さっぱりリベラリズムではない現代的リベラルの二つの源泉

現代においてリベラルと呼ばれる立場や人々に、私はよく理解できないところが多くある。マイノリティの権利と称して極端な考えを他人に押し付けようとしたり、被害者(とされる人)の主観を絶対視したりと、あまり正気に見えない。私はロールズを始めとする政治哲学を個人的に勉強していてまあまあ詳しいと思うし、左翼と近代主義の区別ができない日本のネトウヨなんて馬鹿にしている。そんな私でも現代にリベラルと呼ばれるものが、私が理解しているリベラリズムと違っているとしか思えなくて、長らく困惑していた。

現代的リベラルの源としての文化左翼―ローティ―

そんな訳の分からないリベラルは日本の特殊事情だろ!…と思おうともしたが、アメリカでも似た事情があるらしいのでそうとも言い切れない。私はそうした立場や人達を(正統派リベラリズムと区別して)現代的リベラルとここで呼ぶことにするが、それはポストモダン左翼と呼んでもいい。最近はそれはアイデンティティ政治として批判されているが、それは1990年代に文化左翼としてローティに批判されていた思想と同じだ。

改良主義は否定されている。改良主義的左翼にとっては,改良の道徳的責任の条件として,みずからがアイデンティファイする対象一ここではアメリカという国家一が要求されるであろう。これは個人の自尊心と同じかもしれない。しかし,端からアメリカという「システム」の転覆を狙うラディカルにとって,そんなものは微塵も必要ないのだ。「議会で多数派を」などと叫ぶのは,幼稚な子供の所業である。ローティによれば,「差異の政治」「多文化主義」そして「文化系研究」は, まさしくこの「システム」転覆のための道具である。
「学界内左翼は固く信じている。この手の思考様式を転覆するためには,我々はアメリカ人たちに他者性を認識することを教えなくてはならないと。この目的のために,左翼主義者たちは,女性史,黒人史,ゲイ研究,スペイン系アメリカ人研究,そして移民研究などの学問領域を統合することに力を尽くしてきた。」(AOC,79)

渡辺幹雄「左翼を健全化する R・ローティの見る現代アメリカ左翼事情(1)」p.615-6より

ここで引用を止めると誤解しか与えない(マイノリティの権利を否定するのか!)ので、次の引用と必ずセットで読んでほしい。

以上の考察から総合的に明らかであると思われるのは,「差異の政治」一文化的差異に眼をつぶるのではなくそれを固持しようとする政治一が,「現実政治」の場面で具体的なイニシアティヴをとれる可能性は低い,ということである。なぜなら,「国政レヴェルの選挙で多数を勝ち取ることができるのは,仲間である(commonality)というレトリックだけだからである」。「もしも文化系左翼がその昨今の戦略一お互いの差異に頓着するのを止めさせるのではなく,お互いをその差異において尊ぶことを求める一に執着するのなら,それは国家レヴェルの政治において仲間意識(a sense of commonality)を創造する新たな方法を発見しなくてはならないだろう」(AOC,101)。

渡辺幹雄「左翼を健全化する R・ローティの見る現代アメリカ左翼事情(1)」p.220より

つまり、本気でマイノリティの権利を実現したいなら、より多くの国民にその必要性を理解してもらって政治で多数派を取るしかない。しかし、マイノリティを理解しないとされる人たちを無闇に敵対視するアイデンティティ政治(差異の政治)は、何も変えることのできない政治的な効力のない自己満足でしかない。なぜこんな不毛な考え方が現代的リベラルとして広まったのか?ずっと疑問だった。

引用した論文では後編でデリダフーコーが取り上げられているが、これは現代的リベラルの直接的な源泉として理解するのは難しい。ここではもうちょっと関連性がより直接的で強い源泉を二つ取り上げたい。

一つ目の現代的リベラルの源泉―ラクラウ&ムフ―

ラクラウ=ムフの議論が前提しているのは、アイデンティティが階級や経済的土台によって決定されるとする本質主義を放棄し、むしろ主体がある言説内でどのような位置を占めるか、あるいは社会におけるどのような諸要素と節合されるかによって偶発的に決定されるという、アイデンティテイの非本質主義的理解である。このために導入されるのが 「言説理論discourse theory」であり、ラクラウ=ムフはイデオロギー的諸要素の意味や社会的行為者のアイデンテイティがア・プリオリに決定されているのではなく、つねにすでに未決定な状態、もしくは不完全な状態であることを示したのである。

