最近読んだ本の中には,人はおおよそ10歳頃までに自らのライフスタイルを確立し,それは原則として終生変わることはない,との記載を見た.

子供の頃に色々と拗らせたこともあり,30歳を目前とするこの頃まで,自分自身殆ど精神的に成長していなかったのではないかと思うことがある.

それはそれとして,時々世の中で社会生活を営んでいく過程で自分がとても不安になることがあって,それは,”世の中で人のため,社会のためになることをすることが最も人として幸せであり,全ての人々が歩むべき道である”という概念を信じており,それ以外の価値観を存在しないかのように振る舞う人々の存在である.

自分はやはりどんなに自分に問い直しても,これを是とできない.自分のやりたいことを徹底的に貫くこと,これを第一義的な価値観として自分の行動規範を決めていくことしかできないようだ...

自分も学生時代,大多数の人がこのような価値観を持つべきだと考え,前者のようないわゆる”社会性のある”振る舞いをする人に対して,強い敵意や軽侮の意を向けていたことは否定しない.これが結果的に自分に,少なくとも最善の結果をもたらなさなかったこともまた否定しないと考えている.

大学時代にも学生部活の代表を行いつつも,上下の近い世代と強い信頼関係や継続的な人間関係をうまく築けなかった(それでも,今でも交流のある友人はいない訳ではないが)ように考えているのも恐らく,このような社会性に対する非寛容性が,私の行動の端々に滲み出ていたからなのではないかと思う.

そのような非寛容性に対する反省は,今思い出せば懐かしく思える,僅かな片鱗だけ残る大学生活の記憶に一抹の鈍い痛みを伴って思いだされるのだが.

 

ところで,自分が今所属している業界の慣習や体質なのかもしれないが,上記のような考え方をする人が多いように見える.これ自体は非常に職場の環境を良好にするものなのだが,時々,このような”社会性のある”振る舞いばかりをする人に対しては近くにいて得も言われぬ不安感を感じてしまうのだ.逆に自分のようにやりたいことをなるべく純粋な形で突き詰めたいという意思を持たれる方々が少ないように思う.これはどちらかといえば,現場の仕事よりも研究の場面で役立つ意思ではないかとは思うのだが,あまり現場の仕事でそのような意思の発露を強く目にすることは少ない.

 

またどうしても仕事が”その場で””すぐに”対応するべきものが多いため(これは言い訳に過ぎないのだが),他人から安易に仕事を任されるような人間になることが,自分にとってメリットになるのかという疑念が湧いてしまう.この仕事をしている時の最大の不安である.仕事の性質上,夜間休日に現場に向かわなくてはならない事案というのはどうしても発生してしまうのが,私人としてはこのような事実は可能な限り避けたいのである.自分の責の及ばない範囲で起こった事案に対して,夜間休日に速やかに対処せよとされるのは,個々人の倫理的な裁量に任されているとはいえ,やはりそうすることを当然とする空気に関しては強い違和感を感じざるを得ないのである.仕事を任されることは,間接的にとはいえ結果的にこのような事案を発生させる可能性を上げてしまうことになり,そうであればやはり必要以上の仕事を受けないとする姿勢が是であるという結論に達してしまう.

 

恐らく私が現場で感じる違和感とは,このようなリスクを承知で積極的に仕事を引き受けることができる人たちがいるという事だ.自分も遅くまで残業をしたり時間のかかる仕事を引き受けたくない訳ではないが,このような私人としての生活を犠牲にしかねないリスクを負う事ができるような人々とはどうしても肩を並べて生きて行くことができないというのが,率直な気持ちである.それを協力的ではないとか,社会的ではないとか言われてしまうのは,やむを得ないのかもしれないが,はてさて…

 

 

約束を守るということのメリットについて

先日,デカルト方法序説という有名な哲学書を読んでいたのだが,その中で以下の趣旨で語られたパラグラフがあった.

「…約束や法は社会生活を営む上で必須のことである.なぜならば,約束や法は移ろいやすい人の心を繋ぎ止めておくことができ,決定事項に対して後から本当に正しかったのかどうかを迷う煩わしさから人を解放してくれる…」

 

…正直にいってはっとさせられるパラグラフであった.

この記事を読んでいる人は筆者の年齢を大体ご存知かとおもうのだが,恥ずかしながら私はこの歳になっても,約束や法をなぜ守らなければいけないかどうか分からなかった.(※ただし,売買契約やサービスの購入など金銭が絡むものに関しては相手にその約束の不履行により金銭的な損害を与えるからだということで,自分を納得させることができた)

なので,私は約束に対して,約束された後も確実に実行する局面まで,常にその約束が妥当かどうか検証を続け,妥当性を欠いたと判断した場合は相手に再度約束の再設定を求めていたし,場合によってはその約束を実行しないことを告知することにも,何らためらいを感じなかった.加えて,人は誰しも自分と同じように振る舞うと想定しているので,他人もまた同様に取り決めた約束について,本当に実行するかについては確実にそれが実行されるまで,常に実行されない可能性についても念頭に置きながら行動していたのだった.

