ピザを焼く

風邪をもらってしまい、今年のゴールデンウィークは予約していた恒例の温泉旅行をキャンセルしてずっと自宅でおとなしくしていた。

暇つぶしにピザを焼いた。これまで出来合いのものを買って来て焼いたことはあったけれど、時間が十分あるので生地から作ってみた。

 

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インターネットを見たり本を調べてみるとレシピはいろいろ。

まず生地である。日本のお好み焼きでも関東風、関西風、広島風などご当地メニューがあるようにピザにも多彩な種類がある。生地を大別するとナポリ、ローマ(クリスピー)、アメリカンの三種に分けられるようだ。ピザーラやドミノピザなどのデリバリーのピザ店で提供しているのが最もポピュラーなアメリカンである。具も多彩でどっしりとした食感のもの。ナポリはイタリアンレストランで定番のマルガリータが代表で、外はカリッと中はふんわりで、具は比較的シンプルで生地を味わう感覚。ローマ(クリスピー)は薄手の生地を低温のピザ釜でしっかり焼くもので専門店でしか食べられないことが多い。サクサクした食感が特徴のようだ。

決め手は生地に使う小麦粉の種類と分量によるらしい。手持ちのイタリア料理のレシピ本は薄力粉だけで作るローマ風だった。インターネットに載っているレシピは何風とは言っていないが、どうもアメリカンとナポリの中間のような位置付けで、強力粉10対薄力粉3の割合のものが多い。これにドライイーストとオリーブ油とぬるま湯を混ぜ、膨らませて円く伸ばす。

初めてのピザはインターネットのレシピで作ってみた。

生地に塗るピザソースはトマトソースが定番だ。我が家の電気オーブンでは一度に一枚しか焼けないので小さなカップに一杯あれば十分だろう。トマト煮の缶詰1個では多すぎる。ケチャップだけだとあまりにもチープになってしまうだろうから手軽にできるレシピを探して幾つかを参考にして独自のものを作ることにした。トマトペースト大匙1、ケチャップ小匙2、マヨネーズ大匙1、ハーブソルト、オレガノ粉、乾燥バジルそれぞれ少々、タバスコソース数滴で完成。

具はシンプルに玉ねぎにピーマン、ベーコンの薄切りのみ。チーズは市販のミックスチーズにパルミジャーノをすり下ろしてたっぷりかけた。

狭い台所でオーブンを高音にして焼くのは不安なので、はじめは220℃で焼いてみたら、なかなか焼けない。およそ20分でチーズに焦げ目がついてなんとか完成。

はじめての一枚は耳が硬くなり過ぎて妻には不評。焼く時間が長すぎることもあるが、自宅で焼くには強力粉が多過ぎのように感じた。混ぜただけのピザソースはまあまあ満足できる味だった。

初めての経験でわかったことは生地を丸く薄く広げることが意外に難しいことだった。

初回の結果をふまえて2回目は生地のレシピを強力粉3、薄力粉10にした。薄く円くする方法もインターネットで調べた。これにしたがって耳の部分を持って持ち上げて回すと意外と簡単に薄くできた。ピザソースには少量のニンニクペーストを隠し味に入れた。焼く温度は十分予熱で温めて240℃に設定した。焼く時間は10分にしてみたが、それでもチーズに焦げ目が付かずオーブンの上段にうつしておよそ5分で終了。トッピングにベランダで栽培中のバジルの葉を乗せて完成。

2回目の作品(?)は合格点を取れた。次はローマ風に薄力粉のみで作ってみよう。

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名ピアニスト逝く

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3月にはイタリア出身のピアノの巨匠ポリーニ、4月には60歳を過ぎてから日本国内で発売した音楽CDが驚異的なミリオンセラーとなったのをきっかけに有名になった個性派ピアニストのフジコ・ヘミングが亡くなった。それぞれ享年82歳と92歳の年齢なので天寿を全うしたと言っていいのだろう。まったく個性や来歴の異なる二人の名ピアニストが続けて逝去されたのは寂しいかぎり。

このところ家にいる時間が長くなり、 書斎のWi-Fi環境、Bluetooth、ミニコンポ、オープンエア・イヤホンなどの道具を刷新した。一新した音響装置で早朝から寝るまで、ほぼ一日中音楽を聴いて過ごしている。ジャズかクラシック音楽を主に聴いており、ともに特にピアノ曲を聴くことが多い。奇しくもこの二人の演奏はしばしば聴いていた。

