感情の縦糸 -2013年を振り返って-

怒る、ということは、全くなしにはできない。我々が生きていく中で、怒るということがなくなれば、きっとものごとを表現する意義もかなり薄れるのではないか。しかしどんなものも過ぎたるは猶及ばざるが如し。特に怒ることというのはなかなかに刺激の強い薬だ。
思えば今年の特に前半、色々なことでイライラしたり、怒ったりすることが多かったように思える。自分が置かれている環境も、人の悪口や噂話が飛び交いやすい場所なので、それも影響していたのだろう。幸い十分にガス抜きできる趣味は有していたので、支障をきたすことはなかったが、あまりよくない状態が続いていたのも事実だ。
しかし今年の十一月、自分だけではなく他の人にとっても転機となるひとつの事に着手してから、少しずつ自分の考え方を変える機会に恵まれた。何気ない一つを助けたり、手伝ったり、そのようなことをしているうちにある時からどうしても相容れなくなっていた人を許せるのではないだろうかという気持ちが起こった。実は以前はとんでもない勢いで仲が良い人だった。それだけに、失望した時の落差も半端ではなかったのだろう。
結果は、できた。会話にまたバカみたいな冗談をまじえながら、前のように。ついでに忙しい時に少し衝突した人に対しても同じようになれた。何か、少しだけ大人になれたような、強くなれたような気がした。今まで足りなかった縦糸がすっと入り込んできたような感覚。別に自分の中で怒りが霧散したわけではない。それでもなお、オープンでいられるきっかけのようなものを今年は掴んだ。ほんの一ヶ月前のことだ。
来年は更にオープンに、ぶれずに生きていきたい。

2013年の初挑戦

今年は、ついに包丁を買ってしまった。釣りをするので、以前から出刃包丁を買い、砥ぎの技術も習得したいと目論んでいたが、ついに実現した。手始めに135mmの小出刃を買い、その次に大物用に180mmの出刃を買った。師匠などいないので、ネットなどを参考にじっくりと刃物と向き合った結果、なんとか砥げるようになった。実は鋭くするだけならそれほど難しくはない。砥ぎが難しく、面白くなるのは自分の用途に合わせた砥ぎができるようになることだ。
なんて思っているうちに、今度は本格的に刺身が引きたくなり(出刃で作るのは少々きつい)、ついに240mmの柳刃包丁まで買った。それも白三鋼。今までの包丁とは何だったのかと思うような異次元の切れ味……間違って刃に触れた日には皮に綺麗に線が入ってしまうほど。しかも鋭すぎて傷に気付かない。平造り、そぎ造り、イカ刺しなどを練習中。
それから、偏光グラスを買った。もちろん釣り用途ではあるが、運転にも期待してのことだ。レンズはタレックス。たまたま近くに取り扱いしているショップがあったので、色々時間をかけてトゥルービュースポーツを度入りで作ってもらった。なぜもっと早く作らなかったのだろう。端的に言えば、対向車のフロントガラスがないように見えてしまう。それぐらい余分な反射光を取り除いているということだ。吹雪でも通常なら霞んでいる前方車も、偏光グラスで見るとくっきり。釣りよりも運転の方に使ってしまいそうだが、水面を見ないことには始まらない。来年はまず昼間の釣りからだ。

2013年の読書

昨年以上に捗らなかった。それでも決して日課から外すようなことはしなかった。自分にとって文学世界に触れることはなくてはならないことなので。その中でひときわ輝いていた本が、フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』だ。本当に揺さぶられるような読書体験だった。マルケスが影響を受けるのも頷けるというものだ。
それから今年は更に色々な国の文学作品を読んだ。エルサルバドルウルグアイコンゴ、ナイジェリア、トルコ、イラン……それぞれの地域の特色もあり、普遍的なものもあり、非常に興味深い旅となった。特にアフリカは意味のわからないパワーにあふれていて、他の地域とはまた違った趣があった。来年もラテンアメリカを軸に様々な地域の文学作品に触れていきたい。

