のび太スレ雑感

※以下、リンク先閲覧注意。2ちゃんねる特有のコミュニケーションや、過激な性表現・差別表現等がみられます
※いつもの「やる夫」シリーズは流れで読んでちょっとピックアップすれば済むんだけど、これはもっと2ちゃんの記事的な、単発の主張のように思えたので自分の意見も含めてちょっとつっこんで記録しておく。

1.のび太「ドラえもん!世界から戦争を根絶することは可能なの?」

「戦争を賛美はしないが肯定はしている」
“ルールを守って戦争しましょう”、というのは鋭い指摘だ。
じゃぁ、「ルールを守っていれば武力衝突は許可されるのか?」という問題には、人の人による制裁=死刑や、裁判の問題にもかかわってくると思う。
これにガンジー先生は何て言ってたんだっけな・・・。ジーザスはやっぱり立ち居地がユダヤだからなー。


ちなみに、兵器廃絶の流れにいくのかという期待は外れ(笑。
でも、せっちゃんが交互に出てくるこの流れがいちばんすきかも。
後半は半笑いで眺めるが吉w

2.のび太「ドラえもん!どうして人は宗教を信じるの?」

「宗教とはエトス(行動様式)である」 ---マックス・ウェーバー
倫理観から宗教が生まれたのか、宗教観から倫理が生まれたのか議論してるひとがいたけど、そうやって鶏と卵の問題にするのはあまりにも「宗教」を特別視しすぎだと思う。
宗教だって行動規範の一つの形態に過ぎないし、いわゆる「日本人独特の聖意識」(穢れとか、神聖な場所には立ち入らないとか)も、私は宗教の一種と言うことが出来ると思っている。

3.のび太「ドラえもん!どうして日本の政治は良くならないの?」

“政治家を含む日本国民が政治とは何かを理解していないことに問題がある”
>>政治とは生活の一形態
なんのために政治を行うか → 衣食住含めた我々の生活を安定させたり、豊かにするため
= 全ては生活という人間の日々の生命活動を如何に恒久的に維持させていくか、というのが政治本来の役割
← 政治を上手く運営していくためには人間同士の相互協力が必要
〜 私たちの衣食住の生活はすべて相互協力で成り立っているから
⇒ 生活の延長線上である政治もまた、国民一人ひとりの協力が必要
← だから今の政治が良くするには国民同士の相互協力が必要だが、しかし国民はその重要性をさほど認識してはいない。


このまとめはホント良くわかって面白かった。
だから小学校の社会科では、そもそも「社会には色んなひとがいて、色んな仕事を分担してるから成り立っているんだよ」ってとこから教えるんだね。
少なくともこれが近代における「政治」の定義の定説なんだろう。
ただ、>>1の問題提起(=国民の非相互協力)が、政治参加(投票率の低下など)の問題を指しているのか、それとももっと社会全体をとらえた時の相互を見渡す視点の欠如を指摘しているのかがわからない。
まぁ、後半の流れを見るかぎり、私の思うような後者ではたぶんないんだろうけど。


以降のスレで、天皇を茶化したりする思い切りのよさには豪気さを感じたけど、でも嫌韓のくだりとか“池沼*1”のくだりを見ていると、けっこう「民族」という概念意識が強いひとのように思えるし、社会科学の見識は広くても哲学までは足つっこんでない感じがする。
しかし、>>1は一体どんな女子だ。今まで会ったことのない人種すぎて興味ある(笑。

4.のび太「ドラえもん!どうして歴史を学ばなくてはならないの?」

歴史を教訓のデーターベースとみなすのはとても社会科学的。私も元はといえばそこから入った。
でも現在の私はこの主張を以って歴史を学ぶ理由の全てとするのは反対。
異文化を異文化として尊重するように、歴史を歴史としてみなさないことは過去に“失礼”。
そもそも、何を「成功」と看做すか?は時代によってまったく違う。
同様に、その時代を生きている人々の感性も重要なものもまったく違う。
だから、過去の教訓だのなんだのをそのままトレースすることはかなり無理がある。
*2


歴史を学ぶっていうか、知ることや学問することは教訓を得て今後に役立てるだとか、そんな単純なことじゃないと思う。
どんなに歴史学やったって近代の次の時代は近代人には予想できないんだよ。*3
ただ、自分がどういう立場におかれていて、周りがどういう立場におかれているのか、それを“自分なりに”より深く知ることが出来るのだと思う。
私にとっては、それが歴史学の意義。