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ポリーニは若くして権威あるショパン国際ピアノコンクールで優勝し、その後10年間の沈黙を破って華々しくデビューし、正確で揺るぎない演奏を特徴とし、フジコ・ヘミングは聴力障害と言う演奏家としては致命的な挫折を乗り越え、個性豊かな独特な演奏によって彗星のように現れた遅咲きのスターと、同じ曲を演奏しても表現がまったく異なる芸術家は両者とも世界中に多くのファンを持つ20世紀末から21世紀の初頭を代表する名ピアニストだ。

追悼に二人の演奏を偲んで、それぞれの奏でた音楽のように、華麗なフルーツタルトと濃厚なチーズケーキを手向けて冥福を祈った。

紀伊半島一周青春18普通列車の旅

いよいよ今日で令和5年度が終わる。

新たな門出を迎え前途洋々な未来へと旅立つ人も、長年の仕事を一区切りさせて人生の後半へと歩み出す人も、思いはさまざまだろう。

孫のカンくんは来週から家を離れ長野で寮暮らしをはじめる。15の春だ。

昔一緒の職場で働いたAY氏は早期退職して第二の人生をはじめる。当面は庭いじりと父親の介護に精を出す予定だそう。長年国家公務員として要職を勤め、還暦を迎えて定年退職したS Y氏は若者たちに混じって、まったくいちから職業訓練の研修生活に踏み切る。そのバイタリティに圧倒される。

もうすっかり自由人となってこれと言った変化のない我が家の年度末は年中行事にしているJR青春18切符を使って、恒例の鈍行旅行に出かけた。

自宅を三月二十六日朝の5時に出発、戸塚駅でJRに乗って、沼津、静岡、浜松、名古屋、亀山と乗り継いで 14時6分に初日の宿泊地、松阪に着いた。途中、列車の中には同好の士と思われる老若男女の旅行者を何人も見かけた。

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宿に入るには少し時間が早すぎるので、市内をぶらぶら散歩した。人影はまばら。静かな町並みを縦貫する街道の十字路には熊野路を示す大きな石碑があった。松阪城跡にも人はいなかった。天守閣跡からは町が一望できた。高層ビルは見当たらない。

泊まった宿の向かいの町角には、江戸時代に綿織物で財を成した豪商で、後々日本最大の財閥となる三井家発祥の史跡があった。まったく知らなかったが、日本経済は松阪の地を基盤として始まったということらしい。字は違うが、上野広小路には今も松坂屋デパートがあるし、かつては銀座や横浜の伊勢佐木町にも同名のデパートがあった。こちらは松阪ではなくて京都近江が発祥の由来の地のようで、この松阪の町とは直接の縁はないようだ。紛らわしい。

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松阪名物といえば、なんと言っても牛肉である。松阪牛のすき焼きで超有名なレストラン、和田金は定休日だった。よく覚えていないが四十年近く前に一度ここですき焼きを食べた記憶がある。その時は古民家のような、今にも倒壊しそうな風情のしもた屋の店構えだったように思う。並びで、やや松阪城に近い料理旅館小西屋に宿泊した。この宿の松阪牛のすき焼きには圧倒された。意地汚くも欲を出してもう少しで気分が悪くなりそうなほど牛肉を食べ過ぎてしまった。もうしばらくは牛肉を食べなくてもよい心境だ。

二日目の三月二十七日は、松阪から新宮で乗り継いで那智駅まで行き、路線バスに乗り換えて定番の熊野古道を大門坂の石碑から杉並木を上り、熊野大社をお参りした。すぐそばの青岸渡寺ではお賽銭を投げ入れ、那智の滝まで下って、熊野の御神体である荘厳な滝を拝礼して、お土産屋の片隅にある出店で関西風うどんを食べた。そのすぐそばの那智滝前の停留所から昼過ぎの路線バスに乗り宿泊地の紀伊勝浦に辿り着いた。

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この日は有名な勝浦温泉ホテル浦島に泊まった。ずっと昔から一度は訪ねてみたいと思ってきた施設だ。勝浦港にある観光客相手の足湯がある桟橋から送り迎えの渡し船「亀号」に乗れば、ものの5分もかからずに宿の正面玄関に行けるが、時間が早すぎてまで運行しておらず、代わりに宿の出迎えマイクロバスに乗って大回りしてホテルにチェックインした。亀号には帰りに乗せてもらえた。

