【完】

わたしは間も分からずどたどた愚鈍な足音をたててやってくるだろう仲居に、
ナイフを見られないよう新聞紙でぐちゃぐちゃと包んで男の鞄に入れた。
紙が音をたてているのに男はぴくりともしない。
定期的な寝息が聞こえてきて、なんだかわたしは無性に苛立った。
最後の優しさなのか、血迷ったのか、毛布をかけてやる。


改めて見下ろす。
名誉も地位も家族もあるこの男がわたしの毒によって狂った。
そう言えば聞こえもいいが、わたしたちはお互いを利用し合っただけだ。
この男は崇拝を求め、わたしは暇つぶしをした。
それだけのことだった。
焼けた火箸でわたしを殺したいなどという愛情表現。
正直、わたしはいつもほくそ笑んでいたよ。
莫迦は死んでも治らないと言うのは本当だと。
「愛情」など、状況の中で生まれた幻でしかないと。


平常心。そうだった。いつもわたしは平常心だった。
今も鼻唄でも出そうな気分で白粉をはたいている。
昨晩の情事を悟られないよう、まあるく濃くほお紅をいれた。
血色のよくなったわたしは、なんでもなかったようにできる準備ができた。
障子を開けて男の煙草を一本吸う。
冷静に、縄やその他のものは片付けなくてよいのだろうかなどと考えつつ、
その実片付ける気などはさらさらなく。
愚鈍な仲居達の噂の種になればいいと薄く笑いがこみ上げてくる。
フィルターのない煙草が指をじりじりと焼きそうになって、はっとする。
…わたしもまだ酔っているのか。
この年月に。


白いマフラーは首筋からの傷で汚れてしまうかもしれないと、
それだけがすごく気がかりだった。
だが、仲居達に変な詮索をされないためにもぎゅっとマフラーをまいて、
わたしは鞄を持って立ち上がる。
部屋の戸を閉める瞬間、哀れな目がこっちを見ているような気がしてぞっとしたが、
そのまま足早に宿を後にし、早すぎる時間の電車へすべりこむように、
逃げ込むように乗った途端に安心した。
わたしは元来、通信手段を持たない。
わたしと会うには「待ち合わせ」をするしかない。
職もはらい、部屋を引き上げてしまえば…
それこそ夢のように消える、薄情な女だ。
男は目が覚めただろうか。
突きつけられた現実に呆然としているのだろうか。


それがわたしの優しさなんだよ。


阿呆な男には一生わからないだろうが、
姿を消すことがわたしの唯一の優しさだ。
男はひとつひとつ、現実を構築していくだろう。
そしていつか毒蛾に刺された跡はきれいに消える。
記憶なんてあやふやなものを男は大事にとっておくのだろう。
そのうち記憶は鮮やかに焼き直しされ、いつしか男の自信になる。
女であるわたしはそのことを知っている。
男の気持ちが行方と冷静を失った時こそ、去り時なのだと。
女は本能でそれを察知しなければいけない。
特に毒針を持った女は、その瞬間去らなければいけない。
「日常」に戯れ事を持ち込んだとたん、関係は崩壊する。
本能でそれを察知した女たちは羽を持ったようにいなくなるのだ。


さっきの煙草が自分の人差し指をじりじりと焼いて行くのに気づかなかったので、
わたしの指はすこし火傷をした。
男は火箸を体内に入れて焼き殺したいと言っていた。
何万分の一かは達成できたじゃないか。
現にわたしの指はひりひりと熱い。
フィルターのない男の煙草はわたしの人差し指にねっとりと跡をのこした。
最後に白いマフラーを汚した傷だって、この時間の証拠だ。
鋭利な刃でつけられた傷はすぐに治るだろう。傷跡がすっぱりときれいに切れていた。
人差し指の火傷も生活にまぎれていつのまにか治ってるのだろう。
白いマフラーはすぐに洗おう。
そうして、わたしたちは別れてゆく。


気がかりは、朝お化粧をしていたときに白粉の箱に入っていたケサランパサランがいなくなっていた事。
毒蛾にうんざりして、男の体にでも付着して行くのだろうか。
彼にとっての幸せはわたしをいたぶることではない。
それ以前に彼には責任と共に生活していく。
責任でぎゅうぎゅうになった彼のどこにケサランパサランは入り込むのだろう。
そしてわたしは、新しいハイヒールの違和感に心を奪われ始めていた。
かかとが少し痛む。
家に着くまでに新しい靴を買おうか。
想像以上に傷だらけになっているわたしの足には、素足でハイヒールを履くには少し痛々しい。