だから、同じ封建社会にあってどんな幕府システムが有効かを探った徳川家康の例を使うのは卑怯。
彼は古代における大和朝廷統一国家建設は参考にしなかった訳だから。
それなら、近代人が参考に出来るのは近代だけ。
民族という概念が有効である現在の私たちにおいて、適応できるのは日本の明治維新以降のわずかな歴史のみになる。
*4


確かに私が近現代日本史をフィールドにしたのは、多少、>>1の主張と同じ理由が混じってる。
でもうちらの世代にしてみれば、あの戦争なんて神話だし、1945年なんて建国記念にも等しい。
昭和20年より前の時代は、同時代と看做すのが正直難しい。
私は出来る限り「過去」ではなく「歴史」としてあの戦争をとらえたいと思っているから。
そもそもそれが「過去の反省」としての平和教育から始まっている時点で、私の中でもあちこちで矛盾を孕んでるけど。
それでも上の世代の後悔や反省や憤りに付き合わされるのはもう無理なんだよ。

5.のび太「ドラえもん!文化とはなんのために存在するの?」

*ここで民族アイデンティティを強調する記述発見
「超速!」で著者が「自国の歴史を知らないということはアイデンティティが無いということだ、そんな奴は尊敬できない」って言われた話を書いてたけど、アイデンティティ?そんなものが本当にあると簡単に信じて良いんですか?と哲学スレにすっかりかぶれた私は言いたい。
最近じゃぁ、就活でもアイデンティティだよ。
だーかーらー、きのうの私ときょうの私は違うんだってば。
ただ、感覚処理機能体としてのハコは存在してると思う、思いたい。
全て与えられた化学物質という想像は、追及すれば出来るけれども、してもあまり意味がないし。
それはそもそも教えられた「アイデンティティ」を疑わないひとと現実を受け入れるレベルが違うだけじゃんって言われたら、まだ返す言葉がないのだけど。
でもやっぱ、それとこれとは同列じゃないと思う。
現実は本当にマトリックスじゃないのかを追求するひとがいてくれることはありがたいけど、私はそれをしない。
それは思考停止じゃない、と思うんだけど上手くいえない。
強いて言うなら、選択、なのかなぁ。思考した上で選んだ選択。
私は現実の中で生きるっていう。
そのことを考え続けて現実の時間を消費するよりは、みっともなくてもあがいた方が楽しいんじゃないかなっていうそれだけ。
とりあえず便利だし、1+1=2と約束することと似ているといえば似ている。


「芸術至上主義」
生活から発生したものの、生活から乖離した余暇によって生まれた“芸術”の存在
←ただし、余暇自体も生活の一形態
c.f. 神話 → 半神の物語 → 人間の物語へ(文学)


そもそも文学自体が近代的な産物だもんなぁ。
神話の系譜としては御伽草子やなんかも理解できるんだけど。
どーーしても私の理解に苦しむのは源氏物語です。あれは何なんだろう。
あれがあるからみんな色恋はいつの時代も共通だ、なんて言うんだよねー。
しかし、まるで個人が存在するみたいじゃないか、源氏物語なんて。
不義の子の設定だなんて、まるで近代小説のようじゃないか。
あれか?この島国には「絶対神」がいなかったから、そもそも近代的概念ではくくれないのか?
じゃぁ、各地の多神教地域には「個人」はいたのかしら。
あー、でもヨーロッパの神話の神々も「個性的」だもんなぁ。あれ?なんか勉強不足を露呈してきた。
それとも庶民の話?権力階級は昔から個人だったとか?
・・・誰か文化人類学に詳しいひと、いたら
わたしに「多神教地域」「個人の発見」「文学の定義」について材料をください(笑。

6.のび太「ドラえもん!人生とは何のためにあるの?」

人は本来意味がないはずの人生に意味づけをしてきた
← 生きることは死に一歩ずつ近づくためである、というのでは“寂しい”から(?)
→ “生の充実感”を見つけ、自分なりに自分の人生に意味づけをすることで虚無から逃れられる

これ、どう見ても現代の宗教だよなぁ・・・。

7.のび太「ドラえもん!どうして女性天皇は容認されないの?」

歴史に対する冒涜とかいって、神話のつながりから持ち出してくるあたり、どんだけだよって思う。
都合のいい時だけ神話を持ち出してくる方が神々と古代人に失礼だ。
しかし、夫婦別姓が実現されない現状の日本において、確かに皇族以外の男性が愛子内親王と結婚した場合の「家」の問題は根深いというのは事実だね。
しかし、そこで「だから愛子内親王は結婚できない」→それはかわいそうじゃないか!っていう理屈を持ち出してくるのは明らかに屁理屈だけどね。*5
かわいそうだと思うのなら解放してあげるのも手だと思うぞw 王室ほど政治制度に利用されている個人(個人ですらない、公人)もいないと思う。


あと、どうして「第二の“織田信長”」が出てくるのかわからない。
信長はそんなことしなかったじゃないか。
天皇家の権威なんか無意味。かれは自らが王だったから。
藤原道長の間違いじゃないのかな?