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ホテル浦島マップ

ホテル浦島は迷路のような巨大な建造物の温泉宿だった。港に面した小高い岬全体がホテルの敷地だ。面積は東京ドーム⒋.5個分もある。ホテルの館内を探索しても端からはじまでゆうに30分以上がかかる。屋上は庭園につながっていて稲荷神社が祀ってあった。でもこの日が最後で神社は三重県内の他の場所に移転すると書いてあった。きっとお賽銭が集まらなくなったからだろう。憧れの二ヶ所の洞窟温泉は最高。波しぶきがかかる海辺の露天風呂は感動的だった。写真撮影禁止が残念だ。夕食のバイキングは、これと言った特徴のないお値段それなりのB級料理だったが、高齢者にはこれで十分だった。名物は新鮮な鮪の刺身だ。ここで取れるマグロはビンチョウとキハダらしい。先程マイクロバスに乗った勝浦港にはマグロ漁船と思われる小さな船がたくさん停泊していた。

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三日目の三月二十八日は紀伊勝浦駅から列車に乗り、紀伊田辺、御坊、和歌山と乗り継いで、和歌山市駅前のホテル(フジ第二ホテル)に泊まった。和歌山城へは歩いて十分。徳川家直轄の立派な石垣が風情を成す城郭を歩き、コンクリートで再建された和歌山城天守閣に登ると市内が一望だった。広い城跡は桜祭り直前でライトアップが始まる日だったが、まだまだ桜の蕾は硬かった。

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四日目(三月二十九日)、早咲き桜で有名は古刹、紀三井寺に脚を伸ばした。ここには和歌山県の桜の開花の標準木があったが、蕾ばかりで、まったく開花はなし。すぐそばにいた桜見物に来ているらしい地元の男性に声をかけたら報道関係者で開花状況を取材に来たという。それでも、りっぱな金色の千手観音のある境内にはすでに三分咲きの株もあった。

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長い階段を昇った境内には展望所があり、すぐ目の前の海が眺められた。遠方に雑賀岬が見えた。ここは日本のアマルフィーと呼ばれる場所だ。下調べもないまま、せっかくなので脚を伸ばしてみることにした。路線バスに乗って揺られて行くと、終点だと思っていた目的地を通り越してしまい、乗っていたバスはそのまま和歌山市駅まで向かってしまった。結局、降りそびれて出発点に戻ってしまった。

和歌山市駅からは南海電車の特急電車に乗り込んだが、乗り換え駅である泉佐野の手前で車掌さんに座った席が有料の指定席だと言われた。普通車に戻って数分で乗り換えした。まったく無賃乗車に近い。どうも空いていて変だと思ったのだ。

昼前に関西空港に着いた。帰りは電車ではなくて空路で羽田に戻る。初めて訪れた海に浮かぶ関西空港は想像と違ってずいぶんと小さな空港だった。早めに空港について、空港探索をしようと企んでいたが、まったく見物するところがない。当てが外れた。フードコートの入れ込みもオープンスペースで外国人(西洋人)で一杯だった。羽田や成田のような展望デッキもない人工島の空港はあまりに期待はずれの小規模でがっかりした。

飛行機が遅れて羽田についたのはもう17時半過ぎになり、自宅には19時前に着いた。春の恒例行事はこれで終了した。関東地方に戻った途端に花粉症が再発した。

趣味を考える

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北海道在住の三男家に待望の長女が昨年十一月に生まれたので、初節句を迎えるのを機会に二泊三日のトンボ帰りで先週会いに行ってきた。三ヶ月をすぎた赤ん坊はおとなしくて、ニコニコと笑顔で迎えてくれた。同時にすぐに三歳の誕生日を迎える上の子の長男は反抗期でなかなか手強い時季を迎えていた。北海道の冬は想像通りの厳しさだったが、あらたな家族が増えた三男家は仕事も順調で、暖かい家庭を築いていてよかった。

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孫の相手もなかなか大変だ。一緒に遊ぶには体力と気力が必要だ。よる年なみで体力の低下を感じるのはしかたがない。腰痛に神経痛に老眼にもの忘れも、この年になれば普通のことだから、嘆くことなどなにもない。孫はどんどん大きくなるので、近いうちに年老いたジイジを相手にはしてくれなくなるだろう。それが少し残念だ。