それでも、まあいいか。
そう思った途端に夜の香りを隠しきれないわたしの顔が朝日に照らされた。
目を細めるとまるで笑っているような顔になった。
これがわたしの罪だったのだろうね。と思って足の痛みは我慢することにした。
今日という日が明日にのっぺりと重なるまでは、痛みで男のことを思ってやろう。
人差し指の火傷が治るまでは思ってやろう。
ナイフで切った首筋の傷が治るまでは思ってやろう。
白いマフラーがきれいになるまでは思ってやろう。
それが日常に溶けてなくなる頃にはまた、わたしの羽も復活しているはず。


わたしは艶と微笑む毒蛾。
鱗粉をまき散らし、次の戯れに心を馳せる。
ただの、毒蛾。

【七】

戻れない事などは、この男が一番知っているのだろう。
「つっ」
と小さな舌打ちがわたしの口をついて出た時にはもう、
もう、男は泣きじゃくり肩を畳に落として動くのもままならない様だった。
いつのまにか障子は白み、朝が戯れ事を払拭する時間。


わたしの目はわたしを愛して現実を見失ってもいい、
などと安っぽい事を言う男を上から見下ろし。
心底、侮蔑の笑みを浮かべていた。
終わりだ。
わたしの体は、男の言うところの「愛情」でめちゃくちゃになっており、
体のあちこちが痛む。
まだ縄が解かれていない部分は、青くなりマネキンのようになっていた。
しかし、男の乱暴な行為のひとつひとつによって縄はふわりと肩から落ちた。
まだ嗚咽をもらす男を横目に、わたしは丁寧に縄を解く。
酒をかけられて、麻ひものようによじれていた髪の毛をほぐそうと…
よろよろと部屋についている風呂に浸かった。


さあ、遊びの時間はもう終わりだ。


風呂から上がり、すっかり生気を取り戻したわたしは、
嗚咽したまま眠った男に唾を吐きかけた。


この男は。
この男は現実が辛いのだ。
わたしに崇拝を求めた。
自分が優位に立っている気分であったろうが、
自分の置かれている状況から、わたしを崇めにやってくる教徒のようだった。
わたしをいたぶり、優越感を味わっている時に「愛」を口にし、
ありえない夢に浸っていた。
なんていうのだっけね。
不倫、とでもいうのか。
わたしたちの関係は。
さあ、遊びの時間はもう終わりだ。
わたしは前しか向けない、艶と微笑む毒蛾。
毒蛾の針にやられたのかねえ。


わたしはすっかり玩具にされた。
背負うものの重さに耐えきれずに玩具を探してる男の思うように振る舞った。
それは、ただ時間の浪費でさえなく。
睡眠の間の短い夢のようなもので、
それでこの男の家族がどうなろうとわたしにはせんないこと。


けれども少しはわたしにも愛情があったのだろうか。
男が何をしようと思ったのか、持っていたナイフであごから胸にかけて縦にすーと、
自分で刃を立てた。
血は薄くにじんで、浴衣を汚した。
もう充分だろう?

【六】

そう、「愛」なんていう言葉で計れるものなら何でも許せる事になってしまう。
わたしはそんなに莫迦ではない。
莫迦ではないが「愛」の正体も知っている。
枯渇した彼のはらからや、緩んだ目元が可哀想でしようがない。
それを彼が言うところの「愛」で包んであげることもできる。


だってわたしには制約がないんだもの!!


わたしは莫迦ではないし、あなたはただの阿呆。
さっきからわたしの髪の毛をつかんでは畳にこすりつけ、
屹立したものでわたしを責め立てるように性交を求めつづける愛人。
性交に「愛」があるんだとしたら、これがあなたの「愛」?
そう思った途端に、愛人の男の乱暴な行為と改めて湧いて出た笑いが、
止まらずわたしの喉から「ぎゃあ」という声になって出て行く。
愛人の男は、わたしが受け入れてると勘違いしてるかのように…
わたしへの罵倒と愛を表す言葉で抱きしめながら狂って行く。
そうよ。
そうやって戻れない道を選べばいい。


言ったはず、わたしに制約はないと。
彼は、愛人は、現実社会の中で制約だらけになり、
その中でよりにもよってわたしを選びとり、
選びとり。
最初は玩具のように弄んでいたのにねえ。
はらからに潜り、潜り、もぐっているうちに彼は「現実」が怖くなったんだろう。
ははは。
もう戻れないところまで来てもなお、性交によって何かを追い立てる男。
ははは。
縄を掴み、わたしをごろごろと転がしては泣きながら腹を噛んでいる男。


どうせ、戻れないのに!


