松井茂作詞「Le Tombeau de Olga Brodsky」(作曲:松平頼暁)

 2/17日、松井茂さん作詞の合唱曲「Le Tombeau de Olga Brodsky」(作曲:松平頼暁)の初演に行ってきました。

 合唱曲を多く指揮されてきた田中信昭さんの朝日現代音楽賞受賞記念講演(現代の音楽展2008「大衆性は必要か!?」【合唱】)でした。

 会場の東京文化会館小ホールはステージと客席が近く(イスの位置が低いのが良かったです)、また天井に当てられた照明も心地よくすぐに馴染めるすばらしい雰囲気でした。
 今回のコンサートの主役である田中さんを私は知らなかったのですが、合唱にかける情熱とどこかしらただよってくるユーモアの雰囲気にすぐに引き込まれてしまいました。3曲の合唱曲を終えコンサートの前半が終了し、小休憩。初めて現代音楽の合唱曲を聞いた感じでは、現代音楽の合唱曲における作詞者というのは言うなれば作品のプランナーみたいなものなのだと思いました。良い意味で作品全体を支配し、悪い意味で作品全体を支配できないのではないかと。

 小休憩の後、いよいよ松井茂作詞の松平頼暁:Le Tombeau de Olga Brodsky(初演)。
 指揮者の田中さんの前に女性二人男性二人が並び、その後ろに10人ほどのメンバーが並びます。演奏をするのは「新しい合唱団」という合唱団で、統一した衣装はなく「普通なのだがどこかしらとてつもなく奇妙な雰囲気」と言ったものだけをメンバー誰もが持ち合わせている合唱団だと感じました。

 一番初めに歌い出したのは、ステージ上の人ではなく、上手側のステージの下に立つ男性と、下手側のステージの下に立つ女性で、この二人が「オルガブロウスキーの墓」の数列部分を読み始めました。唐突に(感じられる)数が読み上げられるとホールは奇妙な雰囲気に瞬時に引き込まれました。
 
 ステージ中央の4人は「オルガブロウスキーの墓」の言葉の部分に当るパートを受け持ち、それぞれが別々のパートを持っているようでした。最初に「さくしまついしげる」「さっきょくまつだいらよりあき」とかろうじて聞き取れたほかはほとんど意味を聞きとることはできませんでした。

 その間もステージ下の男女は数列を読み上げています。
 ステージの奥の人たちは「オルガブロウスキーの墓」の図形部分を受け持ち、図形を旋律に見立てたような高低する声を響かせます。
 そのうちに客席の中段の上手と下手に配置されたもう一組の男女が数列を読み上げていきます。
 混沌とし幾重にも重なる声の中、一定のリズムを刻む田中信昭さんが振る右手が印象的でした。
 ステージ中央の4人は代わる代わるまた時に同時にことばを歌い、背後の声の旋律が重なり、その間もステージ下からは数列が唱えられます。
 そのうちに、指揮者の田中さんが松井さんの短歌を示す「一、二、三」を左手で示し、その間も右手は一定のリズムを刻み、ステージ下では数列が唱えられ、声が行く層にも響いていました。
 やがて指揮棒を振る田中さんがくるっと半回転し、客席を向き、客席に向かって指揮棒を振るのかと思った瞬間、頭を下げ、演奏は終了しました。

 演奏中にまっさきに浮かんだのは「夾雑物」という言葉で、「いろいろなものが混ざっている」と感じました。松井さんの詩に、作曲者の意図が入り、指揮者がいて、演奏者がいて、松井さんのコントロールを離れているな、と感じました。
 とにかくいろいろなことがいっぺんに起こり混沌とした「音」がそこにありました。合唱と言う芸術の本質的なおもしろさはそういった「混沌」にあるのではないかと思いながら、松井さんの立場はここではあくまで「プランナー」なんだな、と思いました。

 すぐに浮かんだのは「方法マシン」のことで、「方法マシンとは違う」ということを強く思いました。方法マシンは、演者に解釈を許さず、あくまでも機械として松井茂さんの「詩」を現出するという意味で、そこには詩人としての松井さんが維持されているように思います。

 もちろんどちらが良い悪いではなく、両方おもしろいのですが、小休憩に手に入れた松井茂さんの新詩集「Camouflage」(1)(2)(3)を拝見しながら、私にとって松井さんの大きな魅力の一つは単純さ、純粋さからくる、強烈さ、過激さ、なんだということを考えました。

「ここに書いてあることは何だ?なんだこの強烈さは?誰かこの、この詩人の何だか分からない叫びに応えなくちゃいけないんじゃないか?すげーものが『投げられてきたぞ』、これは獲って返してあげなくちゃ」
です。そしてそれは私が考えたいことを言ってくれているようにもいつも思います。

 それからいつもの松井さんのステートメントが作曲者の松平さんに訳されていて、バリアントとして楽しめたのは思わぬ喜びでした。
「私は2001年1月7日以来、詩を書くことを止めたことがないので詩人である。(松平訳)」

朝日新聞の広告

昨日か,今日,初めて見たのだと思う.
一番初めに見たのは,地震で破壊された道路の写真
の上にコピーが重ねられている.
写真は色々なバージョンがあるようだけれど(象牙を焼く,消防隊員,etc),
コピーの方は僕が見た範囲では一種類だ..
いわゆる「悲惨な状況」の写真の上に重ねられる言葉はこうだ.


   言葉は
   感情的で,
   残酷で,
   ときに無力だ.

   それでも
   私たちは信じている,
   言葉のチカラを.


ふむ.
結論から言うと,胸くその悪い言葉!
気分が悪いです.二重三重にむかついてます.
という,全てが直感から導きだされた.
そして,こういう直感は決まって正しい.

この不快感の正体は何か?
は後から考えればいい.

というわけで,要再考.


一つ.もっと言葉はデリケートに使わなければ,
二重三重に罠に陥ってしまうよ.と思う.
(これは完全に表象批評宣言を参考だな)
つまり,この広告を書いたコピーライターと
これを選んだ朝日新聞は言葉をデリケートに扱っていないと思う.
ま,それが言葉の一般的な使い方,あるいは一般的な言葉への意識なのだと思う.

はっきりと僕は文学愛好者だ.
文学は究極的には庶民の側につく,という論も多くあって
僕の敬愛する文学愛好者達もそう言うのだが,
それは願いではあっても事実ではない.
文学は庶民と芸術との間の,徹底的に芸術の側につく.
そして,だからこそ庶民の力にも副次的になりうるだろう.



二つ
新聞は言葉の力ではなく,事実の力を信じるべきだ.
派手な言葉(感情的,残酷,無力,それでも,私たちは,信じている,言葉,チカラ)を
並べ立ててどうする.


三つ
結局,言葉のチカラなんて信じてやいないのだ.
いないのに,写真の力借りてかっこつけてるのだ.
質が悪い

再び,要再考.

*[映画]マン・オン・ザ・ムーン

監督:ミロシュ・フォアマン
脚本:スコット・アレキサンダー/ラリー・カラズウスキー
撮影監督:アナスタス・ミチョス

観て良かったと思う.おもしろかったし.
シナリオが一番良く,次にジム・キャリーが良い.

アメリカだな,アメリカ.
こんなものばかりをずっと楽しんできたアメリカにはぞっとする.

もっと本質的に上質なものもある.
その中でこそ「マン・オン・ザ・ムーン」は輝くだろう.

観ていて気持のよいオーソドックス感はあった.