【映画】『パーフェクト・センス』

[★★☆☆☆]
終わっていく世界でキミと。


あらすじ:
感染すると次第に五感が奪われていく奇病が蔓延する世界で、運命的な出会いを果たした男女の愛情を描くパニックドラマ。感染すると嗅覚を失う原因不明の病がイギリスから欧州各国へと広がり、感染症を研究する専門家のスーザンも何も分からず困惑する。そんなある日、スーザンは、感染症の影響で客足の途絶えたレストランでシェフのマイケルと出会うが、2人もまた病に感染し嗅覚を失ってしまう。そして人々は嗅覚に続き味覚、聴覚と次第に五感を失っていき、世界は荒廃していく。監督は「猟人日記」のデビッド・マッケンジー。主演にユアン・マクレガーエバ・グリーン。(映画.comより)

映画情報:
キャスト: ユアン・マクレガーエバ・グリーン、ユエン・ブレムナー、スティーブン・ディレイン、デニス・ローソン、コニー・ニールセン
監督: デビッド・マッケンジー
製作: マルテ・グリュネルト、ジリアン・ベリー
製作総指揮: デビッド・マッケンジー、キャロル・シェリダン、ペーター・オールベック・イェンセン、ペーター・ガルデ、ジェイミー・ローレンソン
脚本: キム・フィップス・オーカソン
撮影: ジャイルズ・ナットジェンズ
編集: ジェイク・ロバーツ
美術: トム・セイヤー
衣装: トリシャ・ビガー
音楽: マックス・リヒター
原題: Perfect Sence
製作国: 2011年イギリス映画
配給: プレシディオ
上映時間: 92分
映倫区分: R15+


五感が次々と失われていく感染症という、ありそうでなかった設定の終末SFモノ。だが観た印象としてはラブストーリーの要素が大きく、本格SF映画を期待すると肩透かしを食らうに違いない。


特異な設定をわかりやすくするため、主人公マイケル(ユアン・マクレガー)には五感が重要な役割を果たすコックという職業を、世界で進行中の状況説明役としてヒロインのスーザン(エヴァ・グリーン)には感染症学者という役柄が与えられており、地球規模のスケールの話にも関わらず、限られた登場人物の中で物語を語り切ることに成功している。


また、イギリス特有の湿気を帯びた陰鬱な風景の中を絶望した人々が徘徊するさまは「28日後…」などを想起させ、終末好きとしてもある程度満足できる出来にはなっている。また、人としての感覚を失っていくという意味ではゾンビ映画と共通する部分も多いのではないか。*1


SFは現実世界に存在する問題や構造を換骨奪胎し、わかりやすく人々に提示するのに優れたジャンルだといわれる。ではこの映画で訴えられている問題とは何なのだろう。この作品で問題提起されているのは、表層的にいえば「人々が五感を失っていく中で、最後の最後に残るものは何か?」である。


現実においても聴覚や視覚に障害を持つ人々はいるわけで、そうした障害者は視覚や聴覚に頼らない世界に生きている。それを考えると、人々の五感が失われること自体はSF設定としては弱い。この映画の最もオリジナルな点は、人々の五感が失われることそのものではなく、人々の五感が徐々に失われていくという、時間経過を伴った喪失をすべての人が共通に経験することにある。


聴覚障害味覚障害に限らず、たとえ健常者であっても、各感覚器官に依存する度合いは人によって異なるだろう。たとえば、音楽家は一般人よりも聴覚を研ぎ澄ますだろうし、写真家は視覚を研ぎ澄ますだろう。ならば五感が欠落していくという現象は、それぞれの人が持つ独自の視点・世界観がひとつに収斂していくことを意味するのかもしれない。多様な世界観からひとつの世界観に収斂していく時、ひとは何を思い、どう行動していくのだろうか。


この映画はパンデミックモノの範疇に入ると思うのだが、段階的に症状が現れるため、日常から非日常へのシフトは他のパンデミック映画と比べても緩やかだ。そして人々の生活も一見様子が変わらない。いや、様子が変わらないように人々は努める。


「終わりなき日常」が終わりを告げたとしても、人々は非日常であるはずの日々を「日常」と半ば自覚的に錯覚し、仮初めの「終わりなき日常」を続けることを3.11以降に暮らす私たちは既に経験として知っている。そしてそれは数多の絶望を隠蔽することで成立することも。


この映画も同じである。この作品ではニュース映像のような暴力的な場面が挿入される*2
ものの、死そのものが直接描かれるわけではない。五感が失われていくという最も過酷な状況の中で、それでも生きんとする人間の姿をあくまで楽観的に描き切ろうとするのだ。それを希望として肯定的に受け取るのか、あるいは欺瞞として否定的に受け取るのかは人それぞれだろう。私はこれを否定的に捉えるつもりはないが、今の日本の状況を考えると、この作品をリアルに感じるかといえばそれも難しい。


