Twitterに強制卒業を食らった話

半分イーロン・マスクのせい、半分は自業自得といった所なのですが、Twitterにログインできなくなり、強制的に卒業となりました。

 

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しばらく前から見過ぎ防止のためにスタメンのiPhoneにはTwitterアプリは入れず、主に音楽再生用として残してある旧iPhoneで自宅にいる間だけTwitterをする、という使い方をしていました。サードパーティアプリが使用不可になり困った人は多いと思うのですが、もろもろのイーロン体制下の混乱に旧型機だとこまめに対応ができず(ウェブページもちょっとこみいったデザインだとまともに表示されない・対応できません表示が出るくらいの古さだったので、「今度からこうしてください」という公式からのお達しに従おうにも従えない項目が多かった)、どうするか迷って様子見をしているうちに、古いOSだと公式のTwitterアプリが対応しないようになり、新しい二段階認証のコードがないまま強制ログアウトをくらって終わり。という感じです。

 

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一応事情を添えてサポートに問い合わせを出したんだけど、全然質問した事柄への返答になってないメールが来ただけで(直後に「今回のサポートはお役に立ちましたか?評価をお願いします!」というメールが届いたのでたたきつけるようにゼロ評価をクリックした)、昨日今日はサポートもリブランディングで混乱してるだろうし、仕組みを考えてもまあこれは無理だろうし自業自得の面もあるのでひとまず諦めることにしました。

 

今日の昼過ぎに来たサポートからの返信、鳥マークつきの返信としては最後のほうかもしれないので記録としてスクショを取りました。鳥さんいままでありがとう。

 

 

Twitterサポートからの返信。鳥マークつき。

 

 

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しばらくしてまた認証・ログインの仕組みが変わって入れる日が来るかもしれないし、その前に休眠アカウント強制削除に該当して終わるかもしれない(個人的にはアカウントが半永久的に残っているのは気持ちが悪いのでどうあがいてもログインできないなら強制削除してもらってかまわない)。

 

 

現状、持っているSNSは以前から主に外食記録として使っているInstagramと、

 

www.instagram.com

 

今回の強制卒業を機に動かすようになったThreadsです。

www.threads.net

 

一応みかけたときにわかるように、名前とアイコンは今後どこで何をはじめても同じものを継続するつもりなので、上記以外の避難先でもそれっぽいアカウントを見かけたらよろしくお願いします。

 

『SICKS』と『アメリカン・ホラー・ストーリー:アポカリプス』の映像における叙述トリック

※『SICKS』と『アメリカン・ホラー・ストーリー:アポカリプス』のネタバレがあります

 

 

アメリカン・ホラー・ストーリー』というドラマシリーズがあります。名前の通り、アメリカのホラードラマで、現在シーズン9までありますが、続き物ではなく、シーズンごとにそれぞれ別の物語が描かれます。シーズン1はとある呪いの館での物語、シーズン2は精神病棟での物語、シーズン3は魔女の話、という具合で。

同じ俳優が違うシーズンに出演していた場合は別の役になり、例えばエヴァン・ピーターズはシーズン1ではテイト・ラングドンという役、シーズン2ではキット・ウォーカーという役です。ただし多少出入りはあるもののメインキャストはほぼ同じ顔ぶれで、エヴァン・ピーターズやサラ・ポールソンジェシカ・ラング様などの常連組は「アメホラで通算何役やってますか???」状態です。劇団アメホラもしくは劇団ライアン・マーフィー(プロデューサー)の感があります。

 

 

シーズン間のつながりはほのめかしレベルの情報があったりなかったりという程度。これまで人に勧める時は「興味を惹かれた舞台設定の、どのシーズンから見初めても支障はないよ」と言ってきましたが、シーズン8『アメリカン・ホラー・ストーリー:アポカリプス』は過去のシリーズの一大クロスオーバーで、ここから見ても完全に意味が分からないやつでした。これは一見さんにはまったく勧められない。でもライアン・マーフィーの新しいミューズであるコーディー・ファーンの輝きを見て欲しいのでよかったら過去シリーズを走破してたどり着いて欲しい。今なら皆さん比較的お時間あると思いますし…

シーズン8にシーズン3のキャラクター達がそのまま登場した時はびっくりしたのですが、終わってみるとクロスオーバーにした意味がわかりました。

 

 

突然お国が変わって日本の話になりますが、『SICKS』という2015年のテレビ東京の番組がありました。

基本的にはオムニバスコント番組だと思いますが、一見独立したそれぞれのコントで同じ役者が演じていたのは実は同一の役だったことが中盤で明かされ、以降は全てのコントが集約されて全体で一つのドラマになりました。

