読書会4:世界を動かす石油戦略(著:石井彰、藤和彦)

文責:駒村和彦 

本書では、現在でも主要なエネルギー資源である石油に対して、様々な切り口によって石油をめぐる世界情勢が詳細に記述されている。そしてまた、今後起こりうる世界のエネルギー事情の変化についても述べられているが、現在(2006年)の実際の状況と比較しても、出版当初(2002年)のその指摘が的確であったことが納得できる。
一見、建築デザインとは直接結びつき難いような内容だと思う。しかし、年々環境志向の高まる時代において、省エネルギーについて考えることは分野を問わず必須条件となっている。そのため、未だ日本のエネルギー消費の大半を占める石油について知ることは不可欠であろうと思うし、それを無視して省エネルギーは語れないと言っても過言ではないと思う。そんな意味からも、本書を読んで学ぶ意義はとても大きいと感じた。
内容を簡単にまとめて紹介すると、
・石油に関する一般認識の誤解
・2001年のNYテロ事件以降の石油情勢の変化
・ロシアの産油国としての存在感の高まりと、米ロ関係
・国際石油市場の更なる不安定化
・日本としての対応策と、今後のエネルギー政策
などと、全体的にはエネルギー政策に関わる堅い話が多い。ただ、その中でも面白いと思ったのは、「石油に対する誤解」の指摘だった。例として、「石油確保は産油国との友好的な二国間関係を結んでこそ安定する。」とか、「中東から特定国への輸出が制限されると、石油不足が起こり再度オイルショックが勃発する。」のように、一見その通りだと思われることが、本書では広範囲の視点からの観察により否定されている。現在の世界のエネルギー政策は、意外にも思い込み的イメージの影響が少なくないことを知り驚いた。
そもそも建築を学ぶ上で省エネルギーを考えるとき、“再生可能エネルギー”や“高効率”などのキーワードが浮かんでくるが、実際にエネルギーを取り巻く世界の状況はそんなに簡単ではないのではないか。世界の資源・エネルギーは、政治、宗教、経済、環境問題などの様々な要素の影響を受けており、その一部が建築の世界に影響を与えているだけであると感じさせられた。また資源・エネルギーと一言で言っても、例えば石油とガスは互いに影響し合ってその供給量が調整され、価格が設定されている。たとえ近年の地球環境保護の動きによって、ガスを使用する分散電源化が拡大され脱石油化が進んだとしても、それを食い止める方向に石油市場価格が調整される。そのために、単純に「環境のために、石油とガスの消費割合を逆転させよう!」というような、特定のエネルギー使用を極端に増減させるような操作は不可能である。
では環境にも優しく、使用時の効率も良いエネルギー使用を拡大させていくことは不可能なのだろうか。自分は、実はそこにデザイン・設計という活動が生かせるフィールドがあるのではないかと思う。
まず、現時点から特定のエネルギーの使用拡大をするには、①制度の整備、と②需要の拡大 の両方が不可欠であると言える。強力な需要は大きな起爆剤となり、供給サイドへの強烈なメッセージとなる。供給は増加し、結果的に他のエネルギー使用を削減する。そのための制度を整備することが大前提であるが、それを需要に結びつける手段の一つがデザイン・設計であると考える。
例えば、太陽パネルの使用面積が昨年まで一位であった日本だが、先日ドイツに追い越されたという。ドイツが躍進する一方で日本が伸び悩んだ理由は、政府からのパネル設置補助金が年々減らされたことが大きな原因の一つだと言う。しかし、それだけではないと思う。この太陽パネルの需要を促すようなデザインや、パネルを屋根にきれいに納めて、持ち主にかっこいいと思わせる設計は無かっただろうか。的外れな妄想かも知れないが、政府とデザイン・設計家がタッグを組んで一斉に動き出していたら、結果は変わっていたかもしれない。
 環境から考えるデザインには、様々なスケールがある。その一端の考え方として、このような大きな枠組みの中でのデザインの効果を意識することも重要であるのではと感じる。

読書会3:成長の限界(著:ドネラ•H•メドウズ)