…ここは旅館のくせに仲居の挨拶が雑だった。
露天風呂に蠅が浮いていた。
ああ、文句がたくさんある。
一番の不満は「愛」を語りだした、この愛人。男。
くだらない。
殺したいなら殺せばいい。
とんだ茶番だ。


どうせ戻れないのに!

【伍】

そうしてしばらく男は呆然とした後、
「愛」
だなどという言葉を引っ張り出してきた。
…わたしの前に愛を並べてくれたところで、
ケサランパサランを見た時ほどには及ばない。


「ひどいひどい」
と泣き漏らす。


うぐいすが啼く。
啼く。
わたしの感覚はますます澄んできてまるで生まれたてのように冴えている。
酩酊の時間は終わったのか。

【四】

時計というものがどこかにあるんだろうねえ…とにやにやしながらわたしは回りを見回す。
なんていうことかしら、この散らかった部屋には時計がないの?
あるのはただ、丸い皿のようなものに文字が刻まれた羅針盤のみ。
それで時間を計ろうなんてどうかしているじゃないの。


わたしは時間が知りたいの。


今が夜だとか。今が丑の刻だとか。
そんなことは愚にもつかない。
これからわたしが玩具としてすいつくされるまでの時間が知りたい。
暴力という行為を愛情の行き着く先と勘違いした私の愛人が。
わたしを冷たくなった肉塊としてごろりと転がすまでの時間。
もしくはこの男が現実の軋轢に耐えきれなくなって泣き出す時間。
どちらも、真実。


それが少なからず現実となるのではないだろうかという懸念など、
この男を愛人として間口を開いた時からわかっていたことなの。
ええ、強がりではなくて。
だって、そうでしょう。
相手は現実から、生活から、責任から、ただ逃げてきた子供のままの下らない愛人を、
慈愛と置き換えた実のところ憐れみの優越感を抱いた時から分かっていたよ。


そうねえ。なんでと聞かれると…
きっとつまらないから、それだけの理由なの。
男の愛情を信じて身を委ねる素振りをするわたしと墜ちていく愛人。
そんな女の汚泥を飲み込めるわけもなく、わたしの愛人は思慮深くともとれるような苦悩の表情で、
焼けたわたしの臀部を指でなぞり、一時の恍惚を味わい尽くそうとしている。
どうだろう、この間抜けな顔!
わたしを物のように扱うことで自分の専属部品だと思おうとでもしているかのような、この表情!
ますます笑いが止まらないわたし。
ずれていく猿ぐつわ。
腹がよじれる程の高笑いを、じっと濡れた目で見る男。


わたしは時間が知りたいと言ったでしょう。
この茶番が終わって、わたしがまたひらりと羽ばたくまでの時間を。
私の愛人が雨に濡れた浮浪者の靴のように取りかえしのつかないところまで墜ちていく時間を。