「境界効果」の産出〔……〕はかくして、明確かつ所与の分離のうえに、また、最終的に獲得された参照枠組みのなかに、基礎を置くことをやめるのである。この枠組みの産出、そして、相互に敵対的に対決するようになるであろう諸アイデンティティの構成が、いまや第一の政治問題となる。(Laclauand Mouffe 2001 [1985) : 134=2000: 212-13)

ここで「第一の政治問題」と言われているものこそ、階級的紐帯から解放され、社会内に浮遊したアイデンティティを固定化するべく繰り広げられるヘゲモニー闘争なのである。 ラクラウ=ムフによれば、社会内の諸要素のアイデンティティは階級によってア・プリオリに決定されるのではなく、節合実践を通じた他の諸要素との関係において、偶発的に重層決定されるものである。

山本圭「E.ラクラウにおける主体概念の転回とラデイカル・デモクラシー」p.88より

ここで論じられているのは、現在にアイデンティティ政治と呼ばれているものそのものである。アイデンティティ政治は最近はさんざん批判されている(引用したローティ論でもされてる)ので、ここではこれ以上は詳しく扱わない。ただし、私自身は批判すべきはアイデンティティ政治よりも差異の政治と呼ばれるべきだと思う。

アイデンティティ政治は現代に人々をバラバラにしている状態の原因ではあるが、アイデンティティ政治を全面否定するのは危険なことだ。始めてある問題や不満(例えば同性婚)を持ったときに、当初は共感してくれる人がほとんどいない可能性がある。その時にその問題に注目してもらう過程で、何かしらのアイデンティティを軸にするのがいけないとは言えない。駄目なのはとりあえずの仲間探しの手段でしかなかったアイデンティティ政治が、細かく敵と味方を分ける差異の政治に変換してしまった時だ。差異の政治に陥ってしまうと、それ以上に味方が増えないので政治的な影響が持てなくて何も変わらない。こんなのはやってる感だけのただの自己満足だ。

ただし、当のラクラウ&ムフはその後に左派ポピュリズムに向かっていったが、それは差異の政治だけの政治的無力からの展開としては正しいとしか言いようがない(味方を増やすがゆえのポピュリズムであり、安易に批判する奴は分かってない)。なのに、いまさら差異の政治だけが一般に広がってしまったのはSNSの影響が大きいのかもしれない(正確にはスマホの普及によるSNSの大衆化)。これについては私は憶測しか言えないので、ここではこれ以上は触れない1

二つ目の現代的リベラルの源泉―ドゥオーキン―

以前に、アメリカでトランプがまだ大統領だった頃に、最高裁判事に右寄りの人を指名したことがあった。その時にもここにブログ記事を書いたが、その後もアメリカの司法審査制を理解した上での説明を日本では見ることがあまりなかった(学者は何やってるの?)。

比較的に最近になって、アメリカのリベラルの失敗は司法依存にある!というネット記事を見てナルホドと思った。現代的リベラルの奇妙さ(なぜ政治的影響を持てないのに差異の政治を続けるのか?)の源はそこにあったと気づいたので、それをここで軽く説明したい。

以上のように、ドゥオーキンは、自らの構想するリベラリズム市場経済と代表民主制という二つの制度の下では実現されないと結論づける。その理由は、生まれつきのハンディ・キャップなどによりたまたま「少数者」といわれるグループに属する人々は、自らの選択の及ばない事由により、種々の不利益扱いを受けるからなのである。
[…略…]
「もし[少数派の]諸権利が裁判所によって認められたなら、これらの諸権利は、議会によって実効あるものとされたことがなくまた将来されることがないであろうにもかかわらず、実効性あるものとなるのである。
[…略…]
少数者がこのようにして獲得し得る能力は…立法的諸決定に対する司法審査というシステムの下で、最大となるであろう。」
ここまでくると、なぜドゥオーキンがその法理論において道徳的権利という権利概念を設けたのかは、もはや明白というよりほかはない。かれは、代表民主制下においても少数派はその主張を充分に展開することができないという認識に立ったために、少数派の主張をその政治的機能において十全に展開せしめ得るには、外的選好の圧力から免れたそれとは別のチャンスを設けなければならなかったのである。かれはそのチャンスを司法過程に求めたのであるが、そこでもし、権利は議会の制定法により創設されるもの以外ではあり得ないとする実証主義的理論構成をとったのでは、その制定に自らの意見を反映させることのできなかった少数派の救済の場のして機能し得ないことは言うまでもない。

