サイト移転

長いこと放置したままになってしまいましたが、研究室サイトを作ったのを機に、正式にこのブログを移転したいと思います。ゼミのブログなどと隣接しているので、多少キャラが変わっている可能性もありますが、もしよかったらのぞいてやってください。

http://araya.kir.jp/

です。よろしくどうぞ。

いまさらホリエモン

最近の一連の民主党の騒ぎには、底の浅さに嫌になってしまいますが、それはおいておいて、今日は、いまさらホリエモン、です。

例の「金で買えないものはない」という発言ですけれど、特捜に人事を刷新してまで包囲網をはらせた(「額に汗して働くひとの努力を無意味にしない」)考え方の射程を、考えたいと思います。

貨幣が貨幣として交換価値を持ち、他のあらゆる価値を特権的に表象するものとして位置づけられるというホリエモンの考え方については、もちろん、経済至上主義あるいは市場原理主義につながるものとして、「人間」に対するある種の偏った見方である、というように位置づけるのが、特捜の「労働価値説」によって巻き返しをはかられた今になっては、普通のことかもしれません。が、しかし、そうした通俗的ヒューマニズムの枠組みをはずしてみれば、彼がいっていることは、あながち、といか、真に今の社会の現実を表していると思われます。

というのも、人々の生活基盤が、テーラー主義、ないし、テーラー・フォード主義にすでにすっかりと取り込まれてしまった今日において、「価値」とは、個人の内部における「熟練」から生み出されるものではなく(それはどこまでも「私的」なものに切り詰められる)、一元的な貨幣の流れの中での配分によって決定されるものになっているからです。彼の「虚業」は、現実における生産を欠いていたからといって、なんらリアリティを持たないものではなく、むしろ、貨幣の流れに棹さしていたことにおいて、彼はリアルな「価値」を生み出す地点に厳然と身をおいていたというべきです。そこにおいては、すべての価値は、資本主義のシステムに繰り入れられている限りにおいて、原理的に貨幣によって表象されるべきものであり、その外部など最初から存在しないのはこれ以上明白なことはない事実であるわけですね。

それゆえ、彼の発言から考えるべき問題とは、こうした「貨幣一神教」のシステムの中で、あるいは最近の小泉義之氏の論考の言葉を借りれば、この閉じられた世界の中で、いかにしてあらためて「価値」を「価値づける」ことが可能か、ということになるでしょう。あるいは、デリダ的に、純粋な贈与はいかにして可能かといってもよいかもしれません。
レギュラシオン派のアグリエッタがいうように(一時期の流行は見る影もないですけれど、それでもなお考えるべき問題だと思われます)、「所有とは存在の換喩」であり、「交換」とは、とりわけ集権化によって統一的なシステムが約束されていない状況においては、「私的な領域」と、その全き「他者」との間の、価値づけの闘争であると考えてみることにします。そうした、いわば、経済学における現象学的還元のような操作を施してみるとき、そこでの「交換」とは、常に「私」に止まる「同」が、一瞬の間「他」に開かれ、自らのうちに差異を含みつつ、また「同」へと回帰することと考えることができるでしょう。そこでは、語の本来の意味での「エコノミー」が生起しています。つまり、「私=家(オイコス)」が、他との関係を持ちつつ、自らを維持するというわけです。もちろん、未だ交換の外部において価値を価値づける貨幣は、そこではいまだ機能しておらず、「交換」は、むしろ、「同」と「他」の間の絶対的な非対称の中で、つまりは、交換の両極における絶対的な非対称の中で、「同」を養い、「同」の存在を基礎づけるような作業であるといえるでしょう。「同」としての「私」を「交換」へと誘うのは「他」への渇望であり、「交換」によって達成されるのは、「同」がなお「同」でありつつ「他」との間に関係を取り結ぶことだというわけですね。

つまり、「同」が「同」であるために、「他」とのエコノミー的な関係が本質的に必要とされるというわけですが、問題は、資本主義的な生産様式において、あるいはもう少し分節化してその中でもフォーディズム以後台頭しつつある新たな調整様式において(物凄く軽い意味で、仮にホリエモニズムとでも呼びましょうか)、そうした「同」と「他」の関係性が、一元的に価値づけられる現状にあるというべきでしょう。そこでは、「比類なき(はずの)私」が「他」と関係するのは、共にリベラルな基準を守るという、外的な価値尺度による他はなく、「多様性」と「尊厳」をおもちゃとして与えられた、未熟で底の浅い「私」が、互いを監視しつつ、望ましからざる「他」との関係を築き合うだけの社会しか成立しないことになってしまいます。その中で、「比類なき私」が、他の「バカども」をさしおいてやるべきことといえば、いかにして「自分」が社会を管理する側へまわるかということであり、そうして「自由・平等」な社会に、優越とそれに基づく経済的配分を獲得するかということになります。そうした「比類なき私」たちの「エリート」志向に基づいて、一元化した価値基準が巧妙に管理・維持され、それによってもたらされる果実には決して与ることのない人々においてさえ、システムの維持が志向されることになるわけですね。そうした構造の中で、いかにして価値を価値づけていくことができるのか。語の本来の意味での「エコノミー」を考える必要がそこにはあると思われます。