それから、後半に「大逆罪」って出てくるけど、これは1947年に既に廃止されています。
詳細はWikipedia参照


とりあえず、推古天皇もいたんだし天照大御神も女性だしいいじゃん、みたいな神学論争にもちこむと果てしなくメンドくさいってことだけは理解した。
そもそも古事記解釈に女性天皇を肯定されたり否定されたからって何なんだ?
そんなことに現代の象徴天皇の行く末の意義を求めるなよ・・・。
もっと自分の時代に主体的になろうよ君たち・・・。
古事記は古代人の神話であって、私たちの神話ではないよ。
明治に改訂が加えられた古事記神話が大東亜帝国においては神話として引用されたから、それをまだ引きずっているひとがいるんだと思うんだけどね。
そういう意味では、みんなもう少し宗教や政治や神話の「構造」を知った方が良いと思う。ニーチェまでとは言わないからさ!


話の流れ的にはこれが一番過激でカオスで吹いたww
>>1が単純な皇国史観の持ち主ではないということはよくわかったww

8.のび太「ドラえもん!どうして中国は日本に尊大な態度をとるの?」

言ってみれば、ジャパニーズにも古代史やる時に「中国からはいろんな文化を教えてもらって・・・」みたいなこと言う先生とかいるよね。
でも確かに、文化が接触すれば交流する。それは当たり前といえば当たり前で、特に恩義に感じることでもないよな。
そして、自らそうやって「だから中国には感謝しなきゃ!」みたいに話を小さくする人がいるから、極端な人が「自虐史観」という視点に自信を深めちゃうんだよ。
どっちも極端だけど、ヒダリ的なものは意外に知らないとこまで根付いてるから、ミギの人は過激化せざるを得ないんだろうなぁ。


しかし中華思想に対してボロクソ言い過ぎww
それも一つの文化、とはならない訳だ?w

9.のび太「ドラえもん!地政学ってどうゆう学問なの?」

>>欧米の地理に対する理解は、そこに人間の心理が絡んでくるという理解なんだ。つまり「人間の主観の働きが介在している(ジオグラフィー)」という意味なんだ。だから地理(人間心理)と政治(人間心理)が結びついた地政学は同じく人間心理を扱っていると言える。


1648年ウェストファリア条約 = 政教分離
→ 宗教に頼らない政治戦略立案の必要性*6


>>やがて地政学は、国家は有機体であり拡大するものであるという説に地理を結びつけた「地政学の父」ラッツェルによって帝国主義として歴史を歩むことになる。


・現在の例 → 「環境問題を国家利益に置いた環境地政学
やっぱりか。そんなんあるんや。


>>このように地政学は如何にして国家利益を導くかという政治に密接した学問なんだよ。だから大切なのはその国家李利益が果たして良い手段なのか否かを検証していかなければいけないんだ。
>>健全な国家利益か……


この問い、深いのにな。
国家利益と、健全とは何かについてもうちょい突っ込んでほしかったw

10.のび太「ドラえもん!どうして日本の仏教は本来の仏教とは違うの?」

仏教の目的=輪廻転生を外れること=悟り、解脱
悟りを得るための方法論 ← 戒律(悟りを得るための行動規律)


仏教伝来 ≠ 戒律伝来
← 鑑真は日本に戒律を伝えようと必死になって来航した


最澄(天台宗)
戒律 → 円戒「守るべきは内面の信仰」


天台宗で学んだ僧たちの中から、続々と鎌倉新仏教が誕生
←戒律派の復興の動き(律宗禅宗など)


ドラえもん私見
“日本三大宗教のうち、仏教とキリスト教は根付いたがイスラム教は根付かなかった”
*7
イスラム教 → 仏教以上の厳格な戒律宗
仏教 → 戒律宗教だが日本では戒律は崩壊
キリスト教 → 戒律宗教であるユダヤ教の戒律部分を否定したことで成立!