旗手俊彦「ドゥオーキン権利論の社会哲学」p.779-80より

司法審査とは、最高裁で立法された法律を超えて違憲性を判断するアメリカの仕組みであり、独立した機関である憲法裁判所と違って個々の裁判の中で憲法に反しているか?が判定される。ドゥオーキンは司法審査によって司法が政治的な立法に対する強い力を発揮することができ、それによってマイノリティ(少数派)の権利を守ることができるとしている。アメリカのリベラルなあり方は(政治ではなく)司法によって可能になっていたとも言える。しかし、その希望はトランプ元大統領の最高裁判事の指名によって打ち破られた。

アメリカの現代的リベラルがマイノリティの権利を叫ぶだけのアイデンティティ政治を平気でやってこれたのは、政治的に多数を取らなくとも司法審査によってそれが実現可能だったからだ。だが、それはアメリカのリベラルの怠慢であり、現に中絶問題を見れば分かるようにそのやり方は今や通用しなくなっている2

自分はロールズを見て、現代的リベラルはリベラリズムではないと思っていたが、実は現代的リベラルはドゥオーキン的な意味ではリベラリズムであると言えなくもない。しかし、リベラリズムを政治的に実現するのを前提としたロールズと違い、ドゥオーキンの権利基底リベラリズムは司法を通して実現できるとしたが、これは最高裁判事に依存した都合の良い想定でしかなかったのだ。

もちろん、日本ではアメリカにおける司法審査に当たる違憲立法審査権が行使されることなど滅多にない(これは司法消極主義と呼ばれる)。たとえ違憲判決が出ても日本では何の実効性もない(最近の同性婚判決を見よ!)。日本では権利基底リベラリズムは成立できる基盤がそもそもない。

差異の政治+権利基底リベラリズムとしての現代的リベラル

現代的リベラルとは「差異の政治+権利基底リベラリズム」の組み合わせであり、その実現はアメリカの特殊事情に依存している。しかし日本では事情が異なるので、日本で差異の政治をやることにはあまり意義がないはずだ。

この前、日本で合理的配慮を求める法律が施行されることに喜んでいたリベラルな人がいた。その喜びは結構だけど、そもそもその法律が通ったのは別に日本のリベラルの力ではない。日本の法律の多くは官僚が作ったものであり、それが良い法案であったとしてもそれは官僚の気まぐれでしかない。日本のリベラルは日本の官僚(行政)に一方的な期待をしているところがあるが、例えば日本の難民対応(人を死なしてる!)を見れば分かるように、日本の行政(官僚)に都合の良い期待をできる根拠はない。

私的領域のことで威張るしかない現代的リベラル

(特に日本では)政治的にも司法的にも行政(官僚)的にも効力を持てない現代的リベラルとは何なのだろうか?日本の現代的リベラルは公的には影響力を及ぼせないが、代わりに私的領域への影響は駆使している。つまり、日本の現代的リベラルとは他人の生活に口を出しているだけなお節介な(自称)風紀委員でしかない。せめてクラスの決まりとして同意してもらう力ぐらいある学級委員ならまだマシだが、それでさえない。公的な力を発揮できないから私的に口を出すしかないのだ。

日本の現代的リベラルが公私の区別に無頓着なのは、例えばルッキズムの理解に表れている。ルッキズムの本質は、見た目とは関係のないこと(能力)を判断するのに見た目が影響してしまう問題にある。しかし、日本ではルッキズムを見た目の判断そのものだと勘違いされていることが多い。見た目の好みは私的な問題であり、例えば就職におけるルッキズム(見た目が能力より重視される3)ような公的な問題とは異なる。

マイノリティの権利を本気で実現したいなら、それを実現可能な形に仕立て上げて人々を説得して政治的に多数派を取らなければならない。しかし、現代的リベラルはそうした努力をする気などなく、人々の私的領域を脅かすことで威張っているだけだ。もちろん私的領域は公的領域と関連していて、時には連携していて切り離すことはできない4。だが、それは例えばマイノリティは自分たちの仲間であると思わせる…といった政治的な努力をしなくて良い言い訳にはならない。

