提案し実現する姿勢と努力

2009年,3月26日,2年間の孤軍奮闘!?ぶりが幕を閉じた.

大学院で遣り残したこと.または,その後悔を噛み締めながら(例えば様々な分野の人との交流,関わりあい,人脈構築,論文執筆&発表)卒業の日はやってくる.一人で観察・評論・批判をするだけでなく試行錯誤しながら,他者との全力で真面目(まっしょうめんから向き合う)な関わりあい,態度,努力が少々欠けていたように思う.

でも,前向きに,反省材料として,大学院の2年間の経験を活かしたい.
未知のものも怖がらず一歩前へ進むこと,行動を続けること,結果を残すこと,この3つを確実に守って頑張りたい.
一人で頑張り過ぎることは,良いことでないことも学んだ.思い込みを解除し,柔軟な姿勢・考え方が大切であることが分かった.

まずは計画をたてて,着実に一歩づつ全力でやっていきたい.

まずは,友人の良いところを真似ることから始めよう.

・細やかな配慮・工夫を欠かさない.
・相手が望むことを叶えてあげられるように自分を磨く
・自己管理術(甘えない,頑張りすぎない,楽しむ,思いやる)
・責任転嫁しない
・お金を稼ぐ
・取り越し苦労をしない
・時流に流されず,時流を作り出せるようにする
・与えられる人になる

着実にやっていこう!

社会に迎合するな。自らから社会システムの変革の声を叫べ!

社会が要求していることに人々は飼いならされていると感じている。
社会全体で景気が良いと喧伝されれば、就職戦線に乗り出したり、さして興味のない業界に就職したり、研究したり、子供作ったり、流行のものに手を出したり。

ほんとに動物みたく、ピンピン反応しやがる大衆どもはどうかと思う。
周りがそんなんだから、我も我もと、建前だけのコミュニケーションによって一時の安らぎを得ようと思うバカも多い。

そんなに、創られたニーズに迎合すんなよ。
バカなコンサルやマーケターやメディア・広告が作った、つまんねー仕事に迎合すんなよ。
それが、そんなに楽しいとも、すごいとも思わないくせに、ちょっとは素直になれよ。
もっと、自分の価値をきっちりと表明してもいいじゃないか。

べつに誰からも愛される必要なんてないだろ。
小粒みたいな愛を集積して、それが自分が求める愛だとしたら、なんて陳腐なんだ。
それよりも、自分から愛を創るほうがよっぽど大変だが、面白くないのか。

確かにコストかかるし、今の時代では割食うのは間違いないが、それが連鎖して、皆が良い価値だと思い始めれば、明らかに社会は変わり、僕にとってはだが、面白くなるのに、そうもいかないか。

どこかにシワはよっている。
誰かは不幸に感じていて、一方は幸福の絶頂だったり、それはどうしようもない事実であり、それでも、生きていかねばならない。
そして、それを当然のものとして受容しているのだ。
その想像可能性だけが問題。
青臭い正議論はいらないが、そういったささいな配慮が社会のダイナミズムを大きくかえるのではないかと僕は信じている。

コミットメントすることにコミットメント

僕にとって、ある特定の事に関わり続ける事は容易ではない。
今までにある対象だけにひたすら関わってきた事があっただろうか。

例えば、人や社会関係や、あるいは想定した対象に、である。

人であれば一定期間であれば、いるかもしれない。
両親や兄弟すら、今までずっと一緒にはいるものの、積極的にお互いの行為に関わることは無かった様な気がする。

社会の運動や組織に積極的に変革するだとか、何か付加価値を与えるという活動という意味での関わりも少ない。

せいぜい部活や、大学の研究室、またはアルバイトの職場などであろう。

思えば、言い方は悪く聞こえるが、ある人からみたら逃げているように見える。
実際、何か自分は何かから逃げているな、とは思ってしまっている。
責任を負うことや、何か面倒なことに巻き込まれることも嫌であったし、それほど強い興味も魅かれなかった。
しかし、あえて選択していたら、それはそれで違った自分になっていたのかもしれないのだが。

どうあれ、反実仮想では何とでも言える。もし・・・してたら、こうなっていたのに。
もし・・・なら、こうだったろうに。なんて、ヒマさえありゃ、結構思いつくし、若干のリグレットを感じることもある。

