東電は間違っているのか

色々矢面に立っている東電だけど、実は個人的には多少同情している。
彼らは日本で企業に求められている事に忠実であろうとしただけだろう、と思えるからだ。
今回、東電はもっぱら事故が引き起こした社会的な影響に対しての無責任さを指弾されている訳だけれども、ふと振り返って見ると、日本は企業の社会的な責任についてそれほど強く要求して来た社会だったろうか。

例えばトヨタだ。
トヨタの収益が世界一になった時、称賛の声が多かった。
だがその裏では派遣や期間工によるコストカットが格差や貧困の発生、という社会問題を生み出していた。

この問題は若年層の収入の不安定化を招き、現在の日本の宿阿である少子化の原因のひとつともなっている。

だが、この件についてトヨタの社会的責任を問う声がどれだけあったか。
少なくとも史上最高益を称賛する声よりは小さかった。
日本の国力を削ぎ兼ねない、という意味では規模はともかく、質は原発問題と同じなのにも関わらず、だ。

これを典型例として日本では企業活動は社会に対する責任を免れる、というのが大方のコンセンサスだった。

今回の東電の対応はこれに忠実に則っている。すなわち自社の経済的な価値を極力キープする、というやり方だ。
経済的なステークホルダーの視点からみればこれは全く正しい。
そもそも被害の中心である福島県は自社の営業範囲ですらない。極端な話、全県域がノーマンズランドになったとしても、東電自体の収益には影響は少ないだろう。
そのような地域に資金を投入する事を極力回避する、という方針は社会的責任という一点さえ無視すれば、間違っている、と言えないのではないか。
少なくとも東電のステークホルダーはそう考えていたと思える。

先程のトヨタの例では貧困に落ちた労働者の「自己責任」を問う声が上がった。それに範を取るならば原発のリスクを知りながら影響が及ぶ地域に居住し、生計を営んでいた事もまた自己責任とされるべきだろう。

それはおかしい、と思う方も多いだろう。
だが我々はそのおかしい世界を当然とし、暮らしていたのではないか。

エネルギーの問題を越えて、社会の仕組みを考え直すべき時が来てるのかもしれない。