また、嗅覚や聴覚といった感覚を失う寸前、人々は症状のひとつとして、自らの内的衝動を抑えきれずに、思わず慟哭してしまったり、怒りの赴くままに暴力を振るってしまうという描写があるのだが、その描き方がどこか皆一様なのだ。悲しみや怒りに伴う「泣く」「怒る」といった行動は、内に秘めた感情のアウトプットとして表出するものであり、人それぞれ違うものになるはずだ。だがこの作品では、泣き崩れたり怒り狂う様子がすべて同じに映り、人間の自然な感情の発露というよりも、ヒトという生物が反射的に行った動物的反応といった印象を受ける。そうした演出上の拙さや違和感が物語としての説得力を減じてしまっているのは勿体ない。また、場面転換などで戸惑う部分も多く、映画としては決して上手くない。


SF映画にも関わらず設定が甘いと感じる部分も多いが、それが不思議と気にならないのは、この作品が“破滅に向かう世界”という巨視的視点から描いたものではなく、あくまで主人公の男女二人の微視的視点から描いたラブストーリーだからだろう。だからこそこの作品では、世界に蔓延していく暴力に二人は直接遭遇することなく、二人だけの閉じた世界の中で交流を深めていく。


さて、最初に示したこの作品が問題提起する「人々が五感を失っていく中で、最後の最後に残るものは何か?」である。…それは実際に観て確かめていただくとして、私なりの所感を記してこの感想を終えようと思う。


この映画で描かれているのは、感覚を喪失していくと同時に「何か」を純化させていく人間の姿だ。最後に二人の間に存在するもの、その「何か」はもはや愛でもないのかもしれない。それはむしろ、人間という以前に、ヒトという動物が持つ根源的欲望に回帰した結果の姿なのかもしれない。その光景は確かに純粋であり美しい。生物的な美しさも、宗教的な美しさをも感じさせる。だがそれでも私は、醜さと美しさが綯(な)い交ぜになった今のこの世界が好きだし、いつまでも醜い人間であり続けたいと願う。世界は多様なままでいい。

*1:実際、ゾンビ映画をモチーフにしたとみられるシーンもある。

*2:金正日総書記の生前のご尊顔も拝見できる。

【映画】『その土曜日、7時58分』

この世は醜い世界だぜ。


あらすじ:

兄アンディ(フィリップ・シーモア・ホフマン)と弟ハンク(イーサン・ホーク)のハンソン兄弟は、状況こそ違うが、どちらも大金を必要としていた。そんな時、アンディはハンクを実家の宝石店を襲い強盗する計画を持ちかける。その計画は上手くいくように思えたが、ある誤算が生じて…。

映画情報:
原題:Before the Devil Knows You're Dead
監督:シドニー・ルメット
脚本:ケリー・マスターソン
製作総指揮:ベル・アベリー
撮影:ロン・フォーチュナト
音楽:カーター・バーウェル
製作国:2007年アメリカ・イギリス合作映画
上映時間:1時間57分
配給:ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

キャスト:フィリップ・シーモア・ホフマンイーサン・ホークマリサ・トメイアルバート・フィニーローズマリー・ハリス、アレクサ・パラディノ、マイケル・シャノンエイミー・ライアン、ブライアン・F・オバーン


感想:

シドニー・ルメットといえば、「十二人の怒れる男」「セルピコ」「狼たちの午後」などで知られる名匠である。今までに多くの作品を監督してきた彼だが、90年代に入ってからはあまり評判がよくなかったようだ。そんな彼が御年84歳にして撮りあげたのが、この「その土曜日、7時58分」だ。結論から言えば、この作品はすでに書いた三本同様、彼の代表作となるだろう。それほど素晴らしい作品であり、傑作だった。また、彼は2011年4月9日にリンパ腫で亡くなったため、この作品がシドニー・ルメットの遺作ともなっている。素晴らしい作品だっただけに、次回作が非常に楽しみだったので残念でならない。合掌。


フィリップ・シーモア・ホフマンイーサン・ホークも素晴らしい演技だったし、なんといってもアルバート・フィニーの今作での演技は一生忘れることのできないほどの強烈な印象を与えた。名匠と名優の見事な化学反応がこの作品は起きている。そして、そういう作品こそ傑作と呼ばれるにふさわしい。


一つの犯罪に端を発した、ある家族の崩壊は痛々しく、全体のトーンも重厚で、決して気軽に見られるタイプの映画ではない。しかし、時間軸をずらす脚本により、徐々に観客に真実を明らかにすると同時に、それぞれのキャラクターの背負う「業」を伝えていく演出は流石というほかなく、観終わった後の充実感は久々に感じるものだった。84歳にしてこんな内容の、そしてこんな素晴らしい出来の映画を作ることができる、いやはや脱帽だ。しかし、84歳にこんな映画を作られて、20 代の私はこれからどうやって生きていけばいいのだろう?


