「コンクリートの落書きは、やりたいことでいっぱい」

ライブの感想を省略しようと思う。

「どうでしたか?」

彼女の問いに対し、俺は「凄みを感じた」と返した。普段行くライブハウスとは比較にならないくらい大きなホールだった。彼女のチケット運が勝った。歌う人の表情も、演奏する人の手も、よくみえた。

2022年11月27日の月曜日。午前11時半、京都の烏丸御池駅付近。俺とKさんはハローワークのみえる交差点で待ち合わせた。ライトスチールブルーのアウター、深い緑を基調としたAラインのロングスカート。スカートの生地はおそらくウール、チェック柄。Kさんは、大学受験を控える高校生だった。

女性の服装を表現する語彙をほとんど持ち合わせていない。後日、俺は画像検索したマフラーの写真をPに送っている。PはKさんの同級生である。知り合ったという意味ではPの方が先だった。こんな感じでこんな感じ。スカートについて教わりたいのにマフラーを送っているあたり、言葉の貧しさがよくあらわれている。

「日記を書きたい。けれど、本人に聞くのは気が引ける。助けてほしい」

数往復のやりとりをPと交わす。彼女は「あ~~~~」と言い、ネットで拾ったスカートの画像を返してきた。

「こんな感じだった!」

「でしょ!」

名探偵である。

この日記にある服装の描写はほぼ引用に近い。似合っていた。この感想は借り物じゃない。よく似合っていた。

「はじめまして。深爪です」

「大きいっすね」

態度の話ではないだろう。Kさんとツイッターでつながったのは6年前。文章と通話。ゲームの話や音楽の話、そのほとんどは取り留めのないものだった。彼女、もしくは彼女たちにとっての俺は近所の公園にいるおっちゃんのようなものかもしれない。家族、友人、先生。俺は、いずれにも該当しないから。

よく話すようになったきっかけは新型コロナだと思う。ところで、いつか文章を読み返すとき、新型コロナという言葉もカセットテープのように色あせて見えるのだろうか。

2020年の春、俺は国と勤め先両方から「引きこもっていなさい」という指示を受けた。他方、彼女が通う学校も閉鎖された。彼女は家で勉強しながら、時折、弾き語りの配信も行っていた。ヴァイオリンの先生がアコースティックギターを貸してくれたらしい。彼女が演奏する曲は知らないものが多く、俺はノートに曲名を書き、簡単な感想を記した。オリジナルの音源も聴いた。「リクエストはありますか」と聞かれたときはノートを見ながら応答した。弾き語りは練習の色彩も強かった。俺は、何度でも聴いた。

高校生のお嬢さんと待ち合わせる経緯については、ひとつ前の日記に詳しく書いた。

Kさんは昼食をとる店を調べてくれていた。この日の京都は、よく晴れていた。

「開店と同時に入りましょう」

「うん」

ガラス扉の張り紙。イベントに出店するため臨時休業する、とのこと。

「たぶん、こっちの方にいろいろあります」

やがて一軒のレストランにたどり着く。彼女はパスタのセットを、俺はグラタンを。

「お酒、ありますよ」

「飲まない」

彼女は何気なく言ったのだろう。俺が毎日のように酒を飲んでいることを知っているから。一人だったら飲んでいたかもしれない。俺はすぐに顔が赤くなるから、だから飲まなかった。言わなかった。豆の入ったサラダは瓶に盛り付けられている。おいしい。パンに添えられたジャムはシェア方式だった。

「二度づけ禁止だね」

ちょこんとジャムの乗ったパンがKさんの皿に整然と並んだ。量は控えめ、かわいらしい見た目のお菓子のように。俺は垂らすところをみていない。おそらくサラダに気を取られていたのだろう。

「これなら二度づけになりません」

昔から思っていることなのだが、頭の回転が速い人は俺と話していてイライラしないのだろうか。俺は、決して速い方じゃない。かといって一人ひとりに「イライラしない?」と確認するほど機械的でもない。彼女はどう感じていただろうか。

レストランを出てライブ会場に向かう。時間に余裕を持たせていた我々は平安神宮にお参りした。Kさんの受験がうまくいきますように。手を合わせる。お祭りのように屋台が並んでいる。臨時休業しているあのお店もきっとどこかで何かを売っているのだろう。入場料を払い、神苑を歩く。路面電車の話をしてくれた。日本最古のチンチン電車。また、春の七草を諳んじていた。

開場までもう少し。ホールの向かい側にあるカフェに入り、ケーキセットを注文した。Kさんはバッグからタブレットを取り出し、ゲームを起動する。俺も真剣にやっているゲームだった。

「隣に座りますか?」

ゲーム画面を一緒に見ますか、という意味だった。きっと俺は、あの一瞬を忘れない。フリーズという表現がある。俺はあまり使わない。思考じたいが固まって動かなくなったわけではなかった。様々なことを考えていた。1秒、もしくは0.5秒。呆れたような表情を浮かべた彼女はタブレットの角度を変えた。向かい合って座ったままでもみえるように。あのときの、俺の逡巡に対する印象や評価を聞く機会はきっと訪れない。

2023年3月30日。Kさんからメッセージが届いた。

「4月から大学生です」

合格おめでとう。厳しい戦いだったと思う。掛ける言葉がみつからないときもあった。将来を見据えたきみは受験という選択肢をえらんだ。違う方法もあった。そのなかには、もっと楽な手段も。俺は自分の考えを伝えなかった。口にしたのは「支持する」という結論のみだった。

「あるふぁきゅんのライブ、連れていってください」

いいよ。行こう。

「もし生まれ変わったらなんて目を輝かせて言っていたくない」

80年代もしくは90年代の音楽がまとめられているYouTubeを視聴していると、高い確率で「もう一度あの頃に戻りたい」「やり直したい」といったコメントを目にする。俺にはない感覚だ。記憶を保持しない状態で戻ったとしても、俺は同じ選択をし、同じ今日が訪れるだろう。もう一周は御免こうむりたい。記憶が残っている状態で戻ったとしたら。どうだろう。もしかしたら、異なる選択をするかもしれない。

そんなことは、これまでに何遍も考えてきたことだ。だけれど、異なる選択をするということは、異なる人たちと関わりを持つという意味に近い。好きな人も、嫌いな人も、俺にとっては必要な人たちだ。彼らがいなければ、今の俺はいない。だからといって、二周目で同じ人たちと同じように関わろうとすることは、なんだか、彼らに嘘をついているような気がしてならない。今回は、たまたま仲良くなることができただけで、仲良くなろうと頑張ったわけじゃない。

今年度に大学受験を控えている知人がいる。勉強、頑張っているらしい。そんな彼女には、どうしても行きたいライブがあった。先日、彼女はチケットが当たった旨をツイートしていた。二公演ともに当選し、二日目の連番相手を緩く探していることも書き添えられていた。誘う人はいくらでもいるだろう。最後の手段として、ご両親や弟さんもいる。

