのではないか。無期判決にしたとしても高裁では死刑判決が出たであろうし、たとえ検察が控訴しなかったとしても、現代の日本の無期懲役は世界でも最も厳しいもので、40年から50年は出られない。
 ちなみに、巷で語られる、無期懲役は20年で出られてしまうというのは、全くの嘘である。(M)

小6自殺で「いじめあった」と学校が謝罪

ccg2010-11-11

 私の長男が通っている中学校で、こんな苛め事件がありました。
中学1年生の教室でのことですが、ある生徒が、同級生のズボンとパンツを下し、みんなに性器を見るように要求していたのです。それがなんと一か月に亘り続けられました。しかし傍目には、加害者はけして不良という感じではなくまた、被害者の方も嫌がる振りもなく笑っていたというのです。もちろん、被害者のその態度は本意ではないことは明らかでしょう。

 問題は何故、一か月間もの間、そのような酷い苛めが続いてしまったのかということです。世間ではよく、学校側の不注意を責めますが、私はそれは違うと思います。クラスの仲間たちが誰一人、先生に密告しなかった、つまり、クラス全体で苛めを隠ぺいしていたのです。
 一昔前であれば、これほどの苛めであれば、誰かが注意するか、先生に密告していたのではないかと思います。つまり、クラス全体が、誰かを苛めたいという気持ちを、一人のバカな加害者に投影することで、ストレスを発散させていたのではないでしょうか。

 苛めを把握できなかったことを学校が謝罪したとしても、何の問題解決にもなりません。クラス全体で苛めを隠ぺいしてしまえば、気が付きようがありません。問題の根はもっと深いところにあるのだと思います。(M)

「死刑」と日本人

ccg2010-11-08

 堰を切ったように、死刑求刑が予想される裁判員裁判が続きます。「耳かき店」事件で躓いた検察は何としても裁判員裁判による死刑判決を勝ち取りたいと考えているのでしょう。しかし彼らは、われわれは、市民が死刑判決を下すことの意味が解っているのでしょうか?
 『評決のとき』というアメリカ映画があります。なかなか考えさせられる内容だったので、紹介しつつ、日本人と「死刑」について考えてみたいと思います。


 ミシシッピーのある町で、黒人の少女二人が、白人二人に強姦され、子供が生めない体にされてしまいます。 怒りに燃えた少女の父親は、その白人二人を射殺し、止めようとした警官にも重症を負わせてしまう。 黒人差別の激しい町での裁判は、当然被告に死刑を言い渡すと思われたのですが、有能な弁護士が、全て白人の陪審員に対し、さまざまなロジックを駆使して、無罪を勝ち取るというストーリーです。

アメリカでは話題になった映画ですが、日本での評判は良くなっかたということです。 当然といえば当然で、我々の感覚から考えれば、多少の情状の余地があったとしても、いくらなんでも無罪であるはずがない。
 しかし、だからといって、この映画を簡単に切り捨てることはできないと思います。 なぜ陪審員は、全員一致で、「無罪」評決が出せたのだろうか? 有罪の評決の上で、裁判官に情状を求めるのではなく、無罪が確定してしまう、検察が控訴もできない「無罪評決」なのです。
 
 私は、この映画の背景に、「宗教性」を視ます。 つまり彼ら陪審員達は、けして無罪を確信したわけではないと思うのです。 彼らは答えを先送りしたに過ぎないのです。そしてその先に見ているのは、『最後の審判』なのではないでしょうか。 キリスト教を背景にした彼らは、人知の及ばない問題に対しては、その先に踏み込んだ判断を保留することが可能なのです。つまり、責任転嫁が可能なのです。 

 裁判員は、裁判に先立ち、西洋風に、「宣誓」をしなければなりません。でも、日本人は、「神」にではなく、「自分自身」に対して、嘘偽りのない判決を下すことを宣言ければなりません。つまり、どんな結論に達しようと、誰にも責任転嫁ができないのです。
 
 ニホンジン社会には宗教がない、あるいは、責任転嫁のできる超越者がいなくなってしまいました。 だから、たった6名の素人裁判員が、多数決によって一人の人間を、「死刑」にできてしまうシステムの、「本当の恐ろしさ」を、われわれの多くはイメージすることができないと思うのです。

 罪の重さは観念の問題です。死刑のハードルは、常に上下します。
将来、「なぜあの時自分は死刑を選んでしまたのだろう」という苦しみに苛まれる可能性は否定できません。だれの責任でもありません。全てを自分自身で背負い込まなくてはならないのです。(M)