学校って、いじめまくっても逮捕されないよね。聖域なの?

いじめの問題が後を絶ちません。
その都度テレビでたくさん放送されたり、ネットをにぎわしていますが、難しい問題なので解決に至る気配はありません。
いじめの報道を見る度に、僕はひとつ違和感を感じます。学校というのは社会の聖域とみなされているのではないかと。
いじめの被害者が受ける仕打ちはとてもひどいものばかりです。
身体的、精神的に大きなダメージを受けます。
これと同じようなことを学校の外でしたら、加害者は即逮捕されます。
しかし、学校の中で繰り返される犯罪行為はよほどエスカレートして社会問題化しない限り加害者は逮捕されないのか。
ある意味、学校は聖域になっているのではないか。
社会では許されないことが、学校の中では平然と繰り返されることに僕はとても違和感を感じます。
いじめ問題を解決するのはとても困難だと思いますが、手始めとして、僕はまず、学校の聖域化をやめることが必要だと考えます。
社会でやってはいけないことは、学校でもやってはいけない。
単純なことだと思います。

学校の聖域化をやめるとは具体的にどういうことかというと

  • いじめが発覚したらすぐさま警察に連絡する
  • 教師が生徒の人格を教育することをあきらめる
  • 人間教育のかたちを考え直す

この3点です。

まず、なぜ現在でもいじめの問題に対して警察が介入してくることが少ないのか。
http://hutoukou2ch.web.fc2.com/ijime12.html
ここに書いてあるのがわかりやすいです。

通常の市民社会の論理で考えれば、被害者や目撃者が即座に110番通報して、学校に警察を呼ぶだけで、あっというまに一掃できるはずである。
しかし学校は、こころとこころの交わりによって、たがいのありとあらゆる気分やふるまいが、たがいの生の深い部分にまで沁み込みあう聖なる共同体であるとされ、その内部を市民社会の論理と切断しておく不断の努力によって、特殊な社会として保たれている。
学校の聖域扱いは、制度と政策に支えられた学校運営法として、さらに、われわれの社会の「あたりまえの善き慣習」として、定着している。
このような学校の聖域扱いが強固な「あたりまえ」になると、市民社会の論理によって学校内の暴力に対処することができなくなる。というよりも、「そんなことは思いもよらない」という現実感覚が蔓延する。

学校は人間の心の教育をも司る聖なる場所なので、一般社会の論理をもちこむべきではない、ということです。

たしかに、今までは、学校は人格を教育する場として機能していたと思います。
ですが現在は社会の変化によって、学校は人格教育にふさわしくない場所になってきました
教育の重点が、人間形成から成績重視に変わってきたということもあります。
教師の人間性が低下してきたという可能性もあります。
モンスターペアレンツの問題など保護者の意見が強くなってきたということもあります。
それとなにより教師が忙しすぎて、クラスの治安を維持する余裕がなくなってきたことも大きいでしょう。
ルポ/ある新人教師の死
日常の業務で忙殺される教師に、生徒のちょっとした変化に気づいて、いじめを予防するのは極めて難題でしょう。
今話題のドラマ「夜行観覧車」にも描かれているように、子供の心や人間関係を正確に観察するのは親にとってさえもとても難しいことです。

教師が忙しい現状を踏まえると、学校の治安維持は警察に頼らざるを得ないと思います
文部科学省も、各学校に対して、いじめなども問題で学校で対処できなくなったら、すぐに警察に連絡するよう通達しています。
平成24年11月2日 犯罪行為として取り扱われるべきと認められるいじめ事案に関する警察への相談・通報について(通知):文部科学省
大津いじめ事件でも、『教育現場と警察の間には長く「学校内の事件事故は学校で対処する」という不文律が存在していた』が、『東京学芸教職大学院の今井文男特任教授は「被害者の命を守り、加害者がより重大な事件を起こすのを防ぐためにも、警察が介入するのはいい流れだ」と評価』しています。
http://sankei.jp.msn.com/smp/west/west_affairs/news/121230/waf12123018000012-s.htm

では、学校が人格教育を放棄したとして、誰が子供の人間性を育てるのでしょうか。
今まで、日本人の心を育ててきたのは、家族・近所の人・学校・会社です。
現代ではこのどれもが機能しなくなってきているのではないでしょうか。
世帯の収入が低下してことによる共働き世帯の増加、核家族が多数をしめたことによって、子供を家で教育する機会自体が激減しています。
都市化によって共同体みんなで子供を育てるということもなくなってきました。
会社も変わってきて、仕事が単なる生活費を稼ぐ場になっています。
こうして見ると、現代日本は本当に人間教育の場が崩壊していると感じます。