しかし少なくとも私が知っている人の中では私のように一度取り決めた約束を再設定してくれたり,妥当ではないと思われたという理由で実行しなかった人はいなかった.これは自分にとって極めて不思議なことだったが,その理由が分からなかった.自分は少なくとも上記のように振る舞うことで,自分に不利益が及ぶような約束や決まりごとを最大限回避できることはメリットだと考えていたし,どうして他人もそのように不利益を回避する行動をとらないか不思議でならなかったのである.

それが上記のパラグラフで一気に理解できたのである.世の中は自分が想定していたルールや理屈とは大きく異なるルールや理屈で回っていることは薄々感じていたが,そのルールや理屈の中に初めて自分にも合理的だと理解できる理由が与えられたのはとんでもない衝撃だった.

確かに大学時代は,人とのかかわり合いの中で他人に何かをやってもらう約束をする場面が多かった.幸いにも私の周りは善人に恵まれたためにそのような約束が不履行となったことは一度もなかったのだが,それでも私は本当にその約束が実行されるのか,常に不安を抱えながら生きていたのだった.それが本当は必要のないものだったし,それから解放されることそのものが約束やルールの目的だったのだということだったのだ.何という衝撃だろうか!

逆に私は就職後1.2年の間,上席から何をやるように指示を受けるのだが,都度自分の中でその指示を実施することが自分の意向や目的に沿ったものかを検証し,できることとできないことを判断して,出来ることのみやり,出来ないことはやりませんでしたと報告していたのだが,このように振る舞う私は相当理解不能な存在だったのではないかと思う.

 

…なので私は今後,他人とした約束については,例えそれが合理的と言えないものであったとしても,必ず守るようにしたいと考えた.なぜならば約束で決めた事項に関してそれ以上思い悩む煩わしさから人を解放し,余った精神的な余裕を他のあるいはもっと重要な物事について検討することに向けることができるからだ.

また世の中で,自分にその理由がよくわからないルールや理屈の中にも,自分の想定しなかったメリットがその中にはあるのかもしれないと思うようになった.今のところそのようなルールや理屈を見つけられていないが,注意深く観察を行っていきたいと思った次第である.

無題

随分久しぶりに更新.
私自身も社会人4年目となり,高校生の頃友達同士で気軽なノリで始めたあの頃も,もはや10年前である.
あの当時の友人達も殆どがはてなダイアリーを去り,twitterでの情報交換が中心となった.

================================================================================

物心がついた頃から人間社会は"周りの人にだけ見え,私には分からないルール"で回っているように見えた.
そのような社会や人間模様をみるにつけ,"自分は周囲とは違う存在である”という漠然とした不安感を感じていた.
自身には分からないものを見たときの反応はいくつもある.
"なぜだろう”と疑問を持ち究明したいと考える.
"そういうものだ."と受入れ妥協し,うまく振る舞う.
"不安だ" そう思い見なかったことにする.
etc...
私は恐らく大半の場合において3つ目の選択肢を取っていたのでは無いだろうか.
幼少期から私が見たことのないもの,理解出来ないものを見た場合,大抵において泣いていたという.
よくよく考えてみれば,思春期にごく限られたコミュニティの中に留まり,積極的に外に出ていかなかったことも,
大学時代に私のやりたかった事にひたすら没頭して,周囲とコミュニティを作る時間を一切持たなかったことも.
本質的には同じ気持ちが背景にあったのだと,最近事あるごとに思う.

恐らくそのような態度は人生のあらゆる側面に,比較的早い時期から現れていたのだと思うが,
私自身でもその状況を危険であると感じつつも,抜本的な手を打てなかった.

幸いにも幼少期から少なくとも高校生にかけては,社会でのステータスを担保するツールとしての勉強がよくできたので,
人間社会とは比較的に良好な関係を保つことができた.
大学生活においても必要な単位を回収し,必要な試験に合格する分だけの勉強を難なくこなすことができた.
そして,現在も.恐らく人間社会に対して要求される必要水準の仕事をこなし,生活に必要なだけの収入を得て,
暮らしていくことは十分に可能なのだ...

私にとって,勉強や仕事は"分からないことが多く,私を不安にさせる人間社会"に対する不安から私自身を守る
ためのツールだったのだろう.
今のままの生活を続けていたとしても,一定程度の社会的地位は担保され,おそらく生活にこまることはなさそうだ.
その意味では,この職業はこの人間社会から身を守るためには最も効率のよい仕事のようにも見える.

昔,教科書にかかれていた文章で"向上心のないやつは馬鹿だ"というくだりがあり,
担当の教師もこのフレーズを気に入っていたのか,やたらと繰返していたため,いっときブームになった言葉でもあった.
ふと今の私を振り返ってみると,徹底して向上心がないとも言える.

よくよく考えてみれば,私の周囲には遊びの相談に乗れる友人はたくさんいるが,
社会活動を通じて互いに高め合う,そのような文脈でつながりあった知人はいたとしてもごくわずかである.

つまりそれが,今の私の生き様なのだろう.

