[演劇] キェシロフスキ『デカローグ5・6』

[演劇] キェシロフスキ『デカローグ5・6』 新国(小) 5.23

(写真は、第6話「ある愛に関する物語」練習風景、ワルシャワの巨大団地だが、空間の使い方が上手い)

今回は「デカローグ」5と6、それぞれ1時間。5は「ある殺人に関する物語」で深刻な内容だが、5、6ともに、愛と孤独が主題である。5ではまず、人々が日常生活でも妙にギスギスして、互いに敵意に満ちていることが示される。カフェの給仕もタクシーの運転手も、不愛想を通り越して、客に敵意をもっているかのようだ。ワルシャワで働く19歳のヤチェクは、故郷の村で、5年前に友人とふざけて酒を飲み、酔った友人がトラクターを運転して12歳の妹を轢き殺してしまった過去をもつ。不良少年として村から追い出されたヤチェクは、ワルシャワで孤独な生活を送っているが、ある晩、自分に敵対的な中年のタクシー運転手を殺してしまう。が、すぐ捕まり、その裁判で、死刑制度に疑問をもつ新米の若い弁護士が弁護するが、まったく無力で、ヤチェクは早々に死刑執行される。それだけの話だが、深みのある舞台だ。その一つは、関係者がすべて、ヤチェクの死刑について、内心ではとても嫌な思いをしていること。裁判長も検事も死刑執行の官吏も、仕事なので仕方なく死刑に関わっている。言葉では言わないが、自分の思想がどうあれ、実際に人間の誰かを死刑にするということは、感情的に非常に嫌なことなのだ。それが舞台で見事に表現されている。友人が妹をうっかり轢き殺してしまったことの偶然性、それで村を追い出されたヤチェクは、人々の敵意に囲まれ、誰にも愛されない孤独を味わう。これが彼に露骨な敵意を示したタクシー運転手を衝動的に殺してしまった原因の一つなのだろう。誰にでも起こりうることなのだ。(写真↓は、運転手、ヤチェク、弁護士)

6「ある愛に関する物語」は、非常な傑作。両親を早く失った19歳の郵便局員トメクは、たった一人の友人がシリアに行ってしまい、その友人の母と暮らしている。彼は1年以上前から、巨大団地の向いの棟に住む30代の美人画家マグダを、望遠鏡で覗き見している。マグダの裸やセックスを覗き見しても、性的に未熟なトメクは性欲が湧くわけではないが、孤独な彼はマグダを好きになってしまう。ニセ手紙を作ってマグダの郵便受けに入れたり、牛乳配達を引き受けたり、何とかマグダに近づこうとする。やっとマグダに会えて愛を告白するが、マグダはもちろん迷惑がる。が、実は、娼婦的な女マグダもまた恋愛がうまくいかず孤独なのだ。ふと、いたずら心から、彼女はトメクを自室に入れ、自分の体を服の上から彼に愛撫させる。未熟な少年トメクは、服のまま、たちまち射精してしまい、ショックで大泣きする。大泣きしただけでなく、自宅に戻った彼は、洗面器で手首を切り自殺しようとする。が、すぐに発見され、一命はとりとめて入院で済む。退院したのち、彼はばったりマグダと遭遇する。望遠鏡ではなく至近距離で見つめ合う二人は立ち尽くし、終幕。憎しみは消え去り、おそらく、その瞬間に本物の愛が生まれたのだ。(写真↓は、マグダの恋人の男と、トメク)

元の映画版、2分間と、1分間の動画

デカローグ 第6話 ある愛に関する物語の予告編・動画「予告編」 - 映画.com (eiga.com)

https://eiga.com/movie/75347/video/1/

[今日の絵] 5月後半

[今日の絵] 5月後半

12 Matthias Stom : Young Man Reading by Candlelight 1630

マティアス・ストーム1600-1650はオランダの画家、カラヴァッジオの影響を受けた。ロシアの心理学者ヴィゴツキーは「読書しているとき、人は自分と対話している」と述べた、「読む」ことは人間の心の深部の対話であり、それは必ず身体の外見に表れる

 

13 Gustave Caillebotte : Interior Woman Reading 1880

カイユボット1848-94はフランス印象派の画家、描かれた人物に強い存在感がある、この絵では、手前の女性の、くい入るように見詰める真剣な表情と、後方の夫?のややリラックスした状態の差が、顔だけでなく手指からも分る

 

