幼少の頃のラップの記憶

ラップというものを認識したのはいつ頃だろうか。
吉幾三がなんかしゃべっていた記憶がある。「雪国」の替え歌を志村の番組で見てげらげら笑ったのが小学校高学年頃だから、「オラこんな村いやだ」はそのちょっと前だ。「ねえ」づくしで韻を踏む手法はジャパニーズヒップホップの黎明期ならでは、だろう。志村の番組では「そばにいて少しでも」という「雪国」の歌詞を、「そばにいて少しデーモン」と歌ってデーモン小暮が出てきた。
あとは「悪魔くん」と「新ビックリマン」のエンディングテーマだ。「生麦生米ヨナルデパズトリー」とか「バラバラバラエティ」などのライムが印象的で独特のフローだった。
メジャーフォースなんか知らない。大阪のド田舎(ゲットー)にはそんな文化は入っとらん。スチャダラは「出る出るゼルダの伝説」とかしょうもないダジャレを言う人という認識だ。私のリアルは吉幾三だった。「よし、行くぞ〜」。洒落ているではないか。
話は変わるが、真珠湾の日本人捕虜収容所でいちばん多かった収容者の偽名は「長谷川一夫」だったそうだ。日本語をちょっとしかできない米国人職員に、少しでも有利な立場に立とうと日本語でまくし立てる。米国人は舐められないように分かったふりをするが、旧日本兵はそれで見下す。真珠湾の捕虜の待遇は、日本の南方戦線と比べたら天国のような場所だった。食事もあるし手荒なこともされない。そんな場で日本兵の自尊心が醜い形で現れる。
そんなとき、戦前の北海道で育ち、日本語がぺらぺらの、しかし見た目は生粋のアメリカ人職員が登場した。100人の新参捕虜を集めて、流ちょうな江戸弁で「この中にハセガワは何人いるか?」「じゃあカズオは?」と聞くと6人の日本人が手を挙げたという。
そのアメリカ人が捕虜の名簿を見ていた。「近藤勝蔵」という名前を発見する。「今度勝つぞ、か。アメリカ人を舐めてるな。よし、いっちょ締めてやろう」と近藤の部屋に行くと、そこには気の弱そうな、東北弁で害のなさそうな老人がいたという。本名だったのだ。
吉幾三が本名なのか偽名なのかは知らん。そんな疑問はググれば解消するかもしれないが、確認するだけ無駄。どうでもいい。めんどくさい。書くのがめんどくさくなったので終了。このブログはこれで終わります。続きを書いて欲しかったらお金をください。では。