日本の仏教は世界ではもはや「仏教」とみなされていない 〜 「日本人仏教」
*8
日本の仏教はすでに民族宗教の部類である、と言えないこともない


民族宗教!!
そ の 発 想 は な か っ た わ
えーなんでこう、エスニシティ意識が強化されていくかなぁ。


後半のカオス物語としてはこれに一番笑いました。

11.のび太ドラえもん!どうしてキリスト教世界宗教になれたの?」

ってのがあったらしいけど、途中で荒れちゃったらしいです(働くモノニュース:人生VIP職人ブログwww)
残念ーみたかったなぁ。
>>1はそもそもの社会情勢だの歴史の流れだのを一々追っていくことをせず、本質だけをずばっと提示するから、どう解説するか期待だったのに。

12.のび太「ドラえもん!どうしてイスラム教は西洋に敵視されるの?」

>>「イエスの認識」という問題があるからなんだ。これはどうゆうことかと言うと、キリスト教では神の言葉を伝えていたナザレのイエスがいつの間にか神になってしまったんだ。
>>確かイエスは人であり、精霊でもあり、神でもあるとする三位一体説のことだよね…


そういう処理の仕方があるんだね。
まぁ、わざわざ解説するために文章を練ったというよりは、日ごろから物事の認識がこんな感じなんだろうけど。




後半から眠くなってきたので引用多いw
てか、レジュメ作成の末に私の一番理解しやすい形態は「→(因果関係)」「⇒(結論)」「⇔(対立)」「←(理由)」っていうのがだんだんわかってきた。
教育実習ではくれぐれも多用しないように気をつけよう。
これは私にとってわかりやすい暗号(ツール)であって、誰もに使えると思ったら間違う。

*1:※使用者の意識も含めた用語として使用。隠語としての意図はありますが、差別を助長する意図はありません

*2:「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」って奴がいるけど、私はあれうそだと思う。私に言わせると、「視野が狭い奴は自己の体験にこだわり、ずる賢い奴は歴史を利用して自己を正当化し補強する」、かな。

*3:それを作るのは思想家だ。

*4:そういう意味では、日本という国はアメリカよりもはるかに若い

*5:そもそも結婚できないことが不幸とはかぎらないし、そもそも天皇家に生まれたこと自体がそういう制限を受ける家柄なわけで、結婚できないことだけに“かわいそう”を適用するのはおかしい

*6:これまでは軸が宗教に拠っていた、と言っても17世紀には既にだいぶ解体は進んでいたと思うけど

*7:まぁ現在のこの日本という地域にキリスト教が根付いたかはかなり怪しいものがあるけど、江戸時代の切支丹の隆盛をみると、文化的にかなり根を張った時期があるのは事実。じゃぁどうして今は0.3%しかクリスチャンいないんだろう?明治政府の教育の問題?文化的伝播の問題?それならイスラム教も一緒じゃないの?

*8:うちらがチベット仏教、って言ったりするのと同じノリかな?

すりーSEVENの日

久しぶりに古文のお勉強をしたのでその備忘録。

初の作歌が下手っぴなのはご愛嬌。自己満足ですから。


天の川 いと川波は 立たねども さもらひ難し 近きこの瀬を(山上憶良)(万葉集


天の川 空の恋人 隔てども 君ふみ越えし かささぎの橋


「越えし」の語感が何か違う気がする。




かささぎの 橋つくるより 天の川 水も干ななん 川渡りせん(大伴家持

→「干」上一段活用
→「な」未然形接続・・・願望の終助詞
    連用形接続・・・完了の助動詞「ぬ」の未然形
→「なむ」文末が連体形・・・係助詞
     未然形接続の文末・・・希望の終助詞
     連用形接続・・・完了(強意)の助動詞「ぬ」+推量の助動詞「む」
     ・・・ナ変動詞の未然形語尾+推量の助動詞「む」


かささぎの 翼にかけて渡す橋 またも凍れぬ 心あるらし(大伴家持


かささぎの 渡せる橋に置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにけり(大伴家持)(※百人一首

電車内で物を食べるということ
旅好き  2007年1月26日 21:36

先日、新聞の投稿欄に「電車内で物を食べるなんてマナー違反だ!」という意見が載っていました。
その方によると、
「女性が電車に乗るなり、おにぎりを食べ始めて呆れてしまった。またこういう人もいた・・云々・・」で、とにかく電車では一切物を食べてくれるな、という感じの文章でした。
きっとその女性は、ゆっくり食事する時間がなかったんでしょうね。
もちろんあまりに臭いの強い物(カレーなど)を食べるのは考えものですが、そこまで目クジラ立てることかなーと思いました。
そして、これはたぶん鈍行列車内の地元民の出来事で、新幹線内の旅行者だったら許されていたのでしょう。
私は多少ならいいんじゃない?と思いますが、みなさんはどうですか?
駅弁だってあるんだし・・・