そういったわけで(?、というか少なくても僕の中の問題意識としては)、今年の「哲学/倫理学セミナー」では、「思考のエコノミー」と題したワークショップをやろうかという話になりました(昨日)。うまくいけば一昨年のように、10月ごろ、都内某所でやることになると思いますので、お暇な方は是非いらしてください。提題者も募集中です。

存在証明=懐旧

かなり間が空いてしまいました。

怒濤のような後期の授業も終わり、やっと一息というところですが、一応ここらで存在証明しておかないと自然消滅してしまいそうです(すでにそうなっているともいえる)。

あまりにもご無沙汰なので、我ながら意味のわからないブログの配色ともども、すでに懐かしいという感じの方が強いですが、存在とは望郷であるというヒトもいることだし(意味が違うが。というか、そもそも望郷と懐旧は違う感覚ですか)、潜在空間の主体をもう一度立ち上げてみたいと思います。

といいますか、早い話、活動の宣伝です。

倫理学会での「リベラリズム批判」は、それなりに反応してもらえてうれしかったのですが、今回はその続きというか、もう少し中身のある話にするとともに、単なる批判としてではなく、ドゥルーズ=ガタリ解釈の文脈でポジティブな意味をもつような展開ができればと思っております。

お暇な方はどうぞ。


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      第三十回 哲学/倫理学セミナーのご案内

 思考のラディカリテートを、単に表面的なアクチュアリテートの
 みを追い求めることなく、その歴史の〈深さ〉に探り当てていこう、
 そのような趣旨で立ち上がりました「哲学/倫理学セミナー」も、
 下記の通り、第三十目を開催する運びとなりました。引き続き、
 東京大学倫理学科の熊野純彦先生をお迎えして、皆様と議論を深め
 ていきたいと思っております。ご参加をお待ちしております。


            記 

 第三十回例会 平成18年1月28日(土)
               於 東京文化会館 中会議室2
          (http://www.t-bunka.jp/around/around.htm
                    14時から16時50分まで 

     発表「潜在する〈剰余〉
――ドゥルーズ=ガタリにおける「経済学批判」の可能性」
                        荒谷 大輔

      コードがコードとして機能するとき、「相応」なものが「相応」
     なものとして位置づけられ、一定の秩序が生まれる。そうして構築
     される一定の秩序に対して、それを幾何学的に「等価」と形容する
     ことができるかもしれない。そして〈剰余〉とは、さしあたり、そ
     のようなコードの幾何学的等価に還元し得ず、その限りおいてコー
     ドの体系に対して常に潜在的でありつづけるものを指し示すことに
     なる。マルクスの「交換」における剰余の問題を引き継ぎながらド
     ゥルーズ=ガタリが主題としたのは、まずはそうしたコードの剰余
     価値についてであった。本稿は、マルクスが『経済学批判要綱』で
     展開した「資本主義に先行する社会態」についての議論を踏まえな
     がら、ドゥルーズ=ガタリにおける「経済学批判」の契機を探る試
     みとなる。

     参考文献
      『アンチ・オイディプス』(河出書房新社
      『千のプラトー』(河出書房新社

                         以上

   なお、お手数ではございますが、会場の手配の都合がありますので、
   第三十研究会に出席いただける場合には、
   ご一報(pe-seminar@mail.goo.ne.jp)いただければ幸いです。


■(予告)■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 第三十一回例会 平成18年3月25日(土)
                   場所 未定
                 14時から16時50分まで

     発表「皮膚の論理―レヴィナスの場合(仮)」
                       横地 徳広

     参考文献
     『存在の彼方へ』(講談社学術文庫

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哲学/倫理学セミナー
           (http://pe-seminar.hp.infoseek.co.jp/