あるコントのAV女優さんは違うコントに出てくるお店の人でもあった、こちらのコントとあちらのコントは同じ人物の働いている時の様子とプライベートの時の様子だった、というような仕掛けで、オムニバス形式のコント番組では固定の出演者が複数のコントに別々の役として出演するのは珍しくないので、そういう認識を逆手にとって視聴者を引っ掛けたわけです。

リアルタイムで視聴した時「映像でやる叙述トリックって感じだな」と思いました。

 

 

アメリカン・ホラー・ストーリー:アポカリプス』でも同じようなトリックがあったのです。過去シリーズのクロスオーバーなので、「アポカリプス」の中で複数の役を演じることになる常連組は何人もいるのですが(サラ・ポールソンエヴァン・ピーターズなんてほとんどギャグに近い勢いでシーンごとに違う役で出てくる)、「記憶を封じられて違う人格として数年間生きてきた」キャラクターがいたことが終盤で判明して、それが物語上の大きなキーとなりました。

一応どのキャラかは伏せますが、あるシーンのAというキャラと数年後のシーンのBというキャラは実は同一人物だったわけです。もともとアメホラというシリーズは常連キャストで回すことが多く一人が複数の役を演じるのに慣れていたこと、特にクロスオーバー企画であるシーズン8の中では複数の役を演じるキャストが多かったことが引っ掛けとなっていたのですね。

もしこれが新規の独立した物語で、全てのキャラクターを別個のキャストが演じてる中でAとBだけ同じキャストが演じていたらバレバレすぎて成立しなかったでしょう。

 

 

ひとまず私はこの仕掛けを「映像における叙述トリック」と呼んでいるのですが、いくつかの環境が揃った例外的な状況でないと無理だと思うので、正直いって映像畑でこういう情報の隠匿と開示をトリックとして効果的に使える作品がまたあると思っていませんでした。演劇だと探せば見つかるかもなとは思っていたのですが。

 

 

数年ぶりにこのトリックに出会って、このタイプの映像作品が他にも探せばあるかなあ?という気持ちが芽生えたので、募集してみようかなと思って書いたエントリです。もし何かご存知のかたがいたら情報をお待ちしています。もしくは、映像ならではの叙述トリック的なものはこういうのもあるよ、という違うタイプの仕掛けについてのお話もお待ちしています。

 

あの無様な姿を見ろ!〜『ミュージカルテニスの王子様3rdシーズン 全国立海 後編』

3rdシーズンの間ずっと引っかかっていたことが腑に落ちて私の中で完全なる大団円を迎え、私はこのジャンルの本質を、テニミュの意味を改めて取り戻した。いつも本質的でいてくれる製作委員会にありがとうと言いたい。

 

テニミュの公演形態って特殊なので説明するのが難しいのですが、まず原作(無印)を一巻から四十二巻まで、内容のちょうどいいところで区切りながら順番に公演にしていくのが基本の流れで、今その三巡目(シーズン3)が完結したところです。

しかし2ndも3rdも再演と表現するにはシーズンごとの変更が多いです。半分くらい以前のシーズンの曲や演出は踏襲されますが、シーズンごとに同じ原作を元にしたリブートを行っているとみなした方がスッキリするくらいの違いがあります。

原作の区切り方がその都度違うのでシーズンごとに公演タイトルの総数は異なるし、出演キャラも毎度微妙に違ったりする。各学校の音楽的なテーマはシーズンを超えてもある程度引き継がれるけれども、シーズンごとの全体の路線の違いもなんとなくあるので、その影響で同じ学校のテーマでもシーズンごとに差異が生じる。リブートと再演の中間くらい、基本姿勢としてはリブートだが使える部分はくったくなく使う、という感じでしょうか。

 

その結果、1stと2ndの両方からの踏襲と新演出が混ざることになる3rdの公演はサンプリング的ないしマッシュアップ的で、とにかく各シーン、各曲の音楽も振り付けもものすごく、よく言えば重層的、悪く言えば力技の継ぎはぎでした。過去のモチーフがサンプリングされてきたら歴戦の観客はすぐ分かるし、気持ちとしては嬉しいけれど、統一感に欠けると感じることも多く(演じる側も難しいのではないかと思った)、果たしてこれは正解なのか?どう評価したらいいのかよく分からないまま見てるところがありました。

 