そこには、自分にとっては不要だと思う規範意識や、環境による影響、そして、何あれ事実からは目を背けていたのかもしれない。
そこからは、結構自分のある種のナルシスチックな妄想や想像に取り付かれるようになったような気もする。
概念をこねくり回したり、ある対象に没入したり、何かに耽って気を紛らわしたり。
実は本当に知りたかったことは、それではないことに気が付きつつも、ある種の悪い強化学習的効果か、自己イメージを変えて、別の行為の方向性へと動機付けることには、今でも失敗しつづけている。

原因は帰属処理し、ある理論で導かれた理由に納得したり、家庭環境や、他者の振る舞い、そして社会そのもののせいにしていた部分も、たぶんあるのだろう。

それを知りたくて、精神世界や社会学の理論でガス抜きしている部分はあるし、今でもそうなのかもしれない。
それは、感覚としては選択というよりも、取り付かれたように選択されているようにも感じる。
自分が見たくないものには蓋をし、自分が見たいように見る。
そんな態度は次第に、他者を遠ざける結果となっていた。
まあ、自覚的にやっていたことであるし、結構諦念でもあった。
そして、今もどうにかしようとは思っているが、どうにも出来ない自分もいる。

環境を変えても、自分の意思が変わらない限りは、たぶんこれからもずっとそういう生き方を選ぶのだろう。
それはそれで別に悪いことではない、それで誰かに迷惑をかけることがあれば、治すべきだとは思うが、それなりに生活できるならば、それはそれで一つの特権なのかもしれない。

けれど、自分自身では納得いかない部分もある。
ありのままの自分があるかは分からないが、ある部分ではもっと現実的に自分が出来ることを社会や他者に問いたい。
そしてその反応に対し、真摯に答えたいとも思う。
その批判に耐えられないうちは、まだまだだなぁと思う。

グループディスカッション

グループディスカッションは難しい。
特に前提を共有していないメンバー同士では尚更である。

場を切り盛りする役割は、最初のほんの数分で決まる。
そこで自分が演じたい役割をきちんと表明出来なければだめなのである。

僕はリーダーシップをとることは苦手だ。
議論の受け手でいることが多く、批判的姿勢が普段から染み付いているからだろうか?

まあ、それはそれでよいが、場で、思っていても考えていても発言できなかったりする。
まあ、何も考えずに議論するよりはよいが、場がどんどん前に進んでしまう場合が多く、そのときはただひたすら受けてに回るしかなくなる。

いや、そんなこともないか。
そこで場のタイミングを読み、議論修正をする能力が求められる。
僕の場合は、まず場数が少ないし、友人と議論する機会も限られているので、経験値が少ない。

やっていくうちに自分のなかで、議論しながらフィードバックすることが出来るようになると信じるが、何しろ、本番で力を発揮できねばどうしようもない。

「あなたはこうおっしゃいましたけど、暗黙に前提としていることがありますよね。」
「その提案は分かりますが、こういった条件の場合、こちらの提案のほうが実現性や妥当性がありませんか?」

こういった感じで的確に誘導できればよかったのだが。
上手くいかず。
勢いも大事だし、自信をもって発言できるかも重要。
そのためには度胸が必要。
そして普段から高速で思考する癖も。

一人だと、ついついゆっくり考えてしまうもので、やれやれ。

もうちっと実践を踏まねば。
しかし、メンバーのやつら、曖昧なこと最初に言いすぎっ(笑)
もうちっと仮定と目的についてじっくり話してからにしよーよ!!!

あまりに大きな、あまりに小さな、その顛末は?

久しぶりにウェブログに帰還。
現実と妄想の狭間にという、冷静と情熱の間にではないが、こうやって、思ったことを書くというのも確かに悪くない。こういうのは日本的なものなのか、欧米人もこういった日本的なブログの乱立って起こっているのか知らないが、どうにも前提やオリジンを追求するモチベーションが沸かないのは何故かなと考えてはみるが、答えは出ない。
つまり、目的自体が、こういった行為なのだから、それが何故かと考える土台には成り得ないのかな、と考える。

コミュニケーションが目的、あるいは感情のガス抜きが目的であって、コミュニケーションによって何か別の目的を達成させるという内発的なものではない。
前者をする機能を担う機会があまりないせいか、規範のダブルスタンダードの成せるわざなのか、本音を現実世界で言う機会があまりない。昔は一人部屋でひっそりと日記を書き綴ることであったり、一人部屋の中でギターを弾いたりがそれにあたっていたのだろうか。
今は、インターネットの不特定多数にそれを開示することの価値が大きくなり、それが大半を占めた。
それが信頼や絆の構築に役立つのかは確かではないが、不安や疑心暗鬼を紛らす、あるいは対症療法的にまぎらす道具にはなっているかもしれない。
それはそれで「日本的」な現象なのか。