これをどうやって改善していくのか。
これは極めて重大問題なので多くの人の知恵が必要です。
僕が今こうしろとか言うことはできません。
ただ色々な解決法がある中で、アメリカも同じような悩みを解決するために対策をしているようですのでご紹介しておきます。
CiNii 論文 -  アメリカ合衆国における連邦政府による人格教育政策の特質

人格教育運動は、1960年代以降の道徳教育方法の変化や若者の道徳の退廃状況に対して、アメリカが建国当初から重視してきた道徳教育を復興しようとする動きと捉えられる。
クリントン政権のもとでは、大統領自らが一般教書のなかで人格教育の重要性を訴える等、人格教育を推進していく連邦政府の姿勢が明確にされた。
これらを背景として、『アメリカ学校改善法』のなかでは、人格教育に対する補助金パイロット事業として制度化された。
ブッシュ政権のもとで、『落ちこぼれ防止法』が制定され、同法のもとで人格教育補助金事業は正式な事業として位置づけられ、さらに連邦教育省の戦略プランにも「強い人格と市民性」の促進が掲げられるなど、人格教育は連邦教育政策のなかで確たる地位を確立してきたといえる。

アメリカでは、政府が人格教育を主導しているようです。
問題点を明確に認識して、それを解決するための法律を制定し、補助金も出しています。
日本では、政府が何もしているとは言いませんが、今だに教師個人の資質に頼っているように思えます。

もう、教師個人の人柄で生徒を薫陶する時代は終わったのではないでしょうか。
そもそも、運よく金八先生のような教師に出会えたらラッキーで、ダメな教師にあたったら人間性は諦めろというのは無理がありました。
担任教師のあたりはずれで人生が決まってしまうようでは、教育のシステムとしては欠陥でしょう。
どんな教師であっても、一定の水準の人格教育ができるようにするべきです。
教師全員の教育レベルを上げるのが難しいなら、人格教育専門の教師を置くという手もあります。
とにかく、まずは現状で多忙を極める教師にこれ以上責任を負わせることのないようにすることが先決です。
そして教師が人格教育しない、とすれば、何かしら対策を考えなければならかくなります。
僕は、今の、対策を先送りにしながら、現場の教師に責任を押し付けるような世論に違和感を感じたのでこれを書いてみました。

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子供に「宿題やりなさい!」と言わなくても済む方法を聞かれた僕の回答

昨日人力検索を眺めていたら、興味深い質問があったので回答してみました。
その質問は、子供が自主的に宿題をやるにはどうしたらいいでしょうかというものでした。
人のモチベーションに関する話題は僕はとても好きなので、自分の考えを書いてみました。
残念ながら質問者には却下されましたが。
僕的には心をこめて書いたので、自分の考えを残すという意味でも以下に貼り付けておきます。


こんにちは。僕の考え方を書かせていただきます。

子供が自ら進んで宿題をするように差し向ける必要があると思います。
例えば一流のスポーツ選手を育てた親の教育を真似するのもひとつの方法かと思います。
成功したスポーツ選手はみなそのスポーツをやりたくてやりたくて仕方ないからです。
ポイントは「報酬」と「競争心」
スポーツ選手の親は、子供の成績に対して自分のことのように考えます
いい成績を取ったら一緒に心から大喜びします。
子供は、いい成績をとることですごい喜びが待っているのでがんばります。
あと、人より上に立ちたい!という競争心は人間のモチベーション維持に極めて大きな影響を与えると思います。

競争心をあおることも必要です。
日本の教育はこれまで、相手と仲良くすることに重点を置きすぎました。
競争心があるのは人間として健全です。
これを無理に押さえ込んでは子供のエネルギーが変な方向に向かわざるを得ません。
ただ、土台として健全な競争心を育てるとともに、社会の中の一員としての自覚をもたせることも重要です。

ただ競争心を煽りながら人と仲良くするというのはなかなか難しいもので、気が強く人の意見を聞かない子供になることも多々あると思います。
有名なスポーツ選手の中でも、ものすごい自己中心的な人も多いみたいですし。
しかしこれだけは言えるのは、気が強いスポーツ選手はいますが、気弱な人がスポーツで一流になることはないということです。
わがままなスポーツ選手を育てるのか、優しいけど競争心がなくて無能な人間を育てるのか。
どちらをとれと言われたら、わがままを選ぶべきではないでしょうか。
なので、わがままになるリスクはありますが、宿題をやる子供に育てるには、競争心を大いに煽って、勝ったらメチャクチャに誉めてやることです。
そうすれば寝る間も惜しんで勉強に勤しむことでしょう。

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さっき夜行観覧車を見て、「命の授業」を思い出した

夜行観覧車を見ていて、ある文章を思い出しました。

少し前に『女子高生が鶏を育てて解体して食べる 「命の授業」は残酷か?』が話題になりました。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130305-00000306-bjournal-bus_all
これを読んで感じたことを書きます。