2013年の音楽

Herbie Hancockに見事にハマった。今年始めに『Head Hunters』を買ったのをきっかけに、そのファンク色に一気に染め上げられた。最初にこれを聞いた人は、ジャズピアニストだなんて思わないのではないか。『Rock it』あたりから入った人はもっとそう思うだろう。でもモードジャズの演奏なんかを聞いてみても、根底にはやはり骨太で、強烈なリズムに対するこだわりを感じるので、本人からしたら別に大した変化ではないのかもしれない。彼のリズム、音色のセンス、どれも強烈に自分の体にぶつかってくる。耳よりも体幹が欲する音楽。
それからもう一つ、バッハのオルガン曲に惚れ込んだ。『幻想曲とフーガ(BWV542)』『主よ、我は汝の名を呼ぶ(BWV639)』あたりが好きだったのだが、ついにマリー・クレール・アラン女史のオルガン全曲集(全266曲)を購入。そこからはもうマッハでバッハである。

2013年の楽器

よく楽器は階段状に上達する、なんて言われたりもする。実際そういうことも多い。実は今年、フルートは何ヶ月かやっていなかった。どうも音が安定しないし、3オクターブ目が辛いのと、明らかに力が入っているのがわかるのに、打開策を見いだせなかったからだ。ところがある時再開したところ、3オクターブ目が楽に出る。力も抜けている、それを維持もできてきている。それに気分を良くして毎日きっちり基礎練習をするようにしたら、楽しくて楽しくて、とにかく響かせることと、自分が苦手なことの克服をテーマに日々練習を続けるようになった。
曲はバッハの『主よ、我は汝の名を呼ぶ(BWV639)』を新しく練習している。オルガン曲を一度に全部演奏するのはフルートでは無理なので、パートに分けてではあるが、特に内声部は運指の練習に非常に良い効果が出ている。

2013年の釣り

正直なところ、マス類は管釣り以外さっぱり。そもそも釣りに行っていないのもいる。エギもほとんどやらず、もっぱらロックフィッシュ。前半は数が出なかったが、後半はようやく思い通りに釣りができてきたように思う。今年からベイトタックルを導入したので、不慣れからくる時間のロストや効率の悪さもあったと思う。しかし後半は大分盛り返してきたので、これからも使っていこうと思う。バックラッシュ以外はベイトのほうが圧倒的に楽。今年はあれを釣るぞと意気込んだら釣れたことが多かった。釣り分けできるということは、生態を理解してきているということでもある。メインのソイは、調子が悪い時でもサイズだけはそれなりに出たので満足。来年はどれだけ行けるだろうか、見通しはまだ立たないがサクラマスをきっちりと釣りたい……。