【参】

夢現などという俗っぽい言葉。

そのような何にでも言い換えられそうに酩酊と快楽の中で喘ぎを嗚咽を響かせるわたし達。

可哀想に、彼は泣いている。組めど尽きせぬ欲望とわたしへの愛で泣いている。

彼が捨てられないもの。捨ててはいけないもの。

彼が守るべきもの。守らなければいけない現実の人間達の事。

そんな重々しい現実とわたしへの愛と欲望。

泣くがいいよ。泣くくらいなら考えるよりも気持ちがいい。



彼は捨てられないものの中で夢の尻尾をつかもうとしてわたしを手に入れようとしている。

知らない間に幼稚な雄の夢の破片を拾い集めているうちに帰り道がわからなくなった幼い彼の心は、

わたしの胎内にぬるぬると飲み込まれて行くように、欲望の全てを受け止めてくれるわたしを求めている。

それが虚構であれど雄のただのくだらない、ひどい逃避だとしても。

わたしにはただのかわいいかわいい、先から涙を流した屹立を晒しているただの雄だ。

彼の守るべきものなど私が気にしなければいけない必要がどこにあるかとわたしは思う。

どこかで誰かの妻やおややが寂しい思いをしていたとしても、

それがわたしの胎内の粘着する想いと何の関係もない。



「だって、それはあなたが選んだのでしょう?」



わたしはそういっていつでも艶然と微笑んでいられる。

「生活」の枠から男が桃色の光る玉を求めて一歩踏み出した時。

それから地獄は始まるのだ。

社会や生活や責任やおややの成長から離れて、湖の底の汚泥のような毒蛾の粘膜に包まれてしまった男。

それは葛藤と快楽と愛憎のはじまり。



ねえ、いつかあなたが言った事。

焼け付いた火箸を私の体に差し込んで、殺してしまうのが最後の夢だよと。

わたしは忘れていない。

でも今日は最後の日ではないのね?
そんな勇気も持てないくせに独占欲だけを愛情と勘違いしているんだものね。

その焼け焦げた火箸を持って、免罪を請うような涙を流すあなたはとても可愛らしい。

彼が持つ火箸が私の晒された臀部へ、じうじうと音をたてて近付いてくるのが分かった。

ああ…わたしの細胞が焼ける音。

垢や皮膚や毛細血管が焦げていって壊死する香り。

悲鳴なのか、わたしは咽がやぶけそうなほどの大きな声を出して、

相対する震え失禁するほどの快楽を吸い取っているわたし。

焼けた臀部に何を残すつもりなの?

まさか…わたし達の愛憎の証拠?

そう思った途端、わたしは込み上げてくる笑い…高笑いにも似た愚弄の笑いが腹の底からとまらなくなった。

拷問と愛の行為を履き違えて泣きながら折檻している男の哀れ。

高笑いをする私を「狂っている」と泣きながら殴打する男。



わたし達が戻る場所は朝ではないのだろうか

【弐】

「ああ!」やっと合点がいった。

そうかそうか…わたしは身動きが取れないまま男の素手で叩かれているの。

また、しょうこりもなくこの状況がおかしくてたまらず思わずけらけらと声をたてて、

ああ実際には口に咬まされている布のせいで声は出ていないのだろうけども…ともかくわたしはおかしくなって笑っている。

男がくすくすといつまでも笑い続けるわたしに腹を立てたのか、体に鈍痛が走る。

この男はおかしいのだろうか?

酒の酩酊でけらけらと笑う女を許さないばかりか、折檻してくるなんて。

そんなことをされてもすぐには酔いは醒めない。そんなこともわからないのだろうか。

そうそう!確かあの時もわたしは酔っぱらってしまったの!

ねえ、聞いて。あの時の事だってわたしはちゃんと覚えている。

金沢へ旅行に行った時。

あれはおかしかったわね。わたしは紅葉を愛でると言い張って外出したのに、することと言えば地酒を探す事ばかり。

あなたはうんざりして顔が赤く照っているわたしを旅館まで連れて帰ったの。

…あの時だったかしら?月見酒をしたのは。

いや、そうではないはずね。わたしは酔いつぶれてしまってそのまま寝たのだもの。

浴衣の帯がはずれてしまったものだからね、あなたが私の手首に巻いたのよ。

そうだわ。ずっと聞こうと思っていたの。あれはどういう遊びなの。

子供の時のような人質ごっこなら私は何も楽しくはない。

身動きのとれない私に何をしたって、酔いつぶれているんだもの。覚えていないし。

もしかして、あなたは昼間から酔いつぶれて滅茶苦茶になった旅行の仕返しをするためにわたしをしばったの?

そうなの?

それなら納得がいくわね。だって、わたしが悪かったのだものね。
あなたは現実が見たくないだけだもの。

ぐちゃぐちゃと音がする。

…ああ、どうしてわたしってこうそそっかしいのか。口に布を咬まされているってさっき思い出したのに!

じゃあ、今まで話した旅行の思い出もあなたは理解してなかったの?

「くだらない。意味のない時間だ」とわたしは酩酊が冷めてゆくのをかんじた。

そうした後、彼は泣きながらわたしの尻をなで始める。

だんだん分かってきた。わたしは身動きのとれない中、素肌を晒されて男の素手でばしばしと叩かれた。そしてその個所は皮膚の感覚がなくなりむしろ痺れがむず痒さにかわり。

そして麻酔を打ったように肥大した感覚のまま。

下腹部が肥大したようにこれまでに味わった事のない感覚は、そういえばいつもの太ももの内側をそわそわと撫でられて体の芯を熱が貫いた時と似ている。

酔っぱらっているせいであるのだろう。これは何かに似ている。

泣きながら叩き、拘束され叩かれる私たちの様子はまるで性交に似ている。


そうして、わたしは酩酊が潮が引くように冷めて行くのを感じる。