「命の授業」は、この女子高生たちだけの問題ではなく、わたしたちの生き方にも大きく関わる問題だと思います。
特に子供を持つ親にとっては、避けては通れない問題です。

この問題の最も注目すべき点は「人として正しい道」を選ぶか、「時代という長いものに巻かれる」のどちらを採るかということです。
現代人は皆、このふたつの生き方の間で生きています。
テレビドラマを見れば、ほとんどでこのテーマがでてきます。
例えば踊る大捜査線では主人公青島は、長いものに巻かれるのが当然とする職場の中で、常に人として正しいことを追求するというドラマです。

ドラマだけではなく、現実世界でもわたしたちは時々刻々と、このふたつのどちらをとるのか決めなければなりません
というより、どちらか一方を常にとりつづけるということは通常できないので、妥協してこのふたつの生き方の間のどこかに身を置くことになります。
なのでこのふたつの生き方というのはベクトルみたいなものです。
ふたつのベクトルのどこに位置するか。

『女子高生が鶏を育てて解体して食べる 「命の授業」は残酷か?』に戻りますと、この「命の授業」は人として正しい道のベクトルになります。
わたしたちは生き物を殺してそれを食べて生きています。
しかも自分の手では殺さずに、他人にそれを任せておいしいところだけを持っていきます。
しかしこの授業では生徒に、生き物の命を食べているという真実に向き合わせようとします。

この授業には批判もあるということです。
それはたしかにあるでしょう。
生徒に自分で育てた鶏を殺させるのですから。
こんなことをしなくても人は生きていけますし、する必要がないからです。
役割分担で、鳥をしめるのは誰かがやってくれます。(これを書いている僕も鳥をしめたことはありません)
しかもいつも自分が食べる動物を自分で殺していては日常生活を送れません。
動物を殺すということは人にとって気分が良くないのは言わずもがなです。
なので人は、食物の「いのち感」を感じないようにしてきました。
まるで工場で製造される製品かのように。
こうすれば日頃罪悪感を感じずにすみます。

「命の授業」は、この人間の欺瞞に逆らって、真実と向き合わせようとします。
この構図と似たものは、社会を見渡せばどこでも見つけられます。
例えば詐欺に近い手法で顧客から利益を奪おうとしている仕事をしている人でも、罪悪感を感じながら生活のために仕事をやめるわけにはいきません。
クラスでいじめられている人がいても、自分がいじめられるのを恐れて見て見ぬふりをしたり。
夜行観覧車のように。

ただ、このように長いものに巻かれている人を批判するということも難しいです。
誰もが「正しいこと」をやり続けることはできませんから。
社会で生きていると必ず、道徳的にやりたくないこともやらざるをえません。
フィクションとは違い、正しいことを主張してばかりではほとんどの場合職場から疎まれるでしょう。
「大人になる」というのは、長いものに巻かれることを受け入れるということです。

さて、歳をとり、大人になったひとたちは正義感を押し殺して暮らすことができます。
問題になるのは、子供ができ、子育てをする時です。
子供に、していいこと悪いことを教えますが、どの範囲までを悪いことにするのかが悩みどころです
いじめをしてはいけない、というのは悪いことですが、見て見ぬふりはどうでしょうか。
たいていの人は悪いこととしますが、見て見ぬふりを禁止するのは子供にとってつらいことではないでしょうか。
いじめにたいして立ち向かうのは非常にリスクがあります。
自分がいじめられて大変な目にあうかもしれません。
それに、理不尽なことは世の中に溢れています。
これに対していちいち異議を唱えていては身が持ちません。
実際それを徹底することは不可能なので、どこかで妥協せざるをえません。
というか、親は世の中の不正に対して立ち向かっているのでしょうか。
自分は長いものに巻かれているのに、そんな難しいことを子供に押し付けるべきでしょうか。

子供を育てる、悪いことを教えるというのは、とても難しく答えのでないことです。
この「命の授業」は、親たちが考えたくない、触れたくない問題に真正面から向かってくれた授業だと思います
あまりにも非人間化が進んだ現代社会に、「本当の姿」を考えさせてくれる授業です。
ただ「残酷だ」だけで済ますわけにはいかないものがあります。
たしかに、残酷と非難する親のように、鳥をしめることを知らない方が心の負担にはなりません。
しかし、そこにある真実から目をそらしてばかりでよいものでしょうか。

そんなことを夜行観覧車を見ながら考えていました。

キュレーションをビジネスに取り入れたいと思っている人は読まなければならない本!『本の声を聴け』書評

TSUTAYA TOKYO ROPPONGIという書店を知ってますか?