原作だと直接的には描かれなかったリョーマとライバルズの試合をミュージカル版では(珍しくはっきり原作の描写から離れる形で)実際にやっています。「身体にテニスの動きは染み付いてるからね」、つまりこれまでの体験を理由として記憶を取り戻した上で幸村戦に臨むという展開に説得力を持たせるためですね。1stシーズンはリョーマ役を数人で引き継ぎながらやってきたので、あそこで振り返りを実践してリョーマの体験を統合する必要があった(逆にいうと一人でリョーマを通した2ndではライバルズとの試合は省略しても意味的には成立するとも思っていた)。

 

で、そのライバルズとの試合を見ていたら、「そうか、3rdシーズンだけじゃなくて、1stから3rdまで全部の振り返りになるんだ今回の公演は」と気づいたんですね。もともとそれ以前を踏襲してきたものを統合するってのは、そういう事になるんだわ、と。それぞれのライバルの試合の中に1st-3rdが含まれていて、それが各校分あるという怒涛のマッシュアップ。3rdライバルズのシーンはテニミュの歴史が圧縮されていて、ブラックホールのような圧があったし、なんか時空のねじれを体感しました。私は途中参加だけど、それでもそれなりの年数のたくさんの公演の記憶と思い入れがあって、それら全てのフラッシュバック総決算だったので。3rdに入ってから、ミュフェスとかOB(さっきー)の起用とか、原作からやや独立して「テニミュ」の歴史自体を参照元としたテニミュの動きが増えているなあと思っていたのですが、同じ流れですね。1stと2ndシーズンを踏まえた上での3rdシーズンだという方針。

 

そうか、3rdのぎこちなさというのは、今回の公演で真田がリョーマを指していう「無様」の状態なんだと思いました。3rdシーズンというのはこれまでのテニミュ2シーズン分の歴史と情報量で「無様」な状態になっていたのだ、と。その次にどういう展開が来るか、みなさんご存知ですね。さらに本編後に怒涛の歴代エンディングソングの連べ打ちが来たので、マジで4thはフルリニューアルくるかもなあ、と思いました。

 

 

テニスの王子様という物語が描いているのは体験と記憶を重要な媒介物としながら自己更新を繰り返す、回転と変化を続けていくことです(越前とはなんとテーマを体現する名前だろう)。実際の人間が長期間担当する舞台というメディア、その中でも歌って踊って動いて演じる身体性が強いミュージカルという形式、一つの原作を再演ではなくリブートを繰り返す作り方。テニミュという公演そのもの、興業そのものがテニスの王子様のテーマを体現し続ける試みです。これ以上2.5次元な事はない。テニミュ2.5次元の本家本元であり、総本山であるのは原作のテーマとミュージカル版のあり方が呼応しているからです。

 

3rdは予告なく過去のエンディング投入するようになりましたけど、いきなりでもお客さん達はみんな対応できるじゃないですか?振り付けもこなせるし歌詞もレスポンスも大丈夫。あれはまさに「体が覚えている」だよなあと、あの客席のリアクションの良さがすごく好きなんです。歴代キャストはもちろんのこと、スタッフもお客さんも、つまり貴方も私もテニスの王子様なんです。だから、次で何があっても、みんな一緒に回転しながら前に進もう。それがテニスの王子様であるという事だからだ。

 

 

テレビ司会者の男女比(2018年10月期)

期限ギリギリではてなブログへ移転して最初に何書こうかと思ったのですが、twitterに投稿したもので残しておきたいものが一つあったのでその話をします。

 

性別役割分業の問題の一環として、テレビ番組の司会者(MC、キャスター)の男女比ってどうなっているんだろうと言う疑問は以前から持っていました。2018年の秋、ある番組のキャラクターの起用をきっかけに議論が起こっていたので、思い切って自分で調べてみることにしました。

 

NHKと、民放から一局…と思って日テレを選び、それぞれ一週間分です。オレンジが女性、緑が男性です。司会が複数いる場合は公式サイトの表記が先頭に来ている人物で色をつけました。※番組の詳細は長くなるのでリストを画像化したものを文末に置きました

 

NHK:2018年10月7日(日)〜10月13日(土)

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日テレ:2018年10月15日(月)〜21日(日)

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条件など補足

NHKと日テレで日曜スタートと月曜スタートという違いがあるのは単に我が家のレコーダーの容量上の問題が発生したためです。全録レコーダーを持ってる人が同じ週で全局調べるのが理想だと思います。民放から日テレを選んだのは前年の視聴率トップだったからです。

 
こういう調査の類はやり始めることで調査項目や問題設定の不備に気がつくもので、実際に色々気づいたことはあるんですが、今回は今後のたたき台として概観を出すこと、「番組の硬軟問わず司会扱いされている人選の男女差を出す」という当初の目論見の一点調査でやり抜く事にしました。