孫との遊びに加えて、長年の生き甲斐いだったアウトドアでの山歩きやトレッキングの楽しみはだんだんと敷居が高くなってきた。

あらたにインドアの趣味に取り組めば、体力もいらないし、幸い住処(すにか)は確保されているから、日々の生活で役に立つ新たな趣味をみつけたいと思ってきた。都会に住んでいるので、趣味の選択肢はひろいけれど、費用がそこそこにかからず、楽しくて、成果が目に見えるものがいい。その意味では、インドアでもっとも手軽な趣味はなんと言っても男の料理だと思って実践してきた。

男の料理の鉄則はなんだろうか、と考える。まずは、すくなくとも準備や後片付けで同居人に迷惑がかからないことが第一だ。さらに、SDGsの一環としてのアイデンティティーを確立するには、うまくできても失敗作でも、作ったものはちゃんと残り物を出さずに食べてしまえることが大前提だろう。さらにもう一つの条件としては、費用がかからずに、自分の小遣いで食材が準備できることも重要だ。高級な国産和牛や特殊な食材が必要な料理は、高価だし、時には遠方まで買い出しに出向かなければならない場合が多いだろうから交通費もばかにならないし、最初から対象外だ。すぐ近くのスーパーマーケットで手に入る材料であることも重要だ。

いまは便利な時代で、直接図書館に脚を運ばなくても、読みたい蔵書が電子書籍になっていればすぐにしかも簡単にインターネットで図書館から借りることできる。最近の料理関係本のベストセラーである「土井善晴のレシピ100」(電子書籍版、学研パブリッシング)を借りてみてみるとそれこそ昭和の時代に私たちが母親に作って貰った定番の「お袋の味」レシピが並んでいる。まさに家庭料理そのものだ。ここに載っているおかずや料理を食べて私たちは育った。目から鱗のなじみのレシピが多い。あらためて、定番こそが重要なのだと気がつかされる。

コツコツと試した自作の料理レシピ集がそろそろ目標の77種を越えそうなのだが、この土井レシピ本を読むと、書き溜めたレシピも見直しが必要かもしれないと思えてきた。書き始めた頃のあまりにも幼稚な入門料理は削除して、もう一度初心に返ったほうがよいような気がする。

もうひとつのインドア趣味は音楽鑑賞だ。これもいまではインターネットのストリーミングによって、聴きたい音楽をすぐ聴くことができる。クラシックもジャズもフォーク・ソングも、なんでもござれだ。居ながらにして自宅の書斎で何時間でも、名だたる名演奏やなつかしい歌を好きなだけ聴くことができる。

料理にしろ、音楽鑑賞にしろ、家のなかにばかり籠もっていては認知機能やコミュニケーション能力の低下が心配になってくる。やはり家の外でも楽しめる趣味も捜さなければならないだろう。

先日、最寄り駅の改札口を降りた正面の掲示板にすぐ近くのホールで開催されているコンサートのポスターが目に入った。自宅から歩いて10分もかからないイベントホールではあるが、これまで足を運んだことがなかった。このホール(ほぼ音楽堂)では昨年末にあらたに二台目のスタンウェイ&サンズ製の新しいピアノを購入し、そのお披露目のピアノ試聴会が催されるとあった。よい機会なので、一度訪ねてみることにした。

ピアニストは三谷温(みたにおん)氏(昭和音大教授)だった。生の音楽は自宅でスピーカーやヘッドホンで聴くものとは全く違う。あらためての経験に感動した。よしこれだ、今後は生の音楽を聴く機会を増やすことしたいと思った。

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ということで、さっそく昨日は横浜馬車道関内ホール小山実稚恵さんのピアノリサイタルを聴きにいった(全席指定、3800円)。コストパフォーマンスは抜群だ。

第一部はシューマンアラベスク ハ長調 作品18と同じくシューマン:幻想曲 ハ長調 作品17(第1楽章、第2楽章、第3楽章)だった。いずれも初めて聴く曲だった。途中でちょっと眠くなってしまった。

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第二部はショパンだった。ノクターン第1番、ノクターン第2番、バラード第1番、ピアノ協奏曲第2番より第2楽章「ラルゲット」(ヤン・エキエル編纂ナショナルエディション ピアノソロ版)、ポロネーズ第6番(英雄)だった。いずれもいつも聴いているよく知った曲だった。さすがにすごい。一曲目から眠気は吹っ飛び、まさに感動の嵐だった。