読売新聞「発言小町」

700件近いレスのうち540(27ページ目)まで読んでいたら夜が明けそうだよ。

ここに私がレスをつけさせてもらえるなら、

字数制限もなしに、可能な限り粗が少ない、私なりに最高級の丁寧な主張を書かせていただけるなら、

なんて書こうかな。



「具体的な議論の焦点からはかなり離れた意見なので、嫌な方はスルーしてください。

まず最初に、私は20歳の小娘です。
私の意見にこの自己紹介がつくと、「今時の若い女性がなんか自己中心的なことを言いだしたよ」と途端にくくられてしまう気がしてしまうんですが、敢えて自己紹介してみました(笑)。
(あ、すいません。現代っ子なもので「(笑)」を使うことによる手っ取り早い婉曲の効果を無視することができません。この表現がお嫌いで見るだけでとても冷静には読めない!という方は読まれないことをお勧めします)
実態は確かに「最近の若い女性」なのでしょうし、私の考え方もきっとこのカテゴリーの枠をそれほど外したものではないであろうと思うので、否定はしません。ですが、そうやってひとくくりにされて非難されることには抵抗があることだけは申し上げておきます。

さて、のっけから横道にそれました。
私は電車の中で飲食をします。ペットボトル飲料、カロリーメイト、おにぎり、パンまでなら経験があります。
それはもう真にだらしのない理由でして、自分の生活をきちんと運営できていないからです。
そこで大変申し訳ないのですが、最大限の気は使って飲食をさせていただいています。
ちなみに通学には首都圏の地下鉄を利用しており、郊外から都心を突っ切って50分ほど乗車しています。通勤ラッシュ時は外しています。ボックスシートはありません。立って居るひとはおらず、7人がけにどんなに多くても座っているのは3人という状態です。

私のこのような理由に対し、「たった5分早く起きることがどうして出来ないの?」との書き込みをいくつか見かけました。
本当にその通りだと思います。あなたには簡単に出来ることなんですよね。
それが出来ないのは、ひとえに私が社会的に未熟でだらしがないからです。ご迷惑なんですよね、こんな理由で電車内飲食を堂々としても良いなんて思ってません。本当にごめんなさい。
ただ、実際に朝ごはんを口にせずに電車に乗るという事態に直面した時、「一食ぐらい抜いても死なない」と食べないのか、「白い目を浴びながら食事をする」をするのか、どちらかを選択しなければならない時、
私の価値判断は「それでも食事をする」方にやや傾きます。
これはおそらく、「美意識」だとか「空間」に対する意識、食事に関する「穢れ」の観念、そして「食育」などの影響によるものだと思います。
私は、食事をすること「それ自体」がみっともないことだとは思っていません。
人間に必要な行為を恥ずかしがることはないと思っています。
「欲望を他人に見せることは醜悪」とおっしゃる方がいらっしゃいましたが、私の個人的な考えを言わせていただけるなら、その他人も「欲望」をもっています。存在しているものをまるでなかったかのように振舞うことは自己欺瞞だと考えます。「欲望」があることは正直に認めるべきだと考えます。(これは本論からは逸れた個人的な考えです)
ただし、そのことが他人の「欲望」と衝突する時はよく考えなければいけません。自分の「欲望」が必ずしもかなえられるものではないとも思っています。私のすぐ近くに座っている誰かが、例えば「電車の中で飲食をする人間なんて目の端にも入れたくない!不愉快!!」と感じ、「私の視界から出て行ってくれ!!」という「欲求」をお持ちになられるのであれば、私とその方はお互いの衝突した「欲望」の妥協点を見出さなければなりません。
ただし、電車内でこういった込み入った話をまったくの初対面の方と議論するのは大変難しいので、大抵は不愉快に思いながらも我慢なさるか、席を移動されるという自らの譲歩によって知らないうちに「妥協点」を提示していただいています。
また、その他に「注意する」「怒鳴る」などといった方策を取られる方もいらっしゃるでしょう。都会の電車内というのは見ず知らずでまったく異なった多様な人間が集合してしまう場所ですので、これくらいしか取る手段がないのが現実だと思います。
ただし、特に「怒鳴る」という手段が初対面の他人に対して平和で友好的な妥協点を見出す効果は相当に小さいと思われるので、こういった方法論に対して容認派が「受け容れ難い」と感じている部分はあるようです。(サラリーマンが怒鳴っていましたという書き込みが1件ありましたよね)
私も、おそらく現実に電車内で怒鳴られたらびっくりしたり申し訳なく思ったり居たたまれなくなったりすることもあるでしょうが、多少は不快にも感じると思います。おそらく怒鳴りつけられる側は「自分の価値観に基づいて絶対に許せない」からこそ、「相手を怒鳴っても良い」と思い、「相手の 方 が 悪い」からと考えて「一方的」に怒鳴られるのでしょう。
ですが、こちらがたとえ「一方的に悪」だとしてもいきなり怒鳴られればやはりショックですし理不尽に思ってしまうと思います。
それで、「こういう方法はお互いの不愉快が不愉快を呼ぶだけなので、お互い寛容に」というご意見が出てきたのではないでしょうか。私は相手がどれほど「悪」かろうと、「怒鳴りつける」のはコミュニケーションとして適切ではないと考えますので、これは電車内飲食の善悪の問題ではなく、方法論の問題であると考えます。
おそらく容認派でこのように主張される方は、「善悪はともかくもっと他の良い妥協点の見つけ方があるでしょうに」というご意見なのではないかと推測します。