そうそう、このブログをもうちょいマメに更新するようにもしないとね。

お前はうちの子ではない橋の下から拾って来た子だ

「あんたはね、豊平川の橋の下で拾ったんだよ」叔母に何度となく言われた言葉だ。本気になどしなかったし、冗談だとわかっていたので笑い話だ。
その後大人になってから、お前は橋の下で拾ったというこの言い回しが、実は全国で存在しているということを知ってたいそう驚いたことがある。ある時、これに関する書籍があることを知って手にとってみたのが、今回の表題となっている本だ。
本書は、精神科医である著者が表題の言い習わしについてアンケートを実施したものについて、文化人類学的考察をしていくというのが本旨である。この言い習わしについてアンケートを実施した人はおそらく他にはいないと思われるので、資料としては貴重なものではなかろうか。(もし他にいれば追記する)
結果としては、女性の体験率のほうが多かったり、橋の下という場所が最も多かったりと、面白いものになっている。しかし、筆者自身の考察が、曖昧なものをそうに違いないとした上で行なっていて、もう片方のケースについても仮定として検証するのかといえばしない。特に言われた時の状況、気持ちを自分の中で組み立て、ドラマにしているのはいただけない。頭の中でそうなるのはかまわないが、本として、研究の結果を世にだそうと思うならば、もっと掘り下げなければいけないのではないかと思う。ではどれもこれもだめかといえばそうでもなく、厄年に生まれた子供を一度形式的に捨て、予め頼んでおいた人に拾ってもらう、拾い親という風習から、この言い習わしが来ているのではという指摘は考える余地がある。
昔、『捨』という漢字が名前に入っている人がいて、親は何を考えてこのような文字を入れたのだろうと理解に苦しんだことがあったが、これもこの風習から来ていると知り、むしろ親の愛にあふれたものなんだと感心させられた。
自分が言われた叔母というのは、このアンケートではかなりの少数派だった。多くは母親、父親、きょうだいの順で、家族の範囲内が圧倒的なのだ。ただ自分が小さい頃、親は出張で二人ともいないことも多く、その時に泊まってご飯の支度などをしてくれたのが叔母であり、母親自体も親よりも叔母と暮らしていた時期のほうが長い。そうした背景もあり、叔母自身が特に家族意識を持っていたようである。「あんたの本当の母親は私なんだから」(前に豊平川の橋の下で拾ったっていったはずだが……?)なんてこともよく言っていた。おそらくこの言い習わしの背景としてはレアケースであろうと思う。
作者自身が認めるように、本の中で最後までわからなかったことがある。それは橋の下という場所がなぜこんなにも言われているかということだ。この言い習わしは、親から言われていなくても、その子が自分の子供に言っているケースも少なからずあるのだ。それはとりもなおさず、お前はうちの子供ではないという縁切りの言い回しそのものの普遍性を示唆しているが、その中でなぜ橋の下が拾ってくる候補の筆頭にあがるのか。少なくとも子供に言うその時までに、どこかで、子供を拾ってくるとしたら橋の下というイメージができあがっているとは思うのだが、その根源はどこなのだろう。本書では示されていないので、自分で考えるしかない。
それらのすっきりしない部分を抜きにしても、このアンケート結果は貴重であるし、この言い習わしを言われた経験がある人が、改めて考えてみるきっかけとしてはいい本なのかなと思った。本旨の『文化人類学的考察』を求める人には、物足りないものがあるのは否定できない。

お前はうちの子ではない橋の下から拾って来た子だ

お前はうちの子ではない橋の下から拾って来た子だ

真・女神転生4のクリア後の感想

2013年5月23日、ついに待望の女神転生シリーズの最新作が発売された。メガテンシリーズはハードごと買うというのがメガテニストの鉄の掟。ならば買おう、と意気込んでいたところに、本体同梱版も発売されるとの報。買いましょう。
待ちに待った女神転生。しかしその一ヶ月後には、更に間を空けての新作となる『さよなら海腹川背』の発売も迫る。一ヶ月で片を付ける。できるか? やるしかない。正当なメガテンシリーズ、ボリューミーにならないはずなどないのだが、なんとか時間をうまくやりくりしてやれば、一日の時間に組み込めるはず。その結果は総論にて。

総論

細かいことは以下に書くこととして、まずプレイした感想を述べる。一周目はニュートラルルートとなった。プレイ時間はなんと85時間。海腹川背の発売日なんて俊足で過ぎ去っていった。少し次の周への準備をしたが、ニュートラルならば70時間はかかるのではないか。他のルートはここまではかからないようだ。一周でこんなにかかったゲームは初めてである。序盤のあの人やこの人、盛り上がったあの場面が、既に過去のものとなり、まるで神話的時間の中をたゆたうが如し。
長い道のりだったが、紛れもなくメガテンだった。特に、東京にたどり着いた時のあの高揚感……。あれはファンであるならば心打たれる光景だろう。今回は東のミカド国よりはじまるが、舞台設定は中世でどこかメガテンとは違うものを感じていた。しかし物語が進むにつれ、これぞ女神転生という光景が次々と襲ってくる。
ゲームとしての難易度もしっかりとメガテンだ。開始三戦目でめでたく全滅をいただいた。メガテニストはここでよだれを垂らしながら歓喜の叫び声を挙げるのだ。
残念だったのは、キャラクターを活かしきれていない部分が見られたところ。あっさり死んでしまう人もいれば、終盤まで出てこなくなる人もいて、そのキャラのことを知る機会があまりない。主人公達もどこか青い。この年齢ならば仕方がないことではあるのだけれど、その青さをもっとメガテンの重暗さの中に投影できなければ、ただ慌てふてめきながら流されるだけのキャラに過ぎない。そこから終盤への繋ぎ方がやや不満。
全体的には、メガテンの伝統をしっかり踏襲しながらも、新しい試みを模索し続ける素晴らしい作品だった。スタッフの力の入りようは、その世界の作りこみ加減で十分伝わってくる。アトラス自体はこれから大変な道を歩まねばならないかもしれないが、是非折れずに、また女神転生を出してほしい。
最近は時間との兼ね合いもあり、やるゲームを極端に絞っている。その絞られた候補の中に燦然と輝く明星こそが、女神転生なのだ。
これからやろうと考えている人、めげそうになっても、とりあえず東京までは行こう。それでもだめなら仕方がない。
以下細かい部分に分けて書く。ネタバレ大いにあり。