映画はいきなりホフマンの「立ちバック」から始まる。これには流石に面喰った。どうやらこのシーンが18禁になっている理由のようだ。ルメットからすれば「つかみはOKだろ?」というところか。


邦題は「その土曜日、7時58分」だが、原題は「Before the Devil Knows You're Dead 」となっている。タイトルではその前にもう一文ついて、


「早く天国に着きますように。死んだことが悪魔に知られる前に」


という一文になっている。つまり、この映画に登場する人物は、天国に行く前に悪魔に見つかってしまうと地獄に行かなくてはならないほどの「罪人」だということだ。それが一体誰を意味するかは実際に見て確かめて欲しい。


これは「犯罪」の物語である。
これは「夫婦」の物語である。
これは「兄弟」の物語である。
これは「親子」の物語である。


そしてこれは、「家族」の物語である。


物語の発端は、兄であるアンディ(フィリップ・シーモア・ホフマン)が、弟のハンク(イーサン・ホーク)に強盗計画を持ちかけるところから始まる。しかもその強盗の対象は、兄弟の両親が営む宝石店にしようということだった。強盗が入ったとしても保険が効くので両親に迷惑がかかることはない。警備の情報も筒抜けだ。その計画は易々と実行できる、はずだった。


しかし、計画と実行にはかなりの隔たりがある。まさにこれは「机上の空論」だったのだ。結果としてこの強盗計画は失敗してしまう。そして、もはや戻ることのできない大きな悲劇が起こってしまうのだ。この悲劇を契機として、アンディとハンクには不幸の輪廻ともいうべき連鎖が次々と起こっていく。


この作品の面白いところは、強盗事件から3日前、4日前のそれぞれの登場人物の行動があとから挿入され、つまり時間軸がばらばらに展開することで事件の真相が明らかになっていく。この手法はもはや目新しいものではないが、私が感心したのは、この手法がこれ見よがしに披露されるのではなく、あくまで映画上の演出として必要であり、かつ非常に有効に機能していることである。だから、この手法特有の混乱がこの映画にはまったくない。この辺りは一重に監督の力量によるものだろう。


他にも演出でよかったと思う場面が多くある。例えば、兄であるアンディが妻のジーナに出ていかれ、怒りを顕わにする場面。普通ならばここは、家にある様々な物をあたり構わずぶちまけるといった行動を取るのかなと予想される。しかし、フィリップ・シーモア・ホフマンは瞬間的に怒りを発散することを拒否する。その代り、静かな、しかし突発的な怒り以上の怒りを秘めながら、静かに物を床にまき散らかしていくのだ。この場面は本当に恐ろしかった。


笑った場面もある。逃走中のアンディとハンクが、クスリの売人であるゲイらしき男の高級マンションを訪れる場面である。アンディとその男が肉体関係があったかは明確にされないが、アンディは突然訪れた売人の部屋のベッドで、小太りの男が眠っているのを発見して怒りを顕わにする。そう、この売人はデブ専だったのだ。


時間軸がバラバラのシーンで描かれるのは、一つの強盗事件を超えた、ハンソン家族そのものが背負う闇である。兄アンディは弟ばかり愛する父を憎み、そしてクスリに溺れ、金を横領し、妻とは上手くいっていない。弟ハンクは離婚した妻に子供の慰謝料を支払うために困窮している。そんな二人が非現実的な強盗事件を計画し、そして失敗し、「悪魔に見つからないように」逃げ回る姿をカメラは執拗にとらえ続ける。


果たして彼らは「悪魔」から逃れることは出来るのだろうか。それとも、一度背負った罪から人間は逃れることはできないのか。答えは最後の最後までわからない。


そして最後、私は「悪魔」を見た。ここまで鬼気迫った、悪魔のような表情を見たことがない。アンディとハンクは疑うべくもなく罪深き人間たちであるが、この人物もまた、業を背負った罪深き人間なのだ。そして最後、この人物は逃げ回るべき存在である「悪魔」そのものに変容してしまう。


彼が最後に歩んでいく「光」の先には何があるのか。……悪魔が帰っていくのは当然、地獄でしかないだろう。

【映画】「ひゃくはち」

栄冠は君に。


あらすじ:

野球の名門として知られる京浜高校の補欠部員・雅人とノブは、甲子園のグラウンドを目指して毎日過酷な練習に励んでいた。しかし上級生が引退しても、彼らに与えられるのは雑用ばかり。そんな中、有望株の新入生が入部したことにより、2人は高校最後の甲子園のベンチを巡って争うことになり……。29歳の新鋭・森義隆監督が、補欠部員たちの奮闘を爽やかに描いた青春ドラマ。雅人役に映画初主演の斎藤嘉樹、ノブ役に「恋空」の中村蒼。(eiga.comより)

映画情報:
監督・脚本:森義隆
原作:早見和真
撮影:上野彰吾
音楽:和泉剛
製作国:2008年 日本映画
上映時間:2時間6分
配給:ファントム・フィルム
キャスト:斉藤嘉樹、中村蒼市川由衣竹内力高良健吾北条隆博桐谷健太三津谷葉子有末麻祐子小松政夫二階堂智光石研


感想:

毎年、熱戦が繰り広げられる甲子園。ひたむきに白球を追う球児の姿に、毎年目頭を熱くしている人も多いことでしょう。真剣勝負をしている彼らの姿が、自分より年下の高校生だとはとても思えない人もいるかもしれません。でも、私たちがTVで見る高校球児たちは、全国の野球をしている高校生の、ほんの、ほんの一部でしかありません。大多数の高校球児は、スタメンに入ることはおろか、補欠にすら入れない子もたくさんいるのです。私たちが甲子園で見ているのは、「高校野球」という大きな物語のほんの一部でしかないのです。そしてこの映画では、「ほんの一部」ではない高校球児たちが主人公なのです。


