誰かの願いが叶うころ私が泣いてるよ

癒しってなんですか。

私は誰のことも癒したいと思わないし、誰かに癒して欲しいとも思わない。

人の心の貯金を使わせるようなことはしたくないし、私の貯金は私のために使う。

いやいや、それが愛と言うのなら、あなたはそうなのでしょう。

けれど私は、誰かが無意識にそれをすることで結果自分が癒されたのなら、そしてそれをいちいちその人に伝えようと思わないのなら、それが愛だと思うのだよ。

人はみんな違うのだよ。バラバラなのだよ。

なにもかも掴み取りに行くことだけが、勝利へ繋がる道だとは限らないのだよ。


サステナブル家族

f:id:chelmoss:20211004150752j:plainおひさしブリーフ。


はい、てことでね〜(言ってみたかった言葉)。誰が見るためのものなのかとかいう哲学なんかはどうでもよくて、ブログはやめないんです。サステナブルでしょ?

淡々と降り積もったブログの中で、このブログだけを拾い集めて繋げて、部屋中に写して眺めながら、込み上げる痛みで自分を確かめるんですよ。

いや、嫌いじゃないですよそういう人。


さて、私はもうすぐ42歳になり、上の娘は15歳、下の娘は13歳です。夫とは離婚していません。離婚するに違いないと思ってやってきたので驚きです。間違いなくサステナブルですね。

すごいですよね、家族が続くって。普通なんてないはずなんですよ。何十年も関係性を維持することが普通だってみんな本当に思います?すごい大変な事じゃないですか。みんななんのために家族を維持するんでしょうかね。そう考えると日本人はおろか人類ってなんかみんな偉いんですよ。もちろんそうじゃない家族がダメだというわけではなくて(こういう注釈付けなきゃいけないの時代よね)。私はどちらかと言うと子供たちが社会の中で少しでも不便を感じないように、傷付くようなことが一つでも少なく済むように、それだけのために持続させてる気がする。

居心地が良ければ自然と長続きする、なんてのは本当はその組織の誰かが、これからもそこが居心地良い場所であるようがんばって動いているからです。

上の子がこの前誕生日を迎えた時、私これまでよく生きたなと言って目頭熱くしてたんですよね。あなたが15歳まで生きてこられたのは紛れもなくあなたの努力の賜物、自分の力で生きてきたんだよ。生を勝ち取ってる自分ってすごい存在なんだよ。と言ってお祝いしました。生命を維持するってすごい事だよ。いや〜よく生きた私の娘〜。


何の話でしょう。

努力しなければ、続かないという話でした。

満車のヨーカドーの駐車場で空を探していたら、なんとなくもう出そうな車を発見したので、ハザードランプを点けて近くで待った。その人は運転席の横に立ち、とても丁寧に上着を着ていた。片方に袖を通すかと思いきや埃だか糸くずかだかを発見したようで、しばらくそれと向き合っている。ようやく終わって、片方に袖を通し、中のシャツの袖を伸ばし、軽くならす。もう片方も同じ作業、その後にまた軽くならす。フードを立てて、中のシャツの襟を正す、また軽くならす。少しジャンプして軽くならす。

そして車に乗り込み運転席に座ったその人は水筒を取り出し、飲み物を飲んだ。二口目も飲んだ。それどころかホッと息をつける程度にゆっくりと飲んで実際ホッと息をついていた。そのあとおそらく消毒液やハンドクリームなどを手にめいっぱい擦り込んで、おもむろにシートベルトを締めて、出ていった。

わたしはその、自分より少し年が上くらいの女性に丁寧な暮らし、を感じた。きっと普段からあんなふうに丁寧に身だしなみやメンタルリズムを整えているのだろうな。

丁寧な暮らしの人。

しかしあやちゃんは知っています。車に乗り込む時にチラリとこちらを見たのを。それは今気づいた事を知らせるようなチラリであり、本当はずっと前からそこにわたしが待っている事に気付いていたけど、今気づいた体という偽のサインのような気もした。わたしがイライラしていたからそう感じたのかもしれない。