ストーリー

全体を俯瞰して見ると、真・女神転生2を意識した展開が目立つ。東のミカド国と東京の関係、最終決戦に赴く舞台立て、どれも真2に似ている。違うのは、同じ選ばれたものといえども、主人公達は普通の人間から選抜されたという点か。そして若さ故の論の弱さ。これは年齢設定を考えれば当然こうなってもさしつかえないと思う。が、女神転生の二つの属性を背負って立つものとして、あまりにも芯が弱い。ワルターは特にカオス思想を信奉する素振りを見せるが、結局ヨナタンとくっついたり、言い負かされたりする。このへんが今までのメガテンとは違う青さなのだろう。しかしこの青さも、活かされなければただの蛇足だ。一周で全てがわかるわけではないが、見た限りではこの辺の描写不足で、いきなりのあの姿でのご対面となり、少々面食らった。忸怩たる思いを経験したりしたら、それを成長の糧としてほしいんだよ。
その点を除けば、おおむね素晴らしい。生ぬるい描写は抜きでどんどん人は死ぬ、食われる。この救いのなさの中から、微かな希望を見つけていく、人間自身の強さ。ニュートラルが一周目でよかったなと思う。大抵の人は一周目でやめるだろうから、やはり一周目はニュートラルを見てほしいという気持ちもあるが、やはり自分の気持ちに正直に生きて、東京を駆け抜けるのがメガテンの醍醐味か。
あとはホープナバール、カガなど、あまり見せ場もなくイベントの表舞台から消えた人達が残念でならない。特にカガは、あまりにも早い退場にあっけにとられるばかりだった。
今作のヒロインはノゾミでいいんじゃね?

システム・戦闘

真3を経験した人ならわかるだろうと思うが、全体の動作は非常に軽快。セーブ・ロード、全てが早い。
しかし操作系は不満な点も。第一にマップ。じっくり見ることができない。見ている間にも次々と敵がわいてくる。ハシゴなどの手前で十字キー操作を必要とする点も、テンポが悪い。そしてフィールドマップにおいては敵が非常に速く、地形を無視して追尾してくるので逃げるのがかなり困難。しかも一度消えてもすぐに復活するので、ひとつのところに移動するのにそれなりの戦闘をこなすことも。待っていればいいのだが、消えるまでがまた長い。
そしてスタッフ自身も意外に思っていたプレイヤーの反応に、東京の地理がわからないので、どこそこへ行けと言われてもすぐにピンとこないということがある。これは自分も非常によくわかる。何度も東京のあちらこちらを歩きまわった。地形自体も複雑になっていて通れない部分も多かったので、地理を頼りにしている人でも多少は迷ったのでは? なによりも、地名と位置を頭の中で合わせることができなかった。マップ画面に切り替えて地名と位置を確認できればよかった。
悪魔合体は、これまでの選択画面から、検索がメインの構成となった。これはこれで便利なのだけれど、特定の悪魔と特定の悪魔を選択、ということが直接的にできなくなったのは少し煩わしい。合体結果が悪魔のアップ画像を横に表示していくという方式は、どんなのが現れるのだろうという楽しみがあって非常によかった。
戦闘は、序盤は大変な苦労を強いられるだろう。ここで投げ出す人もおそらくいることだろうと思う。しかしメガテン、とりわけプレスターンバトルの経験がある人は察しがつくだろうと思うが、終盤は楽なのだ。ある意味メガテンの伝統とも言っていいバランスなのだが、その序盤の辛さは過去最高レベル。チュートリアル戦闘で死ぬのは基本であり、さらにミノタウロスで絶望を味わわされることだろう。しかし耐性やスキルが揃う中〜終盤では、かなり有利にプレスターンバトルを進められるようになり、楽になる。
プレスターンバトルはスリリングで非常に面白いのだが、その限界も今作はかなり見えてきたと思う。結局のところ、耐性をガチガチに揃えられると、万能属性頼りにならざるを得なくなる。そのため、そのような条件を満たした時に、わざわざ特定の行動をとるようなボスが、後半散見される。これはいただけない。いただけないけど、属性を全部塞がれると、これしかないのだ。次回作もプレスターン、とはおそらくいかないだろうと思う。