この映画の主人公は、強豪校の野球部に所属している、「目指すは補欠!」という高い(?)目標で日々努力を重ねる二人の高校生、雅人(斉藤嘉樹)とノブ(中村蒼)。世間では、高校球児は「清純で真面目」といったイメージで見られることが多いですが、この映画では高校球児の日常を過度に美化することなく、ありのままを描こうとしています。映画として不完全なところもありますが、高校野球の清濁両面を描き、それでありながら、最終的には高校野球というものを肯定してみせるこの作品は、高校野球好きはもちろん、高校時代に部活に打ち込んでいた人も胸を熱くしてしまう作品なのではないでしょうか。


どちらかといえば高校野球にネガティブなイメージを持っていた私でさえ、高校野球っていいなと思わせられるほど、よくできた青春映画の隠れた傑作だと思います。


おちゃらけたムードメーカーの雅人と物静かで冷静なノブという、対照的なキャラクター設定は、青春映画ではスタンダードな設定とはいえ、斉藤嘉樹くんと中村蒼くんがそのキャラクターにマッチしていて、非常によかったです。また、脇を固める役者陣も素晴らしい。『フィッシュストーリー』でも存在感を放っていた高良健吾ですが、この作品でも本当に素晴らしい演技を見せてくれています。あんなに自然な「セックスしてぇ…」というつぶやきは聞いたことがありません。もはや青春映画に欠かせない存在となった桐谷健太も相変わらず最高に面白いです。野球部の鬼監督に竹内力というキャスティングは、初めフィクション感が出すぎるのではないかと危惧していたのですが、そういうこともなく、逆に、役者陣のリアルな緊張感を引き出すことができたという意味で、もっともこの映画に貢献しているかもしれません。


高校球児を「汚れなき存在」として喧伝する高野連や、それを信奉している「高校野球信者」の方々には、この映画には目を覆いたくなるシーンばかり現れるかもしれません。「タバコは高校球児のサプリメント」と豪語し、お酒をがぶ飲みしながら女子大生との合コンに興じる…そこに甲子園での輝かしい高校球児の姿はまったくありません。タイトルの『ひゃくはち』の意味でわかる通り、高校球児だって普通の高校生であり、この映画ではそれが殊更に強調されます。これがそのままリアルだとは思いませんが、強豪校でないにせよ体育会系がヒエラルキーの頂点にいた高校に身を置いていた私としては、それほど現実とかけ離れているとも思えませんでした。また、野球部監督とプロのスカウトとの灰色の関係など、高校野球そのものが構造的にはらんでいる問題もきちんと描いていて、好感が持てました。


ただ、高校球児の煩悩を象徴するんだったら、「女子大生とのセックス」じゃなくて「オナニー」だろ!!とは思いましたが。この映画では、恋人との関係の描写があまりに不十分で中途半端に感じ、これならば一層のことばっさり切ってしまってもよかったかもしれません。また、音楽やその使い方がちょっとベタで、この点は残念に思いました。


高校野球がこうも人々の心を捉えて離さないのは、それは終わりが見えている物語だからではないでしょうか。高校三年間という非常に短い期間、その間に「目標」を目指して努力する、その経験こそが何物にも代えがたいものになるのだと思います。二人は最初、応援席で応援するしかない野球部員を馬鹿にしているのですが、三年間を通じてその思いが徐々に変わっていきます。見る側にとっても、オープニングにおいて応援席で必死の形相で応援していた、はたから見れば滑稽な三年生の姿が、終盤においてまったく別の印象で思いだされるのです。



だからこそ、三年間がんばってきたけど補欠にさえ入れなかったという人物を、雅人かノブのどちらか、または全く別の登場人物が担っているべきだったと思います。そうすればよりこの作品で言いたいメッセージは強調されていたかと。


しかし、森義隆監督自身も野球部だったらしく、練習シーンや試合シーンなどの演出はまったく逃げておらず、偽物感はまったくありません。若い役者陣の生き生きとした、演技を超えたパワーを感じることができ、青春映画として最も必要な要素を備えたこの映画は、間違いなく傑作といってよい作品だと思います。

【映画】「英国王のスピーチ」

[★★★☆☆」

格式とユーモアと冗長と。

あらすじ:
現イギリス女王エリザベス2世の父ジョージ6世の伝記をコリン・ファース主演で映画化した歴史ドラマ。きつ音障害を抱えた内気なジョージ6世(ファース) が、言語療法士の助けを借りて障害を克服し、第2次世界大戦開戦にあたって国民を勇気づける見事なスピーチを披露して人心を得るまでを描く。共演にジェフ リー・ラッシュ、ヘレナ・ボナム・カーター。監督は「くたばれ!ユナイテッド」のトム・フーパー。第83回米アカデミー賞で作品、監督、主演男優、脚本賞 を受賞した。


映画情報:

キャスト:コリン・ファースジェフリー・ラッシュヘレナ・ボナム・カーターガイ・ピアースデレク・ジャコビマイケル・ガンボンティモシー・スポールジェニファー・イーリー
監督・脚本:トム・フーパー
脚本:デビッド・サイドラー
製作:イアン・キャニング、エミール・シャーマン
撮影:ダニー・コーエン
音楽:アレクサンドル・デスプラ  
原題:The King's Speech
製作国:2010年イギリス・オーストラリア合作映画
配給:ギャガ  
上映時間:118分
映倫区分:G         (映画.comより) 

   

感想:

今年度のアカデミー賞で、12部門ノミネート、作品賞・主演男優・監督・脚本賞の5部門を受賞した「英国王のスピーチ」を観てきました。

この映画は、英国王室の、ジョージ6世コリン・ファース)という実在した国王を主人公にした物語になっています。ジョージ6世というのは、現エリザベス女王のお父さんにあたり、彼の王としての在位期間は1936年から1952年となっています。在位期間でわかるように、このジョージ6世は第二次大戦下における英国王だった人物にあたります。このことがこの映画では重要な意味を持っています。


ジョージ6世は、小さな頃から吃音症という病気に悩まされていました。吃音症というのは昔でいう「どもり(今では差別用語?)」のこと。一般の人にとってもこの障害は日常に支障をきたす深刻な病気ですが、このジョージ6世は、演説という国民全体に「語りかける」行為をしなければならないのだから、さあ大変。一国のトップの言葉は、時に国民全体の士気などを良くも悪くも変える力を持ちます。その国王の言葉の重みがあるからこそ、この映画はそれを克服しようとするジョージ6世の奮闘により感動することができるのです。


また、感動だけでなく、この映画の「笑い」の部分も、演説すべき国王が演説下手というギャップによって生まれています。特に、のちに専任医となるローグ医師(ジェフリー・ラッシュ)との邂逅や治療の様子は、身分差設定を活かしたコメディ要素の強い、イギリスらしい会話劇になっています。また、1930年代当時の、霧に満ちた汚らしさと伝統を兼ね備えた、これぞロンドンという風景が描き出されており、前半はその「イギリス力」とでもいうべき格式とユーモアでぐいぐい引っ張られます。


余談ですが、「大英帝国」という字面ってカッコよくね?シンメトリーな感じが堪らないですね。


兎も角も、そうしたイギリスらしいテンポと雰囲気で映画は進んでいくのですが、段々とその雰囲気は重苦しいものに変化していきます。その大きな原因は、ナチスドイツの台頭など、きな臭い戦争の雰囲気がイギリスにも押し寄せるようになったことにあります。本来、ジョージ6世にはエドワード8世(ガイ・ピアース)という兄がおり、王位はその兄が継いだのですが、兄はその任を自ら降り、弟のジョージ6世が望まずとも王になることに決定してしまいます。


ここにおいて、「スピーチ下手」という克服すべき欠点は、一国の先行きを左右するさらに大きな壁として、ジョージ6世の前に立ちはだかるのです。ジョージ6世は望んで王になったわけでもなく、スピーチ下手という自分の欠点も認識しています。しかしそれでも王は国民の前に立ち、国民に向かって語りかけなければならない。この映画の主人公は一国の王という、観客にとってはかなり遠い存在のはずですが、「自分の望まざる状況」で「自分の苦手なことをしなければならない」という経験は誰もが少なからずあると思うし、だからこそジョージ6世に感情移入し、感動することができるのです。


この映画は、ジョージ6世が国民にとって本当の意味の国王になるまでを描いた物語ですが、「望まざる状況においてそれでもなお、あがきもがき欠点を克服しようとする一人の人間」を描いた普遍性を持った物語でもあるのです。ジョージ6世はスピーチに関しては「凡人以下」であり、それでもなお立ち向かう彼の「でもやるんだよ!」という姿には感動することができました。また、「凡人」としてのジョージ6世を強調するために、「スピーチの天才」を彼の前に登場させるシーンがあるなど、このあたりは上手いなと思いました。


ただ、この映画に不満がないかといえば嘘になります。この映画は基本的に、ジョージ6世と医師のローグの二人が、身分差を乗り越えて友情を築いていくというのが基本の軸になっているのですが、それにしては一方のローグ医師の描き方が薄い。オーストラリア訛りやシェイクスピアに造詣があるといった点、家族との微妙な距離など、前半で彼の抱える問題や状況が描写されるからこそ、のちにそれが回収されぬまま終わっていく点に違和感を感じました。ジョージ6世とローグ医師がその出会いによってそれぞれに抱える問題を解決する、という構造の方がより物語としては多面的で面白いものになったのでは?と思います。まぁしかしこれは史実をもとにした映画ですし、創作の余地は狭いという点で致し方がないのかもしれません…。


また、118分という上映時間にしては体感時間はそれよりも長く感じました。兄のエドワード8世についての描写など、もう少し脚本上工夫できる点もあったかと思います。脚本といえば、終盤でジョージ6世とローグ医師が、ローグ医師に関するある事実が原因で仲違いするのですが、このあたりの説明が足りてないように思え、若干唐突に思えました(しかしこの部分は私が単純に見逃したからかもしれません…)。