14 ホセ・フェラス・デ・アルメイダ・ジュニア : 本をもつ少女

作者1850–1899はブラジルの画家。夢中で物語を読んでいる人は、物語の世界の中に入り込み、さらには自分も物語の中の人物になってしまうことがある、それが物語を読む人の独特の体勢と表情になるから、画家が好んで描く

 

15 William Meritt Chase : Morning News 1886

チェイス1849-1916はアメリカの印象派画家、フランスで学んだ、チェイスの描く女性は、どれも姿勢がよく、視線を絵の鑑賞者にまっすぐ向けている、この絵は新聞を読んでいるが、新聞を顔からしっかり離し、上半身全体で読んでいる

 

16 James Sant:A portrait of young woman

ジェームズ・サント1820-1916はイギリスの肖像画家、「読んでいる」女性をたくさん描いた、この絵も、顔の光の陰影で、表情に深みが出ている

 

17 Michael Ancher:Mrs. Brøndum reading the Bible 1909

この老婦人は聖書を「読んで」いるが、自然に両手を組み、祈りの体勢になっている、アンカー1849 -1927はデンマークの画家

 

18 Thomas Benjamin Kennington : Lady Reading by a Window 1900

ケニントン1856-1916は英国の画家、社会的リアリズムでホームレスや孤児などを描いているが、これは上流階級の女性だろう、読み耽っているうちに頭が重くなるのか、しっかり「頬杖をついて」支えている

 

19 František Brunner Dvořák 1896

読書のとき、手の位置は皆それぞれだ、この絵は昨日の絵のような頬杖ではなく、頭の前方を押さえている、頭を「抱える」感じで、手も一緒に考えているのだ。フランチシェク・ドヴォルザーク1862-1927はチェコの画家

 

20 Anders Zorn : Study of a Nude 1892

アンデシュ・ソーン1860-1920はスウェーデンの画家、タイトルは「ヌードの習作」だが、読書をしている、画家はヌードをたくさん描いているが、どれも何かをしている。左手をぐっと伸ばして足元の小さな布のようなものを握っている、手も一緒に考えているのだ

 

21 A.C.W.Duncan:読書する若い女性 1896

ダンカン1884-1932はスコットランドの画家、この女性は両手を「軽く頬にあてて」いるが、頭の重さを支えているというのではない、穏やかに流れる時間、彼女は、考えるというよりは、物語の中の人物に寄り添っているのだろう

 

22 Felice Casorati : Girl with book Reading 1958

昨日の絵と同様、両手を頬に当てているが、受ける印象がだいぶ違う、こちらは読み終わって、本を閉じる直前、何か真剣に考え込んでいる、フェリーチェ・カゾラーティ1883-1963はイタリアの画家

 

23 Guy Rose : Marguerite 1909

ガイ・ローズ1867-1925は米国の印象派画家、描く女性像はどれも構図が卓越している、この絵も、壁に掛かったレリーフを含め、花、クッション、身体のバランスがいい、手が頭の後方を押さえているので袖が大きく広がる

 

 

24 Harold Knight : Alfred Munnings reading 1910

ハロルド・ナイト1874-1961は英国の肖像画家、室内が多いが、これは珍しく戸外、小さな椅子に座っている自分の体のバランスを取らなければならないので、無意識にこの体勢に。庭の緑がいい

 

25 Pierre Pivet : 読書

ピエール・ピヴェ1948~はフランスの画家、色彩感のある画を描く、この女性は夢中で読んでいるのだろう、知らず知らずむき出しになった太ももが、全体の色彩バランスに貢献している

 

26 Nick Botting : 読む人

ニック・ボッティング1963~は英国の画家、戸外のスポーツなどを描く人だが、これは室内、でもエスカレータは動いている、今なら、本の代りにスマホを見ている人は多い

 

27 Silvana Cimieri : 読書の午後 1993

シルヴァーナ・チミエリ1964~は現代イタリアの女性画家、この女性、やや姿勢が悪く、顎が手首に触れている、やや気だるい「読書の午後」だからか

 

28 Joseph Lorusso

ジョセフ・ルロッソ1966~は現代アメリカの画家、抱擁するカップルをたくさん描いており、人間のさまざまな体勢を上手く捉えている、ソファーに横たわって読書するこの女性も、折った膝と両手の位置など体勢に張りがある

 

29 John Michael Carter

ジョン・マイケル・カーターは現代アメリカの画家、政治家の肖像画などで名高い、女性もたくさん描いているが、どれも動きのある体勢だ、この絵は読書、「ゴロンと寝そべっている」感じがよくでている