リベラリズムの身体

前に話題にしていたように、次回の倫理学会で、このブログで争点になったところを発表しようとしていたのですが、無事評議会を通りました。なので、10月の8日か9日に、岡山大に行って発表してきます。江戸のかたきを長崎で、と思われる向きもあるでしょうけれど、内容も内容なのでとりあえずのところはよかったと思ってます。そのときの反応や編者のご意向によるところも大きいですが、その論文を単行本での論文集に載せてもらおうという計画も同時にあるので、もし興味をもってくれるひとがいれば、そちらの方で確認できるかとも思います。

というわけで、一応、学会の「大会発表報告集」なるものに掲載する文面をコピペしておきます。

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リベラリズムの身体――方法論的個人主義批判にむけて

今日、様々な領域で、積極的に「倫理」を語ることが試みられている。ロールズにはじまり、センへと受け継がれる規範倫理学の流れも、その試みのひとつであるといえよう。とりわけ、グローバル化する経済の中で、市場原理における財の配分が著しい不均衡を生み、厚生経済学など経済学内部での是正の試みが、必ずしも十分に功を奏していない情況においては、いかにして社会に「公正としての正義」をもたらすかが重要な問題となる。しかし、「価値」が諸個人のうちに多様化し、「よしあし」を一元的に規定しえない現代において、いかにして「正義」を語ることができるのか。そこに、「倫理」を語る上での「方法」の問題が生じることになる。

 塩野谷が指摘するように、規範倫理学が「正義」を語る際に用いる「アプローチ」は、新古典派経済学に典型的みられるような「道具主義」的なものとみることができる[塩野谷2002,pp.77f.]。ロールズが提示した「原理」もまた、渡辺幹雄の詳細な跡づけに見られるように、いわゆる「道徳人類学」批判や「仕立て」の疑惑との折衝を経て、とりわけ『政治的リベラリズム』における「公正な多元主義」の主張以降、「政治的なものであって、形而上学的なものではない」といわれるようになる。正義の「原理」といわれるものも、すべての人間に自然的に備わっているようなものであるよりもむしろ、そのように規定することによって、多元的な価値の中に共通の社会性を構築しようとする、ひとつの「方法」であるといわれることになるのである。あるいはまた、近年の「リベラリズム」の再評価の機運もまた、例えば北田が描き出す「仮想人類学的」な「社会契約説」に見られるように、個々人に内属する合理性を積極的に述べ立てるものであるよりもむしろ、「契約」によって仮想的に打ち立てられるリベラルな社会システム自体に、「道具」的な意味を見ようとするものだったといえよう[cf.北田]。価値の多様化した社会において、何らかの普遍化可能な規範を打ち立てようとする試みは、こうした方法論的なアプローチをとることになるのである。

 何らかの超越的な根拠を打ち立て「人間」なら誰にも当てはまって当然の「倫理」を述べ立てることが、端的な暴力でしかありえないことが周知された現代において、「倫理」を語ることが、まずは「方法」の問題として提起されるということは、まずは留意しなければならない事柄である。しかしながら、そうした「方法」が、やはりひとつの「方法」である以上、常に批判的に検討されるべきものであることも、同時に認識しなければならない。単にひとびとの間で道具的に「取り決め」られたものであったとしても、それがひとたび「原理」として社会的に規定されるや否や各人を実的に規定するものとなりうる。あるひとつの「方法」を採用することによって、他のありうべき存在の次元との対話が「打ち切られる」[cf.北田,159]とするならば、そのような政治的な力を帯びた「方法」は、民主主義の名を借りた「暴力」として、批判されなければならない。本発表は、そのような問題意識に基づいて、今日の規範倫理学が用いる「方法」を批判的に検討することを目指す試みとなる。とりわけ、規範倫理学においてしばしば問われることのないまま前提とされていた個人主義的な基盤を、「個体の生成」を論じるドゥルーズ=ガタリの論理を用いて、問い直していきたい。

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字数が限られているから書けませんでしたけど、もちろん、ここでの「個」の批判は、「共同体主義」といわれる人々の話とは全然違いますからね。