…とまぁ色々書きましたが、総じていえば予告編を見たときの期待感には応えてくれた佳作だと思います。


ただ、「インセプション」や「ソーシャル・ネットワーク」などの作品が並ぶ中で、今このタイミングでこの作品にアカデミー作品賞を与える理由については私は「?」と思ってしまいました。そういえば、キャラクターは全然違いますが、コミュニケーションに問題があるという点で、この映画のジョージ6世と「ソーシャル・ネットワーク」のジェシー・アイゼンバーグには共通点がありますね。



ちなみに、これが実際のジョージ6世の演説。うーん、確かにもっさりとした喋りだ。

http://www.bbc.co.uk/archive/ww2outbreak/7918.shtml

【小説】「海の底」

[★★★★☆]
我々は大勢であるがゆえに…

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内容紹介:
横須賀に巨大甲殻類来襲。食われる市民を救助するため機動隊が横須賀を駆ける。孤立した潜水艦『きりしお』に逃げ込んだ少年少女の運命は!?海の底から来た『奴ら』から、横須賀を守れるか―。

著者紹介:
有川 浩
高知生まれ。主婦として関西暮らし十有余年目。第10回電撃小説大賞大賞受賞作『塩の街』にて作家デビュー。(Amazon.co.jpより)

感想:

海の底―――そこは人間にとって最も未知の世界だといえます。

この小説は、海の底より出現した巨大生物レガリスによって横須賀の街が襲われ、その事件に遭遇した人々の物語です。物語は大きく、自衛隊員の夏木と冬原とともに潜水艦に避難し、生活することを余儀なくされた子供達の日々を描いたパートと、レガリスの襲来に対抗するために策を練る神奈川県警の明石や警視庁の烏丸らが活躍する市街地パートの二つで構成されています。


こう書くと、怪獣小説かのように思いますが、実はまったくそうじゃない。この小説の核となっているのは、潜水艦の中に閉じ込められた少年少女たちの物語なのです。レガリスはその設定を作り出すために登場しているに過ぎません。難しい年代の少年少女たちの葛藤や悩みが、ジュブナイル小説のような瑞々しいタッチで描かれています。

特に、船内での唯一の女の子であり、そして最年長の女子高生である森生望の感情の機微が非常に丹念に描かれていました。ここまで少女の気持ちを描ききるのは男性作家には不可能なことであり、女性作家である作者の魅力が存分に発揮された作品かと思います。


ひとりひとりの少年少女たちのキャラクターが生きていて、そしてそれぞれに乗り越えるべき壁が描かれている、非常に巧い小説だと思いました。夏木と冬原といったベタ極まりないキャラクター設定は少々の違和感は持つものの、気になるほどではありません。終わり方も清々しく、読了感が非常に心地いい小説でした。考えてみれば、潜水艦パートは潜水艦という密室空間しか描かれていない訳で、それをここまで引きつけて読ませる作者の力量というものを思い知らされました。良い小説家だと思います。早く『図書館戦争』も読まないと。


しかし、この小説には残念な部分もあります。まず、何よりもレガリスがまったく怖くなく、魅力的でもない。「巨大エビ」や「巨大ザリガニ」といった比喩はやめて欲しかった。ガメラを「巨大ガメ」と言っちゃ興ざめでしょ?警察と自衛隊の行動領域の限界とその葛藤を描くためには、レガリスの戦闘力が微妙な力加減でないといかないというのはわかりますが、それでもなお恐怖感を感じる存在として描いて欲しかったと思います。



なので、ガメラ好きの方にはぜひ、「レガリス」を「ソルジャー・レギオン」に変換して読み進めることをおすすめ致します。しかしそうして読んでいくと、「女王レガリス」のくだりで「なに!?マザー・レギオンの登場か!?」と色めき立ってしまいますが、残念ながらマザー・レギオンは登場しませんので悪しからず。



当初期待していたものとはまったく違っていたものの、青春小説として非常に良い小説だったので、むしろ怪獣やら怪物やらというイメージが先行していて読むのを避けていた人にこそお勧めしたい小説です。

【映画】「イカとクジラ」

[★★★★☆]

家族という呪い。

あらすじ:
ライフ・アクアティック」の脚本家ノア・バームバックが、86年のニューヨーク・ブルックリンを舞台に、ある家族の崩壊を滑稽に描いた自伝的悲喜劇。落 ち目のインテリ作家である父親バーナードと「ニューヨーカー」誌で作家デビューを飾ることになっている母親ジョーンの間に生まれた16歳の兄ウォルト、 12歳の弟フランクは、ある日両親から離婚することを告げられる。ウォルトは父親に、フランクは母親についていくが、2人とも学校で問題を起こすようにな る……。(映画.comより)