 

30 Catrin Welz-Stein : 読書の午後

カトリン・ヴェルツ=シュタインは現代ドイツの女性画家、夢想する女性をたくさん描いている、この絵は、彼女が読んでいる文字、そこに書かれている内容、つまり彼女の心の中が外観と重ね合わせて描かれている

 

31 Frederick Serger : Der Talmud

フレデリック・ゼルガー1889-1965はチェコ生まれのユダヤ人画家、骨太な人物画や風景画を描いた、これはユダヤ教聖典「タルムード」、女性の後ろはラビかもしれない、何となく雰囲気がシャガールに似ている

 

[今日のうた] 5月

[今日のうた] 5月ぶん                                             

 

フラスコに指がうつりて涅槃なり (永田耕衣『加古・傲霜』1934、「涅槃」は釈迦入滅の春の季語、「ねはん」という響きが美しい、「フラスコに映った自分の指」が「涅槃」という奇抜な取り合わせが、いかにも耕衣らしい) 5.1

 

美しきネオンの中に失職せり (富澤赤黄男『魚の骨』1940、どこにも季語はないから無季俳句だが、「美しきネオン」が効いている、東京都心の「美しいネオン」が耀いている、でも作者は失業したばかりで、「美しいネオン」と無縁の心境にいる) 2

 

一本の道遠ければきみを恋ふ (渡辺白泉『涙涎集』1933-41、「青春譜」と前書、たぶん大学生時代の歌だろう、秋櫻子「馬酔木」への投稿歌から出発した作者が無季俳句にカーブを切る頃だが、無季といっても、どこか抒情的な美しさがある) 3

 

髪五尺ときなば水にやはらかき少女(をとめ)ごころは秘めて放たじ (与謝野晶子『みだれ髪』1901、馬場あき子によれば「髪五尺」という女の美意識が歌に登場するのは「明星」が最後らしい、平安和歌の頃の美意識だったのか) 4

 

恋といふめでたきものに劣らじと児をし抱けば涙ながるる (原阿佐緒『涙痕』1913、原は東北の旧家の娘で美女だった、十代で上京、美術学校で学び、19歳の時そこの教師の子を産むが、彼に妻子があったことを知り、絶望して自殺を図る、これはその頃の歌か) 5

 

産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか (阿木津英『紫木蓮まで・風舌』1980、作者は1970年代フェミニズム短歌の主導者の一人、これは豪快な歌、後半がいい、女は「産む性」だと言われるのに対して、「女はでっかい世界を産むんだぜ」と応答) 6

 

人あらぬ野に木の花のにほふとき風上はつねに処女地とおもふ (今野寿美『花絆』1981、人である作者が人のいない野に立つと、木の花のにほひが風で運ばれてくる、そのにほひの清らかさから、風上は人のいない「処女地」なのだろうと思う) 7

 

ひとりなる時蘇る羞恥ありみじかきわれの声ほとばしる (尾崎佐永子『彩紅帖』1990、60代の作者1927~は、一人でいるとき、若い時の恋の一場面を想い出したのだろう、「みじかきわれの声ほとばしる」がリアル) 8

 

ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり (永井陽子『モーツァルトの電話帳』1993、作者1951-2000はオノマトペも用いて繊細な歌を詠んだ、若くして自死、スペインのアンダルシアの明るいひまはりを見たかったのだろう、歌を中央で折り返す) 9

 

プリクラのシールになつて落ちてゐるむすめを見たり風吹く畳に (花山多佳子『空合』1998、作者1948~は歌誌「塔」の歌人、自分の「むすめ」が映った「プリクラ」が一枚畳に落ちている、風で飛ばされそう、ギャル文化の「プリクラ」に母親はやや違和感があるのか) 10

 

「さかさまに電池を入れられた玩具(おもちゃ)の汽車みたいにおとなしいのね」 (穂村弘『シンジケート』1990、穂村では歌に「」が付くと、女性の発話を意味する、恋人の女性が相手に言った科白なのだろう) 11

 

休日のしずかな窓に浮き雲のピザがいちまい配達される (杉崎恒夫『パン屋のパンセ』2010、たしかに「ピザ」のような「浮き雲」というものはある、それが「いちまい窓の向こうから配達された」ように感じる) 12

 