アンコールは同じくショパンの小曲でマズルカ一曲とワルツ二曲だった。

二時間の短いピアノ鑑賞だったが、非常に中身の濃い有意義な時間を過ごすことができた。

趣味には生の音楽鑑賞がよい。しばらく戸外の趣味はこれで行くことに決めた。

 

 

雨の日はピアノ曲三昧

ピアノ曲CD、右からルビンシュタイン、ポリーニ、藤田真央

河津や三浦の半島では桜が早々と満開を迎えたいう春の知らせが届いた。贅沢にもあちこちに別荘を持つ友人からだ。特段うらやましい訳ではないが、春が近づいていると言っても我が家の近辺では、つかの間の春の陽射しがさす日でさえ風は身を切るように冷たいし、霙になりそうな二月下旬の雨はことさらに骨身にしみる。

一昨日、昨年の秋に還暦を迎え長年の宮仕えを卒業した後輩のSY君に連絡を入れてみると、年明けともにフランスに渡りパリに長逗留しているとLINEが届いた。パリを拠点にヨーロッパのあちこちに足を伸ばして優雅に英気を養っているらしい。現役時代は海外赴任も多く苦労も多かったのだろうが、培った語学が堪能なのが羨ましい。先週はスイスに行き、来週はプラハを旅する予定だとあった。三月末まではパリにいるという。この四月からは初心にかえって二十代の新人達に混じってあらたな仕事に挑戦するそうだ。還暦を過ぎてもなお衰えぬチャレンジ精神を見習わないといけないとは思うのだが、怠け者の我が身は、なにかと理由を付けて、特に寒い日や雨の時は一日中部屋に籠もって本を読んだり音楽を聴いて過ごしている。

我が家のオーディオ機器はすでに何年も前に愛用のonkyoのCDプレーヤーが故障して廃棄してしまった以後、ブルートゥース機能すら内蔵していない貧弱な卓上のCDプレーヤーしかない。最近はもっぱら安価なブルートゥース・スピーカーかワイヤレス・イヤホンというオーディオ環境でスマートフォン経由でストリーミング配信やCDをパソコンに取り込んで再生して音楽を聴いている。聴くものはもっぱら、クラッシックかジャズが中心だ。昔なつかしいカーペンターズPPMサイモンとガーファンクルなど、穏やかなでうるさくないフォークも時々聴いている。

いちいちPCを経由して音楽を聴くのは面倒なのでCDから音楽をiPhoneを取り込む操作に挑戦しているが、なかなかうまくゆかない。悪戦苦闘の連続で、削除と登録を何度も繰り返すうち、ついに先日はブルートゥースを接続したままになっていたストリーミング配信で1カ月の上限に近いデータ通信量を一日で消費してしまい、契約しているauのデータ容量が底をついたとSMSに連絡があって驚いた。通常の一日に消費する100倍近いデータ容量を使ってしまったのだ。手伝っている認定NPO法人の理事長と雑談をした際に何気なくその話を話をしたら、音楽は何を聴くのと聞かれた。クラッシックかジャズが主で、ピアノ・ジャズならビル・エバンスの演奏が好きだと話すと、彼も同じ嗜好だと言い、クラッシックを聴く人は案外ジャズ・ピアノが好きだね、友人にも同じような趣味の友人が何人かいると言われた。そういえば、このNPO法人のベテラン理事も最近懐かしいレコードを聴いていると先日の会議の近況挨拶の際に話していたことを思い出した。意外と身近に、高齢でも筋金入りの音楽ファンがたくさんいることをいまさらながらに再認識した。

昔なつかしい所蔵のCDに加えて、最近、新たに美しいピアノ演奏のCDを三組手に入れた。

一組目は、今は亡き20世紀最大の巨匠ピアニストであるルビンスタイン(Arthur Rubinstein, 1887~1982)のショパン全集(CD⒒枚)。これは出色の演奏だ。ロシア出身で日本で活躍する女性ピアニストのイリーナ・メジューエワの 著作「ショパンの名曲~ピアノの名曲聴きどころ弾きどころ2」(講談社現代新書)を読んでも彼の演奏が数あるショパンの演奏のなかでもっとも美しいと書いてあった。彼がショパンと同じポーランドの出身なのも調和のとれた演奏に関係があるのかもしれない。