最後に注意しておくが、私がここでやりたかったのはネトウヨのようなリベラル叩きではない。日本のリベラルとされる人たちにも色んな人がいて、その中にはここで指摘したような問題の多い現代的リベラルもいるということだ。むしろ私は日本で正統派リベラリズムがもっと広がるべきだと思っている。そのためにも、害悪なリベラルぶりっ子はきちんと批判されるべきだと思う。


  1. SNS上などでアイデンティティ政治が戦われているのは、承認欲求の表れかもしれない(その点では陰謀論も似ている)。承認欲求を満たすのが目的であるが故に、政治的影響を持って社会を変えることは別に目指されてはいない(陰謀論もそれが真実か?は信者にとっては重要ではない)。被害者の主観の絶対視(私が思っていることが全て正しい!)は承認欲求の行き着いた先なのだろう。
  2. ただし、アメリカの中絶問題への違憲判決に対しては日本では誤解が多い。これが意味するのは中絶問題は州ごとに決めろ!であって、州ごとの政治的な決定という最後の砦は残されている。アメリカの連邦制がちゃんと理解されていない。
  3. ただし、職業によっては(職業の特性上)見た目が重視されるのは仕方がないことであり、それは問題ではない。重要なのは、本来は見た目と関連のないことの判断に見た目が影響してしまう件にある。ちなみに、見た目の好みの問題はそれ自体に問題がない訳ではない。しかし、それは見た目の好みの多様性の問題であり、ルッキズムとは分けるべきだ。
  4. 日本でケアや贈与や徳倫理が持て囃されるのは、それらが私的領域にありながら公的な影響があることに由来する。ケアや贈与や徳倫理の本質は、民主主義や資本主義といった近代的システムから外れた外側(私的領域)にありながら、それらがなければその近代的システムそのものが立ち行かなくなるというパラドキシカルなところにある。故に、単なる私的努力(ケアや贈与をしましょう!)でも公的機能(ケアは全て国家が担うべき!)でもどちらでも解決はしない(全て市場に任せるのも問題だらけだ)。

大規模言語モデルについての戯言

  • substack notes向けに書いた独り言をこっちに転用。ただの思いつきであり、大きな間違いはないと思うが確認はしてない

フォーダー&ルポア「意味の全体論」は、(比喩や見栄ではない)私の文字通りの愛読書だが、最近もチャーチランドの章を読み返した。チャーチランドはコネクショニストとして有名だが、対してフォーダーはコネクショニズム批判で有名だ。この本でもコネクショニズムを批判に論じているのだが、今の大規模言語モデルの時代に読んでもなかなかに面白い。

フォーダーのコネクショニズム批判として有名なのは、言語の体系性を反映できないことだが、それは他の学者による最近の論文でも大規模言語モデルの欠点として指摘されている。これは大規模言語モデル自然言語と異なる最大の欠点の一つだと思うが、まさにフォーダーはそれを三十数年前に指摘していた。つまり、三十数年も経ってフォーダー&ピシリンによるコネクショニズム批判という宿題にやっと答えが出てきたのだ(ただし、自然言語に体系性が本当に必要か?は別の問題)。

この本では、チャーチランドに対して彼のコネクショニズム的な理論が意味論的か?心理物理学的か?ごっちゃになってると批判されているが、その点では現在の大規模言語モデルは意味論的モデルそのものだ(ただし大規模言語モデルは文法と意味の区別はない)。チャーチランドによる語だけで閉じた意味論的モデルは、語ごとのベクトルの近さで語の意味が定まるが、これは大規模言語モデルの語予測モデルに近い。ということは、大規模言語モデルは外部(知覚)との関係は全く反映されないので、チャーチランドの想定するような心理物理学的なモデルではない。もちろん、言葉から画像を生成するAIはあるが、これは語が何を指してるか?という指示はできてない(文全体が画像を生んでいる)ので、意味の理論としては成立してない。

形式意味論(可能世界意味論)-概念役割意味論(推論主義)-コネクショニズム(大規模言語モデル)…と並べてみると、指示で意味を決める形式意味論から、語同士の推論的な関係で意味を決める概念役割意味論、そして推論的な合理性さえ前提としない大規模言語モデル…と指示や論理の具合の違いが分かる。