次に、理由のひとつにあげた「食育」のことをお話します。
私は義務教育・高等教育を通じて「栄養補助食品は身体にあまり良いものではない」と教えられてきました。
どれだけ数値的に栄養素が満たされようと、栄養補助食品だけの食事は身体に不調をきたしやすい。どんなにサプリメントカロリーメイトで補おうと、生の食材からつくった食事なしには健康の基礎はつくられない、というふうに認識しています。
なので、食事をするのにカロリーメイトとおにぎりのどちらかを選べと言われたら迷わずおにぎりを取ります。コンビニおにぎりとて保存料が入っていることに変わりはありませんが、それでも合成調味料だけでつくられた食品ではありません。兎にも角にも本物のお米を使っているわけです。
実は、否定派の方がこのことをまったく考慮に入れていらっしゃらないことに私はいささか不思議な思いがしました。「どうして栄養補助食品があるのに車内でわざわざおにぎりを食べるの?」という書き込みもいくつか拝見したように思います。「どうしてより健康的な食品があるのにどちらかといえば非健康的な方の食品を選択しなくてはいけないの?」と感じてしまいます。
まぁ、朝きちんと家で食事をすることが出来ないような人間はそもそも健康などではなく、他人に迷惑をかけてする食事に自分の健康を気遣う権利などないというお考えなのかもしれません。もちろん、そのような価値観をお持ちなのでしたら人それぞれですから否定はしません。
ですが、「私」はそのような価値観を持ってはいません。現実に今、朝食を食べずに電車に乗るという時に、なるべく迷惑をかけずに、しかし自分にとって「なるべく」良いものを食べるという妥協点を探したいと思います。
そこは「美意識」の差なのかもしれません。私は「箸などとお皿を必要とする」パスタや汁物ならともかく、そうでない食べ物に対してあまり違いを感じていません。カロリーメイト>おにぎりというこの図式が感覚的にはよくわかりません。おそらくは、カロリーメイトはクッキー等の「軽食」の延長で、おにぎりは「食事」だという感覚をお持ちなのだと思いますが、私にとってはおにぎりも「軽食」ですので何とも言えません・・・。
私のカロリーメイトに対する「健康的でない」という抵抗感と電車の中でカロリーメイトではなくおにぎりを食べる抵抗感を天秤にかけると、どちらかといえばカロリーメイトに対する抵抗感の方が大きいです。私の中ではカロリーメイトとおにぎりの優劣は逆なのです。
(ちなみに、電車内でおにぎりを食べる場合は海苔がまかれていないタイプの丸いおにぎりを選択します。一度、三角形の海苔のまかれたおにぎりを食べたらやはり粉がひらひら舞って周囲にご迷惑をかけると思ったので、以来チャーハンおむすびや赤飯、鶏五目などを選んでいます)

