こないだシュミットの書かれた顔を見に行ったときに、その映画館でちかぢか『子猫をお願い』が上映されると知り、これは見に行かねばと思い、で昨日、たしか今週上映だったはずと調べたら、今日からだったので、昨日は『春の画』を見てきた。『春画先生』は見てたが『春の画』は見逃していたので、ちょうどよかった。内容はまあ教材的というか美術館のモニタで流されてても違和感ないような教育的な映像で、勉強にはなったし面白かったんだが、映画館の席がこんなせまいことある?というくらいせまくて、どれくらいせまいかというと常時膝がまえの座席の裏側にあたっているくらいせまかった。前の人が体おこしたり身じろぎしたりする度に膝がガンガン当たって痛かった。Morc阿佐ヶ谷のシタのスクリーンは今後は遠慮したい…。

阿佐ヶ谷のヴィオロンにひさびさに行ってきた。前に行ったのはコロナ前だったが変わらず営業していてよかった。古本屋で集英社の『フィネガンズ・ウェイク』抄訳を買って帰った。

メトロポリスのマリアのプラモが届いた。

完成品フィギュアだと思っていたが、注文後に自分で組み立てないといけないプラモデルなのだと知ったのだった。そのうち作ろう。

水曜だと映画代が安くなる映画館がおおいので映画見に行くかと思っていたが、朝起きると強烈な頭痛と左上から右下に視界が流れるような強烈なめまいに襲われる。トイレにいこうと立ち上がるも壁に手をついていないと倒れそうになる。それでもなんとか便座にこしかけて座り続けていると、じょじょにめまいはおさまっていった。ただ顔というよりたぶん首だと思うが、下を向いたり、椅子の背もたれにもたれかかって頭を後ろにそらすと、ゆっくりと視界が流れ出して気持ちが悪い。その時点で外に遊びにでるのはあきらめた。

たぶん火曜の強烈な暴風雨から水曜の晴天という気温・気圧の変化に血流あたりがやられていると思いたいのだが、ここ近年だいたい年一でこの症状におそわれている気がする。まああまり深く悩まない性質なので、片頭痛の一種かくらいに思っていたが、年々めまいの度が強くなってきているような気がしないでもない。

とりあえず寝てやりすごすのが一番だろうと一日寝ていたので、寝すぎていま頭が痛い。

三宅さんのブログを読むと、もっとひどい症状に苦しんでおられた。最新のブログでも全快はしていないようで、心配にもなるが、冒頭の『お知らせ』を読むとどうにも笑ってしまいもするのだった。

そういえば私は昨日の不調にコロナの可能性をまったく疑ってはいないのだった。今年に入ってマスクをするのは止めてしまったが、まだまだコロナの不安は残っているわけで、コロナの事を舐めすぎだったかもしれない。

あと「枉げる」に関して三宅さんからコメントがあった。私は具体的な物をまげるときに「曲げる」、抽象的に(心とか性格とかを)まげるときに「枉げる」と、何となくで使い分けていたが、調べてみると違ったみたいだ。現代では「曲げる」と書いておけば間違いなさそうではあるが、小説を書くときにどちらを選ぶか、もしくはひらがなカタカナにするかで、今後悩みそうではある…

引用=剽窃リストだが、休みの日は1時間はそれに費やす時間として、PCでせこせこ入力していくことにする。1時間で3冊くらいはこなせると思うので、10日で30冊、30日で90冊と考えると、割とすぐに終わりそう。

三宅さんのブログでL君に対する真摯なコメントを読み、数日前に軽々しくコメントした事をたいへん申し訳なく思う。三宅さんのコメントには全面的に賛同しますし、三宅さんの指導者としての姿勢にはあらためて敬服いたします。

ブログで読む限りでもL君の周りを省みない言動や主義主張はとてもつたなく、それに関してはつよく叱られるべきであろうし、実際に三宅さんからたびたび説教を受けているのだけど、彼の「自分を枉げない」という性格がそこにのってしまい、若さ故だとも思うがその枉げられないラインの線引きが今はまだうまく引けておらず、それもあって周りとの齟齬や軋轢を高めてもいるのではないか、という風に私には見えました。

L君のあり方や知識の(かたよった)参照先というのは、今の日本の若者にしても珍しいものではなさそうだし、おそらく世界的にもそういった若者というのは増えているのだろうとも考えさせられる。

そういった若者に対し、どのような指導や対話が有効なのかというのは気になるところでもあるし、三宅さんのL君への今後の指導や、L君がこのさき枉げられないラインをあらたに線引きしなおせるのかどうかという点などが、より良い方向へ進んでいけるよう期待しつつ、今後もブログ更新を楽しみにしております。

小説を書いている。とりあえず出だしと終わりの段落は書いた。このあとは書きやすそうな2章を書いて、1章、3章と適当に書いていく予定。

ながらく考えないようにしていたが、ここ数年、読んだ本で気なる文章があるとページの端を折るだけで抜き書きしたりはしてこなかった。それが何冊溜まっているかわからんが、抜き書きして引用=剽窃リストを整理しないわけにもいかないので、こちらも平行して書き出しはじめたのだが、2冊分を2枚書いただけで気力が尽きた……。これはパソコンから打ち込んで、クラウドにデータ保存しとくでいいかもしれない。

あと読書計画も練りなおした。結果がこれ。

一部だけ読むって本もあるので、頂の第二の性までもう一歩である。

糞アマゾンにぶちぎれた! いやむしろ糞=アマゾンだ! いや糞>森=二階>アマゾンだ! 糞中の糞であるアマゾンには今まで何度もきれてはきたが、今回は血液が沸騰するくらいぶちきれた! 糞アマ糞ゾンを使うことは金輪際ない! デジタル課税で世界中からむしりとられろ!