よろしくどうぞ。

劇場のイドラ

総選挙は、なんか「小泉勝利」っぽい雰囲気です。ネットとネオリベっていうのは相性がよいのか、マスコミの方が割と政治の劇場性を指摘しているのに対して、ネットの住人は、しっかりとリサーチしてませんけど、割合単純に「改革」の方を志向している様子。田原総一郎なんかは、解散直後、「今回の解散は国民にとってわかりにくい。同じく改革を志向しているはずの民主党が郵政反対を示しているから、小泉が示す改革の焦点もぼけるのでは」とかなんとか言っていたが、蓋をあけてみたら、小泉の提示する図式が最も「わかりやすく」て、それまで関心を引いていなかった郵政が議論の中心になり、民主党の方が霞んでしまう始末。マスコミもマスコミで、自分がそうした図式の形成に荷担したことを反省するべきだが、「亀井、綿貫、自己矛盾、小泉あっぱれ、わかりやすい」などと囃したてるネットの住人は恥を知れ。第一、昨今の「わかりやすさ」が争点になる選挙なんて馬鹿らしいにもほどがある。二項対立を示して世界を単純化しないと選択の基準がわからないなんて、そのように思考するように仕向けられているとしても、情けないといわなければならない。問題は、個々人の「プライベートな領域」が、個人主義の名の下に、他に対して「無関心」となり(それを「洗練された無関心」と呼ぶのは勝手だが、その弊害は大きい)、政治を自らの生活とは関係のないエンターテイメントの領域に押しやっていることだ。誰も、自分の一票が自分の生活を変えるなんて思っておらず、何か面白いことをやってくれたひとに投げ銭として一票をくれてやる気にならなければ、わざわざ日曜の昼日中、近所で半日潰すことの意味がわかんない、ということだろう。だから、政治は「わかりやすくなければならない」。だが、そんなことで、テレビでも見ているように、巷の出来事を眺めているような連中は、今後の政治が動いていく方向に対して責任がとれるのか。今回、小泉が勝てば、実際、旧来の自民党型の調整の政治は終わり、限りなく直接民主制に近い、「メディアの政治」がはじまることだろう。限りなく「お笑い」に近い政治が、茶の間から直接堪能できるようになる。だが、そうしたテレビの向こうの出来事が、足下の自らの生活を知らず知らずの間に変えていくということに、どれだけの人が自覚的だろうか。楽しむだけ楽しんだ後、テレビを消す(あるいはネットから離れる)と、狭く寂しい空間しか残されない、なんて未来がこなければいいですね。

劇場のイドラ

総選挙は、なんか「小泉勝利」っぽい雰囲気です。ネットとネオリベっていうのは相性がよいのか、マスコミの方が割と政治の劇場性を指摘しているのに対して、ネットの住人は、しっかりとリサーチしてませんけど、割合単純に「改革」の方を志向している様子。田原総一郎なんかは、解散直後、「今回の解散は国民にとってわかりにくい。同じく改革を志向しているはずの民主党が郵政反対を示しているから、小泉が示す改革の焦点もぼけるのでは」とかなんとか言っていたが、蓋をあけてみたら、小泉の提示する図式が最も「わかりやすく」て、それまで関心を引いていなかった郵政が議論の中心になり、民主党の方が霞んでしまう始末。マスコミもマスコミで、自分がそうした図式の形成に荷担したことを反省するべきだが、「亀井、綿貫、自己矛盾、小泉あっぱれ、わかりやすい」などと囃したてるネットの住人は恥を知れ。第一、昨今の「わかりやすさ」が争点になる選挙なんて馬鹿らしいにもほどがある。二項対立を示して世界を単純化しないと選択の基準がわからないなんて、そのように思考するように仕向けられているとしても、情けないといわなければならない。問題は、個々人の「プライベートな領域」が、個人主義の名の下に、他に対して「無関心」となり(それを「洗練された無関心」と呼ぶのは勝手だが、その弊害は大きい)、政治を自らの生活とは関係のないエンターテイメントの領域に押しやっていることだ。誰も、自分の一票が自分の生活を変えるなんて思っておらず、何か面白いことをやってくれたひとに投げ銭として一票をくれてやる気にならなければ、わざわざ日曜の昼日中、近所で半日潰すことの意味がわかんない、ということだろう。だから、政治は「わかりやすくなければならない」。だが、そんなことで、テレビでも見ているように、巷の出来事を眺めているような連中は、今後の政治が動いていく方向に対して責任がとれるのか。今回、小泉が勝てば、実際、旧来の自民党型の調整の政治は終わり、限りなく直接民主制に近い、「メディアの政治」がはじまることだろう。限りなく「お笑い」に近い政治が、茶の間から直接堪能できるようになる。だが、そうしたテレビの向こうの出来事が、足下の自らの生活を知らず知らずの間に変えていくということに、どれだけの人が自覚的だろうか。楽しむだけ楽しんだ後、テレビを消す(あるいはネットから離れる)と、狭く寂しい空間しか残されない、なんて未来がこなければいいですね。