CSD

Facebook

遅ればせながらFacebookに登録をした。
でも、みんな顔出ししてるわりに言いたいことは言えてないみたい?
会社をはじめオフィシャルな場の延長としてしか使ってないような。
とりあえず知り合いにリクエストかけてるものの、そーすると現職絡みが増えそうで身の振り方に困る!ある程度までいったら、Facebook自体使わなくなるのかな。
…いっそ通り越して、仕事で使うのかなー。
明日は木曜!今週もあと2日。

菊地成孔とぺぺ・トルメント・アスカラール

菊地成孔の演奏を聴きに行く機会が増えて、最近とみに好きです。
ひとつまえのシュタゲのエントリで、好きなものを分かち合える相手がいないのがつらいと書いたけれど、菊地成孔に関してはそういう共有できる相手がいるので、演奏を聴くのが倍楽しい。2月に新宿であった「同一の呪法による二つの儀式〜菊地成孔菊地成孔によるダブルコンサート〜」という凄いネーミングの2デイズのコンサート、当初はDCPRGに期待を寄せて出かけたものの、蓋を開けてみたらペペ・トルメント・アスカラールの演奏に思いっきりノックダウン。つい先日もエリザベス・テイラー追悼公演コンサートということでブルーノート東京まで足を運び、来月も同じ場所で行われる2デイズライブへ行くという投資ぶり…。
ぺぺ・トルメント・アスカラールについて、彼自身が日記で書いた紹介テキストが非常ににしっくりきて好き。
『現在ではなく、過去と未来の音楽であり、厳密には、過去と未来の、夜の音楽です。心に傷の無い方、獣肉を召し上がらない方には効用がないという報告があります。』
付け加えるなら、聴いていると妙にアルコールを欲してしまうのでライブ後は高確率で会場近くのビストロだかイタリアンだかで渋めの赤ワインとかを飲みたくなる、とても余韻が長い音楽で、つまり金のかかる音楽です。気分良く酔う一方で独身ダメ女がハマるいくつかあるルートのひとつなんだろーなとか思いつつ、友人と不毛な会話をするのが最近のパターン。

最近面白かったゲーム

4月5日からアニメでも放映される、STEINS;GATEhttp://steinsgate.jp/)というゲームが恐ろしく面白かったので久々に日記を書くことにしました。
最初の発売から既に1年半くらい経っているので内容なんかはもう語りつくされていると思いますが、あえて言いたいです。本当に最高に面白い。こんなにハマったのいつぶりかわからないくらい。一人聖地巡礼もした。ドラマCDも買った(何回号泣させるつもりなの…!)。ゲーム形式としてはADVになるようです。何がすごいって中盤からラストにかけての畳み掛けるようなハンパない伏線回収。そしてエンディング…。
わざわざ日記を再開してまでここに書いているのは、現実世界のほうに同士がひとりもおらず、熱く猛る気持ちを吐き出す先がないからです。面白いからみんなもやりなよ!、って言えない。そりゃそうです、大半の30歳(女)はコンピューターゲームなんてまずやりません。下手に薦めようものなら「ゲームなんかやってないで現実見なよ?(あんたやばいよ?)」って思われて(決して口に出されはしない)こちらが可哀相な女になるだけ…。こちらとしては感動した映画を薦めるのと同じ感覚でも、一般的な受け取られ方は違うってことくらいはわかるので、えーととりあえず、日記書いてます。
6月にはPSP版も出るのでエックスボックス持ってないしPCでゲームとかやんないしwでもモンハンはやってまーす、みたいな人でも楽しめます。
今回ホントに思ったのだけど、これくらいの年齢になってまわりにゲームやアニメの話ができる相手がいない時になにかにはまっちゃった場合、おたく特有の語りまくりたい衝動をどうしたらいいのかわからなくてつらいですね。完全に生きるのに余計なエネルギー…。