丁寧な佇まいを感じたのは本当。だから、丁寧でいじわるな人。丁寧ないじわるの人。んー、前者と後者では意味が違うな。ひどい言い方で老害の人。でも老害って言葉、どうもしっくりこない。年上の人の事を老いを理由に悪く言うのは嫌だ。その年を重ねた事のない人間が、経験した事のない年齢について言える事はほぼない。

車の中で少しだけ口汚い言葉を吐いてああはなりたくないと思わず呟いた。呟いたね。それは本心だからね。でも誰しもが皺を重ねていくように、心だって皺を重ねていく。その皺のあいだには知らない何かが知らない間に溜まっていくのだと思う。つるつるの若造にはわかるまい。

美しさとは何だろ。丁寧さとは。そこに美しさがあるのだろうか。

ああはなりたくないと思うのが正直な気持ち。しかしあの女の人の行動を一から十まですべて覚えている自分のなんと丁寧な洞察力な事か。しかも久しぶりに開いたブログでそれを丁寧な暮らしだと揶揄し書き記すとは、もはやそれを超える丁寧な暮らしではないか。素直にイライラしてればよかった。口汚く愚痴をこぼし、BTSのダイナマイトをバチバチの大音量でかけながら急かすようにハンドルを指で叩いて、その日の夜は濃いめのハイボールを飲んで寝ていれば、だいたいいい加減でがさつな、ただ丁寧な暮らしとは真逆にいるだけの人で終わってたじゃないか。シットな行動にシットと呟いて終わる、それでよかった。ああはなりたくないって言葉、本当に嫌だな。相手に伝わったわけではないけど思い返してみても、嫌な自分だった。完全なマウンティングワードだった。

本当はわたしだって丁寧で美しくいたい。でも自分は丁寧な行動で美しさを表現するより、丁寧な考え方と共に暮らしたい。物の考え方について丁寧でありたい。

 なのでこれからはクソ!と思った人間には、聞こえないようにそっと一言だけ、シット、と呟くようにする。美しくないとされる言葉と共に暮らすことなど何でも無い。

 

ハッピーハロウィン!! 

問題のない私たち

この時期の晴れた日の夕方って、夕暮れ時って、うらめしいほど平和じゃないですか。何の不具合もなく不安定な梅雨の中に突然降り立って、適切な青空と気温と湿度で人の律する心みたいなのを誘発するじゃないですか。こんな日だからお布団を干さないと、こんな日だから少し遠くても品揃えの良いスーパーに買い物に行ける、こんな日だからビールが美味いとか、とにかくそういう、正しい私がきょうは居ましたよ、だからきょう一日は正しかったでしょう?と言わんばかりの夕暮れじゃないですか。ふわっとレースカーテンなんか揺らして。

梅雨どきの何日かだけレアキャラ感たっぷりに現れては人々が正しい行いをしたりありがたがったりする事で自尊心を満たす(正しい事だけが正しいという考え)タイプの晴れ間、これやきょうは。頭痛もまったくせんかったし(ありがとう)。

ビール飲も。


ゴルフカングーベルランゴ

車を買った。夫の要望の「ラゲッジルームが広い」と私の「デザイン」と買える価格帯を考えたところ、私はルノーのカングーかなと思ったけど、夫はゴルフのヴァリアントがいいと言い、先にゴルフ見に行くと言うので、最初にフォルクスワーゲンに行ったらまんまとそのまま契約された。

それで、きょうなんでだったかあなたはいつも満足しない!減点方式だからね!車を買っても満足しない!と言われ、ひどい言われよう…私の欲しかった車でもないし…と思ったが、おっしゃる通り私はこの先たぶん一生、本質的には何したって別に満足せんのかもしれん。