受験勉強頑張っているものね。その日くらい、好きな人の音楽を聴いても罰は当たらないと思うよ。そんな気持ちを込めて、俺は「いいね」を押した。

「いいねを押してくれたってことは連番してくれるんすか」

愕然とした。

「リプライを送ったら邪魔かなと思って」

「連番してくれるんすか。くれないんですか。どっちですか!」

俺と一緒に行っても面白くないと思うよ。他に、誰もいないなら。色々思いついたけれど、結局俺はそれらをしまったまま「いいよ。連番しよう」と返した。

「本当にいいんですか?」

「うん。ちょっと前から煙草やめようかな」

「やった。お昼ごはん一緒に食べましょう」

きみは、煙草の匂いが嫌いだと言っていたから。

ツイッターでつながったとき、彼女は中学生だった。知っていたらつながらなかった。だから、もし仮に俺に二周目があったなら、彼女とは知り合えない。やっぱりいいや。リテイクはなしでいい。俺はこのまま参ります。

もし俺に何かあったら、そして、ニーズがあるのなら、どうかこの文章を週刊文春あたりに紹介してください。

「割れんばかりの拍手も響き渡る歓声もいらない」

「深爪さん」

「何を読めばいい?」

「察しがよすぎます。ちょっと二作ほど短編読んでほしいです」

「気持ち悪い?」

「びっくりはしました」

送られてきた二編を読む。高校生が書くレベルの文章ではないと思い、そうではないと考え直す。俺は高校生だった頃の自分と現在の彼女を比較しているだけだ。当時の俺はここまで書けなかったと思い、違うだろうと改める。今も書けない。彼女と同じ文章を、俺は書くことができない。

求められているのは感想だった。面白かったとか、詰まらなかったとか。他に何かないのか。他人の文章を読み、感想を伝えるという行為は難しい。その人が書く人でなければ、俺もここまで慎重にならないと思う。書く人だからこそ気をつかう。彼女の文体に影響を与えてはならない。この文章はこのままで良い。読みにくいところがある。一文が長いところもある。このままで良い。口を出してはならない。「俺ならこう書く」という考えも伝えてはならない。プロじゃないから。専門家でもないから。彼女の目指す先に俺はいないから。

読書感想文を書いた。1,281字だった。

「なんか、深爪さんの感想読んで思ったんですけど全部バレるんですね」

「ん? あー、俺、凄いから」

「構成考えずに書き始めたとか、難しかったとか。すごい」

「冗談です」

誰かに何かを言えるほど、文章を書くことが上手であるとは思っていないけれど、真剣に読むことはできる。「書きかけのものでもいいよ、また送るといい。ちゃんと読む」そう伝えた。

「重いマーシャル運んでた腰の痛み、まだ覚えてるの?」

画像が送られてきたのは13時半をすぎた頃だった。文章作成アプリのスクリーンショット。背景が水色の、一行の文章。昨年の11月23日、月曜日のことだった。

空を見て、人を思い出すか?

先と後、どちらにも物語が広がりそうな一文だった。

「ぽんと思いつくだけで何も続かないんです。いわば点」

「無理につなげようとしなくていいと思うよ。線に」

「二次関数にできない。なので、人にぶん投げます。深爪さん」

俺が考えるのか、線を。

俺のことをそこまで信頼してくれているならちゃんとやろう。やろうじゃないか。

ぼんやり考えていた。半年くらい。

6月の7日と8日、二日かけて文章を書いた。最初に考えていたものとはすっかり変わってしまった気もするけれど、それもまた、よくあることだった。

テキストサイト全盛のころ、就職をきっかけに更新をやめるという方々が多数いた。正確には、俺が読んでいるWEBサイトを管理する人の多くがそうだった。俺は少数派なのかもしれない。あるいは、日記だからかもしれない。引き合いに出すのは甚だおこがましく、また、不適切かもしれないが、世の中の流れにまったく影響を受けず、毎日日記を書いている方がいる。それはきっと、呼吸をするように。

他方、この日記はほぼ一年ぶりとなる。もはや、日記ではない、が、文章を書いていないわけでもない。俺もまだ、書いています。

 

https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=15386488

「そんな勇気なら、ない方が良かった」

大学の同級生から連絡があったのは、とある日曜日の12時ごろ。

「相談したいというか、話したいことがあるんだけれど、今日時間ある?」

「仕事休み。大丈夫」

2時間後くらいに、と彼は言った。嫌な予感がしていた。彼からの連絡が数年振りだったから。世間話ではないだろう。今日のお昼ご飯は何にしよう、そんな話ではないのだろう。人を殺したとかじゃないといいなあ、俺はそう思った。仕事かな。職を探しているのだろうか。どこか、紹介できるところがあっただろうか。俺の勤め先は、おすすめできない。

「久しぶり」

「おう。どした?」

「あのさ」

「うん」

「俺、人を殺したかもしれん」

そんなことだろうと思ったよ。言わなかった。「詳しく話して」A4のメモ用紙とペンを用意する。黒は行方不明、赤で書く。一通り聞き、メモをみながら数点確認した。

「なるほど。気にするなとは言わないけれど、きみは人を殺していない」

結論を伝える。あんまり、気を落とすなよ。そう言って、電話を切った。

少し、疲れた。

同じ日の22時ごろ、違う友達から連絡があった。

「彼には連絡しないでほしいんですけど」

嫌な予感がした。もし仮に既視感というものが世界に漂う不具合でないのなら、これは、明らかに既視感である。

「彼はひどく動揺していて。私も動揺してて、それで深爪さんに連絡しちゃったんですけど」

話を聞いた。俺の率直な感想は「俺が何をした」だった。どうして、俺ばっかり。なんでだよ、友達に文句をいうわけにもいかない。いっぱいいっぱいの友達を、責めることなんてできない。弱音も吐けない。言葉を選ぶ。本当なら「うんうん分かるよ。そうだね。きみのいうとおりだ」と言えた方が良かったのだろう。俺にはできなかった。違うと思うことに対して「俺もそう思う」と応えることがどうしてもできなかった。言葉を選ぶ。選んで、選んで、選んで。首のうしろがちりちり焦げる感覚。髪の毛が薄くなったらきみらのせいだからな、それくらいには思っていた。

「気持ちは分かる」「それはきみが決めることじゃない」「俺は何度でも反論する。いいかげん、その考えから離れなさい」とげとげしくなかったと言えば嘘になるけれど、それでも、自分なりに気をつけて話した。会話の終わり間際に友達は繰り返す。