やっとなんとなく涼しくなってきた。待ち望んでいた秋であるはずなのに、季節が変わった瞬間気分がずるずると落ちてきている。生理前って訳でもないのにここ1年くらいこういう極端な気分の変化があって、それに自分自身がついて行けない。中二病のようだけど、仕事も暮らしもすべてどうにでもなってしまえみたいな投げやりな気持ちになることがある。
今年に入って転職のような物理的な環境の変化もあったのだけど、なんとなく、気持ちの方面でも変わってきた部分がある。特にここ数週間、書くことが少々躊躇われるけども「癒し」をもとめるようになってきていて、わかりやすいところではアロマを始めたり、近所の神社に行ってお参りしたり(しかもわざと雨降りのときに行ったりする)、ものの本を読んでおもむろに部屋の掃除を始めたりしている。これだけならまあ言ったら普通に誰でもファッション的にやったりすることだとは思うのだけど、恐ろしいなと思うのは、こういった行為をしたとき、本当に癒される感じが自分の中にあること。宗教にハマるとこうなるのかな、みたいな。たぶん単にアラサーOLレベルが上がっただけなのかもしれないけれど。
別で割と自分の中で大きな変化としては身につけるものに昔ほど執着がなくなったこともある。ちょっと前まではドコドコの何が絶対欲しい、とか思っていたけど、ようやく身の程を知ったというかそんないいもの着ても大して似合わないし、私の好きなテイストで固めたらモテない系の女になるしでトータルとしていいことないよなーと思ってこだわらなくなった。服にお金をかけず執着を持たなくなったら不思議と気持ちが落ち着いて、いつのまにか服は少なからず私にとって負担になっていたことがわかった時は驚いた。服は綺麗でない自分を少しでも良く見せようとするための手段であったんだけど、いくらいい服を着ても綺麗になれない時が幾度もあって、それがストレスとして蓄積してたんだと思う。当然ながら素の自分に自信がなければ何を着たって綺麗と思えるはずがない。着飾って綺麗にしておくのは無駄ではないけど、なんだか今はその場のシーンに合わせてそつがない服を身につけるだけで充分かな、それ以上をしても自分にとって逆にストレスになる、などと思うようになった。
こうやってストレスから開放されるための方法に一生懸命になっているわけだけど、これはひっくり返すとここ最近(いきなりといっていいほど最近だ)多大なストレスを感じていることに他ならない。ほぼ毎週末友人たちとお酒を飲んでそれで多少は解消しているものの、私にはそれ以外でストレスを発散する方法がない。そもそもの性格的なものだとは思うけれど、とにかくなんでも我慢してしまう性格で、それがいけないんだろう。他人とコミュニケートすることは好きなほうではあるが、そういう場で常に我慢をしてしまっている。誰もが多少はそうだとは思うけれど、しかしそれにしたって多分私は(人からしばしば指摘されるほど)常にかなり気を遣い場の空気を読んで発言するので、面白い場を作ることはできるし実際自分も楽しんでいるんだけど、自分自身を開放できては全くない。いや、まあそういう自分が自分自身のひとつでもあるのは確かなのだけど…みんな好きだし場を楽しくしたいのに楽しくすることにストレスを覚える自分が嫌い=それこそがストレス、みたいなことなのかもしれない。
今のこの歳で少女時代を振り返るのも馬鹿らしい気がするが、確かに私は物心ついたときから相手の顔色を見て話をする子どもだった。一人っ子で周囲に大人しかいなかったせいもある。喜怒哀楽の激しい母に愛情と同時に嫌悪感を抱き幼い頃から反面教師として認識していたことも多分大いに影響している(怒りの感情をヒステリックに表現する彼女を迷惑な女・醜い女だと感じていた)。だからなのか、それともそもそも生まれ持った性格がそうなのか、私は他人と自分の距離を常にはかり、お互いはあくまで他人同士であるということを認識しうる距離を保つ癖がある。場が望んでいるキャラクターにはすぐになれるし、情には篤いほうなので、人間関係が希薄というわけではない。大好きな人達はたくさんいる。ただ、"自分を重い・めんどくさい女だと思われたくない"という気持ちが恐ろしくあって、他人と距離を取るのも求められたキャラクターを演じるのもそれゆえの行動。実際は暗くて深い谷底みたいな心を持ってる自分を知られて嫌われて離れていってほしくない。
なんだか書いててどんどん暗いところに落ちてきたけれど、いま私は先に書いてきたようなこれまでの自分でいることに違和感を感じているというか、ある意味虚勢を張って生きている自分に綻びが出てきたような気がして、戸惑っている。これまでと同じように振舞っているにもかかわらず、それがなぜだかどんどん雪だるまみたいにストレスになっていき、1週間とか短い時間で自分のリミットから溢れてしまうような感覚。おそらく…認識したくなくて目を逸らしていること、このままでは一生誰とも深く繋がれないという恐怖がすごい早さで肥大化している。多分今、そのへんの誰よりも私は誰かに私を理解して欲しいと思っていて、でも誰にも言うことができないだろう自分の性質がすごく苦しい。