・クレジットは番組内テロップ、番組表、公式サイトを確認して、ズレがある場合は公式サイトを優先(ズレが生じている場合は、文末のリストの方で番組名の後ろに「※」をつけました)。番組コンセプトによって出演者の呼び方が異なる場合(番組が教室という体裁で、司会者が「先生」、出演者が「生徒」というような)もあり、録画した番組を見て「これ実質的な司会はこの人だな」と私が判断したものもあります。

 
・生放送の番組は長時間で時間帯によって出演者が丸ごと入れ替わる場合があり、そういう場合は分割して記録しました。部分的にでも女性メインの時間帯があればなと思った(のですが特に女性比率の向上に貢献はしなかったです)

・やり始めてから調査項目として思いついた事は、単独司会か複数か、タレントか局アナか、メインキャスターとアシスタントの性別の組み合わせ(同性か異性か)、報道/情報とバラエティ番組で傾向に率に違いはあるのか、といったようなことですね。また平均年齢や年齢構成にも男女差はありそうだなと思ったのですが、NHKのアナウンサー紹介のページに年齢がなかったので調べきれませんでした。

 

NHK『暮らし解説』は司会は女性なのですが、唯一のレギュラー出演者である司会者が毎回異なる解説委員を呼んで話を聞くスタイルです。この週の解説委員は全員男性でした。ので私の問題意識からするとやや微妙なところがありますね。あと日テレはこの週に夏休みを取ってるアナウンサーが何人かいて、レギュラーと違う顔ぶれになってる番組がいくつかあります。

 

 マツコ・デラックスは私の見聞きした範囲だと自分のことを「女装のゲイ」と説明しているので、男性に分類しています。違ってたら教えてください。
 

調べてみて気づいたこと

 NHKも大概褒められたものじゃないけど、日テレはほとんど壊滅的と表現するよりないのではないでしょうか。ZEROが有働さんになる前の9月にやっていたらもっと悲惨だったわけで。
 

 番組を見て気づいたのはファッションの違いですね。バラエティは多少ゆるいですが、基本的に男性はほぼスーツで堅めなのに比べて女性の服装の方がバラエティ豊かです。これを女性の方が自由度が高いとみるか、華やかさも求められるダブルバインドとみるか。メガネの着用率や茶髪にしているか、白髪を染めずにいるかなども性差があります。 

 

 NHK、日テレ問わず、報道/情報番組の男性キャスターでネクタイしてなかったのはNHKの松尾アナくらいじゃないでしょうか?以前の担当番組の時からそうでしたけど。どうして彼だけああいう服装なんだろう。本人がおしゃれなのだろうか。

 
 
  しかも日テレ、カレンダー表記の関係で金曜深夜の番組が土曜にきてるだけで、土曜と日曜も女性が司会やってる番組は10分のニュースしかないし。有働さんがNEWS ZEROに着任した直後だったのでこれでも女性比率が格段に上がったところですからね。
 

男性局アナ問題

 大局的に性差で見ると「女性に司会を任せている番組が少ない」という話になるのですが、「男性司会者」の内訳を見ると、男性アナが割を食っているように思いました。お笑い芸人が司会をやる機会が増えており、その場合の芸人は男性芸人で(関西だと司会をやれる女性芸人もそれなりにいるのでないかと思いますが。関東よりは)、男性司会のアシスタントは女性になることが多いので、まだ女性アナにはアシスタント的立場であってもレギュラーの仕事が発生します。

 

 バラエティ番組の司会は芸人が多い。一方で情報/報道は帯番組が多いので司会者になれる人の数が限られる。結果、男性の局アナは情報/報道の帯番組で司会をやれる一部の人とそれ以外に二極化している印象です。もちろんナレーションや、準レギュラーとしてロケ仕事、ラジオなど、アナウンサーは司会以外の仕事もはあるのですが…。

 

 アナウンサーの仕事のうちスポーツ実況って今でもほぼ男性のみですが、こういう状況では男性アナがメインで活躍できるジャンルが残されていないと厳しい面はあるなと思いました。現状、男性アナはスポーツ実況路線に配属された方が充実した局アナ人生が過ごせる可能性が高い。

 

 しかも情報や報道番組もタレントや芸人がやる機会が増えてますからね。男性アナのパイは小さくなる一方では…。自局のアナウンサー(特に男性)の育成の意味でも、テレビ局は番組の司会の担当を再考した方がいいんじゃないかと。

 