「彼には言わないでください。私が話したということ」

「それは彼のために?」

俺が知りたい答えは返ってこなかった。

「たぶん、話してほしくないだろうから」

「俺は何も聞いてない。このやりとりは消しておいて」

「わかりました。ありがとうございます」

きみは自覚しているだろうか。きみは、俺に対して嘘を要求したんだ。大好きな彼を騙せと言ったんだ。「貸しひとつね」思ったけれど、彼女はおそらく「借りた」と思っていないだろう。

突然、俺が彼に連絡しなくなるのもおかしい。勘の良い子だ、何かに気付くかもしれない。いつもどおりに連絡した。嘘ひとつ。文章もいつもどおり書いた。嘘ふたつ。

まじできつい。友達の顔が浮かんだ、けれど、俺は助けを求めなかった。なんで俺ばっかり。もう一度、そう思った。ギターを弾いた。たまにはさ、こんなときくらいはさ、被害者ヅラしたってバチは当たらないだろう。

それから数日経過した。知人から連絡があった。数往復のやりとりの後、俺の日記に関する話になった。

「俺、書いていて大丈夫ですか? 問題ないですか?」

書くということ、迷いがないと言えば嘘になる。迷いながら、それでも書くことをやめていない。

「大丈夫。深爪くんの文章に嘘はないし、人を傷つけるものでもない。私は、全部読めているわけではないけれど楽しみにしています。胃の中のものをあそこまで文章化できるのは、もはや特技だと私は思います。続けてください」

「もう戻れないねあの頃に。みんな輝いていた」

「あの頃は良かった」「あの頃は輝いていた」という考えが嫌いだ。補正を疑う。本当にそうか? 光点は過去にあるのか? 現在じゃなくて? 今ここから光を照らして「輝いていた」と錯覚しているだけじゃないのか。そう思うのだ。懐古のすべてを否定するつもりはないし、俺もまた、嫌いであると言いながら「楽しかったよね」と感想を口にすることもある。人には言わないけれど、自分のその感覚を、俺は疑っている。

それでも、楽しかった。

この二人はお付き合いを始めるのだろう。そう思っていた。きっと、本人たちより早く分かっていた。俺は二人とも大好きだ。またひとりぼっちになるけれど、それもしょうがない。俺の責任だから。二人が付き合い始めたのは、たしか4月12日。

「ひとりでいるときよりも誰かといるときの方が孤独を感じる」

これは越川くんが俺に話してくれたこと。本当に、その通りだと思う。あまり1の人。これは、俺の言葉。俺はどこにいても、誰といても、あまり1だから。等号のそばじゃなくて、三点リーダーのとなり。ここにいることを選んだのも、たぶん俺なんだろう。「そこにいろ」と誰かに指示された覚えはない。どうしてだろうと考える。選択できたのだろうか。違う選択肢が、俺にもあったのだろうか。

その日、俺たちは友達の家で酒を飲んでいた。4月6日の月曜日。最初は三人だったけれど、その後もう一人合流する予定だった。彼の家は、セミオートロックである。辞書を引いていないから、もしかしたら誤った表現かもしれない。暗証番号を知らないと先に進めない。

「これが、僕の最後の砦なんです」

彼はそう言った。仲良しである彼女にも暗証番号は伝えていないらしい。

最後の一人が近くまで来たのは22時半頃。彼に電話があった。下まで降りるのが面倒くさくなってしまったのだろう。彼は、暗証番号を口にした。入力すれば開くから、と。俺は酒を飲みながら、話を聞いているということを表情に出さず、彼女にLINEを送った。

「××××を二回」

用件のみ。俺は彼女を見なかったけれど、スマホを見る彼女が目の端に入った。返信はなかった。少しだけ、笑っていたかもしれない。

通話を終えた彼は、彼女に「スマホを見せろ」と言った。

「やっぱり。深爪さん、絶対送ったと思いました」

たいしたものだ、よく分かったねと俺は感心する。彼女は「あのね」と彼に言った。

「深爪さんからのLINEを消しても無駄だよ。カメラロールにも残っているから」

最初、俺は何を言っているのか分からなかった。なぜ、LINEがカメラロールに残るのだ。そんなバックアップ機能があるのか。察した彼は、諦めたらしい。俺は彼女にたずねる。

「どういう意味?」

「深爪さんからLINEが来たとき、彼に消されるかもしれないと思ってスクショを撮ったんです」

きみ、凄いな。瞬く間にそこまで想定できるのか。

俺が送る、彼女がスクショをとる、彼が気付く。何一つ欠けてもあの時間は生まれなかった。刹那とは75分の1秒であるという説があるらしいけれど、あの一瞬、確かに三人の呼吸が合っていたのだと俺は思う。本当に笑った。本当に、楽しかった。

今、日記を書きながらふと気付く。そうか。これは彼女の、誠実さのあらわれでもあるのか。バックアップを取ったということは言わなきゃ分からないのだから。

「36.5度のからだで、しっかりしなけりゃならないんだな」

俺の手元には、一枚のチケットがあった。「なんでもいうことをきいてもらえる券」である。本当に存在したのか、空想上のツールだと思っていた。しかしこれ、人格や品性が問われる道具というか、使うのが難しいぞ。どうしよう。

考えた俺は「一緒にライブに行ってもらえないだろうか?」ときいた。俺は本当にあるふぁきゅんのことが好きだから、だから、友達にも聴いてほしいと思ったのだ。だけれど、微妙だとも思っていた。ライブは日曜日にある。友達は、日曜に休みを取るのが難しい仕事をしていた。
「日曜日は、無理です」
「だよなあ」
「他の時に使ってもらってもいいですか?」
応えなかった。笑ってごまかした。道具を使うという解釈は二通りある。効果がなかった時、手元に残るか否かだ。HPが最大の時に薬草を使用したらどうなるだろう? 俺の解釈は後者だった。薬草は、失われる。俺の手元にあったチケットは失われた。そして、ふぁっきゅんライブのチケットが一枚残ってしまった。少し、しょんぼりした。
闇に葬ろう。ギリギリまで俺はそう考えていた。他に誘う人がいなかったわけじゃない。音楽が好きな人も、付き合いの良い人も、何人か知っている。知らない人に譲る選択肢もあった。SNSで「誰か行きませんか?」と募ればいい。だけれど。だけれども。
俺が知っている人を誘うということは、友達の代わりに来てもらうということだ。それは失礼にあたるんじゃないかと考えた。振られたから代わりに来てよ。そんなことを頼んで良いのか。俺が知らない人を誘うのも、やはり微妙だった。チケットは連番である。怖いだろう、普通に考えたら。変な人はいっぱいいる。だから、このチケットはなかったことにしよう。ずっと冷蔵庫の中に仕舞ったまま、二度と同じ間違いを繰り返さないための記念碑にしよう。そう考えていた。
いや、しかし。
ライブの10日前、俺は越川くんに相談した。困っていることは伝えず、ただ、誘った。彼の好きな音楽ではないような気もする、奥さんやお子さんのことも考えた、立って音楽を聴くことが苦手なことも知っている。全部とは言わないけれど、多くのことを俺は想像していた。その上で誘った。越川くん、助けて、俺、また間違った、そう思いながら。返信があった。
「行ってみようかな」
ありがとう。