この洗練された書店は、今までとは全く違うコンセプトで本を売って、今や伝説の書店と言われている店です。
このお店がなにより大事にしているのが、「本棚の編集」。
普通の本屋ですと、政治・文学とかノンフィクション・文庫本とかの分け方で本が並んでいますね。
ところがこの本屋の分類は、「恋」とか「美味しいもの」とか「冒険」とか「自然」などです。

それをやったのがこの『本の声を聴け』の主人公、幅允孝です。
このTSUTAYA TOKYO ROPPONGIに来る客が何を求めているかというと、思いがけない本との偶然の出会いだといいます。
幅はこの出会いのことを「幸福な事故」と呼んでいます。
現代はあらゆる情報に溢れていて、それを羅列するだけでは付加価値がつかない時代です。
そんな情報過多な現代では、組合せの妙で他と差がつくと幅は言います。

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彼の仕事を紹介したのがこの本です。
彼はブックディレクターという職業で、本屋だけではなく、カフェ、インテリアショップ、空港、美術館、ホテル、美容院、銀行などで本棚を作っています。
幅に依頼するのは、ブランド価値を高めたり、他企業との差別化や新しいことへのチャレンジのためにということです。

ところで本棚の編集とは何かというと、今までとは違った切り口で本棚を作ることです。
それは、単体のものと単体のものを組み合わせて、あらたな豊かな時空を作ることです。
幅の仕事はキュレーションに似ているといわれます。 
キュレーションとは、ある視点で情報を集めて分析し、それらをつなぎ合わせて一つの価値を持つものとして共有することです。
キュレーションとかキュレーターって言葉は最近よく耳にしますよね。
NAVERまとめはキュレーションを謳っておりますし、新しいサービスではGunosyなんかも注目されています。
キュレーションはこれからどんどん重要になってくると思われます。
ネットだけではなく、ビジネス全般にわたって必要になってくる概念ではないでしょうか。

なのでこの『本の声を聴け』はビジネスをする全ての人にとってとても参考になる本です
自分もすぐにでも自分のビジネスの参考にしようと思います!
あと、最近僕が始めたブログとか、ネットビジネスをするにあたっても参考になりますね。

『目的性』と『偶然性』
このふたつのキーワードは、幅の仕事の内容を知るのにもってこいの言葉です。
例えば、普通の大型書店とかアマゾンを目的性の書店とします。
客が欲しい本をピンポイントで提供するからです。
対して幅の編集した本棚を偶然性の本棚とします。
客の目的の本の周りには、幅がチョイスした様々な本が並んでいます。
そこには客が思いもしないような、ここで会わなければ一生出会わないような本と出会うことができます。
この偶然性がこれからの時代には求めれるのかもしれません。
そして偶然性のことを幅は「幸福な事故」と呼んでいます。

ここからは、この本を読んでいて、ビジネスに使えると感じたところをいくつか抜き出してみることにします。

  • 美容室にライブラリを作ると差別化できる

 美容室に来るお客というのは、非日常的な美しいものに興味があります。
 京都の美、上質な器、着物、食についての本を置くと客を豊かな気持ちにさせ、美容室の格があがるということです。
 美容室だけでなく小売店などでも、顧客が直接求めているものでなくても、その人たちの好みに合わせて情報を提供することで満足感が高まるということですね。

  • 銀行のライブラリに夢、環境、お金に関する本を置く

 銀行のサービスというのは手段であり、どこでも同じようなことをしています。
 これからは銀行も独自の価値、役割を作っていかなければ生き残れません。
 スルガ銀行では『〈夢をかたちに〉する、〈夢に日付を入れる〉お手伝い』をミッションとしています。
 それを端的に表すのが幅の作ったライブラリであり、ロビーでここの銀行はちょっと違うよねって感じることができます。

 普通の書店ですと、1Q84の周りにはだいたい村上春樹の他の作品や、村上龍の作品などがありますよね。
 幅の場合だと、1Q84の近くには、この小説に登場したプルーストの作品や、ヤナーチェクのCDを置きます。

  • 棚の分類を「恋と愛の話」「女の生き様」「男の生き様」「運動しよう」「よのなか」「家の中のもの」「アメリカという国」「旅に出よう」「身近に科学」「いろいろ考える」「歴史好き」「家族とわたし働こうかな」にする