 番組名と司会者のリスト

ミュージカル『テニスの王子様』3rdシーズン 青学vs氷帝

「俺様の美技に酔いな」というセリフを3rdテニミュ的に解釈するとこうなる。アクションが、身体動作自体がキャラクターだというのが3rdシーズンの方針なのではという事を書いた身ですので、三浦宏規の踊る跡部を見て、もう納得感しかありませんでした。歌より芝居より存在感より踊りで観客をねじ伏せにきたのがものすごく!3rdシーズン的だなあと。
そういう跡部像だからこそ、手塚跡部戦はもっと他のやり方でも良かったのではと思ったりもするのですが……

よどみにうかぶ、舞台「戦国無双」〜四国遠征の章〜

冒頭で全員が一端そろい踏みになるシーンで、キャラクターの華やかさがAiiAの舞台上を満たした。あのだだっぴろい空間が、セットではなく舞台上にいる人達の存在感でちょうどぴったり満杯。壮観でため息をつく。


吉谷さんの脚本はいつもすごく上手にまとめたレジュメのようで、話を進めるのに必要なポイントを余さず抑えているのだけれど、要点だけ抑えてさくさく進みすぎる傾向があるのですが、前作・舞台「戦国無双関ヶ原の章(脚本・演出ともに吉谷さん)はエピソードの進行速度を加速させるために考案されたようなセットもフル活用して、大量の人物の大量のエピソードがすさまじい速度で舞台上で展開されました。見終わったとき、ほとんど愕然としたのをよく覚えています。ほぼひっきりなしに鳴る音楽とたくさんの立ち回りも相まって、ゲームのムービー部分が全編続く感じ。演劇で喩えるならおそらくレビューが一番近い。

そういう所が戦国ものにぴったりだと思いました。
個人の人生などこれまでとこれからのほんの一握の砂、よどみに浮かぶ泡沫に過ぎない事を実感するのが歴史物を見る面白さで、大河ドラマが「1年かけても断片しか描けない」という形でこちらに突きつけてくる無常観を、逆に大量のエピソードを2時間に圧縮し流れるように見せた事で発生させたのが前作・関ヶ原の章だった、ちょっとおおげさに言うなら。


今回の「四国遠征の章」は脚本が変わったので予想通り密度が下がって、ちょっと寂しかったのですけれど、クライマックスのど直球な芝居と、「そう、それ!その視点です!」と心の中でサムズアップするくらいしっくり来た終わり方で加点がついて、トータルで今回も大好き。という結論になった。前回は作品全体として表現されていたものが、今回は脚本で(言葉で)示された、という感じでしょうか。流れるような全体のトーンは踏襲されてたし。

個人的にはもっと圧縮かかってつるつる流れてくれたほうが好きなのですが…基本の密度はもっと高く+そのときそのときの要所をクライマックスでたっぷりやる、というのはどうです?(我がままを言っています)いやでもほんと戦国無双は私がいままで見た範囲では吉谷さんの作風が最も作品にプラスに働いていると思うんですよね。劇場に行って、眼前で流れていく群像劇に身を委ねて、哀しくなっていたい。いつまでも。

ただの現実である「コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜」(と、「シン・ゴジラ」)

私という人間は周囲の現実社会だけではなく愛好したフィクションや娯楽も含めて出来ていて、そうやって大人になった人が社会を作るわけですから、これはもう魔法少女やヒーローが日本社会を作り動かしてきたといっても過言でもなくない、ような気がする。

スポーツ漫画やアニメをきっかけに競技をはじめた人、そこからさらにプロになった人なんてのもすでにたくさんいて、そういう、「フィクションが与えた内面/精神面での影響」を可視化する形で戦後のある時期を語り直したもの。「もしあの事件のときにヒーローがいたら」ではなく、「あの時もこの時もヒーローは(それを見た視聴者を通して)いたのだ」というのがコンレボの世界。超人のいる神化とは、「よく似た違う世界」などではなく、具体的には見えない、しかし確かに存在するある要素を形にした、ただの現実であるように思われる。

超人たちへの愛と自負に満ちている。と同時に、フィクションが現実に影響ないとか言ってんじゃねーぞ責任あるぞ、という宣言に見えたりもするわけですが。


というようなことを考えながら楽しく見ていたのですが、どうして一期が終わったタイミングでもない半端な時期にこんな事を書いたかというと「シン・ゴジラ」の新しい予告を見たからです。

「現実にとってフィクションがどういう存在なのか」という話がコンレボなら、この新しいコピーと予告を見るに、「フィクションにとって現実とはどういう存在か」という話が「シン・ゴジラ」になるのかもしれないな、と。