11月24日、新宿ReNYでふぁっきゅんは歌った。

チケット代を払おうとした越川くんに俺は言う。「これは、供養なんだ」と。きみからお金をもらうわけにはいかない。納得してくれなかった越川くんは、その後のお酒代を多めに払ってくれた。起点は俺のSOSだった。だけれど、きみとゆっくりお酒が飲みたいと思っていたのも本当だ。ねえ、ブリを食べよう。「子供ができてから、こうやって誰かと外でお酒を飲むのは初めてかな」と彼は言った。言葉が沢山浮かんだけれど、俺は努めて事実を口にする。お子さんが太鼓を叩いている動画を見せてくれた。楽しみだね。音楽の話をした。ライブの話もした。彼の、慎重な批評は俺にとっての宝物だ。具体的な値ではなく、形容としての10キロヘルツ。コンテクストという言葉。文脈という意味を持っていることを俺が知るのは話し終わった後だった。だけれど、それこそ文脈で伝わっていた。そうだね、そういうものかもしれない。

彼と別れた後、俺はふぁっきゅんのライブについて考えていた。異様だった。いつものふぁっきゅんじゃなかった。まるで、いや、いつもきっと全力なのだろうけれど、理解できなかった、どうしてみんな、いつもと同じように音楽を聴いているんだ。聴くことができるんだ。盛り上がることができるのだ。歌う彼女が、俺は怖かった。さっき気づいた。俺、怖かったんだ。

なんだかずっと、お別れの言葉を聞かされているみたいだった。

来週、彼女は大阪で歌う。チケットは、最初から一枚しか買っていない。今度は問題ない。俺は大阪で答え合わせをしようと思う。

「ただいま、おかえり。遠くに、家の、明かり」

「じゃあ、何か間違いがあってきみが暇でも大丈夫なように、その日は休みを取るよ」

友達にそう言った。友達の誕生日の前日、休みであるけれど恋人が仕事なのだという。仲間の多い人だからきっと問題ないだろうと予測していたけれど。休日申請を出した。俺はいつも具体的な理由を届出書類に書いているが今回ばかりは「私用」としか書けなかった。

日にちが近くなってきた。「どうなった?」と相手の予定を聞くのもなんだか違う気がした。それは、ちょっと違う。そういうんじゃない。考えた俺は、お休みの日、家でゲームをやっていた。夕方ごろに一度仮眠をとって夜起きる。ああそうだ、お店を始めたということを仲間がSNSで発信していた。彼のお店に行こう。「来ることを教えてくれたらなにがしかのサービスをします」と書いていたけれど、連絡はしなかった。電車で20分くらいの町。最後に来たのはいつだったか。

お店に入るとカウンター席に通される。繁盛している。仲間を発見する。俺を認識するために、彼は三度見を必要とした。

「やけに俺のことを見ている人がいるなあと思って」

「きみの居場所が分かってよかった」

「働くの、一年ぶりですよ」

「ブランクを感じさせないね」

話を聞くと、7月にオープンしたばかりだという。5月は名古屋で研修を受けていたと。唐揚げのおいしい店だった。サービスで、長芋の小鉢を出してくれた。

何年か前、彼が当時仕切っていたお店のおすすめを聞いたことがある。彼は「スタッフです」と即答した。同じ質問を、俺はしなかった。確認するまでもないことだと思ったから。

仲間の顔を見に行ったことを書く。投稿する時間は意図的にずらした。

「誘ってくれたら行ったのに」

冒頭に書いた人とは別の友達がコメントを残してくれた。分かっている、だからだよ。書かなかった。到底予定とは呼べない予定を立てて、それが空振りに終わりそうだから別の人を巻き込むということを、きっと俺はやりたくなかったのだ。何を言っているのか分からねーかもしれないが、たしかに俺も、何を言っているのか分からない。なんじゃそりゃ。

俺は、なるべく約束を守りたいと思っている。それが、俺の考える正しさの一つだから。だけれどと考える。何事にも例外はある。約束もそうなんじゃないか。

約束は果たされるべきもの。この考えを改めるつもりはない。しかし、果たされるべきではない約束というものも、俺のまわりにあるのかもしれない。つまり、約束と遵守、正誤が二段階で訪れるのではないか。約束じたいが誤りだった場合、約束を果たさぬことで正しさを取り戻す。マイナスかけるマイナスみたいなことがあるんじゃないかなあということを考えていた。

「路地裏の天井、どす黒い線が空を切り裂いている」

三日間くらい、同じ設定の夢をみていた。もしくは、覚えていた。人や場所からこれは大宮の夢なのだろうと推測する。

夢は片付けのようなものであるとどこかで習ったか、本で読んだ。記憶を整理するプロセス。その他、願望が形になる場合もあるらしい。俺がみていた夢はどちらなのだろう。

夢が記憶の整理であるなら、きっとその作業は並列処理だろう。そうでなくては変な夢をみない。印象の強弱が原因かもしれないけれど、実際に起きたことを『思い出す』という夢を、俺はあまり覚えていない。

たとえば『誰かと話していた』『柏餅を食べた』『働いた』これら三つの記憶が『誰かと柏餅をつくる仕事をしていた』という夢になったりするのではないか。実際はもっと複雑で、結果、わけの分からない夢になるのではないか。

一方、記憶の整理ではなく願望が形になったものであると解釈すると「俺は誰かと柏餅をつくりたいのだろうか、なぜこのような夢を」という疑問が生まれる。

ぼんやり考えていたのは、きっと6日くらいまでのこと。翌日「出来事になる願望が存在する」と思い当たる。

願望という言葉を解体すると願いと望みになる。そして、このふたつの言葉は思いという言葉でくくり直すことができる。おそらく、思考を含まない願望は存在しない。願望は思考を前提としている。

記憶の整理か、願望か。

どっちだろうという考えには様々な結論がある。実は同じものだった、ふたつとも誤りで選択肢の中に正解がなかった、同じであるという見解はただの勘違いでこじつけだった、等々。

時制を基準に考えると、願いや望みを記憶と呼ぶケースは少ないのではないか。

「私は今、柏餅が食べたいと思っている。忘れていない」

たぶん誤りではないけれど、この文章はどこかおかしい。

「昨日、私は柏餅が食べたかった。忘れていない」

こちらの方が自然な文章だ。現在の願望が過去になったとき、願望は記憶に含まれる。転じて、記憶に含まれる思考もまた存在する。

と、ここまで書いてふと考える。俺は元々、何が言いたかったんだっけ。忘れてしまった。忘れっぽくなった。いつか、夢のなかで結論と再会する日は訪れるのだろうか。たぶんない。