 棚の分類をふだんと違う並べ方にすることで、棚に動きがでて面白みがでます。
 雑貨やさんとか、たくさんの商品を扱う店舗でも使えそうですね。

  • TSUTAYA TOKYO ROPPONGIの客単価は普通の本屋の4倍

 並べ方でここまで大きく客単価が違うとは驚きですね。
 是非自分のところでも導入してみたいです。

  • 重厚な棚をポップに、ポップな棚を漢字で

 意外性が大切ということです。
 どうしても統一感を出したくて重厚なものの横には重厚なものを置いてしまいますよね。

  • 高尚なものの横にべたなものを置く 

 今まで高尚だとか低俗だとかヒエラルキーがあったようなものでも、これからは等価値になっていくということです。
 これからは価値の階層という権威みたいなものでは心が動かない。その人にとってそれが面白いかどうか。快か不快か。役に立つかどうかが重要。※引用
 このへんはヴィレッジヴァンガードが得意とするところですね。

 一見無関係なマグカップの横に小説を置く。
 その小説の中にはコーヒーをマグカップで飲むシーンがたくさんでてきます。
 マグカップと小説を並べることで、小説の広い世界がそこに誕生します。
 時空が生まれ、そのマグカップは豊かになる。
 物は単体でそこにあるだけでは一つのものに過ぎない。本もまた同じだ。しかし、それを組み合わせることで、点と点がつながり、豊かな時空が生まれる。※引用


次に、これはブログを作るのに参考になるなと思ったところをいくつか載せます。
ブログにも目的性と偶然性は当てはまると思います。
目的性は、キーワードを絞ってピンポインで検索する人のためのブログ。
偶然性は、自分の意見を書いているブロガーのブログ。
なので、ここでは情報提供型のブログではなく、なにかしら自分の価値観を記事に織り交ぜるタイプのブログを書いている人に役立つであろう情報を書いてみます。

  • 自分の好きな本を持って行ってもおせっかいにしかならない。

 記事を書くのに、自分の興味のあることだけを書いて読み手のことを考えないと、なかなか読んでもらえません。
 幅は下調べをきちんとし、クライアントと徹底的に話し、顧客の架空の人物像を作り上げます。
 読まれるブログを作る際にも、この記事をどんな人が読むのか細かく想定するとうまくいきそうです。

 ブログも世に溢れていて、コピペブログや転載ばかりのブログも腐るほどあります。
 以前ならアフィリエイトをするには効率がよかったのかもしれませんが、ほとんどの人は貼り付けただけのブログにうんざりしています。
 やはり労を惜しまず、自分の言葉で書いた文章というのは人の心を打つものだと思います。
 自分の言葉で、かつ読む人のことを考えた文章というのが求められているのではないでしょうか。

 

  • 書評ブログのジャンル分けも、意外なものすると面白そう

 よくある書評のジャンル分けといえば、ノンフィクション・自己啓発など既存の分け方ですよね。
 これを幅に習って、恋とか美味しいものとか宇宙とか、日常生活に密着したジャンル分けにすると、読む側も、おや?これにはどんな本のことが書いてあるんだ?って興味 をひかれると思います。
 書評だけでなく、どんなブログを書いていたとしても、人に興味を抱かせるジャンル分けにすることで読み手をよりワクワクさせられそうです。

  • あえて意外なものの組み合わせにしてみる。

 堅いと思われているものと、低俗を思われているものの意外な共通点などを見つけて文章にしたら、とても興味深く読めます。
 例えば高尚なものと思われている政治と、ベタなモノと思われているアイドルの話題などを組み合わせる。
 あ、それってAKBがすでに大々的にやってますね。

 

 アフィリエイトは基本的にジャンルを絞ってSEOをします。
 しかし儲かるキーワードはすでに強力なライバルが存在して、自分が入る余地がなさそうです。
 ここでキーワードの連想が役立ちます。
 例えば「引っ越し」というキーワードを使いたい時、引っ越ししたらたいていネットの申し込みをするというように連想します。なので「引っ越し」「インターネット回線」をキーワードにするのです。
 

この本はブックディレクターについて書かれた本ですが、あらゆるビジネスのヒントが書かれていると思います。
読んでみることをオススメします。

モバゲーとグリーは欧米では流行らないと思う理由


モバゲーとグリーなどソーシャルゲームは非常に成功しました。
ところがここ最近は勢いに陰りがでてきたようです。
グリーやDeNA、国内での成長余地は乏しく海外に主眼・・・朝刊チェック(9/6) | インサイド
国内の売り上げの伸び悩みから海外進出を強化して、経費が増えたのが原因のようです。
海外での成功を目論む両社、はたしてうまくいくのでしょうか。
僕は、今までのやり方のまま外国(特にヨーロッパ)で成功するのはとても厳しいと思います
それはどうしてか、述べていきます。


ソーシャルゲームが流行るのと同時に、若者の○○離れと言われる現象が起きています。
車を買わなくなったり、スキーに行かなくなったり、高級ブランドに興味をなくしたりしています。
僕はソーシャルゲームの流行と若者の消費の減退には密接な関係があると思います。
密接な関係といっても、単に消費の対象が形のあるモノから、画面の向こうにしかないデータに置き換わっただけのことです。
というか、ソーシャルゲームなどの物質のないものの消費というのは、消費そのものの進化ととらえます。