映画情報:
キャスト:ジェフ・ダニエルズローラ・リニージェシー・アイゼンバーグオーウェン・クライン、アンナ・パキン、ウィリアム・ボールドウィン
監督・脚本:ノア・バームバック
製作:ウェス・アンダーソン
撮影:ロバート・イェーマン
音楽:ディーン・ウェアハム、ブリッタ・フィリップス
原題:The Squid and The Whale
製作国:2005年アメリカ映画
配給:ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
上映時間:81分


感想:


人は自分の生まれる場所や環境を選ぶことはできない。その意味で、家族とは人が生まれた瞬間にかけられる「呪い」のようなものかもしれない。この映画の主人公であるウォルト(ジェシー・アイゼンバーグ)とフランク(オーウェン・クライン)の兄弟も、家族という「呪い」にかけられたごくごく普通の少年たちである。



彼らの両親はともに文筆業を職業としているのだが、父親のバーナード(ジェフ・ダニエルズ)は売れない作家であり、現在は大学で教鞭をとって食い扶持を繋いでいる。一方、母親のジョーン(ローラ・リニー)は雑誌「ニューヨーカー」で作家デビューを飾ることが決まるなど、そのキャリアは対照的なものになっていく。そんな中、突然家族会議が招集され、ウォルトとフランクの兄弟は両親から予想しない発表を聞く。


「私たちは離婚する。」


家族とは、血のつながりがあるとはいえ個人同士の集合体だ。普段の生活ではそれは強固なものに見えるかもしれないが、ちょっとした傷や歪みで簡単に崩壊してしまう可能性を孕んだものである。また、あらゆる家族がそうした傷や歪みを知らぬ間に内包している。それが果たして離婚にまで至るかどうかは、その傷や歪みを自覚したままそれでもなお家族という形に固執するか、あるいは、傷や歪みを消し去るために家族という形を捨て去るかという夫婦の選択にかかっている。この映画におけるウォルト兄弟の両親は、後者を選択した。


家族よりも自分たち個人の意思を優先するのは、この両親が自分たちがインテリであり知識階級であると自覚してるからこその判断なのではないかと私は感じた。離婚の相談において、子供たちと会える日を事務的に決めていくその会話からもそれが見て取れる。この両親は「離婚」という家族にとっての大問題を、あくまで理屈で解決し処理できると思い込んでいるのだ。しかし、結婚という「契約」は事務処理によって片付けられようとも、人間のこころというものはそれほど単純なものではない。


ましてや、彼ら両親の離婚に巻き込まれるのは、16歳のウォルトと12歳のフランクという、もっとも過敏な年頃の少年たちなのである。彼らは両親の離婚という現実と、また、その奥にある原因に過剰に影響され、客観的にみると間違えた、おかしな方向に進んでいってしまう。その危うさはこの映画にある種の恐怖映画の様相さえ与えているのではないだろうか。ホラー小説の帝王スティーブン・キングが「これは恐ろしい映画である。」と書いたのも納得できる。


子供から大人になるということは、そうした家族という「呪い」を受け入れるか、あるいは解き放たれるかのどちらかを達した時である。この映画の主人公であるウォルト青年はまさにその呪いを解かんともがき苦しみ、最終的に自分の深層心理を映し出すある「もの」と対峙する。それは傍からみればどうということのない光景なのだが、彼にとってはその瞬間こそが人生が変わる転機なのである。本当に素晴らしいラストだったと思う。



作品内において「野生の少年」や「勝手にしやがれ」などの映画が言及されるように、この映画はいわゆるハリウッド映画というよりは、ヌーベルバーグの作品に近い。どこに着地するかわからない物語やジャンプカットなどにそれが見て取れる。なので、起承転結や結末がはっきりしたものを期待している人には肩すかしかもしれないが、人間なんて不確かで捉えどころのないものでしょ?という感覚で生きている私には最初から最後まで楽しめる傑作でした。



余談。この映画で描かれる家族の中でも、一層際立っているのがローラ・リニー演じる母親の存在である。「普通の人々」や「レイチェルの結婚」を見ていても思ったのだが、こうした家族を描いた作品では、母親というものがとかく得体の知れないものとして描かれる傾向にある気がする。これらの作品がすべて男性監督のものであるからかもしれないが、男性である私から見ても、母親、あるいは女性とは得体の知れないものであり、そこがまた面白いと思った。

【映画】「普通の人々」

[★★☆☆☆]

普通に異常な僕ら。

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あらすじ:

名優ロバート・レッドフォードの監督デビュー作にして、1980年度アカデミー賞4部門(作品・監督・助演男優・脚色賞)に輝いた傑作ヒューマン・ドラマ。ごく普通の中流家庭であるジャレット一家。お互いに尊重し合い、家族4人で幸せな毎日を送っていた彼らに、長男の事故死と次男の自殺未遂という悲劇が降りかかる。そしてこの出来事をきっかけに、信頼しあっていたはずの家族の歯車が少しずつ狂いはじめるのだった……。(eiga.comより)

映画情報:

原題:Ordinary People
監督:ロバート・レッドフォード
製作:ロナルド・L・シュワリー
原作:ジュディス・ゲスト
音楽:マービン・ハムリッシュ
製作国:1980年アメリカ映画
上映時間:2時間4分
キャスト:メアリー・タイラー・ムーアドナルド・サザーランド、ジャド・ハーシュ、ティモシー・ハットン、ダイナ・マノフ、フレデリック・レーン、ベイジル・ホフマン、マリクレア・コステロ、M・エメット・ウォルシュ、エリザベス・マクガバン、ジェームズ・B・シッキング、アダム・ボールドウィン