悪魔

シリーズ最多の登場数である。真3は3D化の容量の都合か、かなり少なかっただけに非常にありがたい。
今作は一部、外部デザイナーによる悪魔もある。個人的には、メガテンの世界観に合うようなものはあまりなかった。ミノタウロスやコウガサブロウが面白い感じで、ほどよいダサさもあってよかったけど、あとのはただのクリーチャーというか、神話的背景もあまり感じないようなものばかりな印象だった。特にメデューサとルシファーを見たときは言葉が出なかった。
ただ、自分が疑問なのはなぜ外部デザイナーを使ったのかのではなく、なぜ金子氏が描き下ろしてくれなかったのかということだ。SJでは描き下ろしたのに関わらず、だ。さすがに新旧金子デザインを並べるのは、最近無理があるような気もしてきた。全部とは言わないが、せめて常に新しい悪魔デザインを提供してほしいものだ。
今作をやっていて一番強く思ったのが、悪魔のレベルがかなり変わっていたことだ。まずしょっぱなからラームジェルグが出てくるということに非常に驚いた。本来ならば中盤にさしかかる頃の悪魔だ。ガロットやシャックスのレベルにも非常に驚いたが、なによりもガロットの全身絵での動きがエグいのが……。

真・女神転生IV (2013年5月23日発売) - 3DS

真・女神転生IV (2013年5月23日発売) - 3DS

フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』

私達が小説を読む時、私がそうしたこうした、何年後にどうしたこうしたと、筋道をたてて、歴史を追うように話が展開していく。一つの町と、そこに住むある男についての話だとすれば、壮大な時間の進行とともに、男の軌跡が語られていくかもしれない。それを語るのは彼の息子で、その町にやってきたとすれば、最後に彼が何かをして終わる場合がほとんどではないか。
『ペドロ・パラモ』を読み始めた時、そのような期待をしながら読んでいた。父親との因縁という意味で中上健次の『枯木灘』のようなものを想像しながら。死人が出てくるのはまったくもって問題ない。しかしある時、主人公であるフアン・プレシアドが死んでしまう。そのあたりから少し首をかしげる。コマラにやってきた「おれ」がいなくなったら、誰がその先を語るのだろうか? オラシオ・カステジャーノス・モヤの『無分別』においても、語り手が発狂しながらも物語は進んでいた。しかし、語り手が死んでしまったら、誰が収集をつけるというのだろう。じゃあ彼は主人公ではないのではないか? 唐突な視点の切り替え、ペドロ・パラモであったり、レンテリア神父であったり、スサナであったり。次の行が、時間通りに進む保証は何一つないのだ。この辺は、リョサの『緑の家』を思い出したが、年代的には『ペドロ・パラモ』のほうが先だ。気がつけば、様々な時代を行き来している。まるで四方八方にジョイントするパーツを、次々と組み合わせていっているかのようだ。
もはや歴史的時間というものは極限までに薄れる(断片があるということは、その中では多少時間が動いている)。それはコマラが見てきた、ペドロ・パラモが見てきた純然たる空間だ。時間という絵の具をおもいっきりキャンバスにぶちまけてやった、その絵を私たちは見て、体験している。たった200ページ弱、小説の200ページというのは、長編としては決して多いページ数ではない。その中に、コマラが、ペドロ・パラモが凝縮されているのだ。その構成の妙にぶち当たった時、フアン・ルルフォの凄さが一気に流れ込んできた。マルケスが影響を受けたというのは実に頷ける話で、羊皮紙の予言をなぞって進行していた『百年の孤独』と比肩されうる作品だということは、読了後すぐに理解できた。凄い作品ですよこれは。
さて、本の最後はペドロ・パラモが死ぬところである。しかし、これは最後であって、最初でもある。そのずっとあとにフアン・プレシアドがコマラを訪ねてきて、彼もまた死ぬのだ。いや死んでいたし、まさに死んでいるところなのだ。