そもそも消費とは何かというと、消費社会論のボードリヤール曰く

大量消費時代における「モノの価値」とは、モノそのものの使用価値、あるいは生産に利用された労働の集約度にあるのではなく、商品に付与された記号にあるとされる。例えばブランド品が高価であるのは、その商品を生産するのにコストがかかっているからでも、他の商品に比べ特別な機能が有るからでもなく、その商品そのもの持つ特別なコードによるのであり、商品としての価値は、他の商品の持つコードとの差異によって生まれるとされる。
現代の高度消費社会とは、そういった商品のもつコードの構造的な差異の体系である。ここで注意しなければいけないのは、ヴェブレンの言う「顕示的消費」と違い、単なるブランドの見せびらかしではないと言うことである。例えば高級車には高級車の、コンパクトカーにはコンパクトカーのもつ記号がそれぞれ有り、それらを自ら個性として消費するのである。

出典 wikipedia
高級ブランドのバッグを買うのも、そのモノとしての価値が高い(丈夫・使いやすい)から買うのではなく、他人との関係において、自分の立ち位置を表明するために買うわけですね。
(例えば109で買った服を着ることで、渋谷のギャルのコミュニティーに属していますよということ)
現代ではモノを買うという行為のほとんどが記号を消費しているということです。

しかし近年、若い世代を中心にモノを買わない人たちが増えてきています。
では若いひとたちは記号の消費をやめたのでしょうか。
たしかに「さとり世代」などと言われて、押し付けられる消費にうんざりしているひとたちもいるみたいです。
あと単純に生活に不必要なモノを買うお金がないひとたちが増えてもいます。
でも私は、記号の消費は相変わらず続けられていて、むしろ更に進化していると思います

では車に乗らなくなったりスキーに行かなくなったひとたちは何を消費しているかといえば、ソーシャルゲームのアイテムを消費しているのではないでしょうか。(もちろんそれだけではないがバーチャルな記号を消費するという意味では最も象徴的)
今までは一応物質として形のあるモノを記号として消費していたのですが、もはや記号を消費するだけならモノなんてなくていいじゃんという感じで。
インターネットがかなり普及してきた現代は人々がネット上で過ごす時間も長くなっています。
それにつれて記号の消費も現実のモノからネット上のアイコン・ステータスへと変わっただけということではないでしょうか。
年配の方を中心に、ソーシャルゲームで架空のアイテムに本物のお金をつぎ込むという行為に批判的な人もたくさんいます
しかし実は架空の価値に大金を払うなんていうことはもうすでにみんな普通に昔からやってきたことなんです。
ただ記号の消費がより純粋になって、邪魔な物質が省略されたに過ぎないのです。
そして記号の消費はなくなるどころかどんどん進んでいます。


それではこの話をふまえて、日本で流行っているソーシャルゲームが海外(ヨーロッパ)で流行るかどうか考えてみます。
なぜヨーロッパかというと、記号の消費が日本と違うからです。
ヨーロッパ人は、はたしてネットの中だけのアイテムに何万円も課金するのかどうか

これは例えば高級ブランドの消費の仕方を比べることで予想できそうです。
日本人が世界でも特に高級ブランドが好きなのは誰もが認めるところです。
そして高級ブランドの本質は記号ですね。
言い換えると、日本人は承認欲求を記号で武装して満たすということになります。
個人としてではなく、どこかのコミュニティーの一因として受け入れられるためにブランド品を身に着けます。
身に着けるものが良いものであるほど、その人の価値が上がります。
日本では、他人との関係性や立ち位置でその人間の値打ちが決まるからです。

それに比べてヨーロッパでは一般的に、庶民が高級ブランドで武装することは少ないということです。
日本人のブランド志向
階級(今もヨーロッパ人の意識に残っている)によって着るものは違いますが、個人の人格というものを互いに尊重している分、服装でその人の価値を決めることは少ないようです。
僕の親戚が北欧にいますが、北欧人は本当に無駄なものを消費しないということです。
モノを買う場合は、必要かつ自分がそのデザインを気に入った時です。
日本に比べるとヨーロッパは記号消費がとても少ないといえます。

そしてこれがネットの中に場所を移したとしても、現状ではヨーロッパ人はソーシャルゲームのアイテムにバンバンお金をつぎ込むとは考えにくいです。
日本人のようにアイテムで武装して、他人との関係を作り上げるとは思えません。
なので、DeNAとグリーは欧米、特にヨーロッパではソーシャルゲームの形を変えた方がいいと思います。
今現在、両社は世界に進出しはじめていますが、まだ受け入れられるまでは至っていないようです。
記号消費が盛んなアメリカでも苦戦しているみたいです。
「ソシャゲ」の未来 グリーとDeNA、海外進出に明暗