感想:


「家族」とは突き詰めれば「個人」の集合でしかない。


そして個人とは自分自身の幸福を追求する存在だし、それがあるべき姿だ。人によってその「個人の幸せ」と「家族の幸せ」が同じものを意味することもあれば、相反してしまうこともある。「家族」が成立しているためには、「個人の幸せ」と「家族の幸せ」に少なくとも共通している部分がなければいけないのだと思う。


この映画の主人公たちであるジャレット一家は、アメリカのごくごく「普通」の中流家庭として描かれている。とはいえ、広い芝生の庭がついた家で暮らすコンラッド青年とその両親は、日本の感覚でいえば富裕層にも見えるだろう。少なくとも、ジャレット家は経済的・物質的には恵まれた家庭だ。しかし、コンラッド青年(ティモシー・ハットン)とその父カルビン(ドナルド・サザーランド)、そして母のベス(メアリー・タイラー・ムーア)が一堂に会する朝食のシーンはそこからは想像できないほど寒々しい。ふさぎがちなコンラッド、そんな息子に過剰に気を使う父、無関心な母、このシーンではこの映画において一定して存在し続ける不協和音がすでに存在している。


その不穏な空気の原因は何なのか。それは、この席でともに朝食を食べるはずだった家族の一員の欠如だ。コンラッドの兄は数年前、ヨット事故によって命を落とした。この兄の死がコンラッドと父と母、それぞれに重くのしかかり、家族はそれまでと異なるものに変容してしまったのだ。家族は他の人間集団と同じように、互いの絶妙なバランスの上で実は成り立っているものかもしれない。なおかつ、ジャレット家のバランスを支えているのはこの兄に他ならなかったのであり、その兄を失った家族の動揺は計り知れない。


家族は兄に取り残されたようなものであり、そのなかでももっとも大きな傷を負ったのが高校生であるコンラッドである。彼は十代特有の精神が不安定な様子を隠しきることができない。彼の背負ってるものは確かに大きい。彼がふさぎこむ理由はもっともだし、それは理解できるのだけれど、真に同情できるほどのものではないし、見る者を苛立たせる。彼がまわりの環境に動揺し、一瞬にして自分の殻の中に閉じこもる姿はあまりに痛々しかった。


コンラッドを殻に閉じ込めているのは他でもない、その両親だ。父カルビンはコンラッドを心配するそぶりを見せているが、それは家族の中身ではなく、家族という形そのものを守ろうとしているにすぎない。それは、世間体や外見ばかりを気にする母親ベスとは本質的に同じものだ。敏感なコンラッドにはそれがよく伝わってしまうからこそ、彼はどんどん自分の殻に閉じこもってしまう。彼に必要なのは、いや、彼らに必要なのは自分の心情を正直に吐露する場所だった。本来は家族という場がその機能を果たすべきなのだが、彼らにはそれができなかったのだ。


コンラッドを救うのは家族の存在ではなく、精神科医のバーガー(ジャド・ハーシュ)や学校の女の子の存在である。おそらく、いや確実に童貞であるコンラッド青年が、女の子に話しかけられて元気を取り戻す姿は紛れもない「普通」の青年であり、その姿に初めて私はほっとすると同時に、やはり男の子を救うのは女の子しかいないことを思い知った。しかし、この映画で描かれる女性は総じてとらえどころがない。それが演出上あえてのものかはわからないが、映画が父と子二人の抱擁で終わることからわかるように、この映画は終始男性視点で描かれたもののように感じた。


結局、父カルビンも息子のコンラッドと同じように、問題に立ち向かうことなく自己完結してしまう。それは誰も望んでいない行動であり、それはこの映画を観る私にとってもそうであった。確かにコンラッドの母はよき母とも、よき妻ともいえなかったかもしれない。だが、この父も、よき父でも、よき夫ではなかったであろう。ジャレット家の問題は、コンラッドにあるのでも、父にでも、母にでも、ましてや兄にあるでもない。それは家族そのものに存在していた。外見や形にばかり目がいき、本質から目を背けてしまうことは、どんな家族にも多かれ少なかれあることではあるが、そこから逃げることは家族の崩壊を意味してしまう。その意味で、この映画は普遍的な家族の形とその儚さについて描かれた、紛れもなく「普通の家族」を映し出したものだった。


家族という「殻」は脆く、たやすく崩壊してしまう。だからこそ、家族が互いに正直に心を打ち明けあい、「個人の幸せ」と「家族の幸せ」を近づけていく努力をし続けることが必要なのではないか。この映画は心に残るにはあまりに地味だが、反面教師として学ぶべき教訓は多い。



余談。先日見た、アン・ハサウェイ主演、ジョナサン・デミ監督の「レイチェルの結婚」も同様のテーマをモチーフにした作品であり、併せて見るとまた面白いかもしれません。