けふどんなかほをしていた?アイシャドウを光らせたままねむりにおちる (小金森まき「東京新聞歌壇」5月13日、東直子選、「アイシャドーを落とさず眠ったことで、別の人格、又は生き物に変身したまま戻れなくなったような不穏な気配を帯びる。自己の本質を問う歌」と選者評) 13

 

子には子の散歩の流儀があるようで石はけるべし穴のぞくべし (吉澤信子「朝日歌壇」5月13日、佐佐木幸綱永田和宏選、「「石はけるべし穴のぞくべし」に思わず笑ってしまった。行動的な子が思い浮かぶ」と佐々木評、たしかに子どもは大人とは違う歩き方をする) 14

 

ヒヤシンス咲くUFOの貨物室 (水面叩「東京新聞俳壇」5月13日、小澤實選、「UFO未確認飛行物体の貨物室のなかには、ヒヤシンスが咲いているという。ちょっとふしぎな花の形がふさわしいと言えばふさわしい」と選者評) 15

 

山ふはり山桜なほふうはりと (中崎千枝「朝日俳壇」5月13日、小林貴子選、「冬中縮こまっていた景色だが、春になると全体がふわふわしてくる」と選者評、たった17字のなかで「ふはり」「ふうはり」と二度浮かぶ感じがいい) 16

 

かミさまが留守だとてんやわんや也 (『さくらの実』1767、店か、家庭か、「おかみさん」がたまたま家を空けているので、家の者は勝手が分からず「てんやわんや」になっている、『さくらの実』は江戸期の川柳集、『柳多留』もそうだが川柳集は個々の句の作者名はない) 17

 

花嫁ハ湯屋で聞たい事を聞 (『さくらの実』1767、新婚ほやほやの花嫁さん、急な新婚生活で分からないことがたくさんあるのだろう、銭湯の女湯で、友人や先輩、実家の親戚などを質問責めにしているのが、なんか可愛い) 18

 

耳よりハさらさら娘氣にいらず (『さくらの実』1767、見合いだろう、親からみれば「耳寄りな、いい話」なのに、娘は「さっさと断ってしまった」、現代の婚活アプリでも女性はなかなか「イエス」と言わないらしいが、江戸時代も同じ) 19

 

仲人の道理に姑かつに乗り (『さくらの実』1767、嫁と姑の間に何かもめごとがあって、仲人が呼ばれた、仲人は姑の側に立って、嫁に「そもそもね・・」と諭すので、姑はすぐ「そうよ、そうなのよ、そうですとも」とうれしそうに相槌をうつ) 20

 

絵本の表紙の厚みには敵わない (兵頭全郎1969~、たしかに一般に絵本は「表紙が厚い」、子どもが持ちやすいからなのだろうか) 21

 

こっそりと添い寝をされる夜明けまで (竹井紫乙女1970~、彼氏が作者に「こっそり添い寝」をしたのだろう、でも、作者はそれに気づいたのだろう、だから「夜明け」に彼が去ったことも分る) 22

 

哲学の道で捨てるといいらしい (湊圭史1973~、京都にある「哲学者の道」だろう、「いいらしい」というのが可笑しい、何が「いい」のだろう) 23

 

した人もしてない人もバスに乗る (柳本々々1982~、何を「した」のか「してない」のか、それを読み手の想像にうまく委ねるから川柳) 24

 

吾(あ)を待つと君が濡れけむあしひきの山のしずくにならましものを (石川郎女万葉集』巻2、「大津皇子さん、うれしいわ、貴方は私をずっと山で待っていて、すっかり濡れたのね、その山の雫に、ああ私はなりたい、なれないものかしら」、まだ忍ぶ恋だが、大津皇子の求愛に応えた郎女) 25

 

あきづ羽の袖振る妹を玉櫛笥奥に思ふを見たまへ我が君 (湯原王万葉集』巻3、「蜻蛉の透き通った羽のような薄物の袖を翻がえして、舞を舞っているあの娘、可愛いでしょう、私が深く思いを寄せている彼女なんです、我が君よ、よくご覧あれ」) 26

 

振り放(さ)けて三日月見れば一目(ひとめ)見し人の眉引(まよび)き思ほゆるかも (大伴家持万葉集』巻6、「僕は今、夜空を振り仰いで、細い美しい三日月を見ています、それを見ると、一度だけお逢いした貴女の、あの美しい眉が思われてなりません」、16歳の家持が坂上郎女に贈った恋歌) 27

 