個人的には、この環境はあまり好きではない。
自己言及してみても、なんでこんなくだらない文章かいて、インターネットの空間で吐露しているんだろうという自意識に駆られる。
別に、いいたいなら言えばいいだけだし、特になにがあるわけでもなく。
ただ、みなそういった気持ちに駆られないのかな、と不思議に思うし、なんだかなぁと感じているんですね。

SNSにしても、各島宇宙的な研究室にしても、大学や企業、その他の共同体にしても、そういった感覚を生じてしまうのですね。

歴史をさかのぼっても、その各集合内が共有する価値観や規範の分布や伝播は問題になったわけで、ある対象を弾いたり、排除し、選別したりしている訳です。人々が異なる人種、価値、規範、道徳、宗教を構築してしまっている事実がある以上仕方ないだろう。
そして、自分自身もそれ以外の集団を排除したいという表れでもある。
これはアンビバレントな感情であるし、論理的にも、それに合意しろとは言えない。
それは、それぞれ各人が選択することに過ぎないし、誰しも、それに確かな理由や根拠などなく、端的な意思によって成されていることに、せいぜい気がつくだけだ。

何がいいたいか、つまり、そう感じて、思ってしまう自分が何ら根拠や理由なく、ある価値観へのコミットメントが足りないということ。それを前提にして、なお他者と共生していこうとひたすら表現すること。
可能であれ、不可能であれ、そんなことは問題でなく、それの信念をいかに自分自身のなかで緻密に構築できるか、だけである。
結局のところ、自分で自分を認めてやるしかないし、その前提を自ら創り出そうとし、さらに前提をさかのぼれるまでさかのぼり、徹底的に原理的に追求するしかない。

それもまた排除の対象になるだろうが、しかたない。
社会は、それでも象徴的に回転しているのだから。

リアルとリアリティ

なつはすぎ、あきがきたのだ
そこにあったきせつは身をひそめ
かわりにそっと涼しげにいすわる

それは、すこしづつ僕らをつつみこんで
ふかくふかくはいりこみ そしてかたりつづける

ぼくらはいつからここにいたのだろうか
しらないあいだにちがうところにいってしまった

おなじようにくりかえされる けれどちがったように時はながれる
はぐれて おちあい また はぐれて おちあう
けれど いつのまにか きみはいなくなる

そして きみはきせつになったんだ

一時の想い

一時の想い・・・限定された時間、空間における。
あの時の苦い苦しみや、悩み、それは「考えぬ」ことによることだったと気が付くのはいつごろだったろうか?

苦しさ、苦悩とは何だろうか?
広がりすぎず、限定せず、一歩前提を置いて考えればよかったじゃん、と。
自分には何を欲するのか?それはなぜなのか?それだけが満たされれば良いのか?たくさん欲するものがあって、その優先順位が分からないからなのか、じゃあ、なぜ優先順位をつけられないのか?自分の価値軸が定まっていないから、じゃあ、なんで価値軸を定められないのか、そもそも価値軸とは何か?価値とは何か・・・続いていく。

実際、底が抜けるっちゃあ抜ける。どこまででも掘れるかもしんないし、掘れないかもしれない、繋がるかもしんない。もしかしたら、もう帰れない所まで行くかもしれない。

しかし、もともと帰る場所なんてあったか?
帰る場所って何だ?どこに帰るの?そして、そこに帰るべきなの?帰ればホメオスタシスが満たされるとか、それで満足出来るかどうか。

帰る場所なんて恣意的だ。そう思えれば、自分が「ここが帰る場所」だと思えれば、それでいいし、そんなん作っちゃえばいいじゃん。

創作家は常に「創造」する。
自分が帰る場所を創ると同時に、そこから出発する場を作るために。
時間的に普遍な場所や価値なんてあるのだろうか?
そもそも、必要なのか?
そして、あるとすれば、何なのか?
ずっと、それに添い寝するのがいいのか?悪いのか?
それは文脈によるのか?
どういった文脈なのか?

常に更新されつつある、信念体系。
それは、誰のものでもない。
アナタのものなのだ。
そして、それを直視出来るかどうか。
そして、直視したうえで、どうするかが問題ではないか
そう、そんなことを考えている。