============================================================================

ただ,本当にそれで良いのだろうか?

ふぇー

随分と時間を置いて久々に自分のブログ閲覧。
今とあの当時とでは随分世界の見方も変わっているけど、今の自分と変わらない所も意外と多いなと思って。

一言で言うと、良い面も悪い面も含めて、「懐かしいなぁ…」。
最近はてなでブログ書いている人なんて殆ど見ないのですが、サービスは今も健在で何よりです。

Nostalgic View Train

Nostalgic View Train (ノスタルジック・ビュー・トレイン)とは、かつて五能線を走っていた、各地で気動車、ないしは電車化が進んでいた東北地区各線において余剰となった50系客車を改造した車輛で、東能代弘前間を2編成が一日一往復する列車であった。私が手元にある94年9月号のJTB時刻表によれば、その運用は
ノスタルジック・ビュー・トレイン1号 東能代1020→弘前1447
ノスタルジック・ビュー・トレイン2号 弘前0913→東能代1401
ノスタルジック・ビュー・トレイン3号 東能代1550→弘前2139(途中深浦1736-1800、鰺ヶ沢1902-1952)
ノスタルジック・ビュー・トレイン4号 弘前1456→東能代1928
で、お分かりの通り、1号と4号、2号と3号とが同じ編成が担当する運用であり、途中深浦駅ではそれぞれ1号と2号、3号と4号が交換するシーンが眺められたという。

しかしながらもともとが年季の相当入っていた客車であったこともあり、1990年の改造による運行開始から1996年の秋まで運行を取り止め、その後は高崎へと一部車両が転属したものの2001年に全編成が廃車となったが、以来全国各地に生まれたJOYFUL TRAIN(ジョイフル・トレイン)の先駆けとなった不朽の名車であったのだそうな。

勿論、その頃の私はせいぜい幼稚園児か小学生で、ついぞ実車を目にすることはなく、出会ったのは時刻表上だけでしかないのだけれど。



いずれにせよ、最近帰省する度に地元に何らかの変化があって、時の流れを否が応にも思い知らされることが多々ある訳です。夏に帰省したときには、近所を走るバスの案内放送のテープの女性の声が、アルトからソプラノへと変化してしまっていて、物心ついたときからの「バスの案内放送」が、何処にかへと旅立ってしまっていました。そして先週帰省した折には、物心ついた時(というよりも小学生になってバスに乗るために運賃を払う必要が生まれた時)から変わっていなかったバス運賃までも、最近の不況の影響を受けてか、若干円の値上げを受けてしまいました。

何かしら子供のときによく遊んだ公園や空き地に何時の間にか「分譲地」の立て札が掲げられて、家が建ってしまっていたような、寂しさと淡い子供時代への郷愁を誘われてしまいました。

そんな中、先日塾(東京のね)の授業(受けるほうではなくてするほう)の帰り、Moon Lightの寝不足を肩に抱きかかえたまま、冬場は乾燥するといわれている近畿地方で何故か降りしきっていた雨の元で乗ったJR奈良駅からのバスのこと。3分に50m程度しか進まない渋滞を抜けた後の国道308号線の上で、ふと聞いた、「次は、畑(はた)です。」の案内放送のテープが、紛れもない、昔のままのアルトの声だったのです。昔は当たり前だったものに巡りあえなくなってから久し振りに出会った案内テープの声に、ここ最近実家に実家に帰るようになってからしばし感じるようになった「ノスタルジア」を強く意識した一幕でありました。

あと僅かで年が明けます。皆様、良いお年を。

うつくしま 冬至の夜に

1年のうちで一番日の短い日、当時の夜が更けて行かんとしています。今日で私の大学は授業が終わり明日から暫しの休息、冬休みが始まります。
とは言えテストが明けて解放感に満ち溢れていた中学高校時代とは違いて2月に迫りつつあるテストのことを頭に入れながらの休みであるので、何処となく自由に頭打ちがあるような気がして、少し面倒くさいなあという感情を拭えません。
そう言えば、中学の頃にはこの時期スキー講習なるものがあり、温泉街の麓に佇むスキー場に4泊ないしは5泊程起居しつつスキーを學ぶ、という企画がありました。スキーで適当に滑りまわった記憶とともに、さながら雪に埋もれてしまうのではとさえも感じられてしまうような山肌や谷の中でも人々は暮らしていけるのだなぁということを、中学生的な思考のパラダイムの中でも痛切に感じた記憶があります。
どの辺りだったでしょうか、バスでの移動中にふと窓の外を見やると、激しく降る吹雪の中を、115の前照灯がゆっくりと走って行くのが見えたのを覚えています。今や昔、決して手に取り戻すことのできない一つの綺麗な瞬間だと、今になっても思いだされます。
今年は長期予報に反して、雪の降り荒ぶのはここ数年よりかは若干早いような気もします。今日もまた、雪国の人々は新たに積もるであろう雪と見えない戦いを強いられているのだろうなあと思います。
冬至の夜は、忘年会の帰りの人々とともにゆっくりと更けていきます。今晩は夜が遅く、明日は朝が早いです。