形式意味論は、指示が意味を決めているので、意味に世界の構造が反映されている(だから形而上学と結びつく)。概念役割意味論は、指示は無関連で使用された語の関係が意味に反映されているだけだ。大規模言語モデルも特徴は同じだが、最大の違いは概念役割意味論では(推論による)論理が含まれているが、大規模言語モデルでは論理は偶然にはありえても、必然的には含まれていない(学問的には頑強性がないと言われる。つまり能力[性能]が不安定である)。大規模言語モデルが体系性を持たないのはそのせいだ。

概念役割意味論は意味に含まれる本質と偶然の区別がつかないと批判されるが、同じことは大規模言語モデルにも言える。例えば、医者が男性であることは医者という言葉にとって本質的ではないが、大規模言語モデルにはそれは分からない。医者が男であるという社会の側の偏りをそのまま学んでしまう。バイアスを直そうとすると、最近はその影響が他にも及んでしまったりもしている。これは大規模言語モデルの、(言葉の中で閉じてるが故に)外部世界の構造を反映できないことや(論理的な体系性を持てない原因である)モデルの極度な非線形性などに由来すると思われる。

私は大規模言語モデルは過大評価されていると前々から思っていた。ここまで見てきたように、少なくとも大規模言語モデル自然言語を表す認知モデルとしては様々な問題があるのは確かだ。だからといって、大規模言語モデルを過小評価するのも誤りで、知識のないことでも思いつきでもっともらしいことを喋るのはある種の人間と似てなくもない。大規模言語モデルが意味を分からない…とするのは言い過ぎであり、意味の特定の側面ならなくもない(ただし、それなら他の意味の理論にも[側面が違うだけで]同じことが言える)。

以上、大規模言語モデルの時代に言語哲学はいらない〜的な旧ツイッターでの書き込みにムカついた私からの解答でした。ただし、言語哲学には形而上学心の哲学とも結びついた広大な話があるので、この程度では本当は終わらない。

はっきり言えるのは、よく知りもしないことを敵対視して自分が偉くなった気になるのは下らない(ちゃんと勉強して正当な批判できるようになれ!)…日本はそんな奴ばっかりだよなぁ〜

ベイズ脳のサンプリング説を扱った論文を紹介してみる

最近、ある認知科学の論文を読んでいたら、このような文章に出会った。

広く知られるように近似ベイズ推論において変分推論とマルコフ連鎖モンテカルロ法は二つの代表的な理論であるが,今のところ集合的予測符号化の数理モデルマルコフ連鎖モンテカルロ法に基づいてしか理論化されていないことになる.しかし,集合的予測符号化を変分推論の視点から定式化することが不可能であると示されたわけでなく,十分に可能性のある方向性であろう.

谷口忠大 「集合的予測符号化に基づく言語と認知のダイナミクス: 記号創発ロボティクスの新展開に向けて」p.200より

これはベイズ推論をする上で、自由エネルギー原理が用いる変分法と集合的予測符号化が用いるサンプリング法とで、近似計算法が異なることに対して、統合可能性について述べた部分だ。これを読んで、ベイズ脳について前に書いた記事を思い出した。

ベイズ脳は認知バイアスを説明できるのか?

そこでも、計算法によって異なるベイズ脳観があることを示唆していた。実は、この話題はこの記事を書いたときに突然に分かった話ではなく、二つのベイズ脳観は前々から私の興味の対象にはなっていた。 ベイズ脳と言うと、一般的には自由エネルギー原理がよく知られているが、これは変分法によるベイズ脳観である。私自身は自由エネルギー原理を知る前から、別のルートから認知のベイズ理論に関心を持って勉強していた(その後で予測符号化から自由エネルギー原理へと向かう)。この私が勉強した元々のルート(グリフィス&テネンバウムの研究グループ)は、サンプリング説との相性が良い。リンクした記事の中で紹介した論文の主要著者のチェイター(今は翻訳本がある人)は、グリフィスらの研究グループと考え方が近い。

私自身は、はっきり言ってサンプリング説の方が好きだ。しかし、自由エネルギー原理の流行りを見れば分かるように、サンプリング説は主流の立場とは言えない。(私は研究者でもないので)そこは諦めていたが、最近に冒頭の論文を読んで、ここでサンプリング説の紹介ぐらいしてもいい気がしてきた。