筑波嶺(つくはね)の新桑繭(にひぐわまよ)の衣(きぬ)はあれど君が御衣(みけし)しあやに着欲(きほ)しも (東歌『万葉集』巻14、「私、筑波嶺の新桑で飼った蚕の繭から作った、立派な着物を持ってわ、でもそれじゃなくて、貴方のお召し物を床に敷いて、貴方と共寝したいのよ」) 28

 

夜(よ)とともに玉散る床のすが枕見せばや人に夜(よ)はのけしきを (源俊頼金葉和歌集』巻7、「いつも夜になれば、僕の涙は玉のように飛び散るんだ、この枕の上に、それを君に見せたいよ、君のいない一人寝がどんなに淋しいか!」) 29

 

淵やさは瀬にはなりける飛鳥川浅きを深くなす世なりせば (赤染衛門『後拾遺和歌集』巻12、「貴方、そんなこと言うけど、飛鳥川の深い淵が浅い瀬になるはずないでしょ、浅い愛情しかないくせに、深い愛情だなんて、ごまかしてもダメよ」、求愛の手紙を叩きつける作者) 30

 

暮れにけり天(あま)飛ぶ雲の往来(ゆきき)にも今宵いかにと傳へてしがな (永福門院『風雅和歌集』、「ああ、夜も暮れて深夜になってしまった。貴方はまだ来ないのね。夜空を飛ぶように行き来している雲さんに、「貴方は今夜来るの、来ないの」と言づてを頼みたいわ」) 31

[演劇] 木下順二『オットーと呼ばれる日本人』 

[演劇] 木下順二『オットーと呼ばれる日本人』 民藝 紀伊国屋サザン 5.17

(写真↓は、舞台中央が尾崎秀実、右へアグネス・スメドレーゾルゲ。そして本人たち、毛沢東朱徳、スメドレーの貴重な画像も、延安か)

初演が1962年、本上演が4回目で、丹野郁弓演出。評伝劇あるいは歴史劇の傑作だ。全篇、張りつめた緊張感に満ち、3時間40分があっという間。私は、シェイクスピア『ヘンリー五世』を想い出した。一番驚いたのは、尾崎の政治活動のスケールの大きさ。東大法卒→朝日新聞社員(含中国特派員)→首相近衛文麿のブレーンを務め、「ゾルゲ事件」で刑死した尾崎だが、「(暗号)オットーと呼ばれる日本人」は、革命家、ジャーナリスト、思想家を兼ねていた。舞台上の科白も、「帝国主義の矛盾の結節点が上海から東京に移った」とか、マルクス主義者のターム。思わずゾクっとしてしまう。最近の研究によれば、尾崎、ゾルゲ、スメドレーたちは、上海での中国共産党指導者である周恩来とも接触があった。尾崎の構想は、ソ連共産主義中国+日本で「アジア共栄圏」を作り、欧米の帝国主義諸国家と対抗するというもの。それはユートピアすぎて不可能、と嘲笑するゾルゲとの議論が全体で一番面白かった。世界情勢の認識をめぐって二人は対立したが↓、二人ともそれぞれ非常に深く世界情勢を捉えている。1941年8月の時点で、世界革命という視点からは、あとは独ソ戦ソ連が勝つことだけが課題であり、日米開戦で日本は惨敗すればよい、とするゾルゲ。日米開戦だけは阻止したいと考える尾崎。結果的には、ゾルゲが正しく、尾崎構想は挫折した。ゾルゲは「日本での任務はすべて終了」とコミンテルンに電報を打つ。実に見事! ゾルゲは、KGB出身のプーチンが「国家の英雄」と讃えるだけの凄い人物だと思う。一方、尾崎は中国情勢を一番正しく捉えていた日本人と思われ、ちょっとした科白の端々から、中国革命を深く理解していることが分る。近衛文麿西園寺公一犬養健や、尋問での思想検事など、当時の体制エリートが尾崎を高く評価していた理由はたぶんそこで、尾崎は「スパイ」というちゃちな存在ではない。41年10月のゾルゲ+尾崎逮捕、そして刑死により、個人としての彼らの存在は終わったが、世界革命運動の一コマとしてみるならば、二人は非常に大きな功績がある。帝国主義の矛盾の結節点のど真ん中かつ最前線にいたのだから。

本作の登場人物はすべて実在だが、「ゾルゲ尾崎事件」はまだ全貌が明らかになっておらず、特に、戦後、アメリカでの「赤狩り」と連動した、日本GHQのウィロビーやラッシュによって「歴史修正」された部分がかなりある。戯曲は、それらが分る前の1962年に書かれたので、細部に修正すべきところはあるが、大筋は正しいだろう。また尾崎が魅力的な男性だったこともよく分る。美人の妻は兄の妻を奪ったわけだし、スメドレーも愛人だったのだから。(写真↓は、尾崎と妻、思想検事と弁護士など)