二組目は、今も現役で活躍する、イアタリアのミラノ出身のピアニストで、現代の巨匠ポリーニMaurizio Pollini、1942~)演奏の「ベートーヴェンピアノソナタ全集」(CD8枚)。彼は1960年第6回ショパン国際ピアノコンクールの優勝者だ(最近では反田恭平が2021年第18回のこのショパン国際ピアノコンクールで2位の栄冠に輝いている、彼の演奏はインターネットで聴けるが、もっとCDも出して欲しいと思う)。ポリーニの演奏はどっしりしていて積み上げたきた人生の重みを感じる。個人的にはベートーヴェンの楽曲では荘重な交響曲よりもピアノ曲が好みだ。

三組目は、我が国のみずみずしい若手ピアニスト藤田真央「モーツアルトピアノソナタ全集」(CD5枚)。彼は2019年の第16回チャイコフスキー国際コンクールピアノ部門の2位入賞者だ。まさに新進気鋭の日本人音楽家で、演奏は軽やかで華々しく、それでいて美しく、かつ清々しく調和がとれている。

これらのCDだけを朝から晩まで聴いても数日がかかってしまう。

最近は音楽CDはもう過去の媒体で、最盛期と比べるとその販売枚数は三分の一以下になってしまっているという。高音質のハイレゾなど、音楽データは今はインターネットで手軽に購入するのが当たり前の時代のようだ。しかしCDに同梱の解説書を読んだりレーベル写真を見たりするのも鑑賞の楽しみのひとつだ。目に見えないデータだけを購入する気にはならないのが、時代遅れだとは思えない。アナログレコードがいま静かなブームだそうだから、古いことが必ずしも悪いことではないのだ。いろいろな選択肢がある方が世界が豊かであるように思える。少しだけでも意地を張りたい。

今日も朝からずっと冷たい雨が降っている。

 

 

 

 

インド古代史の研究

人類最古の文明として、エジプト文明メソポタミア文明インダス文明黄河文明を世界四大文明と呼ぶのは、日本や中国だけで、世界的にはこの四大文明のみを特別視する考え方はほとんどないらしい。

とはいえ、実際、中学や高校時代の歴史や地理の授業で人類が築いた文明の始まりとして四大文明について習った記憶がある。調べてみると、四大文明という呼称は、そもそも日本で生まれたものらしいことがわかった。この概念の起源には2説あるようで、そのひとつは西欧の植民地支配の毒牙に晒されて、日本に亡命していた中国清王朝の政治家、梁啓超が1900年に唱えた「二十世紀太平洋歌」のなかで「地球上の古文明の祖国に四つあり、中国、インド、エジプト、小アジアである」と述べたことを起源とするもの。もう一つは、江上波夫という日本の考古学者に由来するもので、江上本人が「四大文明」は自分の造語だと主張したとされ、「四大文明」という語句の初出が確認出来るのも、江上か携わった1952年発行の山川出版社の教科書『再訂世界史』だとされているものだ(ウィキペディアから引用)。

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私たちが知っているインダス文明という、紀元前2500年頃から約千年近く、インド、パキスタンインダス川およびガッガル・ハークラー川(今は干上がり涸れた川になっている)周辺に栄えた文明は、現在ではその地を離れて南インドを中心として暮らすドラヴィダ人によって作られたもので、考古学上は「ハラッパー文化」と呼ばれ、パキスタン・バンジャブ州のハラッパーが標式遺跡(この時代の様式の基準となる遺跡)となる文化・文明を指している。もっとも自分はこの旅行を体験するまでインダス川インド亜大陸のどこに位置するかさえ知らなかった。おなじくガンジス川のこともよく知らず、これらがこの亜大陸の比較的北部に源を持ち、しかもこの二つに大河がかなり離れた場所に位置することを旅行中に初めて知ったのだった。二つの大河の歴史的意義の違いなど全く知らなかった。恥ずかしくも無知である。

ロータル遺跡

ロータル遺跡遠景

ロータル遺跡の巨大な港湾施設(あるいはドック)

文明や文化が突如として発生することは考え難く、その先駆けとなる歴史があると考えるのが常識的な理解だろう。インダス文明ハラッパー文化)は、さらにそれ以前の新石器時代(紀元前7000年または6000年ごろに始まった人類の生活様式)の中頃から後期にかけて西方から移動してきたドラヴィダ語を話す人々(ドラヴィダ人)が築いたパキスタン西部の丘陵地帯に位置する「メヘガル遺跡」に起源があるようだ。およそ紀元前3500年頃の金石併用時代のメヘガル遺跡の後期の層から出土した青銅器や印章、彩分土器はこの文化がインダス文明に受け継がれたことを示唆するという。メヘガルの遺跡は紀元前2500年ごろ放棄され、そののち突如として高度なインダス文明が興ったことから、メヘガルの住民がさらに移動して、インダス文明の担い手になった可能性があると指摘されている(水島司著「一冊でわけるインド史」(2021年、河出書房新社刊)」から引用)。