「どうせなら僕がもうひとりいたならそれはそれでハッピーだ」

紆余曲折を経て、演奏会のプログラムは俺が印刷することになった。突き詰めるとそれは俺の都合だった。友達はピアノを弾く。

「あんまり手先が器用じゃないけれど、なるべく綺麗に折るよ」

「それは当日手の空いた人たちでやりますので」

「折れていないプログラムなんて見たことがない。出来上がったプログラムを渡すまでが俺の役割だ。プログラムなめんな」

そうして、久しぶりに知ったかぶりを披露したという話を続けた。友達は「たしかに。プログラムのことなら私の方が知っています」と笑った。

前日は仲間の家で合宿だという。渡すチャンスは当日しかなかった。16:30開場、17:00開演の演奏会。

「入りは何時? 時間を合わせて持っていく」

「13:00です。リハ見ていきますか?」

「遠慮しておく」

「外は暑いんで涼んでいてください」

部外者がいるのはよろしくない。友達は、気にする人はいないと言った。誰がいたところで集中していることに変わりはないと。なるほど、そういう考え方もあるのか。

「じゃあ、お言葉に甘えて。俺のことはかまわないで良いからね。俺は俺で忙しいから」

嘘じゃなかった。事前にもらったパンフレットを見ながら仲間の顔と名前を一応は覚えたけれど、完全ではなかった。一文字ずつ違ったり漢字が重なっていたりと覚えるのに苦労した。俺は結局、パンフレットの映像をそのまま記憶した。楽器を持っていれば分かる。自信はなかった。事前に覚えた記憶と現実を同期させなくてはならない。忙しい。

100人入らないくらいのホール。「室内音楽だね」小学校か中学校で習った言葉を口にする。「そうですね」

ピアノ、トランペット、フルート、ヴァイオリン。客演はサックスとヴァイオリン。ヴァイオリンの音、意外と小さい。客席から見て左側で弾いていた方がよく聞こえる。右側だとピアノの方に音が向かっているように感じられた。だけれど、譜面を置くスタンドを考えると右側にいた方がいい。ピアノにかぶる。難しい。

ピアノの天板は曲目によってその角度を変えた。マイクもアンプスピーカーもなかった時代に生まれた楽器。よくできている。

演奏会が無事終わった。良い演奏だった。音楽の機微を感じ取ることが俺にはできない。ファのところでミが鳴っていても気づけないのだ。「あそこは結構運ゲーなんですよ」そういうものか。友達が話してくれる音楽の話はいつも面白い。

俺がちょこっとお手伝いしたことに対して彼女たちはきちんとお礼がしたいと言っていた。困った俺は考えて「じゃあ、××を」と言った。これで手打ちにしよう。「そんなんで良いんですか」と友達は笑った。たしか、演奏会が始まる1ヶ月以上前の話。

だけれど、当日の流れを考えれば、それはそれで結構難しいかもしれないと俺は思っていた。約束を破ってひとりホールを出たら彼女たちは気分を害するだろうか。悲しむだろうか。水を差したくもなかった。

そっと会場を出ようとする。何人かが気づき「深爪さんは残っていてください。帰るな」と捕まった。

「良いですか。絶対に帰らないでください」

「わかった」

その間、代わりに何枚かの写真を撮った。ほら、俺が撮るからあなたもあっちに。みんなが写っている方がきっと良いから。

やがて、名前を呼ばれる。当日裏方のお手伝いをしたふたりと俺。トランペットの方から謝礼を受け取った。

「ありがとう」

俺は笑って会場を後にした。

「打ち上げ行きますか?」

「行かない」

もう一度、笑った。きっと、上手に笑うことができた。

昼、ホールに向かうときは地下鉄を使った。帰りは歩いた。マクドナルドでハンバーガーとチーズバーガーをひとつずつ買う。店員は外国の客と英語で話していた。発音が綺麗だった。9時半くらいに朝ごはんを食べたきり、何も食べていなかった。20時くらいになっていた。長い一日だった。長くて楽しい一日だった。

数ヶ月間、自分なりに頑張ったのはこんなものが欲しかったからじゃない。突っ返すわけにもいかない。俺はただ。きっと俺は日記を書く。だからそのとき何もにじみ出ないように、帰るまでに気持ちを切り替えよう。音楽を聴いた。ボリュームをふたつ上げた。馴染みのある音楽を聴いた。「物欲しそうな顔をして」昔、とある人に言われた言葉を思い出す。大丈夫だ、今日は大丈夫だった。想定内だったから、だからきっと顔には出ていないはずだ。

「ちょっと! ××!! なんで言ってくれないんですか!!!」

友達からメッセージが届いた。俺は、本音と嘘が半々の返事を送った。

「気にしなくて良いのに! てか、なんで打ち上げに来ないんですかってみんな言ってます!」

「勘弁してくれ」

「明日はお仕事ですか? この後は大宮で飲むんですか?」

「休み。一杯だけ飲もうと思っている。きみは打ち上げに集中しなさい」

避けようとしたら、きっと友達はそのことに気づく。本当のことを答えた。

「後で私も行きます」

「いつもかまってくれるから。今日はかまわなくて大丈夫だと言ったじゃないか。俺は忙しい。日記を書かなくてはならない」

「待っていてください。行きます」

打ち上げの実況が定期的に送られてくる。これなら参加した方が良かったのだろうか。すべてを伝えはしなかったけれど、俺が断った理由は三つあった。会場にいた親御さんが心配しないように。仕事で行けなかった恋人が妬かないように。部外者であるという座標を明確にさせるために。率直な感情としては、拒絶ではなく尊重だった。それに、外にいるからこそ動けるという状況もある。まわりに他人がいるという環境は、それだけで価値を持つ。これは、俺自身の価値とはまた別の話である。

「××が流れちゃったから、今度一緒にお酒を飲みましょうと言ってます! みんなが!」

なぜ順接でつながるのか。斜め上のお誘いに笑った。たぶんバレていない。だけれど、それでも彼女たちの方が一枚上手だった。

「あどけないまま眠る横顔」

やはり俺は西尾維新の小説を読まなくてはならないのだと思う。「人間強度が下がる」「能動的孤独」打ちのめされるような言葉の数々。動く画の中から断片的に見聞きしたこれらを、文章の中で知るべきなのだと思う。

「仕事から帰ってきた時、私が部屋にいたら嬉しいですよね?」

友達の冗談に対し、俺は「寝てて良いよ」と返した。前にも書いたが、俺は越川くんと遊んでいる時よく寝ていた。二人でお酒を飲み、だいたい俺の方が先に眠っていた。これは自慢であり借りでもあるのだけれど、おそらく俺は彼に起こされたことが一度もない。