とはいえ、サンプリング説を直接に解説するのは自分にはさすがにきつい。そこで、自分のキンドルにはお気に入りの論文がいくつか入っているので、これを紹介していきたい。

まずは日本語の論文を紹介してみる

私自身はサンプリング説について始めは英語の論文で知ったのだが、ここでは読者が接近しやすい日本語の論文を先に紹介しておく。

まずは、神経科学者が書いたベイズ脳の二つの計算法を説明した論文をお勧めします。

平谷直輝「データ効率の良い学習を支える脳のベイズ可塑性機構」

あくまで脳の学習機構について説明した論文なので、私が始めに接近した認知モデルとはルートが全く違いますが、二つのベイズ計算法をまとめた論文として便利です。ただし数式は沢山あります(私も全て理解してはいない)が、見て雰囲気ぐらいは味わってもいいかもしれません。

次は、サンプリング説について直接に扱った日本語の論文で、見つけたときは正直なところ驚いた。

寺前順之介「脳と知能の物理学」

こっちも脳の機構について書かれているのだが、(多少の数式はあれど)読み物としてはこっちの方が面白く読める。始めて読むならこっちがお勧めだが、ここは公正な概論からサンプリング説擁護論へと順に紹介してみた。

論文の流れとしては、ディープラーニングと平均場近似が脳のモデルとして相応しくないことを示したあとで、脳の自発揺らぎを説明できるのはサンプリング説だ…となっている。重要な主張は論文から引用しよう。

脳型の学習は最適化ではない。最適化を用いなくてもニューラルネットワークに所望の機能を学習させることは可能なのだ。鍵は揺らぎを用いた事後分布からのサンプリングである。

寺前順之介「脳と知能の物理学」 pdf版のp.20より

なかなかに衝撃的な内容だ。変分法(論文では平均場近似)では、前もって分布の仕方を決めてそこから最適解を出すのだが、その方法を根底から否定している。今、他の多数派が自由エネルギー原理(変分法の側)に行こうとも、私はこの論文の方が好きだ。

英語の論文も軽く紹介してみる

ここまでは日本語の論文を紹介したが、どちらも脳のモデルとしてサンプリング説を説明している。ここからは、認知モデルとしてのサンプリング説を扱った英語の論文を紹介する。ただし、中身の紹介は自信がないので省略して、タイトルだけを挙げます。

まずは、以前の記事で取り上げたThe Bayesian Samplerはもちろんサンプリング説の論文である。そこではサンプリング説の特徴として、認知バイアスを説明できることを挙げた。そこで挙げなかったものだと、サンプリングの出発点を考えるとアンカリングも説明できそうだ。ここからも分かるように、サンプリング説の一般的な特徴は(最適解ではなく)次善解を求めることだ。だから、局所解にハマる事もよくあり、フェイクニュースは最初に触れると訂正が難しいのもこれに近い。

上の論文は、私が影響を受けたとしたグリフィスと共に有名な発達心理学者のゴプニックも共著者に加わっている。ベイズ脳の発達心理への応用として興味深い。

最後に挙げるのは、十年近く前の二つの博士論文だが、サンプリング説を主題にした論文として紹介しておく。どちらもサンプリング説がバイアスのような主観性を扱えることに注目している。

Edward Vul"Sampling in Human Cognition"

Thomas F. Icard, III"The Algorithmic Mind A Study of Inference in Action"

最後に

私が密かに支持していたサンプリング説を紹介できただけで、自分としてはもう満足だ(支持者が増えることなど期待してない)。自分はブログには書いてない密かに好きな説(理論)はいくつかあるが、その一つを取り上げられた機会には感謝する。

ここでまた冒頭で引用した論文に戻ろう。冒頭の論文では、集合的予測符号化(サンプリング法)を自由エネルギー原理(変分法)に組み込むことを望んでいた。このブログの読者には分かるかもしれないが、私自身は統一理論としての自由エネルギー原理には懐疑的な視点を向けてきた。かと言って、サンプリング説が変分説にとってかわれるのか?よく分からない。そもそもサンプリング説と変分説は排他的な二者択一なのだろうか?

自由エネルギー原理を採用するということは、暗に最適化論をとることに近い。(工学者も科学者も)いまや猫も杓子も最適化に夢中だが、これは本当に心の説として正しいのだろうか?