ペドロ・パラモ (岩波文庫)

ペドロ・パラモ (岩波文庫)

アンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』

ハリー「私は女として言うのです」


サルトリウス「君は女ではない。それ以前に人間ではない。まだわからんのか。ハリーはいない、死んだのだ。君は彼女のコピーなんだ。物理的なコピーにすぎないのさ」


ハリー「ええ、そうかもしれません。でも私は……人間になります。感情だって、あなた方に劣りません。彼なしではいられません。私は……彼を愛しています。私は人間です」

ある時、むしょうにバッハのオルガン曲が聞きたくなった。パイプオルガンの持つ音圧に埋もれたいと思った。そこでマリー・クレール・アラン演奏のバッハオルガン曲集を買ったのだが、そこに収録されている一曲に強く惹きつけられた。BWV639、『イエスよ、私は主の名を呼ぶ』は、オルガン曲の中でも少し毛色が違うように感じたのだ。聞きこんだり、曲自体のことを調べていくうちに、この曲がテーマ曲として使われている映画があると知った。それが今回視聴した『惑星ソラリス』だ。今回、というよりも知ったのは1月だったのだが、ブルーレイで出るということを知って予約したはいいものの、発売延期となってしまい、ようやく先日届いたという経緯だ。
水の惑星ソラリスは、過去に探索に行った者が信じられないものを目撃して報告するが、学者達は幻覚だと彼の経験を否定し、彼を異常者として扱った。その惑星ソラリスの研究の可否を主人公のクリスが判断することとなり、ソラリスの宇宙ステーションへと派遣される。そこで彼はとんでもないものを目撃する。眠って起きてみたら、自分のせいで死んだ(と思っている)妻ハリーが目の前にいる。彼はいきなり彼女をロケットで飛ばしてしまう。この時点で彼は、まだ自分を正常(この場合の正常は、科学に根を張ったものだろう)だと思い、彼女を現象の一つとして扱っていた。しかしまたハリーはよみがえる。彼女はソラリスの海が、人の脳内から創りだしたものだった。それから彼は徐々に、彼女にのめり込んでいく。肉体は違えども、彼はそれにハリーを見出していたのだ。
未知のものでありながら、人らしい振る舞いをするものに対する葛藤を描いたものというのは決して少なくはない。しかしこの映画では、絶望を描くより、気丈に、気高く、それでいて昂ぶらず、自分は人間だとハリーに言わせる。その図書室でのシーンの時のセリフが、冒頭の引用だ。関係なくして生きていけない我々は、他者の理解が何よりも重要だと思わせられる。そしてSFの手法も、そのような立場に立脚すれば非常に有効なものだ。タルコフスキー作品は初めてだが、とても率直かつ美しくそれを描いていると思う。もちろん表明するのは言語だが、数々の散りばめられたイメージ、カメラマンの力量、監督の演出はため息しか出ないほどの素晴らしさだ。
その映像美の極致といってもいいのが、図書館での無重力シーンだ。冒頭の引用のシーンのあと、他の科学者が去った図書室(少しの間無重力になってしまう時間帯があるのだ)で、二人は無重力の中抱き合う。抱き合うというより、抱き寄せて、寄り添う。シャンデリアに燭台がぶつかり、音を立てる、カメラが絵画をぐるりと二人を取り囲んでいるように見せる、本が横切る……バックで流れる『イエスよ、私は主の名を呼ぶ』……。言葉で書いてもどうにもならないが、鳥肌が立つぐらい美しいシーンだった。そして何よりも、クリスよりも、ハリーのほうが高い位置で寄り添っているのである。これが実に印象的だった。この瞬間、二人の愛は肉体を超えたのだと思う。このシーン自体は、無重力というものを表現するギミックというのは、それほどでもない。しかしその演出とカメラワークは、そのようなものは些細なことだと思わせるほどの説得力がある。表現に大事なのは、物理的法則よりも説得力だと思う。だから、さほど自由に浮遊していないのにも関わらず、これほどまでに感動するのだろう。
ソラリスは、何のためにあったのか。おそらく、そんな問いの前に存在していただけのことだ。しかし、地球の人達がソラリスとどう向かい合うか、そのきっかけをクリスとハリーは作った(お客様 ではなくなる)だろう。ラストのシーンを見れば、クリスの内面がどのようになったか、わかるはずである。
タルコフスキー作品は初めてだったが、表現に真摯に向き合う人だということが、よくわかった。是非他の作品も見てみたい。久々に映像で感動させてもらい、映画の持つパワーを感じることができた。同時に、BWV639の再生頻度も上がることだろうと思う。