さて、これによりわかった北米市場の傾向は、まず予想した通り「課金カードバトルは流行らない」ということです。「進撃のバハムート」は当たりましたが、失速具合を考えると、やはり「課金カードバトル」は北米市場の志向から、はずれてると結論できるでしょう。

しかしこの論理で言えば、中国、韓国などアジア諸国ならばはソーシャルゲーム課金も成功するのではないかと思えます。
日本以外のアジア諸国でも、高級ブランド志向は強く、良い記号を手に入れるために大金を使っているからです。
消費者の記号の消費の仕方が似ているのでほぼそのままのやりかたで日本と同じ結果を得られると思います。

各国の消費の仕方を調べて比べてみるのもなかなか楽しそうですね。
お国柄がまた違った角度でみられそうです。

こうしてソーシャルゲームの海外展開について書いてきましたが、僕が一番言いたかったのは、架空のアイテムを本物のお金で売買することは異常なことではないということだったみたいです。
書いていてそこの部分に一番力が入っていました。
ソーシャルゲームの批判をする人たちにとても違和感を感じていたからです。
自分たちは正常だと思い込んでいるけれど、実は同じなんだよと。
そこが一番ひっかかってました。

それでは今日はこんなところで。

エジプトの気球事故のJTBの会見を見て思ったこと。謝罪会見の違和感。

エジプトで痛ましい事故が起きてしまいました。
旅行会社のJTBが会見で謝罪をしていました。
気球は危険を伴うレジャーなので、なぜJTBはこんな危ないことを客にさせるんだ!との意見もありますが、気球は一般的に行われているツアーですし、JTBとしてもわざと客を危険にさらそうとしたわけではありません。


話は変わりますが、それにしても、企業や組織が不祥事を起こすと、謝罪会見をやりますが、何となく違和感を感じる時があります。
全員で頭を深く下げて、まるで被害者のような顔つきで、時には泣きながらごめんなさいするあれです。土下座することもありますね。
不祥事が起きたら、原因と賠償責任と改善策を整然と提示する必要があると思います。
しかしよくある謝罪会見だと、細かいことはわからないけど、とりあえずすいませんでした!って感情に訴えてきますよね。
テレビの視聴者の側もそれを求めているのですかね。
不祥事を起こしたのに頭を下げないと、なんだあいつは!誠意がない!って怒り出すのでしょうか。
謝っている姿を見たい人たちは、具体的な改善策はどうでもよくて、誠心誠意頭を下げているのを見られれば満足なのでしょう。

でも頭を下げれば謝罪が済むという風潮があるとすると、頭を下げる側からすれば楽な話ですよね。
とりあえず頭を深く下げて、申し訳なさそうな顔して、できればうそ泣きでもすれば、それで丸く収まるわけですから。
何を聞かれても、すいませんでした!って言ってその場をやり過ごせれば、のど元過ぎれば熱さ忘れるですから。

感情の面ばかりが強調されて肝心なところがはっきりとしない日本の会見は、僕は変な感じがします。

あさイチの自殺対策特集を見て、夫婦のコミュニケーションを考えた

今朝のあさイチの自殺対策特集はとても勉強になりました。
日本はとても自殺率が高く、自殺は誰の身近にも潜む危険だということです。
特に女性の自殺率は世界で第3位みたいです。
正直自殺は男性のイメージが強いので、そんなにたくさんの女性も自殺しているのかと驚きでした。

番組では、男性の自殺と女性の自殺、ふたつ別々にわけてケースを紹介していました。
やはり男性と女性では自殺に至る過程は違うということです。

男性の場合、自殺に至るまでの期間は約4年です。
仕事がうまくいかないなどの理由で、悩み始めてから早くに亡くなってしまうようです。
女性の場合、周りの人たちとの人間関係に長い年月悩み続けて、死に至るということです。約8年です。

この番組を見ていて、日本における夫婦関係のありかたが、自殺を増やす要因のひとつになっているのではないかと感じました。

自殺した男性のケース
仕事が忙しくなり、元気がなくなります。
奥さんとの会話も少なくなります。
更に忙しくなり、寝ている間にも仕事の電話をするようになります。
奥さんはそれがたまらなく嫌になり、ケンカをするように。
どんどん夫婦間で会話がなくなり、奥さんが思い切って話をしようと切り出したその日、旦那さんは自殺したということです。

