群雄割拠5

董卓は確かに暴虐の限りを尽くした。
しかし意外なことに宦官に追放されていた名士の登用には熱心であった。
そして実力のあるものの登用にも力を入れている。
曹操孫堅に懐柔の手を差し伸べたのは彼らの能力を見込んだからだろう。
名士の登用に励むのは名士がいなければ国が治まらないと言うことを理解していたのだろうか。


しかし不幸なことに董卓は暗殺されることになる。
厚遇していた名士によって。


三国志演義によると司徒「王允」の娘「貂セン」が呂布董卓の仲を引き裂き、呂布董卓を殺害させるというストーリーになっている。
どうやらこれは全くの虚構でもなさそうである。

呂布董卓の妾の一人に横恋慕してしまい、どうしてもその妾を手に入れたいと思っていた。
しかし董卓に見つかれば自分は死刑となってしまう。
それでも気持ちを抑えきれずに男女の交わりもしてしまい、どうしたものかと悩んでいた。


そこに王允と士孫瑞の二人が策を練り、暗殺を決行する。
と言う具合であった。


予断であるあるが董卓が率いていた軍勢は西域の出身者が当然多く、モンゴル系、トルコ系、イラン(ペルシャ)系など、色とりどりであったという。
またこのころ仏教もインドから月氏を通じて中国に入ってきている。
シルクロードが果たす役割は多大なものであった。
様々な民族を統括していた董卓という男のカリスマは非常に大きかったであろうと想像する。

また、このような民族混合体であったからこそ文明度の高い漢民族の名士を優遇したり、首都洛陽を焼き払ったりと、屈折した感情は見えるが屈折していると言うことでは一貫しているような気もする。
中国には他民族に憧れと劣等感を抱かせる文明文化があったのだろうと思う。

群雄割拠4

お次は袁紹荊州牧に劉表を任命する。
そうはさせじと袁術孫堅荊州に送り込む。

劉表との交戦中、孫堅は命を落とすこととなる。
孫堅軍団はひたすら袁術の便利な駒であったわけだが、まあ一部将であったということで間違いは無い。
息子の孫策袁術の庇護下で働くことになる。


これだけのことが董卓軍とにらみ合いの最中に起こっているのには閉口ものである。
そして、董卓を洛陽から追い払ったということで連合軍は解散する。

群雄割拠3

董卓長安へ、つまり西域へ向かって遷都をおこなうと、連合軍内部でも揉め事が起こる。
もともと真面目に戦う気のない諸侯が集まってた寄り合い所帯だったので、誰も自らの兵力が減らされたくはないもので、中には本当に連合軍内部で抜刀して諸侯が諸侯を刺し殺すと言う事件も起こった。
普段から仲が悪く、感情のもつれ、らしい。
殺したのは劉岱、殺されたのは橋ボウであった。


他にも盟主袁紹と同門の袁術の抗争も表面化してきて、それぞれが勝手に豫州の牧を任命する。
袁紹が任命したのは周昂、袁術が任命したのが孫堅であった。
周昂は取り急ぎ豫州へ向かい、既成事実を作り上げるためにここを占拠した。
これに怒ったのは、袁術孫堅である。
早速孫堅豫州へ出兵。
袁術孫堅豫州牧に任命している手前、援助しなけばならない。
しかし袁術は自前の兵力をそう多くは率いていないので、公孫サンに援軍を要請した。


公孫サンも自らの勢力を広げようと画策しており、当面自分の敵は袁紹になると踏んでいた。
何しろ公孫サン袁紹は領土が近い。
そこで孫堅を後ろから支援するという形で援兵を送った。
とは言え本気で戦うわけではない。
なにしろ反董卓連合軍の盟主が袁紹であり、自分もそこに加盟しているのだ。
それぞれが道化を演じるというわけだ。