 

↑地獄

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↓日常

 

あやうく見逃すところだった中平卓馬展に行ってきた。カタログも売ってたわ。雑誌掲載の写真がちいさく複写されて展示されてて、老眼につらい。ブレボケアレのころの展示を見ていた老夫婦の爺さんの方が森山大道と違いがわからんみたいな事を婆さんにつぶやいていた。中平と森山の最大の違いは撮ったあとのこだわりの有無じゃないだろうか。森山大道は撮ったあとの諸々、現像だったり焼き付けだったり写真集だったりそのすべてで写真とはなにかを考えているのに対して、中平卓馬は撮る瞬間そのものに「写真とはなにか」が集約しているように感じられる。だから雑誌掲載だろうが印画紙だろうがポスターだろうが写真集だろうが、中平に違いはない、のではないだろうか、と今回の幅広い展示を見てて思った。

竹橋に行く前にダニエル・シュミットの書かれた顔を見てきた。この映画は初めて見たがシュミットはやっぱりとんでもねーな。上映していたMorc阿佐ヶ谷も初めてだった。冷房なのか館内がすごく寒かった。そういえば映画の最後のほうで地震があった。けっこうながいあいだ揺れていて、いよいよ関東やばいのが来たかと、動揺して劇中劇?のトワイライト芸者の最後がどうなったのか記憶にない。

と思ったらYOUTUBEにそこだけ切り取った(たぶん違法)動画があった。

三宅さんのブログの3/18のL君とのながい対話が面白かった(これを面白がっては三宅さんに怒られそうだが)。それまでのブログでもL君は登場していたが、こちらとしては名前を覚えるでもなく若者グループのひとりと何となくで読んでいたのが、3/18ではゴダール映画で哲学者と対話するアンナ・カリーナアンヌ・ヴィアゼムスキーの役どころを重ね見てしまい、一気にL君のファンになってしまった。今後はL君の側に立ってブログを読んでしまいそうな自分がいる…(もっともっと大人を困らせてやれと応援してしまいそう)

花粉がひどくてくしゃみがとまらない。瞳をとじてが新宿でまた見られるようになっていたので見てきた。過去3作の長編映画のつづきを描いたような自己言及的な内容でもあり、とてもよい映画だった。アナがアナ役のまま登場し、『ミツバチのささやき』での魔法の言葉が魔法ではなかったかのような演出がされていたが、このシーンではさらに映画内映画『別れのまなざし』で父が求めていた娘の無垢なまなざしが、映画内映画とは反転した形で父から娘に切り返され、無垢なまなざし=無関心の残酷さにアナが魔法の言葉をつぶやきつつ瞳をとじるという、正直これまでのエリセ映画の流れからしてここで終わるんだろうなと思ったくらいの残酷なシーンだったんだが、おどろくべき事に映画はその後も続いていき、しかも最後にまた魔法の言葉が映画内映画『別れのまなざし』で再現されて、2度目の、今度は父親が瞳をとじる場面で映画は終幕する。1度目のアナの拒絶的な「瞳をとじて」ではなく、ふたたび見開くための、きっと記憶をとりもどしふたたび父娘関係をやりなおすであろう奇跡をつよく確信させられる2度目の「瞳をとじて」で映画が終わるというのは実に感動的であった。

また『瞳をとじて』の父娘は、女に狂って母娘を捨て南に失踪する父親を描いた『エル・スール』のその後でもあったし、その夏の光だけでマルメロの絵を描いては未完のまま倉庫にしまいつづけた画家を撮った『マルメロの陽光』での、未完の作品を倉庫に溜めこむことへのアンサーのような映画内映画『別れのまなざし』の魔法の力でもあったんじゃないだろうか。

自作以外にもウェスタン映画への愛も感じられた(主人公の相棒のマックスには、ウォルター・ブレナンっぽさを強く感じた)が、今作の「まなざし」というテーマ性は、映画のまなざし=切り返しという事でドライヤーのファルコネッティへの距離感をつよく思い出させられたようにも思う。

あと酒を飲みすぎて記憶喪失になる男というのは中平卓馬を思い出さずにはいられなかった。そういえば中平展のカタログはいつできるんだろうと近代美術館のサイトを確認したら3/30からミュージアムショップに並ぶと書かれていた。まじかよ。4/7までの展覧会で3/30でないとカタログが購入できませんってどんな計画性で企画練ってきてんだよ…

雨が降っているから人が少ないかもと思って国立新美術館マティス展を見に行こうと思ったら火曜休館だった。ボーはおそれているを見てきた。180分とあまりに長すぎる映画ではあったが、最後の裁判シーンがカフカ的なラストでよかった。未来世紀ブラジルっぽくもあった。オオカミの家の監督が担当したというアニメパートは普通だった。

本格的に小説を書き出してみたが、実際に書いてみると頭のなかで書いてた時や断片だけ書き出してた時の形では言葉がまったく足りてないなーと実感した。「1000の目」もそのままの形じゃ使えないので、あれこれといじっていじってようやく使えそうな形にするのに数日かかった。しかしひさしぶりに言葉をいじって形を整えていく作業の楽しさも実感している。

MRTR氏のブログの3/11の写真が夢の映像のようでとてもいい。上下が反転しているので、3/8に載っている段ボールカメラでの撮影だろうか?画像をダウンロードして上下を正位置に戻して見ているのだが、風にそよぐカーテンによってつくられた窓の隙間がつなぐ外から内、内から外へのやわらかな空気や光の往還に、なんとなし子供時代のノスタルジーみたいなものも刺激される。遊び疲れて昼寝する直前のあのぼんやりとした昼下がりの時空。