だからというわけではないけれど、でも、だからということもあるのだけれど、俺は友達に「寝てて良いよ」と言った。きみの真似をしたかったのかもしれない。俺は幾度となくきみに救われたから、だから、俺も。

友達には友達の事情があり、都合があり、要望があり、結果として俺の部屋にひとりいることを選んだ。鍵はポストに入っている。そして、ポストの開け方を友達は知っている。

俺が仕事を終えて家に帰った時、友達はまだ起きていた。

「思ったより早く帰ってきた」

友達が笑った。俺は少しだけ暗い気持ちになった。この人は友達なのだ。恋人もいる。ねえ、越川くん、少しだけ辛い。俺は嫌だ。俺が憎んだあいつらと同じ人間になるのが嫌なんだ。だったら嘘をつく。あいつらと同じようにはならない。なりたくない。だから嘘をつく。

「寝てていい。襲わないから心配すんな」

電気を消した。友達はベッドで眠っている。寝息がかわいかった。いびきがうるさいと言ったのは誰だ、こんなに、静かに眠っているじゃないか。暗い部屋で、俺は床に座ってビールを飲んだ。ツイッターでつぶやいた。いつもは俺のつぶやきを見ているだけの人たち。その中の二人が返事をくれた。お前は間違っていない。そんなふうに言われた気がした。大丈夫。もう、大丈夫。

もしかしたらと思っていることがある。仮説、俺の行動規範。もしかしたら、俺は他人のために生きているのかもしれない。自分ではなく、他人のために。知らないことを知っているとは言えないから、だから俺は知っていることを増やしているのだろうかと。「大丈夫、問題ない。俺もそうだった」と言えるように。傲慢である。人は、決して等しくないから。

友達の恋人から連絡があった。友達は眠っていたから、着信に気づかなかったのだろう。

「彼氏に怒られました。いくら深爪さんだからといって、他の男の部屋で寝るな、深爪さんだって迷惑だろう、寝るなら帰れって」

俺は笑う。俺といる時は起きていろという要求を、俺はしない。きみは自由でいい。そのままで良いよ。言わなかった。

「肉焼いてた」

「気づかなかった」

「肉の匂いで起きたら怖いだろ」

「いつもの私なら起きます。よっぽど眠かったんだな」

寝たいなら寝れば良い。俺は、もらったものを他の人に返すだけだから。そうして全部返し終わったら、話はそれで終わりだと思う。

「思うままにいけよ、背中くらいは押してやるから」

仕事でとんでもないミスをやらかした。10年に一度のレベル。同僚が助けてくれた。電話と文字でやりとりをする中、彼は一切の動揺を俺にみせなかった。肝が据わっている。終わったあとは笑い飛ばしてくれた。大きな借りができた。俺は彼と同じようにできただろうか。できるだろうか。なってみないと分からないが、やらなくてはならない。それがきっと返すということだから。

「本当に申し訳ない。きみがいてくれて良かった」

彼はなんて答えただろう。昨日のことなのに、もう忘れてしまった。

日勤を終えた俺は焼鳥屋さんに行った。自業自得なのだけれど疲れた。本当に疲れた。カウンターにいる三人は見知った顔。席がひとつ空いていた。

「あとで〇〇ちゃんも来ますよ」

そうだよね、そうだと思った。彼女の座る席がない。入れ違いで帰ろう、俺はそう考えてから座った。俺もいるということを彼女の恋人が教えたのだろう。俺の方にも連絡があった。

「座る席がないから、きっと俺は帰るよ」

あちこちから引き留められる。そうこうしているあいだに、仕事を終えた友達が来た。店員は、椅子を引っ張り出して席を増やした。このお店のカウンターにはプラスワンシステムがあった。俺は仕事の話をしなかった。彼らとの会話から得られる発見は多い。仮にそれが冗談であったとしても。

「あの人は10年の間にどんなふうに変わっていったんだろう」

仲の良いあるふぁきゅん仲間が俺のことをそんなふうに言っていた。彼はツイッターに残っている俺の書き込みを全て読んだという猛者である。おおよそ10年分。消してしまったものもたくさんあるけれど、それでも膨大な時間を費やしたはずだ。ログを読み終えたあと、そう呟いたのだった。たしか高校三年生。頭が良く、礼儀正しい。

もしも俺に変化があったなら、それは周囲の影響が大きい。

「カラオケに行きたい」

友達がそう言った。俺が帰ろうとすると再び引き留められた。

「行きましょう」

歌うの、あんまり得意じゃない。でも、きみの歌は好きだ。

「いいよ、行こう」

仕事が終わった店員は彼女の恋人とお酒を飲んでいた。二人は仲が良い。席を立つ気配がない。もう少し飲んでいくらしい。カラオケ、二人で行くのか。彼らが来たのは一時間後くらい。俺は、へたくそな歌をうたった。

カラオケ屋さんを出たあと、三人は「家に行く。行かねばならないのです」と言い出した。友達は次の日早くから予定があると言っていた気がするのだけれど。コンビニで一本ずつ酒を買った。彼らを友人と呼ぶのは若干の抵抗がある。あるけれど。

「あなたは限られた人だけじゃなくて、もっといろいろな人と関わった方がいい」

昔、大切な人に言われた言葉。どうなんだろう。きみの言うとおりになっただろうか。友達100人できるかなという方向で努力しているとは言えないけれど、だけれど何人か、俺と関わってくれる人がいる。たぶん。

「僕たちに示された仮想の自由」

7月11日の木曜日、15時半。

演奏会用プログラムを作成する打ち合わせの二回目。今回で、たぶん終わり。別件である音楽の打ち合わせはベローチェか焼き鳥屋さんで行われることが多かった。

「うちくる? きみの部屋とちがって煙草が吸える」

「ベローチェも、地味に遠いですもんね」

前日の夜、北海道出張を終えた俺は部屋の模様替えを試した。ベッドの方向を90度回転させてみたのだ。比率が5:1くらいの長方形だったスペースが正方形に近づいた。誰かが来るならこちらの方が話しやすいのではないか。ワンルームがベッドによって分断された形となり、掃除と洗濯がやりにくくなったけれど、後のことは後で考えよう。

午前中にキッチンの換気扇が新しくなり、部屋の環境整備はほぼ完了した。掛布団のカバーと座布団がない。当時の俺は、掛布団と敷布団のカバーが違うということさえ知らなかったらしい。かつては、座布団らしきものがひとつあった。しかし、絵に描いたような煎餅座布団になっていたため春の大掃除祭りで捨ててしまった。客をフローリングに直接座らせるのもいかがなものか。用意しよう。

部屋の外に範囲を広げるなら共用スペースを磨くデッキブラシが欲しい。このアパート、ほとんど管理されていない状態で、共用部の照明が点かなくなって数年が経過した。まったく気にならない。「本当に人が住んでいるんだ」的を射た感想を述べたのは、たしか友達の恋人だった。