他人の迷惑より自分の健康を取るのかと言われればそれまでです。自己中心的なのかもしれません。ですが、自分の中のカロリーメイトに対する抵抗感は拭うことが出来ませんし、それを否定することは誰にもできないはずです。ですが同時に、電車内飲食に対する抵抗感をお持ちの方のその気持ちを否定することも出来ませんので、「丸いおにぎりでも許せない!何が何でもカロリーメイト以外ダメ!!」という方がいらっしゃいましたらお伝えいただきたいと思います。

私が否定派の方にどうしても抵抗を感じてしまうのは「電車内飲食は大多数が嫌だと思っている」「嫌なのが常識。恥を知れ」「カロリーメイト>おにぎりなのが当然」という風な意識がちらほらと見受けられるからです。
何が当然かは、誰にも決められません。
そして本当にあなたの価値観が「大多数」かも、誰にもわかりません。
統計調査をすればある程度は信憑性のあるデータが揃いますが、それもサンプルの時・地域・年齢・調査方法によって異なってくるでしょう。
否定派の方々が「日本の素晴らしい美意識」に対してプライドを持っていらっしゃるのはとてもよく伝わります。プライドがあるというのは素敵なことです。
ですが、その価値観と相容れないからといって「恥を知れ」「お里が知れる」「育ちが悪い」「親の顔がみたい」などと言われるのは、とても傷つきます。
私にだってプライドがあります。大切な故郷があります。そして愛する家族がいます。
あなたの理想とする価値観や家庭ではないかもしれませんが、自分なりに私を育ててくれた親に対してとても感謝しています。
それを、一つのカテゴリが異なるからといって、私の親を侮辱するのはやめていただけないでしょうか。
価値観が異なる人間は、尊厳を尊重していただくことはできないのでしょうか。
「誰もそこまで言ってない」とおっしゃる方は多いと思います。けれど、「親の顔がみたい」「呆れ果てた」「可哀想」と見下される所以が、私達にあるとは思えないのです。
否定派の方が重要視される「空間」の概念(「レストランは「食べる場所」だからOK、外で立ったまま・歩きながらの飲食は「神聖」な食を汚す、ましてや狭くて密室的環境の電車なんて以っての外」)はおそらく江戸時代後期の国学以降の概念でしょうし、食事する姿を「みっともない」と庶民たちが考えるようになったのは明治以降と考えられます。あなた達がその価値観を信じるのは自由ですが、ひとつの価値観なんていくらでも相対化できるのです。
違う人間なのですから、価値観が異なるのは当然ではないのでしょうか。




あー、私にありがちな文章パターン。勢いに任せて書くと大体こうなるんだよね。
最初は順番に丁寧にやってるんだけどね、段々本性見えてきちゃうの(笑。
結局これも、最後の「見下される所以はない」っていうことだけだもんね。本当に言いたかったこと。
しかしその頃にはもう自分の思考に呑まれてるからあんまり説得力のある文章書けなくなってるんだよな。いきなりもうどーんと結論きちゃう。そしてその繰り返し。
どうやっても、何度考えても、自分の中では自分の答しか頭に浮かんでこない状態になってるからもう無駄なんだよね。
論理的文章には向いてませんが、個人的に書いてる分には盛り上がるしまぁ良っかって感じです(笑。


ちなみに、この記事のレスの雑感だけど、
「絶対否定派」「基本否定派」「容認派」・・・ってこれは記事で何人かがまとめてくれた通りで、
更にこういった分類やまとめを行う「大局派」が全体を眺めてるって印象を受けました。
そんで、まぁ大体「大局派」の意見が個人的にはもっともうなずけるんだけど、
自分の立場である「容認派」の意見はいまいち迷走してる感じがするのよね。
ひたすら自分の事情を説明してごめんなさい、許してくださいって言うひとや、
繰り返し繰り返し「地方と都会」っていう構図を持ち出してくるひと。
(このひとたちが一番「文化」と「価値観」の相違っていうトピックの核心に迫れると思ったんだけど、結局本質的な指摘はあまりなく。。。ただ単純に地域の情景を描写して「私は抵抗ない。だからお前も認めろ」になってる。これじゃ議論になってる都会の通勤電車ラッシュ外のケースに全然焦点があわない)
あとは他の電車内マナーを持ち出してくるひとや、「絶対否定派」がなーんか癪に障るので(気持ちはわかる)「じゃお前、そのほかの場面ではどうなんだよ!?」って的外れの指摘をするひとばかり。
議論だけ見ていると全体的に「否定派」のほうがよくまとまった意見をのべているし、多少感情的でもきちんとレスできている印象が強い。
私の主張論理からするとどうみても納得いかないのは否定派なのに。
否定派が「どうして否定するか」を語っているのに対し容認派は「その否定の仕方がなんかムカつく!!オレ達の存在認めろよ、他に言い方あるんじゃねーの?」ってのが基本だから、まぁ噛みあわないのは当然なんだけど。
否定派は色々頭から決め付けすぎだけど、似たような「日本の美意識」っていう大きな物語を共有してるからさ、感覚も論理も似ていてお互いで共感しあいやすいのだと思う。それが結果的に団結を生みやすいよねって話。
そーすっと、尚更「自分達は多数派だ」って思って、しかもそれを強みに感じちゃうんだろうなー。価値観は一つであるべきだから多数派から選ばれるべきだって。
私はそうは考えない。価値観はたくさんあって良いしあるべきだから、だから「実害」「迷惑」という観点から最低限のルール作りをすべきだっていう議論になるんだ。「感性」じゃなくて。


