教師への暴言。

教師への暴言と言えば小学校時代の先生を思い出す。シベリア帰りの社会科の教頭先生で
よく戦争に行った時の話しを聞かせてくれた。シベリアではウンチをしたら出たところから凍っていった、とか
どれくらい戦地でひもじい思いをしたか、とか小学校中学年だった私はわくわくして聞いていたものだ。
戦争に行ったのは二十歳の頃でしょっちゅう腹がすいていて、配給でキャラメルをひと箱もらって
大事においてあったら人にとられて、それも同じ部隊の「戦友」である事は間違いなくてものすごく
悔しい思いをした、と、シベリア抑留を経て帰って来て、凄まじい飢えを経験したせいかいくら食べても
満腹する事がない、またちっとも太らないと言う、本当に鶴のように痩身の先生の話は何よりも
リアリティーがあった。先生はあまりシベリア時代の事は話さなくてただ軍で日常生活がどれほど不快だったか、
と言う事をよく話してくれた、いつでも「本当に戦争は嫌だ」
「お前達は決して戦争に行ってはいけない、戦争をしてはいけない」と繰り返し言われて、
これは私にとって社会の授業より勉強になった。軍ではしょっちゅう殴られたそうだ、何をやっても
「態度が悪い」だったと言う。学校の先生コースにいたところを途中でかり出されたので上で威張り散らす連中は
そういう人間を特に目の敵にしていたそうだ。先生は生徒達に好かれていて社会科の話よりも皆
先生の戦争体験を聞きたがった。特に「寒い」と言う経験をあまりしない上方文化エリアでは
「寒さ」の経験を聞く事は刺激的だった。
ある日とある男の子が「先生、先生は戦争で人を殺した事があるんですか?」と尋ねた。
実はそれは前々から皆が聞きたかった事で「人を殺すってどう言う事なんだろう」と小学校中学年の子供達は
色んな影響で興味をそそられていたのだ。先生はしばらく沈黙した後に「ある」と言った。
その答えは私達にとって実は意外だった。それまであんなに戦争について聞いてきていたにもかかわらず
私達は本当の意味で戦争なんてわかってなかった。戦争が人を殺す事だ、なんて、こんな面白い先生が
人を殺した事があるなんて、思いもよらなかった。先生は「それが戦争だ」と言った。先生はどのような状況で
どのように手を下したかちゃんと話してくれたがそれは私の曖昧な記憶と混ざりあっている。
それをしないと先生が殺されたかもしれなかったのはよくわかった。ある日、その話しを聞いた他のクラスの、
しょっちゅう悪さをするので先生に叱られている子供が、先生に向かって「人殺し」と大声で叫んだ。
その子は「人殺しに人殺しと言って何が悪い」と開き直った。「死刑になったらいいんや」。
私はその話しを聞いた時、私の中でも先生に複雑な気持ちがあるのを知った。先生が怖くなってしまっていた。
人を殺した人が生きていてもいいんだろうか、と未だにそれは私の中で解決していない。
先生が生きて帰ってくれて本当によかったと、その時も、今も心から思うが私はその頃の
子供っぽい潔癖主義から死刑廃止運動に賛成出来ていない不完全な人間だ。
その後、その子の親か誰かしらないが「子供に戦争の体験を授業もせずに話すなんて」だの
「人を殺したと子供に話す先生なんて」だの文句を言ってくる奴がいて、先生がやめさせられるかもしれない、
と先生の事が大好きな、でも調子にのって急に先生を非難しはじめた連中を止めさせられない
大人しい私達子供は大いに心配した。結論からいうと先生はやめさせられなかったしその後すぐ
校長先生にまでなった。先生を好きな生徒の方が数多く、またそういう子供の親は戦争がいかに悲惨かを
話して聞かせてくれた先生を糾弾するつもりなどなかったのだ。多分、ショーもない言い掛かりを
つけてきた親の方が黙らされたのだろう。でも先生はその後、全く戦争の話しをしてくれなくなった、
私達も聞かなくなった。
私はキャラメルを見る度その先生を思い出す。
「教師への暴言」と言う言葉を読む度に、戦争で人を殺さざるをえなかった先生に向かっての
あれほどの子供の暴言はなかったと考える。そして事情を慮る事なくなんにでも突っ込んでくるトンデモ親は
いつでもいたと言う事も記憶する。私の子供は戦争体験者から話しを聞く事が全くない。とても残念に思う。
先日NHK劣化ウラン弾の番組を見てスタンスがはっきりしないのでいらついたが昨日の
硫黄島の生還者の方々の話はよかった。生きて帰ってくれて本当によかった、私の先生も、また硫黄島の方々も。