歩くところくらいは自分で綺麗にしようと思った。今、これだけ汚いのはエアコンの交換を行ったせいでもある。ベランダが汚かった。汚染は広がった。

この部屋に住んで10年くらい経つけれど、これまでに訪れてくれた人はおそらく5人。招かれざる客をひとり含む。今回の友達は6人目となる。

緊張する。この緊張は何だろう、近しいものを考えてみた。裸か。裸かもしれない。裸を見られるのと同じ類の緊張だ。いや、裸を見られる方がましな気もする。友達には、言わなかった。

やはり、床に座らせるのはいかがなものか。考えた俺は「そこに座って。床は硬い」と言い、ベッドを指でさした。彼女がどのように感じたのかは分からない。会ってしまえば、もうそれほど緊張していなかった。俺は床に座った。馴れている。

友達は藤色のワンピースを着ていた。もしかしたら、もっと専門的な名称があるのかもしれない。とても似合っていた。伝えなかった。「かわいいと思ったときはかわいいって言う」いつだったかそう宣言したけれど、そうじゃないときもある。嘘をついているだろうか。

「コーヒーと牛乳とクリアアサヒがある。クリアアサヒにする?」

我々はそれぞれの缶を開けた。

話しながら作業を進める。友達は途中から暇そうにしていた。音楽を聴いたりギターを弾いたり歌ったり。彼女が弾き語る歌のキーが半音上だったことに気づいたのは別れた後だった。さユりのミカヅキ。背もたれが欲しいとつぶやき、横になった。仕事が忙しいという話も聞いている。疲れているのだろう。眠っても構わないと思っていた。時間になったら起こせばいい。越川くんの家で、俺はいつも寝ていた、そんなことを思い出した。後になって考えてみると、歌っている友達を、横になっている友達を、見たかったのだと思う。だけれど、やるべきことがあったから。

「私よりも真剣ですね」

「真剣だよ」

「お礼は何がいいですか?」

「この間、多めに払ってくれた」

「あれもなんだかよく分からない形になったし。何がいいですか?」

手を止めて友達をみた。ワンピース、本当によく似合っている。いつだったか、俺に質問したときと同じ表情だった。答えなかった。演奏会を成功させてくれたらいいと言ったなら、俺の根源に生息するらしい気障りな感性が具現化されたことになるだろうか。冗談じゃない。実はひとつ思いついたことがあった。自分なりに一生懸命考えた結果、没にした。十分だ、答えはもう出ている。お礼は、もう頂戴している。結論は変わらない。

プログラムが、ほぼ出来上がった。

先月の28日、ちょっとしたやりとりがあった。

「11日なんですけれど、予定どおり昼で大丈夫ですか?」

「是非」

「ありがとうございます。嫁ぐ親友に、夜会おうと言われて」

「30分くらいで終わるんじゃないかな。間に合うと思うよ」

「ありがとうございます!」

最初は意図が分からなかった。後になって思い当たる。もしかして、気を使わせてしまったのだろうか。プログラムの作成が終わったらお酒でも飲もうと俺が考えていることを想定した上での確認だったなら、俺は素っ頓狂な応答をしていることになる。打ち合わせのことしか考えていなかった。だけれどと考え直す。まったく違う人と、異なる状況で、似たようなことがあった。あの夜、俺はとても悲しい気持ちになった。もし仮に友達が確認しなかったなら、俺は同じような気持ちになっただろうか。たぶんならないと思うのだけれど、確信はない。借りがひとつ増えたのかもしれない。

次の予定まで、まだ少し時間があった。

実家でつくったプレイリストに入っている楽曲が演奏会の演目と一致しているのか確認してもらった。すべて、合っていた。彼女が演目として選んだ『死の舞踏』を聴いてもらった。音源は大量にあった。俺は4つか5つを適当に選んでリストに入れた。オーケストラ、トランペット、ヴァイオリン、等々。どれかを聴いた友達は冒頭の数秒で「だせえな」と両断して次に行く。相変わらずはっきりしているというか、厳しいというか。普段とのギャップが強烈である。この人に、俺のギターを聴いてもらうのか。大丈夫か。とある音源を聴いた彼女は「最初から間違っている」と言ってまた次へ。これは、なんとなく分かった。どちらかと言えばガチ勢ではない雰囲気を、俺もジャケットから感じていたから。

「この中だと、オーケストラ以外聴かなくていいです」

怖い。だけれど、俺はいろいろ聴くと思う。彼女が良いと思う演奏、良くないと思う演奏。そうじゃないと、きっと分からないから。人よりも時間が掛かるということを自覚している。最短距離で何かを成し遂げたことが、俺にはない。

仕事柄ということもあって、友達の部屋は衣類で溢れかえっている。定期的に服を売っているという話を聞いた。季節に合わせて売るのがコツらしい。春には春のものを、秋には秋のものを。お金に困った人が反物を売る話を昔どこかで聞いたけれど「飲み代ができました」という言葉を聞いた俺は、同じように考えてはならないと改めた。

今、着ている服は夏物なのだろう。季節外れの服を着る人ではないし、とても涼やかなワンピースだったから。

来年の春に伝えたいことがある。藤色のワンピース、できることなら売らないでほしい。とてもよく似合っているから。そして、もしも俺が伝え忘れたなら、それは言わなくて良いことだったのだろう。

「ドーはドーナツのド」

母親がクラシック音楽と仏教に興味を持ったのはいつだろう? おそらく、俺が実家を出た頃だと思う。季節に一度くらいの頻度で近況を伝え合う中、なんだかいつもKitaraに行っているなあと思っていた。あのホールを「悪くない」と言っていたのは高校の教師だろうか。開館は97年の7月らしい。今、俺は時期から逆算している。とはいえ、高三の俺が音楽を履修していたとは思えない。もしかしたら違うかもしれない。大学かな。一年目で、俺は一般科目の音楽を履修している。いや、違うかもしれない。大学だ、こっちは合っている。けれど、音楽の講師ではない気がしてきた。自らタカ派を名乗る弁護士がいた。彼かもしれない。

母親が好きだったコンサートホール。いつか、きっと行ってみよう。

「きみが薦めてくれた音源はきっと後で聴く」

友達に伝えると「私が薦めたものを聴かないと意味がない」といった内容の応答があった。

俺はきみの言っていることを、ちゃんと理解しているだろうか。いちいち確認していないから分からない。分からないなりに挑戦の意思表示であると受け取った。基準もしくはハードルを自ら設定しているのだと。