csd2010-05-11

一度読んだ本を読み返したくなることがたまにある。なにかしら鮮明に記憶に残るところがあった本なのだと思う。私は恥ずかしいくらいおセンチなので、それが詩集だったりするときもあって、恥ずかしいなーと思いながらもしかし涙を流して読んでしまったりする。この間夢に菊地成孔が出てきて私にいい感じに優しく接してくれたのをきっかけに、いつか人から借りて読んだ「スペインの宇宙食」という本を猛烈に読みたくなってしまった。あの本のどこかでひどく涙したのを思い出したのだった。今ちまちまと読み進めていてまだその決定的なシーンまで行っていないのだけど(読み終わるのが勿体無いという思いから、夜、仕事帰りの電車の中でだけ読むことにしている)、もうその手前で新たな衝撃と出会ってしまった。以前読んだ時にはすてきな話ねえ、くらいだったはずの文章が、今は強烈に自分に重ねることができてしまっている。前回から今回の間に体験した出来事の影響なのは明白で、思い当たりそうなことを思い出して心の中で苦笑いした。
ここ最近はずっと成長も達観もできずにただ経験を増やしているだけみたいな日々を送っている。新しい環境で新しい人間関係で新しい知人たちにたくさん刺激を受けて、知識は増殖すれどもまったく自分に応用はできておらず、むしろ自分自身は退化してすらいるんじゃないかと思ったりするほどだ。少なくとも数年前から結局何も変わっていなくて、私はずっと自分がどうしていきたいのか見えないまま。反して周りはどんどん大人になっていっているような置いてけぼり感(この発想が現に私の子どもっぽさを物語っている)。自分の欠点を改善することもできなければ認めて開き直ることも相変わらず出来ていない。みたいなことを放っておくとずうっとぐるぐる考えて止まらなくてしんどい。


写真でも絵でも本でも強く共感するものが結局女性がつくったものだったりするとき、ガッカリする。女特有のめんどくさい感情を強く持ち合わせているわけで、そういう自分の部分が好きじゃないから納得したくない。

深海魚がたくさん漂着する事象が地味に気になっている。
天変地異の前触れだとかそういうワイワイしたい感じでなく、なんかマジで起こってんだろーなと思う。怖い。深海魚の見た目がグロいから怖いだけかもしれないけど。

会社で18時半を過ぎたあたりから疲れた顔するねと言われる。昨日なんかは悲しい顔してると言われた。そんなに顔に出ちゃってるんだとしたら客商売なのにマズいなーと思う。水商売なんて絶対やれないね、こんなんじゃ。

悲しい顔してるって言葉はなんだか心に残ってて気になっている。
もし仮に疲れの表現としてでなく本当に悲しそうな顔に見えたんだとしたら、私はどんな顔をしてたんだろうと思うし、相手の人は何を見たんだろうとか思ってしまう。
なんだか複雑な表現に感じた。