けれどさも私が最初からそれが欲しいとねだり自分はあきらめてそれにしたかのように言うおまえのサイコパスみを私は見逃していない。


早く来ないかなゴルフ。ゴルフ。ゴルフを契約した今ではもうゴルフを愛してるよ。夫には言わんけど。

あらかじめ決められた子供たちへ

小学生の頃の時間って、ものすごいスピードで成長してるから一分一秒でも無駄にして欲しくないという気持ちと、自分が小学生だった頃に無駄にした一分一秒が無駄だったかと考えたら、決してそうではなかったなと思う気持ち、どれくらいのバランスで子供たちに過ごしてほしいか考えてる。世界は広いことを教えたい。世界は狭いということも。見聞を広めて欲しい。いろんなジャンルの本を読んだり、アウトドアで自然に触れたり、オタク趣味の時間とか、散歩して近所の猫を追いかけたり突然犬に吠えられたり、そんな時間。一方で、ヒマで、友達と遊ぶのもめんどくさくて、なんかゴロゴロして、ダイニングテーブルの上で寝転がったり、廊下で死んだフリして気付いたら寝てたとか、そんな有意義さをまったく排除した時間。

親が与えられるものは与えて、時間を管理して、持っている可能性は出来る限り伸ばしたい、整然と生活する、それがいいに越したことはないと思うけど、そういうのは大人になっても出来る。子供がヒマをヒマと自覚してヒマをどう使うか考えながらも何をしたらいいかわからないまま、親の居ぬ間にアイスほおばってダイニングテーブルで寝転がったり洗濯機に入ったりして一日が終わる時間、子供自身がそこにまったく意味を見出していない、無自覚に無意味な時間。それは大人になってからは作れない。時間を大人買いてふんぞってやることはできても、それは責任のない守られた小さくて無力な生き物が為す術なく、または為す術を考えながら過ごす時間とは意味が違う。しかし前者には教養が身につき、後者にはただ、そんな子供らしい時間を過ごしたというノスタルジーがある、というだけ。

それで、こういうのはきっと中途半端が一番よくない。なので親はその無意義な時間も含めて徹底的に管理してないとだめで、しかも有意義な時間のときはいいのだけど、その無意義な時間が作為的であることを子供に悟られると、子供にはそれが無意義にならないし、何よりゴロゴロではなく、ダラダラしても何も言われない、もしくは自分に無関心だと勘違いするかもしれないので、あくまでまったく知らない体を装って管理しないといけない。大変だー。

私は、自分が親として与える時間以外の子供の時間は感知してないフリが一番いいと思ってるけど、しかし感知してないフリしてると「ずっとドラクエ」してるので、自分の時間管理の中途半端さを責めています。「ずっとドラクエ」は嫌なんだよね!!(一時間にしてと言ったら夫が横から「一時間じゃなんもできんやろ」と言ってきた。あんた何目線だよ。)なんかゴロゴロしろよって思ってしまう!なんもやることないなー、って考えて、何も生み出さなくていいので、ヒマの使い方について考えて欲しい。私には小学生の時分の「ずっとドラクエ」の尊さがわからないのでそれが悪いものとは思わないようにしてるけど、でも気付いたらゲームで何時間もなんて大学生になってからでいいんだよ!小学生は小学生のうちにやるべきゴロゴロがあるんだよ。

と思ってしまう。

 

けれど気付いたらそれは、それは、それが私の知らないところで子供たちが主体的にやっているヒマの過ごし方だった。

トレジャーゲート

・22時くらい

おい、やったぞ、梅原裕一郎がやったぞ。

イケメン回転寿司本気で死にかけたぞ。

 

・4時半くらい

ところで本日はSideMの4thライブで、うめめが王子様の格好をして歌って踊って上から指示されてファンサをするかもしれない貴重な日です。うちは下の子がまだ小学生なのでちょっと近所までライブビューイング行ってくる。