〜多元論のススメ サステナブルな社会の実現のために必要なこと〜
文責:川島範久 

1972年に出版されたこの「成長の限界」という本の中で述べられていることと全く同じようなことが30年以上経った現在でも声高に叫ばれているというのは皮肉なことである。この本の中で著者は我々人類に次の様な警鐘を鳴らした。現在このまま人類が人口と工業の成長を続けると100年以内に地球上の成長は限界点に到達する。仮に新しい技術進歩を取り入れたとしても、必ずや食糧不足、資源枯渇、汚染の限界のいずれかに突き当たり「成長の限界」をむかえる。
そこで次の様な提案をする。我々人類は、人口と資本を増加させる力と減少させる力とが制御されたバランスに達し人口と資本が本質的に安定的な状態であるような「均衡状態の世界」をつくれるように成長の計画的抑制をし、突発的で制御不可能な破局を招くことがない持続性をもち、すべての人々の基本的な物質的要求を充足させる能力をもつようなサステナブルな社会を実現するべきである。
 さらには、技術進歩は、成長の限界を打破するものとしてではなく、均衡状態を実現するために求められるものであると言い、具体的に以下の技術進歩の必要性を訴える。これはまさに現在でもサステナブルな社会の実現のために必要だと叫ばれていることである。
1. 廃棄物の回収、汚染の防除、不用物を再生利用するための新しい方法。
2. 資源の枯渇の速度を減らすためのより効率のよい再循環技術。
3. 資本の減耗率を最小にするため、製品の寿命を増加し、修復を容易にするよう
なより優れた設計。
4. もっとも汚染の少ない動力源である太陽エネルギーを利用すること。
5. 生態学的相互関係をより完全に理解した上で、害虫を自然的な方法で駆除する方法。
6. 死亡率を減少させるような医療の進歩。
7. 減少する死亡率と出生率を等しくすることをたすける避妊法の進歩。
そして最後に筆者は言う。人類はそのような社会を実現できるだけの強力な知識と道具と資源を併せ持っている。唯一欠けている2つの要素は、人類を均衡社会に導きうるような現実的かつ長期的な目標とそれを達しようとする人間の意思であると。
さて、ここからが本題。以上の事は正論だと思うし、大賛成である。是非そのようなサステナブルな社会を実現しようではないか。しかし、重要なのは方法論である。みな頭では正しいとわかっていても、なかなかそれに向けて動き出せない。30年前と全く同じ事が現在でも叫ばれているのがまさにそれを表しているだろう。思うに、現在はまだまだそれを実現する素地さえ整っていないのではないか。問題はとくに「人々の価値観」にあると考えている。人々の価値観が「一元的」である、すなわち「資本」という物差しでしかモノの価値を捉える事ができなくなっていることが大きな問題だと考えているのである。
ただ、そのような問題をかかえているのは主に都市化している場所である。都市は全て人間の意識が作り上げたものであり、自然は一切排除されている。草木があるといってもそれらは人間が計画的に植えたり整理したものである。冷静に身の回りを見てみると、人間の手の加わっていない自然なんてどこにもない。都市はまさに人間の意識の産物なのだと。そんな人間の意識のみで構成された都市に住む人間が物事を、人間の意識が作り上げた物差しでしか見ることができないのはごくごく自然なことなのかもしれない。
しかし、僕らのご先祖たちがまだ狩猟や採集ばかりをしていた頃のことを考えてみると、その頃は価値観は非常に「多元的」だったのではないかと思われる。
この頃はそもそも人口にも資本にも本質的な限界があった。動植物の獲物を一定以上取ると翌年にはかならず不足し、飢えにおそわれる。だからけっして目いっぱい働いてはならず、ライオンも狩猟民もブラブラしている時間が長かったのである。何らかの理由で気候が極端に変わったりすると、実りが減り、動物も減り、人間は飢えにおそわれる。まさに自然に支配されていたのである。
そのような世界では、現代のような価値観では生きていけない。自分の「資本」、この時代で言えば「食糧」だったりするものの「量」に価値を置いていてはやっていけないのである。「資本」は生きていく上で最低限の量で満足することにして、それ以外のものに価値を置くしかなかったはずである。生きていく上で最低限の実りが維持されますようにと祈る宗教活動に価値を置くひともいれば、愛するひとの命、子どもの命を守ることに価値を置くひともいたかもしれない。もしかしたら狩猟する際のテクニックを磨くことに価値を感じていたひともいたかもしれないし、祈りのための壁画を描くという行為に価値を感じていたひともいたかもしれない。
 そう。かつての地球では、人々は多元的な価値観を持ち、意図せずとも均衡状態の世界=サステナブルな社会を実現していたのである。しかし、農業が発見されてからそれは変わり出した。働けば働いただけ田畑が広がり沢山実り、人口が増え、増えた人口は田畑の拡大に向かうというサイクルが生まれたのだ。結果、都市が生まれ、人口と工業生産の幾何級数的な成長が始まり、軍需競争、環境悪化、人口爆発、経済停滞といった世界的かつ長期的な問題を生んだのである。
そして「成長の限界」が見えてきたのである。そのためにはこの本で述べられているように、成長を抑制して「均衡社会」を目指さなければならない。その際に必要になるのが、我々のご先祖たちが持っていた多元的な価値感である。冷静になって身の回りのことを考えてみよう。よく見てみれば、この世の中には「資本」「お金」「経済」といった物差しでは測れないものが一杯あるではないか。サステナブルな社会を目指すために、うわべだけの制度の改正や小手先の技術の追求ではなくて、まずは多元的な価値観が認められる様な社会にすることから始めよう。自分が出世して資本を増やすことよりも、例えば「子どもを育てる事」の方がよっぽど価値のあることかもしれない。現在日本では少子化が問題になっているが、国の制度が悪いだなんだ言われているが、実は、子どもを産むと育児に時間をとられ自分の出世が遅れる事を心配してというケースが多く、要はただ「子ども」自体に価値を感じていないことが最も大きな原因なのである。つまり「資本」という物差しでしか物事を考えられなくなっているから、「子ども」はただそれを邪魔するものとしか捉えられないのだ。
資本の物差しで評価しにくい芸術やスポーツの方にだってもっと価値を認めるべきかもしれないし、愛するヒトとゆっくり時を過ごすことだってもっともっと価値を認めるべきかもしれない。
資本の「増加」にしか価値を認めないという考えは捨てて、資本は「現状維持」でよしとにして、その余暇時間で行うことに価値を認めていく。それでようやくサステナブルな社会を目指す条件が整うのではないだろうか。