ところが公孫サンが派遣した弟の公孫越が、周昂軍との小競り合いの最中、流れ矢が命中。
この事故により、袁紹公孫サンの対立が激化することとなる。


時を同じくして、益州では牧の劉エンが各地の益州地方の郡や県を攻撃してこれを占拠。
漢中の張魯とも同盟を結んで、独立王国建設の野望が立ち上った。

群雄割拠2

孫堅の快進撃をよそに、董卓は洛陽を捨てて西の長安への遷都を強行する。
この背景には西域が基盤の董卓としては、より西に根拠を構えた方が有利であるという、地政学的条件による。
洛陽は焼き払い、富裕層からは財産を没収し、高貴な墓からも埋葬品を略奪するという、まさに極悪非道を絵に描いたような行為であった。


そして、この何も残っていない首都洛陽に連合軍で最初に入洛したのが孫堅であった。
彼はそこで陵墓の復旧を迅速におこない、漢への忠誠を世間に示したのである。

この時代はまだ漢の威光は衰えつつも存在していたので、このように忠義を示す行動には賞賛が集まる。
孫堅には名声が無く、軍事力だけでのし上がってきたという負い目があるので、今後の戦略も兼ねての行為であっただろうと思われる。
この陵墓修復は正に後々まで呉政権の支柱ともなっていく。
名声を得ることで多くの徳を手に入れることが出来るのは、いつの時代でも変わりがないことだと思う。

群雄割拠1

袁紹を盟主とした反董卓連合軍が発足。
とは言えどうも誰も本気で戦う気が無かった模様。
簡単に経過を綴ってみます。


董卓軍最強の猛将「徐栄」。
彼が一番手柄かと思うのだが、まずは曹操と交戦して散々に打ちのめす。
曹操はこの敗北によってそのほとんどの兵を失い、退散。


そのころ、南は荊州長沙郡より英雄孫堅が北上していた。
ここまで来るのに多くの苦労を乗り越えてきたきたのだが、それはまたの機会に。
さすがの孫堅徐栄には一敗地にまみえたが、その後「陽人の戦い」で胡軫呂布軍を破る。
ここで後将軍袁術という、盟主袁紹の従兄弟が登場する。


孫堅袁術の一部将と考えても遠からずな関係であったよう。
長沙から一路駆けてきた彼には補給線が確保されていなかったのである。
それに加えて、この時期は大きな後ろ盾がないと勢力を維持できないと言う背景もあった。
董卓の勢力を除けば、公孫サン袁紹袁術の三国がひしめき合っていたのが実情であった。

孫堅袁術に、曹操袁紹に、劉備公孫サンに組していたのである。

覇王・董卓8

金吾軍を手に入れたとはいえ、まだまだ兵力は不足していたようで、ここで小細工を弄した。
洛陽に入っている揮下3000の兵を夜半密かに洛陽を脱出させ、あくる日に西側の門から入場させるというものであった。
董卓の勢力は西域が中心だったので、その西域から続々と兵士がやってきていると見せかけようとしたわけである。
まさに小細工だが、こんなことをしなければならないくらい董卓には兵力が足りなかったのである。


そんな折、現皇帝「弁」を廃して弟の「協」を皇帝にするように画策する。
これをおこなった背景には外戚勢力の排除があったことは明白である。
外戚、つまり皇帝の母方の一族は常に政治に口出しをしてくるので、董卓としてはうるさい限りであっただろう。
宦官と外戚が年中行事のように争っていたのが後漢時代の特徴であったが、先日の混乱で大将軍何進とその弟で何苗は宦官に討ち取られていた。
またそれの報復として名門出身の「袁紹」が宦官を皆殺しにしていた。


これにより宦官は勢力は沈静化し、外戚で主だった者は「弁」の母である何皇后のみとなっていた。
つまり、董卓が天下を操縦しようと思うならば、邪魔な存在は「弁」と「何皇后」の二人であったと言うわけである。
弟の「協」の方が「弁」よりも王者の風格を備えた人物であったとされるが、そんなことは董卓にとってはどうでもいい話である。