惑星ソラリス Blu-ray

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トッカータとフーガ / バッハ : オルガン作品集

トッカータとフーガ / バッハ : オルガン作品集

Rosbeg / ソニー・ラブ=タンシ『一つ半の生命』


最近はFlookのRubai収録のRosbegをF管ホイッスルで練習している。動画はフルートだけど、非常に暖かみがあって好きな曲だ。非常に簡単そうに聞こえるが、シンコペーションの多用でややリズムが取りにくくなっている。とはいえそこまで難しいわけでもない。吹く気持ちよさを味わうにはいい曲だ。Brian Finneganは意図的にシンコペーションを多用してくるスタイルで、この辺の貪欲さが好きだったりもする。彼の作曲したリールやジグのクオリティが高いのは、そういう姿勢もあるのではと思う。7拍子の曲もあるしね。
大分、スライドの使い所の勉強になる曲だなと思う。F管は速いフレーズもやりやすく息も楽で、かつ深い息の表現ができるので個人的に好きな管だ。
調べた限りでは、Rosbegは地名かな? アイリッシュ曲にはタイトルに地名が入ったものが非常に多い。北海道なら、羽幌の風とか、積丹リールとかになるのだろうか。ずばりダブリンというリールもある。
後は他のFlook曲の再解釈(ジグかスリップジグかなど)などをした。リズムの解釈の違いで大分曲の雰囲気が変わってくるので、なるべく両方を取り入れられるようにしたい。
それから前回注文したA管ホイッスルは偶然にも在庫があったので、こちらだけ先に届いた。ちょうどハイとローの中間ぐらいのキーで、Abよりは結構細い。ただ指的に、このA管ぐらいから、ストレートフィンガーにしようか迷う人も増えるのではないかと、触ってみて思う。ちなみに自分はAもAbも通常の、指先の腹を使った押さえ方だ。F管はストレートフィンガー。これから始める人は、こういうところでも気になるのではないかなと思うので、書いておく。ただ、吹きにくくなければどちらでもいいというのが本音ではあるのだが……。