「親がクラシック好きだったから、まずはそっちを聴いてみたい。ないものもあるだろうけど」

俺の記憶が確かならCDはここに。キャビネットのひとつを開けると100枚くらいのCDが納まっていた。もしかしたら、どこか他の所にも保管されているかもしれない。DVDが見当たらない。母親のことだ、きっとどこかに。すべてをエクセルで管理している可能性も高い。父親には聞かなかった。まずは見える範囲で良い、そう思った。

CDは6つのジャンルに分けられていた。『ピアノ』『チェロ他』『オーケストラ』『ヴァイオリン』『室内楽』『協奏曲』という手書きのメモが添えられている。たぶん、きちんと整頓されている。が、俺の知識が不足していて、少しだけ途方に暮れた。プログラムに書かれた「フルート・ソナタ」とここにある「フルートとピアノのためのソナタ」は同じ曲だろうか? 作曲者は一致している、演奏会でもフルートとピアノが一緒に演奏するらしい、きっと同じだろう、一つひとつがそんな感じだった。少々極端な言い方をすれば、俺はビートルズとジョンレノンとゲット・バックの区別が付いていないようなものだ。不安を抱えたまま、該当する曲が収録されていると思われるCDを抜いていった。ツィゴイネルワイゼンだけで3枚ある。大丈夫か。

半分くらい揃った。俺は、友達に進捗を報告した。

「凄い」

そうだろう、うちの母ちゃんはすごいんだよ。言わなかった。

「シフのCDがある」

「しふ?」

「アンドラーシュ・シフ。私が一番好きなピアニストです」

友達がそう言ったときの、俺のあの感覚をどのように表現したら良いのか、まだ言葉が見つかっていない。俺はシフという音楽家のことを全く知らない。20枚近くあるピアノのCDの中に彼の演奏が含まれていることが必然なのかどうか確信が持てない。おそらく必然なのだろう。だけれど、友達が当たり前のことを言うだろうか。分からない、俺は確認しなかった。見てもらいたかったのは集合であり、母親の字だった。友達はきっと写真を拡大した。そして、CDのタイトルにピントが合っているとは言い難い画像の中から彼の名前を見つけた。

「きみ、目が良いね。俺、まだ見つけられていない」

「ピアノのノのあたりです。シューベルトのやつ」

「シフさんも聴いてみる」

「彼のベートーヴェンも良いですよ」

母親と友達は同じ音楽を聴いていた。俺が知らない音楽を。

「ショパンのバラード集も見つけたんだけど作品ナンバーが書かれていない」

「バラード1番は、ド#ーーーーミラシド#ラから始まるやつです」

教えてくれたとき、この人意地悪だなあと思った。音階が分からんのだ、言われたところで。

「まちがえた。ドーーーーミ♭ラ♭シ♭ドラ♭」

「もうこの人やだ。キーの話か」

「調号ミスった」

ある金曜日、俺は友達に会いに行かなくてはならなかった。俺の都合で、どうしても会わなくてはならなかった。歩きながらショパンのバラードを聴いた。

ドから始まっていた。

いや、ちゃんとドーーーーって。

笑ってしまった。まじか。俺は誰のこともちゃんと分かっていない。友達のことも、母親のことも。

「バラード、本当にドーーーーから始まっていた。あなた、親切な人ね」

「でしょ!」

「生まれ変わってもまた会おう、同じ場所でまた会おう」

「パソコン得意ですか? 得意ですよね。パソコン持っていますもんね」

友達の問いは質問という形を採りながら、実質的には俺に何も聞いていなかった。

何年か前に、全く異なる場面でこの手口を使っている人を見たことがある。とある舞台が終わった後の対談でそれは起きた。司会が観客に求めたのは質問だった。一方、マイクを手にした観客の一人が口にしたのは非難だった。非難がよろしくないとは言わない。俺は、批判や批評に興味があったけれど、悪いとは思わない。ただ、彼のアプローチが気に食わなかった。前半では質問のような文法を選びながら徐々に非難に寄せていく彼が不愉快だった。俺だったら「これは非難です」と最初に伝えるだろう。そのあと司会が話を切るなら相手か場が非難を求めていないということだ。そのまま黙ればいい。話が逸れた。

友達の言葉は不愉快じゃなかった。その勢いは潔く、何か困っていることがあると分かったから。

「得意とはいえない。たぶんバイエルを卒業したくらい。どした?」

「演奏会のプログラムを作って欲しい」

「センスない」

「なくて良いです」

「いいよ」

「ありがとうございます」

「ひとつお願いがある」

「はい!」

「俺が関わったことは言わないで欲しい」

「恋人に?」

「うん」

「もちろんです」

自分の考える礼儀を優先していたら失敗した。昨年の話だ。だから、礼儀より優先するべきものがあるかもしれないと考えている。これは今年の話。一般論ではなく個人的な話である。

音大の仲間たちと再び集まりコンサートを開くという話は聞いていた。

プログラムなんて作ったことないぞ。「こんな感じで」と画像が送られてきた。なるほど、試しにやってみる。少し考えてから、友達の母校を検索する。学校案内に添えられたイラストと校章をコピーして貼り付けてみた。おお、なんかそれっぽくなった。なお、校章の拡張子は俺の知らないものだった。なんだろう、これ、保存できない。違うところから持ってきた。

「怒られるかなあ」

独り言。

「絶対怒られる」

これも、独り言。

友達に「こんな感じ?」と送った。

「ありがとうございます! ……待ってください、これ、うちの校章ですか?」

「勝手に持ってきた」

「ひっさしぶりにみました」

「イラストも学校のやつを」

「初めてみました」

「やっぱりダメかな」

「当日渡すものなので多分バレないとは思うんですけど……」

細かいところは直接打ち合わせたいと言われた。

「あれ友達にも見せたんですけど」

「え、見せたの」

「見せました。気持ちは嬉しいけどやっぱり良くないだろうって」

「俺もそう思う」

「絶対やめさせるってみんなに言ってきました」

「きみも大変だね」

「みんなも、ちゃんとお礼したいって」

「俺のことも話したの?」

「飲み屋で知り合ったおじさんて」

「それはひどい」

「なんて紹介したら良いのか分からなくて」

友達、心配していないと良いけどなあ。

「お礼は、いいよ。きみが言ってくれたからもう十分」

俺がそう言ったとき、友達がどう思ったのか分からなかった。拒絶じゃないんだ。そうじゃないんだけど、たいしたことやってないし、だけれど、どうなんだろう、もうちょっと考えてみる。

表紙に関しては友達のアイデアを採用した。俺の考えじゃないから自画自賛にはならないだろう、これ、いいぞ、誰かに自慢したい。

そういうわけで、実家に帰った俺はクラシックの音源をせっせと携帯電話に入れている。音楽は好きだけれどクラシックのことはほとんど何も知らない。不安だ、不安でしかない。耳もよくないしなあ。

「できればですね。どういう曲か知ってもらってから来ていただいた方が」

「きいてみる」

約束は、できる限り守りたい。