これを見ていて、「男と女の違い」が夫婦にすれ違いを生み、この悲劇が起こってしまったと感じました。
男と女は考え方・感じ方に違いがあり、それが様々な問題を起こすのは周知の事実だと思います。(もちろん全ての男女にあてはまるわけではありません)
一般的に男性はあまり自分のことを話したがりません。
http://www.men-joy.jp/archives/34597
こういうサイトなどにも書いてありますが、大事なことほど男は自分の中に隠しておこうとします。
なので、仕事の面でうまくいかなくなればなるほど無口になると思います。
そして女性は一般的にコミュニケーションをとらないとストレスがたまります。
何も話してくれない旦那さんに不満をもつようになるのではないでしょうか。

更にこの男性の仕事が忙しくなると、家にいても仕事ばかりになります。
多くの女性は、旦那さんが仕事ばかりに夢中になって、家庭や自分を顧みないのをとても嫌がります。
仕事と私どちらが大事なの的に。
なのでこのケースの奥さんも、旦那さんの仕事の電話に対して怒るようになります。
本当は支えてもらうべき奥さんからも責められるようになります。
家の外でも中からも責められ、居場所がなくなった男性は遂に自ら命を絶ちます。
これはまさに男女の違いが悪い方に転がった典型的な例だと思います。
どちらもはじめは相手を思いやっていたのに、少し歯車がかみ合わなかったためにどんどんお互いの溝が深くなっていきました。

もう少しお互いの性差について思いやればいい方向にいったかもしれません。
ではどうすればいいか。
例えば、男は仕事などのトラブルがあっても、一旦自分の中だけに留めて奥さんに話したがりません。
奥さんとすれば、いろんなことを旦那さんと共有したいから、仕事のことを話してほしいはずです。
なので男は自分の中で一人で考えたい欲求を我慢して、奥さんに話すようにしたほうがいいと思います。
先ほどの例で、旦那さんの仕事の電話に対して奥さんが怒りましたが、初めから旦那さんが仕事について色々コミュニケーションをとっていれば防げたのかもしれません。
では奥さんはどうすればいいかというと、男性はなかなか悩みを話したがらないということをわかってあげてはどうでしょうか。
http://www.men-joy.jp/archives/34597
こちらにもある通り、男性は安心感があればきっとそのうち奥さんに話すはずです。
それを焦って、責める態度をとると、ますます男性は奥さんと話す意欲がなくなっていきます
焦らずに優しく支えていて欲しいと思います。


女性の自殺のケースはどうか
女性は周囲との人間関係で鬱になることが多いみたいです。
長い間悩み続けるということです。悩んでから自殺まで約8年です。
番組ではこの女性と旦那さんがとの関係は触れませんでしたが、よくあるパターンが読み取れます。
女性はきょう一日にあった出来事などを逐一旦那さんに報告したいものです。
そうやって小さな悩みなどを共有していきたいと思っています。
ところが男は小さなことでいちいち話をすることを嫌う人が多いです。
旦那さんが話したがらないと、奥さんは話すことが嫌になり、少しの悩みもひとりで抱え込んでしまいます。
小さな悩みも積もり積もると大きなストレスになります。
だから、女性のうつ病を少しでも防ぐためには、旦那さんが普段から積極的に奥さんと話をして、愚痴を聞くのが欠かせないと思います。


あさイチを見ていて、自殺問題に共通しているのが、コミュニケーション不足だと思いました。
上の例の自殺した女性は、親にも悩みを相談しなかったということです。
親に心配かけたくなかったと。
しかしその親御さんはインタビューで、なんで自分は助けてあげられなかったのだろうと自分を責めていました。
結果的に自殺した女性は親に多大なダメージを与えてしまったのです。
親に悩みを話して、その時に少しの迷惑をかけるだけで、悲劇は防げたかもしれません。

本当に、悩みを人に話してみるっていうのがとても大事だと思いました。
ゲストの室井佑月は、人は悩むと選択肢が見えなくなって、ひとつのことしか考えられなくなると言いました。
でもそれを人に話すだけで、こうしたらいいんじゃない?とか、別の方法が見えてくると。
一人の人間が考えられることなんてたかがしれています。
自分だけで考えた解決策など大したことがないのです。
絶対に悩みは人と共有したほうがいいなと思います。
スタジオに来ていた専門家も、悩みが深くなったら、専門機関に相談するのが一番だと言っていました。
病院や治自体が一緒に対策を考えてくれるところもあるみたいですから。
ただ、そういった組織が充実していない場所もあるということですので、やはり身近な人にまずは相談することが大切ですね。
番組に送られてきたFAXでも、悩みは家族だからこそ話さないという意見がありました。
悩みを人に話すというのは簡単そうで簡単ではないのですね。
日本における家族のコミュニケーションはどうなっているのか、とか考えてしまいます。
あさイチは考えさせられる特集が多いです。