今回の西インド旅行ではグジャラート州のロータル遺跡と大カッチ湿原に忽然と姿を現すドーラービーラ遺跡の二つのインダス文明遺跡を訪ねた。この遺跡群は現在はパキスタン領であるこの文明最大の規模であるモヘンジョダロ遺跡や上述の標式遺跡のハラッパー遺跡の比べるとやや小規模な遺跡だが、日干しレンガや焼きレンガで作られた支配者層の暮らした城塞部や市民の住んだ住居跡は今から4500年前の古代人の営みを偲ぶには十分に鮮明な遺跡で、おそらく当時は緑豊かな豊穣の地であったものの現在では乾いた砂地となっているこの地に立っていると悠久の昔に思いが運ばれてゆく。連綿と繋がってゆく人間の生き様に感動を覚える貴重で記憶に残る訪問だった。

ドーラビーラ遺跡で発見された印章の拡大レプリカ

インダス文明は都市文明の形をとり、上水や下水などの水の管理に関する高度な施設の設営が特徴としてあげられる。また沐浴施設の設営も後のインド文化に大きな影響を残すもので、この習慣は現在のインドにおけるヒンズー教徒(ヒンディー)の沐浴習慣へと引き継がれていると考えられている。ロータルもドーラビーラ遺跡も交易都市として栄え、メソポタミア文明やペルシアと盛んに交易がなされており、インダス文字が刻まれた印章、象牙細工や装飾品などが各地で発掘されている。陸路に加えて、おそらく運河や河川を利用した水運技術も発達していたのだろう。

ドーラビーラ遺跡

ドーラビーラ遺跡浄水場

ドーラビーラ遺跡城塞内の井戸

この文明・文化は紀元前1800年頃から衰退しはじめおよそ紀元前1500年頃には姿を消した。滅亡の原因は地殻変動によるインダス川などの河川の流域の変化や気候変動による肥沃な大地の乾燥化、砂漠化などがあげられている。そして紀元前1500年頃から東ヨーロッパのギリシア系を祖先とする肌の色が白いアーリア人がこの地に至り、旧来の文明・文化と融和を図りながら、あるいは旧来の人々を駆逐・排斥しながら、新たな文明へと移行していったとされる(辛島昇「インド史ー南アジアの歴史と文化」(2021年、KADOKAWA刊))。

インダス文明のことを調べていて、面白いことを知った。文明や文化はその遺物や遺跡によって当時を物語る。特に文字がその時代を現代に伝えるもっと有効な手段である。残念ながら、印章に残るインダス文字は短文で、他の言語と同時に併記された遺品がなことで解読は進んでいない。最近のAI技術の進歩によって、近いうちに新たな歴史の扉が開くことが期待さている。インダス文明はおよそ4500年前の文化であるが、一方、我が国の青森県外ヶ浜にある太平山元1遺跡からは今から1万6500年前という途方もない古代に作られた世界最古に類する縄文土器が発見されている(「日本史&世界史ビジュアル歴史年表ー一冊でわかるー増補改訂版」(2023年、メイツユニバーサルコンテンツ刊))。この遺跡は以前に住んでいた弘前市内から車で一時間半足らずの場所だ。ユーラシア大陸の東の果てに位置するこの日本にもインダス文明の誕生以前の太古から固有の文化があったのだ。それもすぐ身近に、である。

ロータル遺跡で作業をする人たち

文字をも持たなかった古代人も言葉で意思を伝えていただろうし、明日香の石舞台を除いて石の文化遺産の乏しい日本では人の往来を今に伝える物証はなかなか見つからないだろう。

現在の日本列島に人間が移住してきたのはおよそ4万年前と推定されており、この世界最古の土器のように、今後も偶然の発見によって現在の日本人へと繋がる人の営みの起源が新たに発見されることがあるかもしれない。人は偶然に生まれ、そのうちの一部のみが偶然に生き残ったのかもしれないが、そこには必ず社会が生まれ、文化が築かれたはずである。いろいろと調べているうちに、モノや歴史には必ずその起源が存在することを改めて知る機会となった。瓢箪から駒ではないが、ちょっとだけ賢くなったように感じて、今更ではあるが、小さな驚きと感動を覚えたのだった。