読書会2:(著:リチャード•ロジャース、アン•パワー)

〜シームレスでスケールを超えた、
サステナブルデザインの実現に向けて〜
文責:今井将人 

本書は、『都市 この小さな惑星の』の続編として、建築的な視点と社会学的な視点を結びつけながら展開する都市再生論である。そして、多くの調査・研究資料をもとに、建築家リチャード・ロジャースと研究者アン・パワーが、現在の都市問題を明らかにし、根本的な解決策を提案するとともに、主にイギリスの都市での実践を通して都市の美と価値を訴えている。
具体的な問題としては、郊外へのスプロール、エネルギーの濫用、環境破壊、疲弊した中心市街地、隔絶したコミュニティといったことが挙げられ、こうした問題が消費の少ないコンパクトな生活へとわれわれを向かわせつつある、と述べられている。そして、コンパクトシティに向けて、建築による解決策・都市計画による解決策・交通による解決策など様々なスケールからのアプローチが提示されている。例えば、建築による解決策であれば、イギリス固有のテラスハウスのフレキシブルさに着目しており、リノベーションによる建物を長く使用する住まい方を進めている。都市計画による解決策であれば、建物の集積、用途の混合、街路への大きな開口、魅力あるファサード、公共のオープンスペース、都市のアクティビティの連繋、より高い密度の必要性を述べている。また、交通による解決策であれば、バス・トラム・鉄道・道路・自転車・歩行者が統合された地域の交通計画の料金の乗り換えにまで踏み込んだ、ソフトとハードの両面からの対応を求めている。繰り返すが、これらの解決策はすべて、『サステナブルなエネルギー計画とコンパクトなデザイン、そして環境の負荷の最小化』という共通の目的のもと、この目的を達成するためにはそれぞれがシームレスに連繋しなければならないことを主張している。
それでは、この本が環境的視点から建築を考える人たちに示唆しているものは何であろうか。それは2つあると思われる。1つめは、すでに述べたが「スケール横断的な思考」だ。もし、DECo的な建築が局所的に実現されたとしても、それらが周囲と連続していかなければ本当の意味での効果を持たないであろう。そのためにも、個々の建物だけに完結せずに、例えばドイツのシュトゥットガルト市における“風の道”のように、街区単位での建物配置をも考慮した、学問の枠を超えた横断的な協力体制が早急に求められる。そして2つめは、「評価システムの確立」だ。こうした学問横断的な協力体制を確立するためにも、建築物の環境品質・性能と環境負荷を評価するCASBEEにとどまらず、環境建築を都市の中でも評価できるシステムなるものが必要なのかもしれない。
この本は、建築の都市における役割を考えるときに示唆に富むものが多い。そして、一見とても壮大な問題であっても、リチャード・ロジャースがあらゆる点から建築にできることを、カタチに落として実現しようとしている姿勢に学ぶべきことはたくさんある。建築にできることの、さらなる可能性を追求したいときに手にしてはどうだろうか。