 

 

 

 

[演劇] シェイクスピア『ハムレットQ1』

[演劇] シェイクスピアハムレットQ1』 渋谷PARCO劇場 5.14

(写真↓は、オフィーリア[飯豊まりえ]、ハムレット[吉田羊]、王クローディアス[吉田栄作]、そしてホレーシヨ[牧島輝]、吉田が演じるハムレットは美しい、飯豊まりえはオフィーリアの他にフォーティンブラスも演じ、これも美しい王子だった)

森新太郎演出、『ハムレット』の最初の戯曲原稿といわれる『ハムレットQ1』を上演。分量が通常の上演台本『ハムレットF1』の6割で、各人の科白が短い。本上演も、上演時間がぴったり2時間半。今回のQ1版が通常のF1判と違うと感じたのは、(1)母ガートルードに対するハムレットのドロドロした性感情というフロイト的問題が消失していること、(2)<深みのある科白>がF1判より少ないこと、(3)ハムレットは、(a)竹を割ったような直情径行の体育会系キャラと、(b)思索的で優柔不断な苦悩系キャラとの両面を高度にもつ青年だが、そのうち(b)が消えて(a)だけになったこと、(4)『ハムレット』の一要素である、宮廷政治劇の要素が希薄なこと、等々である。ハムレットが、対立するクローディアスやポローニアスのハムレット包囲網の中でどんどん孤立していく過程が、各人物の言動のコミカルな要素を前景化したので見えにくくなってしまった。その反面、演劇の流れとしてテンポがよく、『ロミ・ジュリ』ほどではないが、時間が速く流れ、通常F1判フル上演のような時間的滞留感がない。何よりも、ハムレットの長大なモノローグがないのはいい。ただ、F1『ハムレット』でシェイクスピアが表現しようした、多面性・総合性が希薄になった。『ハムレット』は、宮廷政治劇だけでなく、仇討ち復讐、青春の若者の素晴らしい友情の崩壊、息子/母のドロドロした性感情、人間の狂気性など、実に多様な主題が輻輳している。その多様性が総合されるには、やはり一定の長さが必要で、F1版は無駄に長いわけではない。

ハムレット役を女性にしたのは、サラ・ベルナールが演じたこともあり、ハムレットは性を超越しているようなところがあるので、とてもよかった。ノルウェー王への大使二人も、バリバリのキャリアウーマンOL風の女性だし、旅芸人4人も女性、そしてフォーティンブラスをオフィーリア役の飯豊まりえが演じたのもいい。とにかく、吉田ハムレットも、飯豊フォーティンブラスも、少年のような凛とした美しさがある。ただ、ハムレットはただ四六時中、大声で怒っているばかりになったのは、上記の(b)の側面が希薄になったからだろう。また、「尼寺へ行け」のシーン、ハムレットが女の甲高い声になって人形を引き裂いてみせるシーンは、ハムレットの狂気を示すためだろうが、ここは微妙なところだ。ハムレットは「狂気を演じる」のだが、実際は演じ切れておらず、クローディアスはそれに気づいている。「狂気のふりをすることの失敗」もハムレットの重要な要素であり、それとオフィーリアの発狂との絶妙な対照が必要だ。旧ソ連のコージンツェフ監督版の映画『ハムレット』は名作で、ハムレットが宮廷で孤立してゆく過程とオフィーリアの発狂が、実に恐ろしいものに描かれていた。それに比べると、本作では、あらゆる場面でコミカルな言動を前景化しているので、オフィーリアの発狂もあまり「怖い」感じがしない。「尼寺へ行け」のシーンも、本当は、心が凍るような怖いシーンであるべきだと思う。吉田栄作のクローディアスは、長身でハンサムなため、どこか淡々としてクールにみえる。兄王と常に比べられてきた激しいコンプレックスと、性格のゆがみ、いじけからくる<醜さ>があまり表現されていないように思われた。とはいえ、これだけ明確にハムレットを人物造形し、全体を軽快な時間の流れ2時間半に収めた今回の舞台は、非常に貴重なものだ。

3分の動画

吉田羊が復讐に燃える王子演じる『ハムレットQ1』ダイジェスト│エンタステージ (youtube.com)