 

西インドにカレーと名の付く料理はなかった

インド料理が大好きなので、外食もするし、自分でもよくスパイスカレーとかバターチキンカレーとかを作りる。インド旅行はとっても楽しみだ。

デリー空港から乗り継いで辿り着い西インドの第一印象は喧騒と放埒だった。けたたましくクラクションを鳴らしながら走る車にオートバイ、それを気にもせず走り回る野良犬とのそりのそりと歩く牛、さらにゴミの散乱。囲いのある新興の端正な住宅地には入らなかったが、大都会のアーメダバードの大通りや旧市街の観光地を除き、小さな町の繁華街や下町、商店街の路地には犬と牛とゴミが溢れていた。まさに混沌と混乱と無秩序が同居している状態だった。ごみを塀越しに道路に捨てる光景も珍しくなかった。あちこちの窪みや床下はごみ溜め状態で、そのごみの中に牛が頭を突っ込んで餌を捜している。露店の店先や屋台のまわりは箒で掃除をしているが、視線をずらすとあたりはごみだらけであった。

いろいろな角の形の牛がいる

ホテルのすぐ前の道、どこにでも犬と牛がいる

牛が露店の野菜を盗んで食べている

飛行機の機内食を含めて、西インド・グジャラート州10日間の旅では、朝早く出発した際の2回の朝食が弁当であった以外はずっとカレー味の料理を食べ続けた。とても辛いもの、甘味のあるもの、味はいろいろだったが、スープ以外の料理はすべてと言ってよいほどチリパウダーで味付けがしてあり、辛味があった。

インド国民の大多数を占めるヒンドゥー教徒は殺傷をせず、食事は菜食が基本だ。肉や魚を避けるためだろう、そのためバイキング料理ではすべての料理の前に料理名か素材が表示してあった。ウエイターが直接皿に盛ってくれる料理もかならず料理名を告げてから皿に入れてくれた。読めない名前や意味のわからないの料理が多かったが、なかにはカリフラワー・マラサとか、素材のあとにマサラ(masala)と書いてある料理がしばしば見受けられた。おそらく旅行中に合計で数十種類以上の料理を食べたと思うが、ホテルやレストランの料理名に○○カレーという料理には一度もお目にかからなかった。インド、少なくとも西インドにはカレーと名の付く料理はないのであった。

masalaはいろいろなスパイスを混ぜた調味料やそれを使った料理を指すようだ。帰国して調べてみると、「カレー」の語源は、かつてインドを植民地化したイギリス人が、いろいろなスパイスをミックスした香辛料を「カレー粉」としてヨーロッパに広めたことが始まりのようだ。カレー(Curry)という呼称はインドのタミール語でソースを意味するカリ(Kari)に由来するという説やヒンズー語の「香り高いもの」や「美味しいもの」を意味する「ターカリー(Turcarri)」から「タリー(Turri)」に転じて英名になったという説があるらしい(全日本カレー工業協同組合HPより)。

食べたカレー料理の一部

このスパイシーな郷土の料理を、酒を飲まずに濃厚なチャイ(ミルクティー)を片手に、目的を達成すべく、一生懸命、一心不乱に、毎食まさにたらふく食べ続けた。なかなか味は複雑だ。ホテルやレストランによっても微妙に味が違うので、いくらでも食べられる。しかし、である。予想通りというか、当然というか、案の定、旅行2日目からみぞおちのあたりが熱くなり、胃薬と消化薬を飲みながらも食べ続けたところ、とうとう旅行4日目には胃が刺すように痛くなってしまった。新年早々、ダウン状態。「カレー負け」して、1月1日の午後には胃痛がひどくて夕食は抜きになってしまった。これで西インドカレー飽食旅行はあっけなく幕引きとなった。その後は生野菜を中心に食べ、スパイス料理は食べ過ぎないように量を控えめにして、なんとか帰国まで大事に至らずに過ごすことができた。過ぎたるは及ばざるが如し、の例えを身をもって体現してしまったカレー修行であった。

ちなみに、帰国して最初に成田空港で食べた昼食はカレー南蛮鶏肉蕎麦だった。やっぱり日本のカレーは美味い。なんと言っても、日本のカレーが世界で一番美味いことを改めて実感した。これだけは自信を持って話せるが、カレー料理は日本が最高だね。