読書会1:環境としての建築(著:レイナーバンハム)

小見山陽介

『環境としての建築』
原題は『Architecture of the Well-tempered Environment』という。だからこれは大いなる誤訳かもしれない。しかし最終章まで読み進んだとき、むしろ僕はこの題名のほうがしっくりくるような気がしたのである。建築という概念が解体されていく溶解状態をバンハムは描いているのであると。「環境」という言葉は使われる場面で異なる意味を持っている。環境保護といえばそれは地球上の自然のことであり、僕らデコの母体となったの環境系研究室は建築の設備を扱う研究室である。しかし本書の題名で言うところの環境とはそのどちらとも少しずつ関係しているが、違う。バンハムは、技術的革新に対して今まで建築家たちは自分とは関係のないものとして目を背けてきてしまった、と批判する。彼が本書中で語るのは、そうした流れに逆らって技術と向き合ってきた者たちの姿である。しかしそれらは必ずしも通常の建築史の中で扱われるような出来事ではなかった。ヨーロッパとアメリカを比較したくだりが象徴的である。技術の文明化を目指し機械美学の確立を目指したヨーロッパの近代建築が得た結論は、合理的な思考に基づく合衆国のエンジニア的アプローチが到達していたものと結果の部分では一致したのであるが、それら現実的な機械技術は理想としての機械美学とはけして相容れることのできないものであった、というように。バンハムは本書の内容を「前例のない建築史」であると表明する。それに対する建築の正史とは、建築を形態と機能に分割し、機械的な部分は文化的な部分とは対立するものである、と考えるものであった。その結果「建築」として扱える範疇は非常に狭いものになってしまい、その制限内で建築を考えるかぎり機械設備という新しい要望は克服すべきものであり、しかしかえって全面的な屈従に終わってしまうのである。しかしバンハムは、ドライブインシアターを例に挙げ、現代では「建築」すること以外の手段でも管理された環境をつくることはできると言い放つ。それらの“建築物”では、環境技術が建築の不快適さを補助しているのではなく、環境技術そのものが空間をつくっている。それを従来の建築史における建築と区別してバンハムは仮に「環境」と本書中で呼んでいるのである。環境調整技術によってつくられた広義の空間が「環境」なのである。ここまで建築の概念を拡張すれば、フラーもアーキグラムラスヴェガスも建築なのである。彼らの建築を建築史に記載する術こそが、本書の題名なのである。いずれにも共通しているのは、建築家が機械という新たな存在に対して身構える一方で、それらは建築の門外漢によってつくられた空間であるという点だ。バンハムは機械時代の建築、環境調整された建築が今後千年残る=歴史になるためには、その方法に対してふさわしい造形が一般化する必要があると結論付ける。近代に出現したあたらしい空間概念=環境は建築のエッジを押し広げることとなった。新しい技術・新しい要望に対し、建築もその根本から変わっていくことを求められている。その際に、建築はこういうものであるという固定観念は取り払わなければならない。フランクロイド・ライトのサステイナブルデザイン的先駆性に注目した唯一の本でもある。
邦訳版は現在出版社で絶版扱いとなっている。復刊が待たれる。

インタビュー

「環境とデザイン」をテーマとして、東京大学建築学科の異なる系の先生方にインタビューを行いました。

難波和彦(意匠系)
・坂本雄三(環境系)
・松村秀一(工法系)
・坂本 功(構造系)


読書会

環境とデザインというテーマに向きあうにあたり、僕らはまず自分たちのスタート地点を確認することから始めました。実際にものをつくる活動と平行して読書会は続けられ、読書会のテーマから新たな活動の方針が見つかったりもしました。

・環境としての建築(著:レイナー•バンハム)
・都市 この小さな国の(著:リチャード•ロジャース、アン•パワー)
成長の限界(著:ドネラ•H•メドウズ)
・世界を動かす石油戦略(著:石井彰、藤和彦)
・木造建築を見直す(著:坂本功)