あーあ、夜が明けちゃったよー

ヒロシマ

広島で育った人間なら、誰もが一度はみたことがあるんじゃないだろうか。
空襲に遭う夢。
それが起こってもおかしくないような空気が、理解が、ここにはある。
雪の積もった夕方に、机の下に頭をつっこんだ感覚。
疎開に行くか行かないかの決断。信頼できる上司との決別。
迫り来る飢餓。
…とにかく、なんかやたら映像がキレイな夢だった。
この街を離れてまで、この実家を捨ててまで、生き延びたいとは思わなかった。
大きく空を塞いだジャンボジェットと、ゆっくり落ちてくる焼夷弾
雪原の廃墟と夕焼け。

まぁ、たぶん、近所の重機会社のトラックが、うちの前を通過した音を夢うつつに聞いてただけなんでしょうが。
爆発は2回あったから、今日は2台通ったのかね。

泣いていいか?

どうして、
実家のこのベッドを連れていかなかったのかわからない。
もう何も考えず、ただただ現実逃避に眠り、泣き、
すべて受け止めてくれたベッド。
春は気が狂いそうになる。
あたしが狂うとしたらきっと東京の春。あの作りものめいた日差しと偽善みたいな陽気。
じゃなきゃ広島の初夏。あの湿度には思い出が多すぎるから。

泣きたい。
そろそろ泣きたい。
どいつもこいつも、勝手なこと言ってんじゃねーよ。
空想の中でそう絶叫して鬱憤を晴らしはじめた私は、そろそろキテる。
実家だから、家族から解放された深夜は、集中して仕事ができるけど
実家だから、自分の忙しさに取り紛れることも、打ち明けるひともいない。
遠く離れすぎて、同時間性なんて感じることが出来ないし。

あぁぁー…しんどい。
こういう時に思うのは、あの頃の私には、常に支え、フォローし、先を行ってくれる友人たちが誰かしらいたんだなということ。
やっぱおめぇら最強だよ。
いてくれなきゃ、困る。
また君達と仕事がしたい。

春休みまとめ

春休み行ったところ。
鎌倉、
館山、
松本・軽井沢、
大阪。
今週末に箱根。
そして最後に会津若松に行くことが決定しました。
昨日やっつん家で(笑)

その他、この春の各種イベント。
EVANESCENCEライヴ、@横浜&お台場
講談デビュー
ミュージッククリップ撮影・完成
司会バイト
春合宿
葛西臨海公園
ダンススクール


そんなとこか。

Developers Summit2007 初日

ちょっとしたご縁があってデブサミの会場の片隅におりました。
面白かったのはやっぱShibuya系の方々のプレゼン。
300人規模のハコが彼らの時は満席。笑いを誘えばみんな食いついてくるかなりホットな空気。
技術的な話は全然ついていけませんでしたが、それでもid:amachangのブラウザの比較の話は頭に入ってきて面白かったです。
竹迫氏も面白かったけど、やっぱ一番はmushup nightのDisカッションかな。
ブログは筆者を固定するけど、Wikiは誰が改変しても良いところが自分にとっては使いやすい、と発言している方がいてすんごく面白かった(mala氏かな?)。
「すき」とかじゃなくて「使いやすい」って言ってたからね。
どんだけポストモダンなの。
後、livedoor Readerの宣伝にすっかりハマった(笑。やっぱ使いづらかったら活用しないっていうのは本当だと思うから。
ちょっと使ってみようと思う。

明日も一日中、会場の片隅におります。