「弁」と「何皇后」の暗殺を成功させた董卓はいよいよ天下を牛耳る存在となった。
このとき、董卓曹操を自分の配下にならないかとのお誘いをした模様であるが、曹操はこれを拒否。
曹操の能力と野望を恐れた董卓は配下にならぬならと暗殺を試みるが失敗し、曹操は洛陽から出奔することとなった。
また時を同じくして何進の参謀であった袁紹も出奔し、地盤の渤海郡へと向かった。


この二人を逃したことが後に痛手となる。
しかしここにおいて漢の首都洛陽は董卓のものとなったのである。


残虐非道な性格であったのはどうも事実のようだが、意外にも人材登用には熱心な一面もある。
党錮の禁により追放された名士を再登用し、次々に高い官位を与えたりもしている。
本来ならば自分の昔からの配下に高い地位を与えて基盤を固めそうなものだが、どうも名士を優遇するのが彼の政策であったようである。


しかしそんなこともつかの間、袁紹曹操董卓に対して武力行使に出てくる。
世に言う反董卓連合軍の結成であった。
この結成によって、群雄割拠が巻き起こるようになる。
時代は風雲急を告げた。

覇王・董卓7

皇帝を手中にした董卓だったが、彼には弱みがあった。
管轄区であった涼州から首都洛陽へは兎に角すぐに連れて行ける兵しか伴ってこなかったので、兵力があまりにも少ないということであった。

日本人にはあまり馴染みが無いことかもしれないが、国家というものは軍事力なくしては機能し得ないものである。
どんなに良い思想、崇高な理念があろうとそれを実行に移すには背景に軍事力が伴っていなければ成功しない。
なぜなら必ず反対派というものは存在するからだ。


国家の形成期では自分にたてつく者は抑止しなければならないし、政権が成立しても治安維持や外敵からの侵略を跳ね除ける事ができなければ全く機能しないのである。


さて、兵の少ない董卓が目を付けたのは金吾軍であった。
首都洛陽の近衛軍のようなもののようだが、この総大将丁原が不徳な人物だったようで、将兵の間で浮いた存在になっていた。
しかも実質的に金吾軍を統括していたのは呂布という、五原(モンゴル地方)出身の人物であった。


呂布といえば裏切りに裏切りを重ねる猛将とのイメージがあるが、もともとモンゴル騎馬民族出身であると言うことから鑑みると、そのイメージは漢民族からみたものでしかない、とも言える。
狩猟民族と農耕民族という、人類史上最初のカテゴライズで分けられた、一方からの視点である。


狩猟民族は忠とか義とか情などと言っていたら、明日の食べ物がなくなるような世界で生きている人々である。
人間、明日の食料がなければ文化的、文明的な生活や思考、行動は起こせないものなのである。

農耕民族は食料がある程度確保されることにより、「食」以外のことに目を向けることが可能となったのである。
世界四大文明と言うものを歴史で何度も習うが、なぜ肥沃な地域で文明が栄えていったかというと、実は「暇」が出来たからである。
現代でも毎日残業で忙しいサラリーマンは趣味を愉しむことはできない。
生活のために稼ぐことで精一杯だからである。
それでは趣味を持つことなど出来ないわけで、これと同じ理屈である。

食料を確保したことにより「暇」が生まれ、そこから文化や文明が構築されていくのである。


その狩猟民族側からの視点で見れば、呂布は現在を生きるための選択肢として、文化的に言う「裏切り」を誘発していったわけである。
この「文化的裏切り論」を展開するならば、漢民族出身者で競うべきではないかと思うがいかがだろう?

日本文化を知らない外国の人に向かって「日本文化をしらないのか?」と問うようなものだ。


ともかく董卓は金吾軍を手に入れるために呂布を懐柔して見事配下に迎えることになった。
呂布丁原の首を持ってきたときにまず訊いたことは
「金吾軍はお主に付き従っていような?」
であったと言う。