ソニー・ラブ=タンシ『一つ半の生命』

シャイダナが十五歳の頃のことだった。時代はというと。時代なんかくたばっちまった。

いきなりこの書き出しで始まる。なんだこいつは。最後まで読めばわかります。
架空の国カタマラナジーの指導者は、政敵であるマルシアルの喉にナイフを突き立てる。しかし彼は一向に死なない。ばらばらに切り刻まれても死なない。その後も彼はことあるごとに喉から血を流しながら姿を表し、血のメッセージを残し、料理を作り、シャイダナに平手打ちを食らわせる。その一方で、マルシアルの底流が着々とできつつある。カタマラナジーは凄惨なまでの独裁国家だ。さからうものは死けい! というのは日常茶飯事であり、この辺の描写はマルケスの『族長の秋』にも通ずるものがある。しかし決定的に違うのは、独裁を行なっている指導者の人物像が一向に掘り下げられないことだ。同情する間もなく彼らも暗殺されたり、自殺したりと、その忙しさばかりが目に入る。その中において確かなのは、マルシアルの反抗の炎が、あらゆる時間を越えて作用しているということだ。
やがて新たな国家が、シャイダナの娘が中心となって作られる。ついにマルシアルの炎は国家という形となって燃え盛った! と思ったのも束の間、新生国家ダルメリアとカタマラナジーは戦争状態に入り、肩入れした国をも巻き込んでの終末戦争へと発展する……。蝿の兵器によって、国はふっとぶ。時間もふっとぶ。ナイル川ができる。時代なんかくたばっちまった。
マルケスよりもかなりストレートに、神話的世界を創造し、悪夢をそのなかに見事に投影している。中盤と終盤でこれほど印象が変わる小説も珍しい。しかし彼が小説を書くということに感じている使命は、ラテンアメリカ作家達のそれと変わらない。熱帯的エネルギーに満ち溢れ、絶望的に、かつ滑稽に、世界を描き出すことに専念している人だということがわかって、大きな収穫となった。他の作品も是非読んでみたい。

一つ半の生命

一つ半の生命

ナーズム・ヒクメット『フェルハドとシリン』

トルコの詩人による戯曲である。トルコの文学もまた、日本人にはなじみの薄いものかもしれない。自分も初めて読む。トルコといえば自分にとって、旋舞(セマー)を行うメヴレヴィー教団が真っ先に想起される。セマーは自分に強烈なインスピレーションを与えてくれた儀式で、いつか生で見てみたいと思うほど。
絶世の美貌と肉体を持つ女王メフメネ・バヌが、病気になって瀕死の状態になった妹シリンに、自分の美貌を与えるところから物語は始まる。メフメネ・バヌはみるみる醜い顔になるが、肉体はそのままである(シリンの肉体は姉と並ぶと貧相に見えるようだ)。二人は共に絵師であるフェルハドに恋をする。ここまではどこにでもある恋愛物語だ。そしてフェルハドとシリンは駆け落ちし、メフメネ・バヌは絶望に打ちひしがれる。
物語の様相が変わるのは、捕まったフェルハドがメフメネ・バヌから試練を与えられたところからだ。一人で山を穿ち、水を引くという事業だが、十一年が経ってさえも、先が見えないほどの難事業。しかし真摯にそれに立ち向かううちに人々は彼を聖人のように崇め、フェルハド自身も、多くの人々のために行うこの事業そのものに没頭していく。シリンはもはや具象的な彼女の姿ではなく、彼を支える愛の象徴となっていった。
だからいざシリンが迎えにきても、彼には戻る理由がなかった。肉体的距離はもはや問題ではなく、全人類的愛と彼女への愛は差があるものではなくなってしまった。
この話を見て、悲しいと思うこともあろうけど、また一方でフェルハドの行為も、紛れも無い愛である。メフメネ・バヌの妹のそれも、紛れも無い愛である。この話の中には、おそらくイスラム教の重要な要素が入っているが、自分はイスラム教の知識はないので、そこまで深く入り込めないのが歯がゆいが、訳者解説が非常にしっかりとしているので、それを読むだけでも理解は深まるはずである。何よりも解説に、メヴレヴィー教団とそれを開基したジェラール・ウッディーン・ルーミーの名が出てきたことに驚いた。本というものは、思いもかけない繋がり方をするものだと再認識させられた。作者は、人生のかなりの年数を獄中で過ごしてきた人で、その事実を踏まえて読むと、また違った味わいがありそうだ。
この本に出会ったのは、全くの偶然であり、特にトルコ文学を開拓したくて情報を漁っていたわけではない。むしろ表紙に惹かれたくらいである。その後、この本が意外と読まれていない事実に直面して、実にもったいないと感じた。訳者の方の並々ならぬ努力の功績もまた、認められる日が来ることを願う。願っちゃうよ!

フェルハドとシリン

フェルハドとシリン